そういえば、あの日もこんな雨の日だった。
日の本を統べる朝廷の宮殿にて、何十日ぶりとも言われる待望の雨を降らせた少女は、自分の偉業もそっちのけでじっと空を見つめる。
正面には時の帝を筆頭に、朝廷の公家衆や京に名を馳せる陰陽師達が揃って大口を開けている。
そして中央奥に座する法皇(出家をした前の帝)も、目を丸くさせて大きく手を叩いている。
1174(承安4年)6月。
梅雨の時期にも関わらず、日々太陽が煌々と大地を照らしていた。
その影響は農作物への被害や水不足におよび、事態を重く受け止めた後白河院は、全国から名の知れた白拍子百人を呼び集め、雨乞いをさせた。
誤解のないように説いておくが、時は後白河法皇による院生時代、事実上の帝は息子の高倉天皇であるが、数え年14の帝に実質的な権力はなく、後白河院が政を執っていた。
という訳で、後白河院は選りすぐりの白拍子百人を集めた訳だが、一人ずつ順々に雨乞いの舞をさせるも、全く効果がない。
院と帝の御前という緊張感走る野外舞台、雲ひとつない青空に向かって懸命に舞うも、白拍子たちの体力ばかりが無くなり、燦々たる日光は隠れる気配がない。
こんなことを何日も続けて行っているのだから、流石に別の手立てを考えるべきかと、後白河院は頭を悩ませた。
九十九人はそのような様子で、残り一人の白拍子の番が回ってきた。
彼女のは名を静といい、数え年14歳、裳着の儀(現代でいう成人式)も済ませていないような幼子だった。
静の母親は磯禅師といい、京で名の知れた白拍子である。
その母の直伝の舞であるからには、きっと雲の一つくらいは現れてくれるに違いない、と末席の公家衆が呼び寄せたのだった。
「ならば磯禅師を呼べばよかろうに」
後白河院はそう言ってため息を吐いた。
最初から小娘に期待など微塵も寄せてはいなかった。
長く続いた意味のない雨乞いの儀式を一刻も早く終わらせ、太陽から逃れて奥で涼みたい。
院の背中にはそう書いてあった。
しかしその背中を心の中で読んだ側近は、冷や汗を流しながらも院を思い留まらせる。
「磯禅師は病に伏せっておりますゆえ、一番弟子とも言える娘が馳せ参じましてございます。最後の白拍子でございますから、あの者の力を信じましょう」
「ふう、仕方あるまい」
御簾が下ろされてはいるものの、6月の京の暑さは凄まじかった。
じっとりと肌を覆う汗は、何枚も単を重ねた衣装の貴族たちには耐え難いものだ。
白拍子の衣装は白い直垂・水干に立烏帽子、言うなれば男装であり、腰には刀を挿す。
伴奏のない屋外舞台で、即興で舞い、時に朗詠を歌う。
体力の弱い白拍子達は、この暑さにわずか数刻で倒れてしまうが、静は様子が違っていた。

