青崎はその生まれ持った天性の美貌により、幼い頃から天を揺るがし地を震わせるほどモテた――と、いうことは別にない。
むしろ幼少期は周囲から浮いていた。
というのも、幼い頃の青崎は本当に無口で、陰気で、何を考えているか分からない、つまりは不気味な子どもだったのだ。
いつも猫背で俯いていて、伸ばしっぱなしの重たい前髪に隠れて顔がほとんど見えない。話しかけてもうんともすんとも言わず、いつも一人で砂場を弄っている。それが青崎一途という少年だった。
青崎の家は両親が共働きで、兄が一人いるけれどもかなり年が離れていて、つまりは下校時刻が別々だった。
要するにどうしても一人になる時間があって、青崎はその暇を近所にある公園で潰していたのだ。
けれどもいつもぼうっとしている青崎は周りの子どもたちに馴染めず、決していじめられはしなかったものの、しかし薄らといつも避けられていた。
話しかけても何も返ってこない。
もしかしたら喋れないのかもしれない。
退屈で、ちょっと不気味な、あまり関わりたくないヤツ。
青崎の評価はそんな所で、だから誰も自分たちのコミュニティに彼を迎え入れようとはしなかった。
青崎とて、別に自ら口を閉じていたわけではない。ただ青崎には常に沢山の物事を頭の中で考える癖があって、他人との会話を頭の中で処理するのに時間がかかるのだ。
いつもぼうっとしているから感受性が低いのかと思われがちだが、実は全くその逆だ。青崎は周りの声や光景などの情報を、人よりも過敏に受け取ってしまう体質なのだ。だから会話の途中で他のことに気を取られてしまったり、別のことについて深く考え始めてしまう。その結果他の人の会話の速度に追いつけず、ずっと黙り込むことになるというわけだ。
ちゃんと話したいという気持ちはあるのに、気づけばいつも周りに置いていかれている。
誰かと話す時には、一人で居る時の何倍も頭を回す必要がある。疲れるだけで何も楽しくない。
そうしていつしか人と関わるのが面倒になって、一人で遊んでいる方が気が楽だと気が付いた。だから青崎はいつも皆に背を向けて、一人で黙々と砂遊びを続けていたのだが。
「――こんにちは。君、名前は?」
ある日突然、とある少年に声を掛けられた。
その少年は青崎よりも三つ年上で、最近よくこの公園に遊びに来るようになったお兄さんだった。
彼――当真春人と名乗った少年は、いつだって人だかりの真ん中に立っていた。
当真はいつも優しくニコニコと笑っていて、誰にでも分け隔てなく親身に接する少年だった。上級生とトラブルが起こった時にも、何でもないことのように割って入って場を丸く収めてしまう。彼が居るとその場の空気が普段の何倍も明るくなって、自然と彼の周りに人が集まっていく。
抜群に人当たりが良く、空気を読むのが上手くて、明るくて面白い。彼は人気者になる要素ばかりを寄り集めたような少年だったのだ。
そんな住む世界の違う彼に、突如として青崎は話しかけられてしまった。当然心の中には緊張の稲妻が駆け走り、言葉は喉の奥で固まったまま出てこない。
けれども彼は、黙り込む青崎を急かすわけでもなく、むしろ相槌すら打たなくても良いような独り言じみた雑談を、優しい声でゆっくりと投げかけ続けてくれた。青崎が必死に返事を考えている間、その必死さを決して笑わないでいてくれたのだ。
「青崎一途くん、って言うんだ。いい名前だね。じゃあ、イトくんって呼ぶね」
「……うん……」
当真は本当に不思議な少年で、青崎が自分ですら何を言いたいのか分からず俯いている時に、青崎が本当に言いたかったことを明確に代弁してくれた。きっと家族ですらも分かっていなかった青崎の本当の気持ちを、一つ一つ丁寧に、包装紙を剥がすように詳らかにしてくれたのだ。
「イトくんは、大人数で遊ぶのはあんまり好きじゃない?」
「……うん」
「もしかして、声が大きいのとか、大勢が一度に喋るのが得意じゃないのかな」
「……っ、うん」
「じゃあ、二人で遊ぼっか!」
青崎にとって彼は、初めて自分の気持ちを真に理解してくれた人だった。
「は、ハルくん、は」
「うん?」
「な、なんで……俺と。一緒に、……遊んでくれる、の?」
「仲良くなりたいと思ったから」
「――」
「それだけじゃダメかな?」
「だ、だめじゃ、ない……」
その日から当真春人は、青崎にとっての〝特別〟になった。
根暗で口下手な自分のことを、ただ一人完璧に理解してくれる、優しくて笑顔が素敵なお兄さん。そんな人を好きにならないわけがないだろう。青崎の初恋は一瞬にしてそのお兄さんに奪われ、青崎の人生は彼を中心に回り始めた。
彼が「イトくんって前髪長いけど、目に入って痛くないの?」と言えばその翌日にバッサリと髪を切り、彼が「イトくんって運動神経良いんだね。スポーツ向いてるんじゃない?」と言えば親に頼んで格闘技を習い始め、彼が「身長高いのっていいなあ。憧れる」と言えば毎日牛乳を二本飲み干すようになった。
そんな努力の甲斐あってか青崎の背丈は竹のように健やかに伸び、髪を切ったことで生来の作り物めいた美貌が曝け出されるようになった。そうすると周囲からの評価はあっという間にひっくり返り、青崎は一躍皆の憧れる王子様へと躍り出たわけだ。
だがどれほど周りからの扱いが変化しようとも、青崎の中での特別は微塵も揺らぐことがなかった。
いつかもっと格好良くなって、彼の身長を追い越して、彼をこの世の全ての恐ろしい物から守れるようになったら、その時彼に想いを告げようと思っていた。「俺と結婚してください」と、綺麗な花を捧げて伝えようと考えていたのだ。
「……は、ハルくんが、ひっこしした……!?」
だがそんな青崎の決意は、ある日突如として崩れ落ちることとなった。
何と大好きだったハルくんは、青崎の知らない間に引っ越してしまったという。学校も既に転校して、彼が今どこに住んでいるのかは誰にも分からないそうだった。
母親からそんな話を聞かされた青崎は、三日三晩布団の中で丸まって泣いた。
そうして悔やみに悔やんで、一生分の後悔を噛みしめたあと、涙を拭って決意を改めたのだ。
「次、会えた時は……」
もう一度当真に会った時、その時は必ずこの想いを彼に伝えよう、と。
***
「――その時からずっと、俺は当真先輩のことが好きなんです」
青崎は昔を懐かしみながらそう言った。
そんなふうに重量級の思い出話を打ち明けられた当真は、苦い物を噛み潰したような顔をして俯くことしかできない。手のひらで目元を覆った当真の顔を、青崎は眉を下げて覗き込んだ。
「あの……どうですか。俺のこと、思い出してくれましたか?」
当真は薄く目を開けて彼の顔を見る。
その美しい瞳には仄明かりのような期待が灯っていて、彼は当真の返答を忠犬のように健気に待ちわびていた。
そんな青崎の表情を目にした当真は、顔色を悪くして彼から目を逸らした。何故なら当真は彼のその美しい期待に返せるものを、何一つとして持ち合わせていなかったからだ。
「あ、あの、さ……ホント、申し訳ないんだけど……」
「?」
「俺、冗談とかじゃなくてさ。その頃のこと、本当に覚えてないんだよ」
「えっ」
当真が片目を押さえながら呟くと、青崎は目を見開いて固まった。
「というか、引っ越す前の記憶が全体的にぼんやりしてるというか……。ウチの家が破綻する以前のこと、あんまりよく覚えてないんだよね……」
「そ、れは」
「何でだろうね。……ショックなことが起きたから、その前後の記憶が飛んでるのかもしれないし。単純に、他人に興味がなかったからかもしれない」
思い出したい気持ちはある。
でも駄目だった。どれだけ記憶の箱を揺すっても、中から何一つ物音がしない。それはきっと中身が空っぽだからで、その事実はどれだけ自分が他人に関心を持っていなかったのかということを鮮明に表していた。
「青崎くん。俺はね、君が思っているような、素敵な人間じゃないんだよ」
当真は落ち着いた声で、困ったような口振りで彼に語りかけた。
「その時の俺にとって、家の外での生活は、家で上手く立ち回るための予行演習でしかなかったんだ」
どういうことを言えば、誰がどう動くのか。どんなふうに振る舞えば、その場の空気が明るく軽く変わるのか。周りの人間の顔色を見て、仕草を見て、それを判断して実行に移す練習をしていた。つまり昔の当真にとって人間関係とは、ただの防災訓練に過ぎなかったのだ。
何も覚えていないのは、何も思っていなかったからに違いない。
「君のことも、きっとそう。君のために何かしたいとか、君の気持ちを分かりたいとか、そんなの俺の中には全くなくて」
「――」
「俺には多分君のことが、周りより少し難しい練習問題に見えてたんだ」
当真は彼に投げかけた。嘘偽りのない残酷な真実を。
昔の自分が彼に夢を見せてしまったのなら、今の自分がその責任を取るべきだと思ったから。
「君は俺の中に、優しさとか、温かさとか、そういうものを見い出したのかもしれないけど。それは俺が、〝どうやったらそう見えるか〟を考えて振舞っていたから見えたもので」
「――」
「つまりは、全部が偽物なんだよ」
好きだ、と言われると、「嬉しい」より「可哀想」が先に喉を苛んでくる。
だってこれほど真っ直ぐな好意を向けられているのに、出会いの一つすらまともに覚えていないような人間だ。そんな相手を好きになった所で、これから先真っ当な幸せを手に入れることが可能だろうか? この世には素晴らしい相手が星の数ほどいるだろうに? 何でわざわざ、この俺を? そんな疑念が胸の中を埋め尽くす。
……恋をするのは素敵なことだと思う。きらきらしていて、眩しくて、お日様のように暖かいから。
でも絶対に当事者にはなりたくない。
当事者になって、上手くやっていける自信がない。
だから当て馬役が良かった。
そうすれば人を好きになる気持ちが疑似的に味わえて、誰かの架け橋になった実感が得られるから。
「でも多分……皆結局、俺が居なくたってどうにか上手くやっていったと思うんだ」
「……それは」
「わざわざ皆の間に入って、『自分が何とかしてあげないと』だなんて、どんな立場から言ってんだって話だよね」
要するに、ただの醜い自己満足だった。
わざわざ当真が間に割って入る必要なんてどこにもない。好き勝手に他人の人生を捻じ曲げて、それで過去の失敗を塗り潰した気になっていただけだ。
そんな我儘に青崎を付き合わせて、自分は一体何がしたかったのだろうか。そうすれば彼の気持ちが冷めてくれると思ったから? それともただの気まぐれ?
自分自身ですら本当の所が掴めない。ただ明確に分かるのは、彼の貴重な時間を自分のエゴで食い潰してしまったということだけだ。
「幻滅した?」
当真は乾いた笑みを浮かべて言った。
これで彼の心にかかっていた、初恋のような呪いは解けただろうか。ありのままの醜さを目の当たりにして、百年の恋が終わってくれたなら良いのだが。
すると青崎は目を丸くして、何度も瞬きを繰り返した。
「げんめつ……」
「うん」
「すると、思いますか?」
今度は当真が呆気に取られる番だった。
青崎は眉間に皺を寄せて、机を叩いて立ち上がった。
「本当に? 本気で? すると思ってんですか?」
「え」
青崎に激しく詰め寄られた当真は、その取り調べのような勢いに目を白黒させる。
すると青崎は自分の胸に手を当てて、啖呵のような力強さで言い切った。
「さっきも言いましたけど! 俺はずっと、当真先輩のことが好きなんです!」
「い、や。だから……」
「あなたが本当はどう思ってたとか、そんなの俺には関係ないんですよ!」
息が詰まるほど美しい顔。それがいつの間にか目と鼻の先にある。
青崎は当真の肩を掴んで、心臓の音が聞こえそうなほど近くで迷いなく言った。
「あなたが俺のことをどう思ってたとしても、俺の嬉しかった気持ちが変わるわけじゃねぇんです!」
「そん、なの」
「……確かに! 当真先輩はおせっかいだし、押しつけがましい所もあるし、ちょっと、かなり、過干渉な所があります!」
当真は僅かに肩を震わせた。まさか彼の口からそんな言葉が出るなんて思ってもみなかったからだ。
青崎から漏れ出る感情は、いつも自分に対して肯定的なものばかりで、それは恋というより信仰なのではないかと感じていた。彼の好意は、言ってしまえば地に足がついていないように見えていたのだ。
でも今は、どうだろう。
彼は、今どこを見ているのだろうか。
「無理に全部を恋にする必要はないんじゃないかって、思う時もありますよ、そりゃ! いちいち首突っ込まなくたって、皆それなりに、自分の力だけでどうにかできるだろって!」
「ぁ」
「でもですよ、でも! じゃあ、あなたをきっかけに付き合うことになった二人って、自分たちのこと不幸だと思ってるんですか!?」
「――」
「俺の見る限りでは、凄く幸せそうでしたけど!」
言われて、自分が今まで関わってきた人たちの顔が思い浮かぶ。
青崎の言葉を否定することは、彼ら彼女らの選んだ道を否定することに等しい。だから何も言い返すことができない。言い返すことができないのならば、それは隙のない正論なのかもしれない。
「……その。だから。つまりは」
当真の肩を掴んだまま、青崎は声の端を不安定に揺らした。そして大きく息を吸って、顔を赤くして、真剣に当真を見つめながら言う。
「俺もあなたに恋をしてから、ずっと幸せなんです」
「――」
「たとえ善意じゃなかったとしても、あなたの言葉や、あなたの存在に救われた人間がここに居る」
息が上がる。心臓が何かに締め付けられているようだ。
何故だか無性に居たたまれない。だから彼の好意を否定する理由を、意味もなく探してしまう。
「そんなの、ただの、刷り込みで……」
「――俺の恋を舐めんといてください!」
青崎が叫ぶ。
「当真先輩がどう思っていようが、俺の気持ちは本物です! 本気で、俺は、あなたに恋をしてるんです!」
「っ、う」
「それが信じられねぇって言うんなら、俺は!」
彼の手のひらに頬を挟まれる。彼の体温は当真よりもずっと高くて、だからこうして触れられていると肌が焼けて赤くなってしまいそうだった。
顔を真っ赤に染めた彼が、緊張で声を震わせながら言う。
「……い、嫌なら」
ソファが鈍く軋んで、首筋に彼の髪の毛が当たった。あまり手入れされていない、少し乾燥した髪が。
彼の髪の毛先が薄い色をしているのは、日に焼けて色が褪せているからだということに、当真は彼の顔を見上げながらやっと気が付いた。
「嫌なら俺のこと、ブン殴ってください」
当真の腕は動かなかった。
嫌じゃないんですね。と、彼の目が最終宣告のように言う。
当真はぼんやりと彼の美しい顔を見つめていた。すると少しずつ距離が近づいて、額が当たって、鼻先が当たって、唇が当たった。
触れ合ったのは一瞬だけだった。
彼は当真の手首を持って、自分の胸へと押し当てた。そうすると手のひらに、彼の心臓が不規則に動く音が伝わってくる。
「好きです、ハルくん」
熱っぽい声で、彼が言う。
「あなたが俺を覚えてなくたって、ずっと好きだ……」
少し時間を置いてから、当真は薄く口を開いた。
「……物好き」
「はい。それでいいんです」
青崎は身を起こして、ソファの上で胡坐をかいて笑う。
「だって好きだから。だから俺はあなたに何でもしたいし、何でもあげたいんですよ」
当真は仰向けに寝転がったまま、彼の顔を静かに見つめた。何でも、という言葉が頭の中で静かに反響する。
しばらく考え込んでから、当真は腕で目を覆い隠し、そして唇をほとんど動かさずに言った。
「……じゃあ、帰んないで」
「えっ」
「今日、泊まってって……」
「……えっ」
当真は彼の腹に頭を押し付けながら呟いた。
その瞬間に青崎の身体は凍り付き、全くもって動かなくなってしまったのだった。
***
青崎はベッドの上で石よりも固く硬直していた。全身を包帯できつく巻かれたミイラのような姿勢のまま、手足を曲げることも伸ばすことも出来なかった。
どうしてそんな事態に陥っているのかといえば、同じベッドの中で当真がくっついて眠っているためだ。
「ね、眠れるわけがない……!」
青崎は目を真っ赤に充血させて、心の中で血混じりの声を漏らす。
しかしこうなることが分かっていたとしても、当真の誘いを断れるはずがなかった。彼に服の裾を掴まれて「泊まってってよ……」と言われれば、青崎は一も二もなく「はい!」と即諾する他ないのだ。
そうして青崎は親に「今日は友人の家に泊まることになった」と連絡を入れ、当真の家にある嘘のように広い風呂を貸してもらい、「ちょっとサイズ小さいかもしれないけど」と言われて渡された当真のスウェットに腕を通し、「うち、ベッド一つしかないから」と言われて巨大な寝具の上に転がされたのだった。ちなみに青崎は床で眠ることを熱望したが、当真に「何言ってんの? 俺が客人を床で寝かすと思う?」と厳しい声で言い募られ、「広いんだから二人で使えばいいじゃん」と名案を思い付いたように言われ、今このような状況に落ち着いたという次第だ。
「と、当真先輩?」
「スーッ……」
「もう寝てる……!」
しかも何と当真は既に眠り込んでしまっていた。彼は異様に寝つきの良い男であり、基本的にどんな環境でも五分あれば眠れる体質だからだ。
青崎は両手で顔を覆った。取り残されてしまったのは、極度の緊張により酸素も喉を通らなくなってしまった自分のみだ。
こうなってしまったのならもう仕方がない。自分に出来るのは、潔く日が昇る瞬間を待つことのみだ。
「――……」
だがしかし、青崎の真に凄まじい所は、こんな状況でも結局誰よりも深く長く爆睡してしまう一種の図太さにあった。
つまりは次に青崎が目を開けた時には、窓の外から神々しいほどの朝日が差し込んでいて、自分が当真の家に泊まり込んでいることすら忘れていたというわけだ。
「……?」
鳥の鳴き声と共に身を起こし、瞼を擦りながら窓の外を眺める。
いい天気だ。今は一体何時だろうか。そんなことを考えながら周囲を見渡して、そこで青崎は自分が随分と巨大なベッドで眠っていたことに気が付いた。
「……あ!」
そしてやっと思い出す。
ここは自分の家ではない。あの当真先輩の家だ。
その瞬間に青崎は身体から一息にシーツを剥ぎ取り、冷汗三斗の思いをしながら盛大に床へと転げ落ちた。
「と、当真先輩は?」
床に打ち付けた頭を押さえつつ辺りを見回すが、彼の姿はどこにも見当たらない。ぬるついた汗が背筋を伝う。青崎は酷い焦燥に駆られた。
するとそこで、不意に暖かな香りが鼻腔を掠める。それは春の日差しのような、涙が出るほど優しい匂いだった。
その匂いにつられて、青崎は緩慢な動きでキッチンへと向かう。
「……あ。起きたの」
そこには当真が立っていて、彼はスウェットの上から猫のアップリケがついた茶色のエプロンを着けていた。
彼は青崎が寝室から降りてきたことに気が付くと、菜箸を持ったまま右手を軽く挙げて笑った。
「おはよう。まだ寝てても良かったのに」
「あ。え、と」
「ご飯が出来るまでもう少しかかるから。良かったらそこの椅子に座って待ってて」
当真はダイニングテーブルとその近くに置かれた木造の椅子を指さした。
青崎は何か手伝おうと思って彼の後ろに立ってみた。けれども振り返った当真の顔が、まるで仕事を飼い犬に邪魔された時のような色をしていたので、大人しく背を曲げて椅子に腰かけたのだった。
「いいんだよ。これは俺の趣味なんだから」
「はい……」
「ん、よいしょっと」
彼の腕が手際よく動く。
野菜を刻むリズム、卵を掻き混ぜる音、魚が香ばしく焼ける匂い。この心地よい光景を、いつまでも永遠に見つめられたならどれほど幸せだろう。
「……昔ね」
「はい」
「一度だけ、母さんに褒めてもらったことがあるんだ。料理、上手にできたねって」
「……はい」
「それから、何となく続けてるんだ。没頭できるし、これ結構良い趣味だよ」
緩やかな自己開示と共に、彼が机の上に一つずつ皿を並べていく。椅子を引いて、静かに彼が腰掛ける。真正面に座った彼と目が合う。
彼はこめかみを爪の先で摩りつつ、不思議そうに口を曲げた。
「何でだろうね。何となく、話してみたくなっちゃった」
「嬉しいです。そう思ってくれて」
「そう?」
焼き魚に、卵焼き、味噌汁に真っ白なご飯。思わず青崎の腹がぐうと鳴る。それを聞いた当真が口を押さえて声を上げる。そして彼は頬杖をついて、目を細めながら呟いた。
「なんか、変な感じだ」
「そう、ですか?」
青崎は首を傾げた。それから机の上に視線を落とし、両手を合わせていただきますを言う。
当真も少し遅れて手を合わせて、箸を手に取って、青崎の顔を一瞥した。
夏の日差しから顔を背けるような、そんな不器用な笑い方をして。
「あのね、青崎くん」
「はい」
「俺ね、実は。こうやって誰かと一緒に、朝ごはん、食べてみたかったんだ」
そう言われた。
青崎はしばらく呆然と彼の顔を見つめ、
「……いつでも呼んでください。五秒で駆けつけます」
と、真摯に彼へと伝えたのだった。
***
「ヤッピー! 当真くん、完全復活っ!」
「おー」
「朝から元気だなあ」
当真は教室の扉を昂然と開け、両手を挙げて友人たちに声を掛けた。
当真は朝に強いので、たとえ早朝であったとしても、健康的に徹夜明けのようなテンションを維持することができるのだ。
「体調良くなったんだな」
「へへん。バッチリ!」
「おお、良かった」
「ご心配をおかけしまして……」
「そういや青崎も心配してたぜ」
「そーだよ。つかお前ダチになってたの? いつの間に?」
友人二人は不思議そうにそう尋ねた。
その途端に当真の表情筋が強直する。当真は両手でピースをしたまま、冷たい氷像と化す魔法をかけられたかのように固まった。
「お、おーい?」
「当真ー?」
桜木と田中は当真の前で小刻みに手を振った。
するとしばらく経ってから当真は顔だけを動かし、油を切らした機械よりもぎこちない笑顔を浮かべて歯を見せた。
「……ま、それはさておき!」
「おお、そんな露骨に話逸らすことある?」
「何があったんだよ」
「いやあっ、今日はいい天気だねぇ! 全くの洗濯日和だ!」
当真はあからさまに不審な態度を取って、話の方向を無理やり当たり障りない方へと逸らした。そんな挙動不審な当真を見て、友人二人は顔を見合わせる。
「いや、青崎がさあ」
「そう、青い空! 青い海! 日本の夏はこうでなくっちゃね!」
「こっから海見えねえよ」
「つうか今秋だし」
「あっ。そういや俺、休んでた分の課題を出しにいかなきゃなんないんだった!」
当真は舌を僅かに見せつつ、鞄から取り出したファイルで自分の丸い額を叩いた。そして友人たちに背を向けて、嵐のように教室を去って行く。
残された友人たちは、口を半端に開けたまま首を傾げた。
「当真、どしたの?」
「さあ……」
一体彼に何があったのだろう。
彼の挙動が怪しい理由に思い当たらず、二人は腕を組んで首を捻った。しかしそこで当真の後ろ姿を思い出し、彼らは再び顔を見交わす。
でもまあ、と桜木は軽い声で言った。
「何かいいことでもあったんじゃねえの?」
確かに、と田中は頷いた。
何せ教室を去って行く当真の足取りが、いつもよりも何倍も軽やかに見えたからだ。
休みの間に溜まっていた課題を職員室に持って行き、当真は優等生らしく扉の前で頭を下げた。滅多なことでは休まない当真のことを、先生たちはいたく心配していたようだった。当真は虚偽のない笑顔を浮かべて、もう大丈夫です! と胸を叩いて言い切った。
「ああ、当真くん。悪いんだけどね。このプリント、三年の教室まで運んでおいてくれないかな?」
「いいですよ~」
「いつも助かるよ。ありがとうね」
当真はにこやかに紙の束を受け取った。
こういう小さな親切の積み重ねが、いつか困った時の助け舟に変わるのだ。そんなちょっぴり打算的なことを考えつつ、両手でプリントを抱えて廊下を歩いていた時のことだった。
当真は何気なく窓の外を見て、そこで目を見開いた。
「あ……青崎くん?」
校門近くに見知った男の姿が見えた。
窓から身を乗り出して凝視する。間違いない。あれは青崎だ。
しかも彼が、見知らぬ相手と話し込んでいる。
当真は驚いて、持っていた紙を全て床に落としてばら撒いた。しかしそれを拾うこともできず、目を凝らして窓の外に全ての意識を集中させる。
「くっ……」
だがここからでは明瞭に見ることができない。
当真は親指の爪を噛みしめる。そして床に広がった紙を乱雑に回収し、教室の机上へ無造作に置いて、身一つで校舎の外へと飛び出した。
物陰に身を隠しながら、彼らの様子をそっと伺う。
青崎と親しげに話し込んでいたのは、すらっとした細身の、柳のような青年だった。唇の左下にほくろがあって、それが少し色っぽい。隣町の制服に身を包んだ彼は、ハンサムというよりも美人という言葉が似合うような男だった。
当真は衝撃を受けた。まさか青崎に、自分以外に気安く話せる相手がいるとは思いもしなかったからだ。
彼は一体誰なのだろう。青崎とどういう関係なのだろうか。話の内容までは詳しく聞き取れないが、随分と親密そうに喋り込んでいるのが分かる。
そんなふうに息を潜めて彼らの様子を観察していると、不意に彼――細身の見知らぬ青年が振り向いた。
「……!」
確かに彼と目が合ってしまった。その事実に当真は肩を震わせる。胸に手を当て、心臓が妙な音を立てたことを激しく実感した。それは年季の入った椅子が軋んだような音だった。けれども自分の胸からどうしてそんな奇怪な音が鳴り響いたのか、当真には全く理解が出来なかった。
このままここに居てはまずい。具体的な理由は分からないながらも、直感的にそう思った。だから当真は彼らに背を向けて、身体の奥に生まれた不協和音に見ないフリをした。
そして、その日の放課後のことだった。
「――キミさあ。イトくんと仲良い先輩? だよね。ちょっとオレと、お喋りしない?」
朗らかな笑みを浮かべた件の見知らぬ青年に、肩を叩かれそう告げられたのは。
