「いやあ、今回は中々に大変だったね」
「はい……」
 当真は腕を空に向けて伸ばしながら言った。隣には青崎が並んで歩いていて、辺りには人が行き交っている。
 ここしばらくの当て馬奮闘記を思い返しながら、当真は首の骨を軽く鳴らした。
 というのも当真は今回目を付けて近づいた男に、うっかり距離感の調整を誤って惚れられてしまい、激しく言い寄られる羽目になったのだ。しかし青崎の協力もあって、当真は何とか失恋枠の当て馬に収まることができ、その男は別の相手と仲睦まじく結ばれたのだった。
「にしても疲れたぁ……。ね、何か食べて行かない?」
「! はい! お供します!」
「俺ハンバーガーがいいなあ。ほらあの、新発売の凄くデカいやつ。あれが食べたい」
「行きましょう!」
 当真は非常に燃費が悪い。どれだけ食べても全く身体に肉がつかない体質なのだ。世の乙女たちが聞けば歯噛みして羨みそうな話だが、当真にとってこの筋肉質からかけ離れた身体付きはほのかなコンプレックスである。
 そんなわけで数十分前に間食を取ったにもかかわらず腹を鳴らした当真は、青崎を連れて街中のチェーン飲食店へと足を運ぼうとした。

「――」

 しかしそこで、当真は突然足を止めた。
 そうして真正面を見据えたまま、石のように固まってしまう。
「……? 当真先輩?」
 青崎は首を傾げた。
 当真は真っ直ぐにとある一点を見つめていて、そこから視線を動かそうとしなかった。というよりも、まるで何か巨大な力が彼の身体周りに張り巡らされて、彼の動きをぴたりと止めているかのようだった。
 青崎は眉間に皺を寄せながら、当真の視線を何気なく追いかける。
「ままーっ」
「はあい。どうしたの?」
「あのね、さっきねぇ」
 ――そこに居たのは、幼い子どもの手を引いて歩く女性だった。
 彼女はピンクのワンピースを着たかわいらしい女の子と手を繋いでいて、その隣には爽やかで誠実そうな男性が穏やかな笑みを浮かべて立っている。
 それはどこにでもあるような、何の変哲もない幸せそうな家族像だった。
「とう、ま……」
 一体どうしたのか、と尋ねようとして、青崎はその言葉の先を見失ってしまう。
 彼らを見つめる当真の顔は真っ白だった。まるで凍りかけの水を頭から浴びせられたように。
 当真に手を伸ばしかけた姿勢のまま青崎が固まっていると、それから少し経ってようやく当真が目を閉じる。それに青崎は少しほっとした。瞼の一つすら動かさない当真の顔は、何だか作り物の人形のようで少し怖かったからだ。
 青崎が再び視線の先を正面に向けた時には、先程の家族の姿はもう見えなくなっていた。
「……先輩」
「ん? どした?」
 当真は間の抜けた相槌を打った。
 青崎を見上げるその顔は、既にいつも通りの平坦なものに変わっていた。悩みなんて何一つなさそうな、見ているだけで毒気が抜けるような表情だ。
「ええと。お店はどっちだったかなあ」
「……」
「? どしたの。行かないの?」
「え? あ……い、きます」
 先程の生色を失った顔は幻覚だったのだろうかと思えるほど、当真の態度は呆気なく普段通りに戻っていた。
 だから青崎は拍子抜けして、弾むように歩く彼の後ろをいつものように追いかけたのだった。


***


 しかしその次の日から、当真は学校に来なくなってしまった。
 連絡を送っても『ごめん、体調が悪くて』の一言が返ってくるだけだ。それ以上の言葉は送られてこないし、具体的なことは何も分からない。
「あの……」
「うぉッ!?」
 そこで青崎は三年生の教室を訪れて、彼の友人と思しき人物に声をかけた。確か桜木と田中、と言ったか。当真が話す雑談の中によく登場する名前なので印象に残っていたのだ。
 彼らは突然降り落ちてきた巨大な影に驚いて、顔を上げて、そこに目が焼かれるほど眩い美青年が立っていることにまた驚いた。
「青崎っ……、何でここに?」
「とうま……」
「え?」
「当真先輩から、何か聞いてませんか?」
 青崎はそう尋ねた。友人である彼らならば、何か事情を知っているのではないかと思ったためだ。
 すると彼らの目が見開かれる。そして二人は顔を見合わせてから、青崎を困ったように見上げた。
「え……お前、当真と知り合いなの?」
「は、はい」
「アイツ、すげー交友関係広いな……」
 意外そうな顔をして彼がそう呟く。
 青崎が当真と会うのは専ら放課後か休日のため、青崎と彼との間に交流があることを知る者は少ないのだ。
「……その。それで、何か知りませんか? 最近先輩と、あんまり連絡がつかなくて」
「や、俺らも体調悪いってだけしか聞いてなくて……」
「普通に風邪じゃねえのか?」
 どうやら彼らに心当たりはないようだった。青崎は肩を落として、「そうですか」と捨てられた子犬のような声で言う。
 やはりそこで思い返されるのは、最後に当真と会った時のことだ。
 彼は何でもないような顔をしていたが、やっぱり彼の様子はどこかおかしかった。いつもより食が細かったし、口数も少なかった。
 青崎はじっと自分の靴の先を見つめてから、よし、と右の拳を固く握りしめる。

「――あ、あの。すみません、俺です。青崎です」
 そう言ってタッチパネルを覗き込み、遠隔でインターホンを鳴らした。
 青崎は当真の住むマンションを訪れていた。オートロックを解除してもらうために、エントランスでパネルを操作する。すると数分経って、画面が緑色に点灯した。当真が中から鍵を開けてくれた合図だ。
 エレベーターで移動して、当真の部屋の前に立った。
「……はい」
「っ、あ」
「……何しにきたの」
 ぼさぼさの髪に、寝起きのような腫れぼったい目、寝間着のようなスウェット。そんな出で立ちで扉の向こうから現れた当真に、青崎は思わず口を開けたまま固まってしまう。
 普段とはまるきり別人のようなその顔を見て、青崎は普段の彼の笑顔が純然たる人工物であることを知った。
「……用がないなら帰ってくれるかな。今あんま、人に見せられる顔してないんだよね」
「よ、用事。あります」
「なに」
「そ、その。お見舞いに……」
 冷たくあしらわれたにも関わらず、一切帰る素振りを見せない青崎を見て、当真は面倒そうに眉間を親指で押さえた。そして深いため息をつき、玄関の扉を完全に開ける。
「……分かった。中、入って」
「!」
 渋々ながらもそう言われ、青崎は顔を輝かせた。そして玄関で靴を脱ぎ、彼の後ろを少し離れて追いかける。
 相変わらず当真の暮らしている部屋は広く、清潔で、そして彼以外の気配が全く感じられなかった。
 ……本や小物などの雑貨は多い。けれども食器や椅子などの生活用品が、部屋の広さに不釣り合いなほどに少ない。彼の暮らしている部屋に薄らと漂っている違和感の正体はこれだった。
「お茶、飲む?」
「いえっ、気にしねぇでください! 自分で水筒持ってきたんで!」
「そう?」
「はい!」
 青崎は元気よく頷いた。
 その後、部屋中に重たい沈黙が流れる。
 会話のラリーが続かない。それは多分、当真に会話を続ける気がないからだ。そもそも他人と喋る気分じゃないのかもしれないし、単に青崎に早く帰ってほしいだけなのかもしれない。
「――あっ。あのっ!」
 しかし青崎は、そんな空気を読み取れるような男ではなかった。
 どれだけ重厚な雰囲気が背中にのしかかっていても、それを精密に感知することができない。暗黙の了解を察することができないのが、青崎という男の欠点でもあり、美点でもあった。
「当真先輩の元気が少ないのって、この間帰り道で見たことと関係ありますか……?」
 青崎は真正面から切り込んだ。その一切遠慮のない口振りに、当真は目を見開いて少し驚いた表情を浮かべる。
「君、すごい直球に聞いてくるね」
「す、すみません。でも気になって」
 思い当たる原因といえばそれしかなかった。
 あの日の帰り道、当真が何も言わずに見つめていた家族。綺麗で優しげな面持ちの女性。その光景が、彼の心のどこかをずっと抓っているのではないかと思った。
 当真はソファの背もたれに身体を預けて、足を軽く伸ばしながら低い声で呟く。
「あんまり聞かれたくない話なんだけどナ~。聞いてて面白いもんでもないし」
 彼は目を閉じてそう言ってから、青崎の顔を困ったように見つめた。
「……まだ引いてくれない?」
 青崎は規則正しく正座したまま、黙って首を縦に振った。
「困ったなあ。ただの野次馬根性なら何とでも丸め込めるんだけど」
 当真は額を押さえて、諦めたように深くため息をついた。
 彼はそれからやがて口を薄く開き、ぽつりぽつりと抑揚のない声で話し始める。
「……この間、街で見かけた人」
 あのひとね――俺の、母さん。
 彼は何もない宙を見つめながら言った。
 ああやっぱりか、と青崎は思った。何となく、そんな気はしていた。
 けれども同時に、薄々分かっていたことではあるのに、酷く驚いている自分も居た。それは多分、彼の口から、彼自身の深い事情が紡がれたことに対する驚きだった。自分から尋ねておいて何を言っているのかと思われるかもしれないけれど、それほどに当真という人間は、いつも自分のことについて少しも教えてくれない人なのだ。
「まあ、普通にさ。ちょっとおかしいと思ってたでしょ」
「え」
「だってウチの家、いつ見ても俺以外居ないもんね。そりゃそうだ、俺以外住んでないんだもん」
「一人暮らし、なんですか」
「名義上は父さんと暮らしてることになってるよ。でも実際はそう」
 彼は目を細くして、広くて白い天井を見上げた。
「ウチさあ。昔から、あんま親同士の仲が良くなくて」
 当真はそう語った。
 父親が不動産関係の会社を営んでいるため、経済的に苦労した覚えはない。だが物心ついた時には両親の仲が冷え切っていて、父親はいつも家を留守にしていたのだそうだ。
 仕事が忙しいから、と父は言っていたけれど、それだけが理由じゃないことに当真は気づいていた。時々家に帰ってくる父親からは、いつもここではないどこか遠くの匂いがした。
「俺って自分で言うのもなんなんだけど、結構頭の良い子どもだったのね。だから何となく、『あー、ウチって変なんだなー』って分かってた」
 当真は年不相応に聡い子どもだった。だから相手の顔を見るだけで何を考えているかが一目で分かって、どうすれば相手の気分が良くなるのか理解することができた。
「ウチでの俺は息子、っていうか、潤滑油? みたいな。いや、空気清浄機? そんな感じの役割を、母さんは俺に求めてたんだと思う」
 何でもないことのように彼は言った。自分を例える時に、何の迷いもなく物の名前が飛び出してくる、そんないびつさが彼の中では当たり前として消化されている。
「俺は俺なりに頑張ったのよ? 父さんが家にいる時間を何とか増やそうとしたり、ちょっとでも家での空気を柔らかくしようとしたり」
 まあ結局ダメだったけど、と彼はあっけらかんと言った。
「中学上がる前くらいだったかな。父さんが他に恋人作ってることが判明して、しかもその女の人と同棲してたんだ。ウチに帰って来ないのは仕事が忙しいからじゃなくて、他に愛人がいたからでした」
 こういうのってよくある話なのかな。当真はぼんやりと窓の外を眺めながらそう呟いた。
「そこで、もう、ガシャン! って感じ。俺が学校から帰ってきた時には、泥棒に荒らされたのかと思うくらい家の中が滅茶苦茶になってて、『あー、ついにこの日が来たか』と思ったね。……いや、どうだろ。あん時の俺はもうちょっとパニックになってたかな。この辺りは大分、記憶に補正が入ってるかも」
 頭の側面を押さえながら、彼は眉間に浅い皺を寄せた。
 その一件の後、当真の両親は離婚することになった。母親は心を病んで入院し、当真は父と共に引っ越してその地を離れたのだった。
 当真を引き取ったのは父親だったが、それも仕方なく押し付けられた、という具合のものだった。だから家に父親が帰ってくることはない。きっと今もどこかで恋人と暮らしているんだと思う、と当真は語った。
「まあ、それでもお金は十分すぎるくらいくれたし、このマンションだって父さんの持ち家だ。そう考えると、俺は恵まれてる方なんだろうね。食うに困ったこととか一度もないし」
 当真は巨大な部屋を見回しながら言った。
 綺麗な家、高級な家具、見たこともないような眩いインテリア、でもその全てには温度がない。大事な部分に穴が空いていて、そこから温かみが抜け落ちているような、そんな感じがした。
「……幸いなことに、俺はコミュ力が高かったからさ。どこに行っても友達はできた。でも家に帰るとどうしても退屈で、だから沢山本を買い集めるようになったんだ」
 ……そうして出会ったのが漫画や小説の、美しい空想の世界だった。優しく眩いその世界は、当真を閉塞的な現実から連れ出してくれたのだ。
 特に当真が好んで読んだのは、不幸になる人間が限りなく少ない恋愛物のフィクションだった。主人公二人が円満に結ばれて終わる、そんな結末を眺めていると、身体に溜まっていた毒が溶けていくような気がした。
「現実もこうだったらいいのになあ。楽なのになあ。って思って、試しに見習ってみたんだ。ラブコメによく出てくる、当て馬ってヤツを」
「――」
「するとビックリ。これが驚くくらいに上手くいってしまった」
 中学生になったばかりの頃、クラスで有名な喧嘩ばかりしている二人組の間に〝当て馬〟として割って入った所、これが目を回すほど簡単に上手く立ち回れてしまった。二人はすっかり仲睦まじい恋人同士となって、当真に感謝までする始末であった。
 ただ仲介役として両親の仲を取り持とうとしていた頃には、あんなに上手く行かなかったのに。
 当真はその時初めて、自分の居場所が確かなものになったと感じたのだ。今まで必死で乗っかろうとしていた不安定な地面が、突然固まって安定したような気がした。
 今までの自分のやり方が間違っていたのだと気づいた。
 こうすれば上手く行くのだと知った。
 勿論、自分の家庭と友人の恋愛事情が同一のものでないことくらいは分かっている。
 それでも、自分が間に入ることで誰かの関係が上手く軌道に乗ると、とてつもなく安堵した。
「……別に、今更ウチの家族関係に取り返しがつくなんて、これっぽっちも思ってなかったけど」
 当真は自分の膝に顔を埋めた。
「この間。ずっと会ってなかった母さんが、幸せそうに歩いてるの見かけて。『他に大事な人が出来たんだ、よかったなあ』って、思ったのと同じタイミングでさ。『ああ、もうダメだったんだな』って気が付いた。そんなの、ずっと前から分かってたことなのに」
 彼の声が淡く滲む。
 泣いているのかもしれないと思って、青崎は思わず彼の顔を見た。けれども当真の瞳は乾いたままで、それが何だか泣き方を知らない子どものように見えた。
「誰かの仲を上手く取り持てたなら、もっと上手く立ち回れたなら、もう一度俺にやり直すチャンスが与えられるんじゃないかって、心のどこかで思ってた。そんなの、あるわけないのに」
 当真が顔を上げる。彼は眉を下げて、口を大きく開けて、馬鹿みたいに明るく笑った。
「……そう思ったら、なぁんか急にやる気が出なくなってさ! はじめて学校、ズル休みしちゃった」
 下らない悪戯を咎められた子どものような仕草で額を叩き、当真は能天気に舌を出した。いつの間にか彼の顔は、すっかり見慣れた〝当真先輩〟のものに戻っている。
「色々話しすぎたや。ゴメンね、こんな暗い話聞かせて」
「い、や……」
「でも大丈夫! 俺ってば結構心の強さには自信があるんだ。何せこれでも今まで結構な修羅場を乗り越えてきたからね!」
 当真は腕まくりをして、力こぶを作って見せてきた。確かに一見すると、彼はさっぱりと立ち直っているように見える。
 でも青崎は知ってしまった。
 彼が笑顔を作る達人で、心を透明にする天才だということを。
 だから青崎には、今見えている彼の元気が本物かどうか分からない。
 当真は既にお開きの空気を垂れ流していて、青崎が「お邪魔しました」と言う瞬間を待っている。
 けれども青崎はそんな雰囲気を壊すように、身を乗り出して当真の両手を掴んだ。
「あ、あの!」
「え」
「――お、俺の話を、聞いてくれませんか?」
 当真の目が丸くなる。
 青崎の手のひらから生温い汗が滲んだ。あまりにも不自然な話の切り替え方であることは自分でも分かっている。でも仕方がないだろう。だって自分は、言いたいことを上手くまとめる方法を知らない。もしそれを知っているなら、もっと早い段階で彼に綺麗な言葉を投げかけられている。
 当真は少し驚いた顔をして、それからぼんやりと笑って言った。
「おお、いいよ。何でも話してごらん。俺も君に話してちょっとスッキリしたからね。その代わりと言っちゃなんだが、君の話も先輩がしかと受け止めてあげよう」
「これは、俺が当真先輩と出会った頃の話なんですけど――」
「待って」
「え?」
「君の話ってもしかして俺の話でもある?」
「はい」
「……やっぱナシにしない? もう遅いし今日は家に帰りなよ」
「これは、俺と当真先輩の出会いの話なんですが――」
「あ、止まらないんだ。もう」
 若干顔色を悪くした彼の前で、青崎は拳を握りしめて自身の記憶の蓋をこじ開けた。
 そう、遡るは数年前。
 それは青崎が彼、当真春人と出会った頃の話である。