当て馬活動は以前にも増して順調だ。青崎の協力が得られるようになってから当て馬のバリエーションは彩りを増し、カップル成立率も首尾よく向上している。
青崎は時折凄まじいポンコツをしでかすものの、しかし基本的に素直かつ誠実であるため当真のアドバイスを真正面から受け入れるのだ。分からない所はすぐに正直に尋ねてくれるし、何事にも生真面目に取り組んでくれる。当真は彼のそういう所に好感を持っていた。恋愛感情は抱いていないが、人としては好ましいと思う。
正直に言えば、彼の純粋な好意を搾取している事実に胸が痛まないわけではない。だが彼の協力が有難いものであることもまた事実なのだ。
少し思案してから、当真は「まあ青崎くんが良いならいいか」と結論付けた。自分は一度彼をバッサリと振っている。それでも、と続けたのは彼の方であり、本人に不満がないのならこれで良いのかもしれない。
「……ん?」
そんなことを考えていると、ふいに当真のスマホから音が鳴った。手に取って画面を見てみると、そこには件の彼からのメッセージが表示されている。
当真は画面を触って、彼からの連絡に目を通した。
『すみません。今日は先輩の活動にご一緒できません』
簡潔な文章だった。
当真はそれを見て少し驚いた。どこに行っても雛鳥のように後ろをついてくる彼が、こうして自分から動向を拒否するなんてことがあるのか、と意外に思ったからだ。
そして当真は頭を横に振った。別に自分たちは四六時中行動を共にするよう義務付けられているわけではない。だからこういう日があってもおかしくないだろう。あまりにもあの男が飽きずに尻尾を振ってくるので思考回路が少々毒されてしまったようだ。
すると続けざまにこんなメッセージが送られてくる。
『事情があって、しばらく当真先輩に会えません』
『ごめんなさい』
『ぜんぶ大丈夫になったら、また会いに行きます』
当真は黙ってじっと画面を眺めた。
その文面は実に抽象的であり、いくら読んでも具体的な事柄は何一つ伝わってこない。分かるのは彼に何かのトラブルが起きて、それでしばらく会えなくなったということだけだった。
当真はスタンプを送ってから、画面を閉じてスマホを鞄に入れた。
別に深く切り込む必要もないだろう、と思ったからだ。詳しく語らないということは、他人に聞かれたくない理由があるのかもしれない。
軽く伸びをしてから立ち上がる。手帳を開く。ペンを回して腕を組む。
元々は一人で行っていた活動だ。つまり彼が居なくとも問題はない。当真は淡白にそう思って、久しぶりに一人で当て馬として立ち回ることに決めた。
まずは情報収集を行って、人間関係のリサーチを行わねばならない。そのためには……と、様々なことを考えて。
「……」
足を止めた。
俯いて眉間を押さえる。それから「はあ」とため息をついた。
そして踵を返し、人の少なくなった放課後の廊下を早歩きで歩く。階段を下りて、一年生の教室の前に立つ。勢いよく扉を開ける。
「青崎くん居る!?」
「っ、うわぁ!?」
「あ。いた」
元気よく声を張り上げると、教室の端で激しい物音が鳴った。見れば、特徴的な黒髪が床の上を跳ねまわっている。当真は軽く跳ねながら歩いて、床に倒れ伏す青崎の顔を覗き込む。どうやら彼は当真の声に驚いて、椅子から転げ落ちてしまったようだった。
「まだ家に帰ってなかったんだね」
「な、なん、何で当真先輩がここに……」
狼狽えた様子で青崎が目を白黒させる。
当真はちらりと彼が向かっていた机の上を見た。机上には教科書やら参考書やらが乱雑に置かれている。床に落ちたペンを拾って机に置いてから、当真は姿勢を正して腕を背に回した。
「ちょっと寄ってみただけ。まだ学校に居るかな。居たら何してるかな、って思って」
「ぁ……」
「勘違いするなよ? ホント、ただの気まぐれだから」
当真は眉間に皺を寄せて言った。「え!? もしかして当真先輩、俺のことを……!?」などと誤解されては大変だ。自分はただ気まぐれに立ち寄っただけで、ちょっと彼の顔を見ておこうと思い立っただけなのだから。
「……ま、元気そうで何より」
「あ。あの。えっと」
「深刻そうな連絡が来たから、何かあったのかと思ったんだ」
万が一事故にでも遭っていたのなら大変だ。不測の事態を心配しないほど、自分は薄情な人間ではない。
「怪我したとか、病気になったとか、そういうのじゃなきゃ良いんだ」
「――」
「それだけ。じゃあね」
無事が確認できた。ならそれでいい。残る理由もないので、当真はあっさりと気分を切り替えて彼に背を向けた。
「……当真先輩!」
するとそこで、青崎が立ち上がって叫ぶ。
当真は振り返って首を傾げた。
「あ! あの、その……」
非常に歯切れの悪そうな顔をして、彼が両手の人差し指を突き合わせて口ごもる。それはまるで、墓場まで持っていくつもりだった重大な秘密を今から告白するような様子だった。深い青色の緊張が、彼の声色や仕草を通して、霧のように教室中に広がっていく。
当真は鞄を床に擦れそうなほど低い位置で持って、それを振り子のように揺らしながら彼の言葉の先を待った。
「そっ、その……」
「うん」
「その……っ」
「うん」
「――お、俺に!」
すると青崎は、身体中からありとあらゆる種類の勇気を絞り出したような声で、両手の拳を固く握りしめながら叫んだ。
「俺に、勉強を教えてくれませんか!?」
「……え?」
当真は呆気に取られた。
彼の懸命な激白が、事前に想定していた可能性の全てを打ち砕くような――つまりは、当真にとって何とも生易しいものだったからだ。
***
皺の寄った薄っぺらい紐のような紙を凝視して、当真は耳をつんざくような悲鳴を上げた。
「こ、これは……」
青崎の試験結果を確認し、思わず息を呑む。
そこに表記されていたのは、華麗なまでに壊滅的な数字だった。当真は自分の目を擦ってその結果が見間違いでないことを確認し、冷や汗をかいて青崎の顔を何度も見た。
「青崎くん……」
「は、はい」
「勉強、苦手か」
当真がそう言えば、青崎はみるみるうちに萎れて縮んでしまった。彼は椅子の上で膝を抱え、百八十を超える巨大な体躯を小ぢんまりと丸める。哀愁漂うその姿は見目麗しさと相まって、大雨の日に捨てられてしまった子犬のようだった。
当真はしゃがんで彼と目線を合わせ、自分が思いつく限りの優しい母親のような声を作った。
「青崎くん、怒らないから」
「……はい。苦手です……」
「そうか。どこが苦手?」
「全部です」
「全部かあ」
青崎は墨で描かれたような眉を凛々しく上げて言った。相変わらず、切れ味が鋭いのは顔だけの男だ。
当真はどうしたらいいのか分からなくなって、眉毛の隣を指で擦りながら口を尖らせた。
「……ええと、もしかして勉強自体に興味がない?」
「あ。はい」
「好きじゃない?」
「好きじゃないです」
「運動は?」
「好きです」
「特に何が好き?」
「個人競技全般です」
「本を読むのは?」
「好き、です。時間はかかるけど……」
いくつか質問を投げかけてから、当真は首を縦に振って、顎に指を当てた。
「君はアレだな。自分の好きなことにしか興味がないタイプか。授業中に指定されたページ以外を捲って読む類の」
「ぎくっ」
その通りである。
青崎は本当に本当に自分の興味のある分野以外に集中できない性質であった。興味のない話をされても何一つ頭に残らないし、授業で大事な話をしていても好きな事ばかりを空想しているせいで必ず聞き逃してしまう。地頭が悪いというわけではないのに、集中力が続かないために全く勉強に身が入らないのだ。
しかし彼が黙って俯いていると、物凄く真剣に相手の話に耳を傾けているように見える。だから誰も、まさか彼が呆けているだなんて思わないし、注意もできない。
「あの……」
「ん?」
「ちなみに、当真先輩は。その……」
「あ俺? 俺はめちゃくちゃ頭が良いよん」
「おおお……!」
当真は躊躇いなく言い切った。
ちなみにこれは誇張でも何でもない。当真はこれまでどんなテストにおいても90点以下を取ったことがないし、教科書の内容は一読しただけでほとんど暗記することができる。そもそも他人の感情を一瞥しただけで読み取ったり、多数の人間の情報を事細かに記憶できる男の頭が悪いわけがないのだ。
だが当真はこれを別に特段誇れることだとは思っていなかった。だってテストで良い点数を取ったからと言って、別に誰に褒められるわけでもない。勉強を苦に思ったことはないが、別に楽しいと思ったこともなかった。だから油っこく謙遜することもなく、こうしてサラリと自分の得意分野として明かすことができる。
「まあその代わり運動全般が壊滅的なんだ、俺は。人には向き不向きがあるってことよ。君にはその顔と運動神経があるんだから、ちょっとくらい苦手なことがあっても良いんじゃないの」
「でもこんなの、当真先輩に相応しくない……」
「逆に君の思う相応しい相手って何なの?」
「何でも完璧にサッとこなせる余裕があって格好いい大人の男です」
「……」
「何ですかその顔は」
「うん。いや。何でもないよー」
「何ですか!」
当真は彼から目を逸らし、窓ガラスの外を眺めた。高い目標を持つのは良いことだ。未だ彼の中に余裕の二文字を見い出したことはないが、何はともあれこの先に期待である。
青崎は何とも形容しがたい表情を浮かべ、それから自分の試験結果に目を落としてため息をついた。
「はあ……」
「点数が悪いと何かあるの? 罰ゲーム?」
「補習があります」
「補習」
「そこで再試があるんです。でもそれでまた赤点を取ると……」
「取ると?」
「最悪留年します」
留年、の二文字が当真の頭上になだれ落ちてくる。当真は刺激臭を嗅いだ猫のように目を見開いて固まり、栗色のアホ毛をピン! と立たせた。そして青崎の肩を両手で掴み、大きく口を開け八重歯を見せて叫ぶ。
「駄目じゃん!」
「ダメですね」
「ダメですね、じゃないよ! それを早く言いなよ! 留年ってアレだろ? 同級生が同級生じゃなくなるヤツ! 一年生で留年したらどうなるの?」
「大変なことになります」
「そりゃあそうだね!」
どうやら事態は思っていたよりも深刻らしい。これまで留年の二文字とは縁遠い生活を送ってきた当真にとって、彼の告解は実に衝撃的なものだった。
「青崎くん」
「はい」
「分かった。一緒に勉強しよう。分かんない所は俺が教える」
「……! はい!」
「勉強場所は俺の家でいい?」
「はい! ……えっ?」
「え?」
「え?」
「え。なに。ダメだった?」
「当真先輩の家ですか!?」
「ぐえっ。耳が破れる」
「と、とうっ。当真先輩の家!?」
青崎は当真の肩を掴んで激しく揺さぶった。彼の顔は耳まで真っ赤に染まっていて、目の奥がじっとりと湿っぽく渦巻いていた。
「うっ。揺らされすぎて酔う……」
「と、当真先輩の、おうち。そん、そんなの、おれっ」
「ダメだった? 参考書とか結構あるし、広いから快適だと思ったんだけど」
「ダメじゃねぇです!」
「あそう」
やっと肩から手が離れていった。当真は若干目を回して、それからペンキを被ったように真っ赤になった青崎を見上げて言う。
「それじゃあ明日にでもおいでよ」
「はっ、はひっ、はいっ……!」
「……勉強するんだからね? 本当にそれだけだから。変な期待とかしないでよ?」
「はいっ!」
青崎は右手を挙げて威勢よく頷いた。その瞳は燦燦と輝いていて、当真は「本当に分かってるのかこのポンコツイケメンは」と唇を浅く噛みしめながら思った。
***
青崎は緊張で胸を張り詰めさせながら、兄と相談して選んだ手土産を両手で持って歩いていた。当真に教えてもらった住所をスマホの地図アプリに打ち込んで、道を間違えないように気を付けながら進む。
期待してはいけない、とは分かっている。彼はただ純粋に自分に勉強を教えてくれようとしているだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。自分は彼の面倒見の良さに甘えているだけだ。そう思っているのに、どうしても身体の底から湧き上がってくる幸福感を押さえつけることができない。
だって自分は彼の家にお呼ばれしたのだ。彼の家の敷居を跨ぐことを許されたのだ。それがどんなに温かく、幸せで、満ち足りたことか。この感動を今ここで詩にでもしたためたいくらいだ。家に帰ったら必ず書こう。そうして一生涯忘れぬように頭の裏に刻み込もう。
そんな決意を抱きしめながらスマホを見て、顔を上げた。どうやら彼の家に到着したらしい。
「ここが、……」
そして青崎は口を開けたまま固まった。
「高級マンション……!」
知っていた。何となくは分かっていた。普段の生活ぶりから、当真がかなりの富裕層であることくらいは。だがこれほどまでとは思わなかった。
エントランスは真っ白で、庭に噴水があって、一見するとまるで美術館のような造りになっている。どこもかしこもつやつやと光る石で出来ていて、何だか異世界に足を踏み入れたような気分になった。
恐る恐る辺りを見回しながら、エントランスに置かれたタッチパネルの前に立つ。そして当真に教えてもらった方法でオートロックを解除し、ぎこちなく歩いてエレベーターに乗った。
18階、の数字が赤く点滅する。エレベーターの扉が開き、静かに降りる。息を深く吐いて、彼の部屋に備え付けられたインターホンを押した。
「――はぁい」
「! あ、あの、青崎です!」
「はいはい。入っておいで」
部屋の扉が開いて、その奥から当真が顔を覗かせた。
彼は前髪を赤いヘアピンで留めていて、オーバーサイズの黒いスウェットを身に纏っている。そしてオニツカタイガーのスニーカーに踵を浮かせて足先を突っ込んでいた。私服の彼は普段よりも随分と柄が悪く見えて、それに青崎は胸をときめかせた。
「グッ……!」
「何の呻き声?」
心臓を押さえる青崎を訝しげに見つめてから、当真は靴を脱いで丁寧に玄関に並べた。そして青崎へと白いスリッパを差し出し、自分は素足で廊下を歩く。
「あの、当真先輩」
「ん?」
「これ、その、不束者ですが……」
「結婚でもするのか、君は」
「け、け、結婚!?」
「やべ、いらんこと言っちゃった……。手土産? これ」
「は、はいっ」
「えっこれ××のタルト? えーっ嬉しい! 俺この店のお菓子好きなんだよね」
「えっ、えへえへ……」
「あとで休憩時間に一緒に食べようね」
「はい!」
青崎は国宝級の顔面を溶かしながら、心の中で静かに兄へと感謝の祈りを捧げた。「何!? 好きな子のうちに呼ばれた!? バカお前そんなん手ぶらで行くヤツが居るか! 今すぐ洒落たもん買いに行くぞ! 俺ン車に乗り込め!」と慌てて連れ出してくれた兄には一生頭が上がらない。
当真は紙袋の中身を嬉しそうに見つめて、子どもっぽく邪気のない笑みを浮かべている。こういう時に遠慮せず両手を挙げて喜ぶ所が、この男が愛嬌の塊と呼ばれる所以なのだ。
「……?」
「どした? そんなキョロキョロして」
「先輩のご家族に挨拶したいな、と」
青崎は落ち着きなく周囲を見た。外堀を埋める――というわけではないが、好きな人の家族には出来れば好印象を抱いてほしいものだ。だから顔を見せて、どうにか爽やかに一言挨拶できればと思ったのである。
すると当真は大きく口を開けて、頬を掻きながら言った。
「あー……ごめん。今家に俺以外居ないんだ」
「あ。そう、ですか」
「うん。だから遠慮せずくつろいでって」
それは仕方がない。どうやらタイミングが悪かったようだ。
青崎は少ししょんぼりして、それから「……ん?」と思う。
この家には今、当真先輩以外いない。
それはつまり、正真正銘の二人きりということだ。
二人きり。
想い人の家で。
密室で。
「ねえ。君って紅茶飲める? ダージリンとアールグレイだったらどっちが……うわッ!? 何!?」
「あ、あひゅ……」
「発火してる!?」
青崎は全身から煙を噴き出した。あまりのことに身体がキャパオーバーを起こしたためだ。
いや勿論、彼に対して無体を働くつもりなど一切ない。ない、が、青崎とて健全な男子高校生だ。欲だって人並みにあるし、好きな人の家で好きな人と二人きりとなれば、当然よろしくない妄想が頭を過る。
青崎は顔色をカラフルに染めて、紅茶を持ってきてくれた当真の肩を掴んだ。
「とっ、当真先輩!」
「お、どうした」
「おっ、俺って当真先輩に告白しましたよね……!?」
「? うん」
「良いんですか……!?」
「え。何が?」
要領を得ない、とでも言わんばかりに当真が首を傾げる。
その表情には一切の警戒心が見当たらず、青崎の背筋に冷たい汗が一筋伝った。
自分を好いている男とこんなに簡単に二人きりの空間に収まってしまうなんて、果たして彼は大丈夫なのか。相手が自分だったから良かったものの、これが質の悪いロクでもない男だったら大変なことだ。そう思ったら別種類のドキドキが急にせり上がってきて、目を丸くして間の抜けた表情を浮かべる彼を、青崎は真剣に見下ろした。
「俺が言うのもなんですけど! あんまりこう、簡単に二人きりになるのは良くないと思います!」
「え何で? 手出すの? 俺に?」
「だッ」
「やー、無理でしょ。君は。ヘタレだもん」
すると彼はおとがいを解いて、乾いた口振りでそう言った。
あまりにも舐められている。いや、一周回って信頼されているのか? どちらにせよ、意識されていないにもほどがある。
まあ実際これ以上近づく勇気すらもないのだから、彼の半笑いは的を得ているのだが。
「ほらほら。君は勉強しに来たんでしょ」
「あ。は、はい」
「ええと、一年の範囲の参考書は……」
当真が立ち上がって本棚の前に立つ。青崎はその後ろ姿をゆっくりと目で追った。
彼の部屋は非常に広い。物は沢山置かれているが、几帳面に整頓されているため乱雑さは感じられなかった。
特に目を引くのが、壁にいくつも並べられた巨大な本棚とそこに隙間なく詰め込まれた本たちだ。それはまるで自分が今図書館に居るのかと錯覚しそうになるほどに圧倒的な光景だった。
「あったあった」
「……えっ」
「よし。こんなもんかな」
すると彼は本棚から参考書をいくつも引き抜き、それを机の上に、彼の顔が隠れて見えなくなるほど積み上げた。
青崎の顔から血の気が引いていく。しかし色を失った青崎の前で、当真は何の邪気もない笑顔を浮かべて言った。
「さ。頑張ろ!」
「あ、あの……」
「大丈夫。大事な部分をかいつまんで教えるから!」
「その、この量は、ちょっと俺には……」
「うんうん。適宜休憩しながら進めていこう!」
彼のその顔には、決して棘はないのに、何故か有無を言わせぬ圧があった。
どうやら胸をときめかせている暇はないらしい。「遊びじゃないんだぞ」と、朝日のように眩しく光る彼の瞳が申し立てていた。
「は、はい…………」
青崎は沈んだ声でそう言った。
結論から言えば、当真は非常にスパルタであった。口調こそ穏やかで柔らかいものの、その講義内容と言えば難関校の教師よりも余程厳しいものだったのだ。
とはいえ青崎は普段よりも集中して取り組むことができた。何せ勉強は嫌いだが、当真のことは大好きだからだ。彼の口から紡がれる言葉は一言一句聞き逃さずに心の中に保存しておきたいと思っている。だから自然と教えてもらったことを記憶することができた。
青崎の地頭は決して悪いわけではない。ただ興味がないことに関して集中力が続かないだけなのだ。
「……うん。キリが良い所まで終わったね」
当真は参考書を閉じて言った。短時間で密度の高い内容を叩き込まれた青崎は、口から魂が抜けたような有様で机に額を押し当てた。
「疲れた?」
「ハイ……」
「ご褒美にチョコあげる。糖分は大事だからね」
口の中に甘い塊が放り込まれた。
青崎は身体を起こし、薄目を開けて彼を見る。当真はチョコの入った大袋を抱え込んで、キャンディサイズのお高いチョコレートを目にも止まらぬ速さで口に突っ込んでいた。相変わらずの食べっぷりだ。その細く薄い身体のどこに大量の食事が収まっているのだろうか。これは青崎の中での世界七不思議のひとつである。
青崎は口の中でチョコレートを舐め溶かしながら、ふと壁に掛けられた時計へ視線を向けた。
「もうこんな時間か……」
「遅くまで頑張ったじゃん」
「! はい!」
褒められた。嬉しい。それだけで嫌いだった勉強が、途端に魔法で出来た遊園地のように見えてくる。単純だと思われるかもしれないけれど、自分は彼の前ではいつだって単純でありたいのだ。
青崎は自分のリュックの中に筆箱やノートを詰め込んだ。するとそれを見た当真が不思議そうな顔をする。青崎はその怪訝な表情に気が付いて、何かやらかしてしまったのかと心の中に汗をかいた。
「えっ……と。ど、どうしました?」
「帰るの?」
「え……は、い。だって、あんまり遅くまで居ると、先輩の家族の邪魔になるし……」
そう言うと、彼はまるで今陽が沈んだことに気が付いたような顔をして、それから口をかぱりと大きく開けた。
「――そっか。それもそだね」
「……?」
「じゃあ、お疲れ。家に帰ってからもちゃんと復習するんだぞ」
「はっ、はい!」
青崎はリュックを背負って、何度も彼に向けて手を振った。その様子といえばまるで今生の別れのようで、当真は呆れた表情を浮かべて小さく手を振り返したのだった。
そうして玄関の扉が閉まり、オートロックの簡素な音が響いて、青崎の背中が見えなくなってから、当真は自分の靴以外置かれていない靴箱を見つめながら反芻する。
『先輩の、家族の邪魔に――』
当真は抑揚のない声で呟いた。
「……ならないよ、別に……」
誰に聞かせるわけでもない、行き場のない独り言を。
