同僚の紹介でやってきた青年を見た時、瀬古は一瞬目を見張って驚いた。
何せ、その男の顔があまりにも整いすぎていたからだ。
驚いていたのは何も瀬古だけではない。隣に並んで座っていた月野もまた、額に少し汗が浮かぶほど見惚れていた。
青崎と名乗ったその男は、一度見れば脳裏に焼き付いて生涯忘れられないような美しい顔をしていて、こうして同じ空間に居るとまるで彼一人だけが造り物の人形のように見えた。無造作に所々が跳ねた黒髪は、整えられていないにも関わらず彼の端正な顔によく似合っていて、角度によっては雪のような銀色に見える色素の薄い毛先が随分と特徴的だった。彼の表情が溶けない氷のように冷厳であったのもまた、彼の無機物らしさに拍車をかけていて、驚くほど愛想がないにも関わらず、その木で鼻をくくったような態度がやけに様になって見える。そんな不思議な雰囲気の男だった。
一体当真はどこからこんな綺麗な人間を見つけて攫ってきたのか。彼の顔の広さもまた謎めいている。彼は日頃どんな交友関係を構築しているのだろう。そんなふうに疑念を抱いたものだ。
それはさておき、青崎という男は至って真面目な男だった。
初めはその顔のあまりの華美具合に面食らったものの、蓋を開けてみれば何ということはない、彼は教えられた仕事をマニュアル通りに忠実に、ただ黙々とこなす寡黙な青年だった。
「んーとね。俺ね、青崎くんはホールより裏方の方が向いてると思うナ~」
などと当真が言い始めた時にはその場に居たほとんどの人間が「コイツ、正気か? この顔を奥に仕舞っておくのか?」という疑惑の目を向けたものだが、実際に働いてみれば彼の提案が一番の正解であったと分かる。青崎という男は口を閉じていてもできる作業を割り振れば、驚くほどに素早く仕事を消化してくれる男なのだ。愛想がないので接客には向いていないが、裏方でサポート役をさせればどこまでも輝く性質である。
だがしかし、瀬古には一つ気になることがあった。
それが何かと言えば、彼の目の輝き具合についてだ。
というのもこの青崎という男、普段は冷えた仏頂面を浮かべているのだが、時折その瞳を温かく輝かせることがある。
そして観察していて気が付いた。彼の氷で出来た眼差しが溶けるのは――同僚である月野が傍に居る時だ。
「あの。南さん、質問なんですけど……」
「はーい。どうしたの?」
しかもいつの間にか下の名前で呼び始めている。
自分が他人の気持ちに鈍い自覚はある。が、ここまであからさまだと流石に気付かないわけがない。
彼、青崎は、きっと月野さんのことが好きなのだ、と。
「……じゃ、お疲れー。明日は俺たちお休みだけど、仲良く頑張ってねー」
「何か困ったことがあったら連絡してね!」
「っす。あ、ありがとうございます!」
当真と彼女が手を振ると、青崎は顔を赤くして頭を何度も下げた。彼のその姿は、どこからどう見ても恋をしている人間のそれだ。
どうやらこの尋常でなく整った顔立ちの男は、好意を抱いている人間の前では相好を崩して年相応の可愛げを見せるタイプらしい。この顔ならばこれまでの人生で数えきれないほどモテてきただろうに、それはまるで初恋の中で藻掻いているような表情だった。
「――あ。どうも」
「どうも」
「っす。よろしくっす」
しかし一転、二人きりになった瞬間にその愛嬌はどこかに消え失せる。瀬古は「コイツ本当に昨日の男と同一人物か?」と疑問に思いつつ、互いに無愛想な会釈を交わした。
そこからはひたすらに静かな作業を続けるのみである。月野(と当真)が居た時には向日葵畑のように眩しい笑みを浮かべていた彼は、自分と二人になった途端に笑顔の作り方を忘れてしまったような有様になる。
別にそれが不快というわけではない。彼が自分のことを特別嫌っているわけではないようだからだ。その証拠に彼の態度に敵意は見当たらない。彼は自分の前でだけ愛想が悪くなるのではなく、彼女の前でだけ特別によく懐いた子犬と化すだけなのだ。
「うす。お疲れ様っした」
「おー。お疲れ」
瀬古は無言が気にならないタイプなので、彼の愛想のなさに困ることはない。お互いに特に話を振ることがないので、休憩時間も常に夥しい沈黙が流れることになるが、互いにそれを苦に思うことがないので平気だった。
逆に当真や月野はひっきりなしに雑談を投げかけてくれるタイプで、こちらの口数が少なくとも自然と会話を広げてくれる。なのであの二人が居ると、今とは正反対に会話が途切れることがない。
それにしても、何と分かりやすい男だろう。あれほどあからさまに好意を示されて、彼女は気が付いていないのだろうか。
瀬古は自転車を漕ぎながらふと考えた。
……確かに、月野さんは良い人だ。
気が利くし、いつもよく周りを見ている。仕事の教え方も丁寧で優しい。
好きになる気持ちは、まあ、分かる気がする。
「……つか」
もしかして、アイツは青崎をそのつもりで連れてきたのか?
当真の能天気な顔を頭の中に思い浮かべながら、瀬古は小さな低い声で空に向かってぼやいた。
偶然店を訪れた青崎が、そこで働いている月野さんに一目惚れして、同じ学校の先輩である当真に頼んでアルバイトを紹介してもらった。
そんな可能性が頭を過る。そしてそれは何だか現実味のある予測のように思えてきた。だって当真ってそういう、ちょっとお節介な所がある。
何とも言えない気持ちになりつつも、瀬古は自転車をアパートの駐輪場に停めた。
たとえそうだったとしても、自分が何か言える立場にはない。だって自分は彼女にとってただのクラスメイトで、たまたまバイト先が同じになっただけの知人だ。それに、あんなイケメンに好意を寄せられて嬉しくない人は居ないだろうし、とも思う。
「……お」
それから数日後、瀬古はまた青崎と彼女が仲良く二人で喋っている所を見かけた。
扉を開けかけて、そこで立ち止まる。部屋の中からたいそう愉快そうな話声が聞こえてきたからだ。
「それはね、イトくん。やっぱり……」
「ええ。でも、俺は――」
「ううん。こういう時こそ……」
二人は小さな声でひそひそと話し合っていて、まるで何かの機密事項について議論を交わし合っているような様子だった。断片的に聞こえてくる声からは、何の話をしているのか判断することができない。けれどもその声色を聞いているだけで、彼らの親密さが十分に伝わってくる。
――何だか、距離が近くないか?
扉の前に立ち尽くしたまま、瀬古は思わずそんなことを思う。二人はまだ知り合って間もないはずだ。それなのにどうしてそんなに距離を詰め合っているのか。
別に、自分は彼女にとって特別な相手ではない。確かにクラスの中ではよく話す方だ。でも彼女には大勢の友達が居るし、自分なんかよりも親密な相手はいくらでも居るだろう。だからこんなふうに、ちょっとだけ妙な気持ちになるのは筋違いにも程がある話なのだ。
「――やっほ、瀬古くん」
「おわッ」
すると突然後ろから背中を軽く叩かれた。瀬古はそれに驚いて、思わずあっと声を張り上げてしまう。
振り返るとそこには当真が立っていて、彼は不思議そうに首を傾げて扉の奥を指さしていた。
「? 入らないの?」
「おっ。おお……」
彼は部屋の前で硬直している瀬古を見上げてから、何の躊躇いもなく扉を開け放ち、部屋の中へとスキップで足を踏み入れた。
「こんちわ~。遅くなりましたぁ」
「あっ。あっ!」
当真が緩い声で挨拶する。
すると先程まで月野と親しげに話していた青崎は、尻尾を踏まれた猫のような素早さで立ち上がり、顔を真っ赤に染めて頭を下げた。
その様子はまるで、「好きな子にアプローチしていた所を知り合いに見られ、恥ずかしくて思わず飛び上がってしまった」――かのように、瀬古には見えた。
「お、おはようございます!」
「も~、学校でも会ったでしょ?」
「そ、そうですね。えへへ」
青崎は頭の後ろを触りながら、撫でられた犬のような朗らかさで微笑んだ。
こんなにも普段と態度が違うのに、どうして当真が平然と受け流せるのか分からない。それともやはり当真は初めから青崎の気持ちに気づいているのだろうか。
だとしたら、彼女は大丈夫なのだろうか。いや別に、彼女が嫌がっていないのならそれで良いのだけれど、でもそういう外堀から埋める、みたいなことはあんまり良くない気がする。
ただこれも全部自分の勝手な妄想で、一人で要らない気を揉んでいるだけなのかもしれない。どちらにせよ、ちゃんと話を聞いてみないことには分からない。
そう思った瀬古は、バイト終わりに二人になったタイミングで青崎を呼び止めた。
振り返った彼の顔は驚くほどに真っ白な無表情であり、思わず頭の中に浮かんでいた言葉が吹き飛んでしまうほどの威圧感があった。話しかけたのはこちらの方なのに、つい心の中が竦んでしまう。
「どうしたんすか」
「あー。いや……」
瀬古は「コイツ月野さん居ねえとホントに愛想ねえな」と思いつつ、口元を押さえて次に続けるべき言葉を探す。呼び止めたはいいものの二人とも揃って口が重い性質なので、テンポよく会話が進まない。
「……? 帰っても大丈夫ですか」
「いや、待て」
あまり長く考え込んでいては彼がさっさと立ち去ってしまいそうだ。何から問うか考えあぐねていたが、ここは単刀直入に本題に切り込むことにする。
「――お前ってさ」
「はい」
「月野さんのことどう思ってんの?」
そう尋ねた。
すると青崎は顔を上げて目を丸くする。長い睫毛がぱっと開いて、ただでさえ印象的な目元がより華やかに輝いた。
「どう、って」
彼は首を傾げた。
「どういう意味ですか」
「そのまんまの意味よ。好きなのかって」
「……はあ」
彼の答えは「はい」とも「いいえ」とも解釈できる曖昧なものだった。
それに瀬古は少しだけムッとする。明確な答えが欲しかったのに、肩透かしを食らってしまったからだ。
自分の意図が彼に正確に伝わっているのかも今一つ分からない。「こんな時当真が居てくれれば」とすら思う。彼が間に入ってくれれば自動的に注釈を付け加えてくれるのに、と。でも彼が青崎を応援しているのなら、それはそれで面倒なことになりそうだ。
瀬古は少し考えてから、言葉足らずにならないように気を配りつつ発言を重ねた。
「ほら。月野さんって良い人じゃん」
「はい。そうですね」
「だからクラスでもさ……面倒事を自分から請け負ったりさ、よくしてるわけよ。そういう頼み事とか、あんま断らないタイプだから」
彼女はいつも忙しない。
学校に居る時もいつも誰かと話しているし、誰の相談にも親身になる。面倒事を進んで引き受けて、困った人が居れば誰彼構わず手を差し伸べる。
そういう人だから好かれるし、頼られるのだろうと思う。
対して自分は――面倒事が嫌いで、自分から進んで他人に関わろうとしない。決して人間が嫌いというわけではないが、人間関係はそれなりに嫌いだ。煩わしいものには一切触れたくない性質で、楽な道があれば喜んでそちらを選ぶ。
だからだろうか。もしも「尊敬している人は誰?」と聞かれれば、多分真っ先に彼女の顔が思い浮かぶ。自分にないものを沢山持っている彼女が純粋に眩しい。凄いし格好いいなと思う。
彼女にとって自分は大勢いる友人の内の一人でしかないだろうけど――それでも自分にとって彼女は数少ない友達の一人だ。優しい人には幸せになってほしいし、変な悪意に晒されてほしくないと思うのは当然だろう。
「だから……遊びじゃないのかどうか聞きたくて。お前が本気なら全然いいんだけど。あんな良い子が悲しい思いしたら辛いじゃん? 普通に」
彼女には善良すぎて流されてしまいがちな所がある。だから心配だった。
勿論彼が本気で彼女のことを好きならばそれでいい。けれども彼は何を考えているかよく分からないし、その上この顔で遊んでいないとも考えにくい。
だから釘を刺しておこうと思った。彼が真摯であることを確かめられたらそれで良かった、はずだ。
すると青崎は目を伏せて、じっと地面を見て何かを考え始めた。長い睫毛が彼の目元に紺色の影を落とす。そして彼は顔を上げて、何度か瞬きをして、冷たい声でこう言った。
「それ、アンタに関係あるんですか?」
まさかそんなふうに言い返されるとは思わず、瀬古は面食らって黙り込んでしまった。
そう言われてしまえば、返す言葉が見つからない。彼の質問は瀬古の痛い部分を的確に抉ってきた。だから口ごもるしかない。
「そ、りゃ……」
「関係ないですよね?」
彼はキョトンとした様子で言った。それは瀬古を厳しく責め立てているというよりは、純粋に疑問に思ったことを飾らずに口に出しているという口調だった。その表裏のなさが、より突かれた図星を際立たせてくる。
するとそこで、彼は何かに思い当たったような顔をして、瀬古へと視線を向けた。
「――好きなんですか?」
「え」
「南さんのこと」
何の抑揚もない声でそう尋ねられた。
瀬古は思わず固まった。別に、そういうわけじゃない。そう訂正しようとするのに、上手く言葉が出てこない。喉の奥に氷の塊が詰まったような心地になって、目線を左右に動かすことしかできなかった。
――好き、なのか?
瀬古は口を片手で押さえた。思わぬ所に強烈な拳が入って、足場が不安定になったような錯覚に陥る。痛烈な一言が心の奥底を揺らしてくる。
ただの心配、のはずだった。そう思い込んでいた。でもそこに、「彼女を取られたくない」という自分勝手が含まれていなかったと、果たして本当に言い切れるだろうか。彼女のためと内心で宣っておきながら、その裏には自分でさえも気づいていないような黒っぽい執着心が隠れ潜んでいなかったか。
頭を鈍器で殴られたような心地になって、瀬古は足を少しずつ後ろに引いた。遅すぎる自覚に打ちのめされていると、青崎はそこで初めて地面と平行線を描いていた眉をほんの少しだけ下げる。
「あと。その。俺、南さんのことは人として好きですけど、アンタが思っているような好き、ではないです」
「は」
「あれ? これは言っちゃダメだったか……?」
何故か首を傾げつつも、彼は淡々とした声で打ち明けた。その回答に呆気に取られ、瀬古は口を開けたまま固まってしまう。
「……え。ち、違うの? マジで?」
「え? はい」
「お……」
「じゃあ。まあ。そういうことで」
あっさりと頭を下げたのち、彼は飛ぶ鳥跡を濁すこともなく、ただ瀬古の心に爆弾を落として去って行った。
残されたのは強烈なカウンターパンチによって強制的に自覚を引きずり出された瀬古のみだ。瀬古は魚のように口を開けたり閉じたりしながら、ただ真っ白になって立ち尽くすことしかできなかった。
「……あ」
するとそこで、小さく丸い声が聞こえた。
振り返ってみると、そこには長い髪を一つに結んだ、春光のような面差しの少女が立っている。
彼女は淡い青のワンピースを着て、鮮やかな黄色のトートバッグを肩にかけていた。何故だろうか、不思議と昨日学校で会った時よりも光り輝いて見える。
「せっ、瀬古くん!?」
「ぁ……」
「あっ、も、もしかして今バイト終わった所かな?」
彼女は少し地面からぴょんと浮いて、それから小走りで瀬古へと駆け寄った。瀬古は静かに頷いて、彼女の顔をじっと見つめる。
「え? な、なに? どうしたの? 何か変なものでもついてる?」
すると彼女は分かりやすく狼狽え始め、しきりに前髪を指で梳いた。瀬古ははっと我に返り、一歩足を引いて彼女から距離を取る。
「な、何でもない……」
「? そっか」
「……月野さんは」
「うん?」
「今から、どっか行くん?」
「う、ううん。今塾が終わって、家に帰る所」
「そーなんだ」
「うん。瀬古くんと家が同じ方向だったら、一緒に帰れたんだけどな~、なんて。アハハ……」
彼女は口を小さく開けて笑い、それから居たたまれない様子でトートバッグの紐を両手で握りしめた。
「じゃ、じゃあね。また次、学校でね」
「お、おー……」
彼女は軽く手を振った。瀬古もそれに右手を振り返す。引き留めたいとは思ったけれども、引き留める理由が上手く口に出せない。彼女の遠くなっていく背を見守ることしかできない。
だがしかしそこで、彼女の足が突然止まる。そうして彼女は振り返って、跳ねるような駆け足で瀬古の元へと戻ってきた。よく見ると彼女は下唇をぎゅっと噛みしめていて、身体の奥底からありったけの勇気を振り絞っているかのような表情を浮かべている。
「あっ。あのっ。瀬古くん!」
「え」
「そ、そのっ、これ。あげる!」
彼女は目を閉じてそう叫んで、バッグの中から取り出した小袋を瀬古へと渡した。それは赤いリボンで装飾されていて、中には小さなクマを象ったクッキーがいくつか入っていた。
「これ、わたしのお気に入りのお店のクッキーで。凄く美味しいから、その、瀬古くんに食べてほしくて」
「……くれるの?」
「う、うん!」
「……なんで?」
「え。えっと。そ、その」
「うん」
「……せ、瀬古くんが。最近、なんか、元気ないような気がしたから」
じわり。と、クッキーの袋を持った手のひらから、全身へと熱が広がっていく。柔らかく、暖かで、ほんの少しだけ切ない、冬の終わりのような熱が。
彼女は自分の顔を手で扇いで、照れたように眉を下げて言った。
「うん、ホント、それだけなの。じゃ、じゃあね。今度こそ、ほんとに」
「――ぁ」
「えっ?」
「ま、……待って」
思わず彼女の腕を掴んでしまった。彼女の目が見開かれる。瀬古は心臓が荒く動くのを感じながら、必死に続く言葉を紡いだ。
「そ、その……このあと、どっか寄ってかない?」
「え」
「どこでも、いーんだけど。本屋とか、カフェとか……」
勇気を振り絞って言った。少し喋っただけなのに、随分と喉が渇く。多分緊張していたせいだ。俯いたまま視線だけを上げ、細目で彼女の表情を確認する。
すると彼女は花開くような笑顔を浮かべ、目を輝かせて言った。
「――行きたいっ!」
「そ、そか」
「わたしもね。ホントは、一緒に寄り道したかったの!」
「――」
「? ど、どうしたの?」
「いや何か……眩しくて……」
「? 帽子貸そうか?」
「ううん。だいじょぶ。何か飲んでから帰ろ」
「うん!」
***
「……は?」
瀬古は呆気に取られた様子であんぐりと口を開いた。
そんな彼に曇りのない眼を向けながら、青崎は困った顔をして両手で特大サイズのフラペチーノを握りしめている。注文システムもメニューも詳しく知らないままに店に入り、見様見真似で当真と同じものを頼んでしまったためだ。当真は痩せの大食いなので、当真と同じメニューを注文してしまうと後から腹が大変なことになってしまう。
「俺はこれを飲み切れるのか……?」
「いや、ちょっと待て。何軽く流そうとしてんの」
「え?」
「……今お前何て?」
「俺が好きなのは当真先輩だ、って」
この世の真理を語るような口振りで、青崎は迷うことなくそう断言した。
瀬古は数十秒間黙り込んで、目元を手で覆い隠し、歯の隙間から吐息を漏らす。そして目を見開き、机に手のひらを打ち付けて言った。
「分かるかそんなもん!」
「まあまあ落ち着いて」
「ンでお前もそんな平然と受け入れてんだ!」
「俺はこう……もう慣れちゃったから」
「慣れんな!」
どうやらご立腹のようである。
青崎が好意を向けている先をすっかり誤解していた瀬古は、羞恥心と居たたまれなさに全身を蝕まれているようだった。当真は山のように盛られたクリームを吸い込みながら、生温い目をして彼を宥める。
バイトが終わり、当真たち四人は近くのコーヒーショップを訪れていた。そこで瀬古は真相を――つまりは青崎の想い人が誰なのかということを知り、自分が要らぬ杞憂を抱えていた事実に突き当たったというわけだ。
頭を抱える瀬古の隣、月野南はホットコーヒーを両手で抱え持って、困った様子で眉を下げている。
「そっか……瀬古くんは知らなかったのね」
「逆に月野さんは全部知ってたん……?」
「えっと、その、うん。バイト初日に話の流れで教えてもらって」
「何も分かってなかったんはオレだけなんか……!」
「あっ、違うの。仲間外れとかじゃないの。ただわたしとイトくんは……」
「戦友、みたいな感じです」
「そう、戦友。片思い同盟を組んでたの」
彼女と青崎は揃って親指を立ててみせた。その表情は真剣そのものであり、彼らの間に色っぽい空気は微塵も漂っていない。
自分は一体この二人の間に何を見出していたのだろう。そんなふうに拍子抜けした瀬古はそれから、朗らかに微笑みながら巨大フラッペを飲み切った当真へ視線の先を向ける。
「……おい当真」
「んぇ?」
「お前は何我関せずみたいな顔してんの」
「……? そんな顔してないよ。俺は二人のことをとても祝福してる。ご祝儀を渡したいくらい」
「オレたち……のことについては、あんがと。月野さんから聞いた。ずっと裏で応援してくれてたって」
「へへ、いいってことよ!」
当真は誇らしげに鼻の下を擦った。そして薄く目を開ける。すると訝し気に目を細めている瀬古が視界に飛び込んでくる。
当真は首を傾げた。彼は一体どうしてそんなに苦い物を噛み潰したような顔をしているのだろうか。
「や、普通に気になんじゃん?」
「何が?」
「お前らの関係に決まってるだろ。え、何? 実は付き合ってたん?」
「付き合ってないよ~」
「付き合ってねぇです!」
当真と青崎は顔の前で手を振って答えた。すると瀬古の眉間に寄った皺がより一層深くなる。
「……え? でもお前は当真のことが?」
「好きです! でっけぇラブです!」
「おお、コイツってもしかしてスゲェ愉快なやつなん……?」
「うん。青崎くんは面白いよ」
「おっ、面白い……!?」
「え、どしたん」
「好きな人に言われて嬉しい言葉ランキング上位が急に来てビックリしました」
「スゲェ愉快なやつだな……何で付き合ってないの? こんなイケメンでおもろいのに?」
「俺は自分の恋愛にマジで興味がないからです」
「だそうです。しょんぼり……」
青崎は唇を噛んで俯いた。美しい花は萎れたとて美しい。これだけ顔面に皺を寄せていても全くかんばせが崩れないのだから凄いものだ。そんなことを考えながら当真は運ばれてきたケーキに手を付ける。
瀬古は「よく食うなあ」と言いたげな目線を当真へと向けて、それから不思議そうに腕を組んだ。
「うーん。お前らの関係性がよく分からん」
「と言うと?」
「普通フッたとか、フラれたとか、そういうイベントがあったらさ、多少なりとも気まずくなるんじゃねえの。いや、分からんけど。なのに普通に同じバイト先に来るし」
「それはあの――まあ、色々あって。俺が頼み込んでるんで。恋人としてじゃなくとも傍に居させて欲しいって」
「そう。その代わりに青崎くんには俺の趣味に付き合ってもらってて……つまりは、ギブアンドテイク?」
「はい! ウィンウィンです!」
満面の笑みを浮かべて青崎が言う。
自分で言うのも何だが、好意を利用されている自覚があるのにこんなに幸福そうな顔をするなんて、やはり一風変わった子だ。当真はそんなことを思った。
こうして一切脈を感じさせないままに、面倒かつ奇特な趣味へと付き合わせていればいつかは我に返って冷めるだろうと思っていたのだが、今の所そんな気配は微塵も感じられない。しかしずっと報われないままというのは可哀想なので、一刻も早く本来の運命の相手と出会ってほしいものだ。
「ふう。ごちそうさまでした……」
「新しいの、美味しかったね」
「ね」
「俺会計しておくよ。あとで精算しよ」
「おう」
当真はレジの前に立ち、財布からお金を取り出して代金を支払った。
すると後ろから軽い靴の音が聞こえてくる。少し首を回して後ろを向くと、そこには南が立っていた。
「どしたの? 南ちゃん」
「なんかね」
「うん」
「当真くんと話したくなって」
「さっきも話してたのに?」
「二人きりで」
当真は目を丸くした。そして少し屈んで彼女と目の高さを合わせ、口の傍に手を置いて内緒話の姿勢を作る。
「大丈夫? 瀬古くんがヤキモチ妬かない? 勿論妬かせたいなら喜んでご協力いたしますが……」
「だいじょぶ! 瀬古くん、当真くんには何でか全然不安な気持ちにならないって前に言ってたから」
「それはそれでどうなんだ……」
当真は口を微妙に曲げた。どうやら自分は完全に安全位置として見なされているらしい。彼は大事な友達であるが、やはり当て馬としての相性はあまり良くないようだ。
「……それで、どしたの?」
「うん。えっとね……」
「うん」
店の扉を開ける。外に出る。空はまだ明るい。随分と陽が落ちるのが遅くなったものだ。
辺りを見回す。青崎と瀬古は少し離れた所に置かれたベンチに腰かけて話している。
少し俯きがちになって、南は柔らかい声を一つ一つ丁寧に地面へと落とした。
「……当真くんが、イトくんを連れて来てくれて良かったなあって」
当真は少々足を止め、彼女の横顔を遠慮がちに見る。そして空を見上げて、腕を自分の胸に当て、腰を反らして力強く笑った。
「そりゃあ、何たってウチの自慢の二号だからね!」
「ニゴウ?」
「つまり、恋する人を応援する会のメンバーってこと」
青崎が来てくれて本当に良かった。当真一人の力だけでは、この円満で幸福な結末を引き寄せることはできなかっただろう。その点やはり、彼は当て馬としての高いポテンシャルを秘めた逸材と言える。多少おっちょこちょいな所はあるが。
すると彼女はしばらく目を伏せてから、腕を背中側に回して当真の顔を見つめた。
「……それだけじゃなくてね」
「うん?」
「うん。勿論、ずっと応援してくれてたことも嬉しい。でも、それだけじゃないの」
「?」
当真は首を傾げた。彼女が次に口に出す言葉が上手く予測できなかったからだ。普段であれば相手が次に何を言うかなんて、すぐに先回りして読み取ることができるのに。
「……わたしたち」
「うん」
「と、友達じゃない?」
「――」
「あ、あれ? 違った?」
「ううん! 友達!」
当真はすぐに片手を挙げて叫んだ。その返答を聞いて彼女は胸を撫で下ろし、それから自分の髪の先を指に巻き付ける。
「でもね。その……当真くんって、大事な時には一歩引く所があるでしょ。凄く親身に相談に乗ってくれるけど、自分のことはあんまり話さないというか」
「……」
「もっ、勿論ね? それがダメってわけじゃないの。嫌にならない距離感、みたいなのを掴むのが凄く上手だなあって思うし。そういう所、すごく好きよ」
「……友達として?」
「うん。友達として」
そう言って軽く笑ってから、彼女は眉を下げて空を見上げた。
「だから、君がイトくんを連れてきてくれて嬉しかった」
彼女が目を細めて言う。
「当真くんのこと、凄くよく見てる人だから。そういう人を当真くんが、連れてきてくれたことが嬉しいの」
当真は黙って瞬きを繰り返した。そうして口を開けて、言葉を胸の中で練り合わせ、けれども整頓された文章を口にすることができず、ただ薄っぺらく歯を見せて笑った。
「……なにそれー……」
本当はもっと上手く何か言えたはずなのに、それ以上言葉が出てこなかった。喉に空気が詰まって、肺が膨らんで破裂しそうだったのだ。
自分の立っている場所だけが、柔らかくぬかるんでいるような心地になった。
