当真が放課後の教室で鞄の中に荷物を詰め込んでいると、窓の外から青崎に声を掛けられた。
 振り向くと、両手で鞄を抱えた青崎が脇目もふらずに一直線に駆け寄ってくる。彼は目をきらきらと輝かせて、当真に向かって透明な尻尾を振った。
「当真先輩、この後ってヒマですか」
「え、用事あるけど」
「良かった。お供します」
「ビックリした。そんな返しされることあるんだ」
 彼は文脈というものを知らないのか。どう考えても今何かしらのお誘いを断っただろう。どうしてこの流れで付いてくることになるのだ。
「ダメですか? しょんぼり……」
「駄目っていうか。付いてきても何も面白くないと思うけど」
「絶対に面白いと思います! つかもう面白いです!」
「その熱意はどこからやってくるの……?」
 当真は腕を組んで悩み、それから顔を上げて彼に尋ねた。
「まあ、そこまで言うなら良いけど……青崎くんって力持ち?」
「何でも持ち上げます!」
「俺の荷物持ちしてくれる?」
「喜んでします!」
「なら一緒に行こうか」
 そう言うと、青崎の顔が一等星のごとく光り輝き始めた。当真は思わず腕で目元を覆ってしまう。眩しい。イケメンの満面の笑みは目に優しくない。
 当真が鞄の紐を肩にかけて教室を後にすると、青崎は雛鳥のようにその後ろをついて歩いてきた。
「どこ行くんですか? 遊園地ですか?」
「学校終わりにそれはキツいよ」
 後ろを向いて彼の表情を確認してみる。
 あからさまにワクワクしている顔だ。「そんなに大層なものじゃないのに」と、当真は目を半分瞑りながら思った。
「普通にウチの近所のスーパーだよ」
「スーパー?」
「ん。そう。俺んちの冷蔵庫今スカスカでさぁ。ほら、最近毎日凄い量の弁当作ってたから」
 食べ盛りの男子高校生の昼飯を複数人分作るとなれば、それはもう物凄い量の食材を消費するものだ。それが毎日続けば当然、買い込んでいた食料はみるみるうちに減っていく。
 すると青崎はぼうっとした顔をして、あまりピンと来ていない様子で目を瞬かせた。
「……前から思ってたんですけど」
「うん?」
「当真先輩って、家庭的ですよね!」
 敬畏のこもった眩い視線が注がれる。当真は口を開け、右斜め上を見て、輪郭線のぼやけた声を出した。
「あー……そう?」
「俺なんかそういうの、家族にやってもらってばっかで……」
「まあ、向き不向きもあるからね」
 自立した立派な大人に向けるような尊敬の眼差しは、当真にとってあまり馴染み深いものではなかった。要するに居たたまれない。背筋が浮くような心地になる。
 乾いた笑みを浮かべた当真は、そこで顔を上げて足を止めた。
「あ。ついたよ」
「ここが……」
 すると青崎の顔が固まる。当真は首を傾げた。
「入らないの?」
「あ、は、入ります!」
 当真は入り口付近に置かれてあるカートを取って、見慣れたスーパーの中を歩いていく。
 その後ろを必死について行きながら、青崎は心の内側で声には出さずにこう呟いていた。
「こ、高級スーパーだ……!」
 いつも見慣れているスーパーとは外装からしてもう違う。どう見ても富裕層御用達の高級店だ。
 そんな中を当真は浅い海を泳ぐように颯爽と進んで行く。そして時々思い出したように立ち止まり、首を捻り、商品を手に取って青いカゴの中に入れていくのだ。
 青崎は何気なく当真の手に取ったものを見て、そして顔を真冬の空のような色に染め上げた。
「たっ、卵が一パック600円……!?」
「ええと、あとは鶏肉……こっちで良いかな」
「とっ、トウマっ、当真先輩ッ!」
「ん?」
「こっち、コッチの安い方にしましょう! いや全然安くねぇけど!」
 身体から変な汗が滲み出るのを感じつつ、青崎は並んでいる品の中で一番安いものを手に取った。当真が何の迷いもなく最も高く最も量の少ないものを大量にカゴへ突っ込んだからだ。これは青崎にとってカルチャーショックにも等しい行いだった。何故なら青崎は幼い頃から母親に「いい? イトくん。これはね、どれだけ安いものをお得に買えるかの勝負なの。ここではこのお徳用パックを買うのが正解なのよ」と教えられて育ってきたからだ。
 しかし当真は眉を下げ、そして不思議そうに言う。
「え。でも高い方が美味しいでしょ?」
「お、おおお……!」
 その笑顔には何の邪気もない。心の底からそれが正しいと思っている時の顔だった。
 惚れた男の笑みに胸を高鳴らせると共に、青崎は当真の肩に優しく両手を置く。それに当真は目を丸くし、青崎は背を曲げて彼と目線を合わせた。
「当真先輩」
「うん?」
「俺の心臓がもたねぇので、せめてこっちの二番目に安いやつにしませんか」
「そこまで言うなら」
 当真は首を傾げてから、素直に渡された物をカゴに入れる。
 青崎は一旦胸を撫で下ろし、そして確信した。
 当真先輩は、ものすごいお金持ちである。
「俺、必ず当真先輩に釣り合う男になるんで……!」
「急に何?」
「待っててください。俺は、いつか、億万長者になります……!」
「そうなんだ? 頑張ってね」
「はい!」


***


 いつもの空き教室で、当真はソファに座って腕を伸ばしながら、購買で買ってきたメロンパンを頬張っている青崎に何気なく喋りかけた。
「そういえばさ」
「んぐ、ぐ、はいっ」
「青崎くんって、バイトとかやってるの?」
 彼は口の中に詰め込んでいたものを急いで飲み込んだのち、顔を上げて目を丸くして、背筋を規則正しく伸ばした。
「やってません!!」
「わあ、潔い……」
「やった方が良いのかなって、思う気持ちは、あります……」
「そうなんだ」
「でも俺、実は……人と話すのが苦手で」
 彼は墓場まで持っていくつもりだったとでも言わんばかりの深刻な表情でそう打ち明けた。それに対して当真は口を閉じたまま、「うん、知ってる」と声に出さずに思う。
 彼が口下手であることくらい見ていれば分かる。その理由にも何となく想像がつく。当真は彼のことをじっと見つめて、「そりゃこの見た目だとなァ~~」と考えた。美人には美人の苦労があるのだろう。少なくとも平熱の対人経験を積むのはちょっと難しそうだ。
「だから、今までその、そういう人と関わるイベントとか……避けてきた、みたいな所があって」
「いっぱい声掛けられそうだもんねえ」
「俺が居ると変な揉め事? とか起こることも多くて」
「ウーン。何となく想像はつく……」
「でも当真先輩を見てると、「俺ももっと上手く話せるようになりたい」って思います!」
「おお、ありがとう?」
「だから、ちょっとやってみたいです。バイト」
「ならウチに来る?」
 当真は笑って言った。そんな突然の提案を受けて、彼のガラス玉のように透き通った目がころりと音を立てて丸くなる。
「ウチって」
「俺がバイトしてる所……あ、チェーン店のドーナツ屋さんなんだけど。あの駅前にあるとこ。分かる?」
「あ、は、はい」
「そこで一緒に働いてた先輩が一気に卒業しちゃって。今人手がちょっと足りないんだよね」
「当真先輩、バイトしてたんですね」
「社会勉強の一環だよん」
「しっかりしている……まばゆい……」
 青崎は寝起きにカーテンを開けた時のように目を細めた。そんな彼の顔をじっと見つめ、当真は口を手帳で隠しつつ言う。
「俺からの紹介って形なら、そんなに厳しい面接もないだろうし。知り合いがいるとちょっとは働きやすいと思うんだけど。どう?」
「行きますッ!」
「即断即決だ……」
「何があっても行きます! たとえ山で遭難してる最中だったとしても!」
「それは普通に助けを呼びなね」
 当真は微妙な表情を浮かべながら答えた。それから前のめりになって、招き猫のように右手を軽く振る。そして首を傾げながら近づいてきた青崎の耳に口を寄せる。
「実はここだけの話」
「はい」
「そのバイト先に、君が良い当て馬になりそうな二人組が居るんだ」
「先輩……」
「うん」
「そっちが本命なんですね」
「そだよん」
 当真は平然と頷いた。
 当たり前だろう。何せ当真の行動原理は全てがそれに基づいて形作られているのだから。
 青崎は腑に落ちた様子で目を瞬かせ、それから勇み立った声で「がんばります!」と叫んだ。


***


 バイト先の休憩室で、当真は連れてきた青崎に笑顔で手のひらを向けて言った。
「こちらが俺の後輩の青崎くんです!」
「あ。どうも……青崎イトです」
 朗らかな笑みを浮かべる当真とは対照的に、青崎の表情は針のように鋭く尖っていた。恐らくは緊張しているのだろう。当真には分かる。彼の眉は普段よりもほんの僅かに中央に寄っていて、それは彼の心の緊迫の表れなのだと。
 しかし美人が真顔になるとこうも圧迫感が生まれるものなのか。当真はちょっと感心してしまった。天まで届くような長い睫毛が肌に影を落としていて、まるで彼一人だけが綺麗なものしか存在しない異世界からやって来たのかと思われるほどだった。
 彼と対面した同僚二人も、その顔の威圧感に少し身を引いてしまっている。彼を目の前にすれば誰だってそうなるだろう。
 けれどもこれから彼らには打ち解けてもらわなければ困る。なので当真は慌てて彼の背中を軽く叩き、自分の口角を指で引っ張って明るく微笑んだ。
「ほら、青崎くん! 笑顔笑顔!」
「あっ、は、はい!」
 青崎はそこでやっと思い出したかのように頬を緩めた。彼の顔がぎこちなく歪めば、彼らの張り詰めた空気も少々綻んでいく。
 当真は胸を撫で下ろした。そして次に、目の前に座る少女へと視線を向ける。
「……で、こっちの彼女が月野南(つきのみなみ)ちゃん!」
「み、南です! よろしくね!」
「どうも……」
 遠慮がちに青崎が頭を下げる。
 長い髪をポニーテールにした、優しく穏やかな顔立ちの少女は、青崎と同じように丁寧にお辞儀をした。
「分からないことがあれば何でも聞いてね!」
「あ、あざす……」
「えっと、それで、隣の彼は瀬古くんっていうの」
瀬古悟志(せこさとし)です。どーも」
 少し無愛想な、けれども整った顔立ちの少年が簡潔に自己紹介をする。
 当真は人懐っこそうに目を吊り上げて、彼ら二人の前で陽気にピースした。
「南ちゃんと瀬古くんは同じ高校のクラスメイトなんだよ!」
「え。そうなんですか」
「そっ、そうなの! 偶然バイト先が同じになって。ねっ」
「そうっすね。当真たちも同じ学校なん?」
「うんそう。青崎くんが一年生」
 当真が青崎へ視線を送ると、彼は僅かに顎を引いて頷いた。
 そんな具合にしばらく雑談を続けていると、そこで瀬古が立ち上がった。彼は腕につけた時計を見て、部屋の外を軽く指さす。
「……んじゃオレ、バイト始まるまでにちょっと飲み物買ってくるわ」
「あっ。わたしも一緒に行く!」
「んや、一人で十分よ。欲しいもんあるなら買ってくるし。何かいる?」
「あ。じゃあ、カフェオレ……」
「おー。了解」
 瀬古は緩やかに片手を振って、そのまま一人で部屋を出て行ってしまった。彼は非常にマイペースな男なのだ。
 同行を拒否されて行く宛を見失ってしまった南は、中途半端に立ち上がった姿勢のまま重石をのせられたように項垂れる。明らかに悪くなった顔色に、流石の青崎も彼女が落ち込んでいることを察したようだった。
「あ、あの。えっと……」
 青崎が何と声を掛けるべきか迷っていると、そこで南は勢いよく顔を上げて片手を掲げた。
「大丈夫! 分かってるの!」
「ええと……?」
「わたしに脈はないってことくらい!」
 彼女は潔く言い切った。
 そう。彼女、月野南は同じクラスの瀬古に片思いをし続けているのだ。三年のクラス替え初日で隣の席になった時に一目惚れして、それからずっと健気な恋心を抱き続けている。
 そうしてどうにか仲を深められないかと悩んでいた所、偶然彼とバイト先が同じになって、これは距離を縮めるチャンスだと意気込んでいたのだが。
「ぜんっぜん、振り向いてもらえないのぉ……!」
 瀬古は鈍感を絵に描いたような男であり、南の好意にこれっぽっちも気が付いてくれなかった。どれだけ積極的にアピールしても暖簾に腕押し、先程のように気づけばふらりとどこかへ消えてしまう。
 南は頭を抱え、机に突っ伏してしくしくと泣いた。
「瀬古くん、多分私に興味ないんだと思う……」
「いやいや! そんなことはないと思うけどナ~」
「当真くんにも色々相談乗ってもらったのに、ごめんねぇ……」
 当真の心にグサッと刃物が刺さる。これは当て馬としてのプライドが殺される音だ。鈍くぼんやりした所のある瀬古には、当真の当て馬ムーブが今一つ刺さらないのであった。
 すると青崎はやけに真剣な表情を浮かべて、南に向かって深々と頷いた。
「南さん……分かります!」
「青崎くん……!?」
「好きな人に振り向いてもらえない、その気持ち!」
「青崎くんでもそんなことがあるの……!?」
「あります! というか現在進行形でフラれてます!」
「青崎くんが!?」
「隣の人に!」
「当真くんに!?」
「でも諦めるつもりはありません!」
「青崎くん……!」
「諦めない限り、俺の恋は終わりません!」
「そう、そうよね!諦めない限り、まだ終わっていないのよね……!」
「はい!」
「青崎くん……いいえ、イトくん!」
「はい!」
「頑張りましょう、お互いに!」
「はいっ!」
 二人は光のような早さで意気投合し、互いに硬く右手を握り合った。その光景を当真は若干微妙な気持ちになって見つめる。
 口下手な青崎がこんなに自分以外の前で饒舌に喋っている所は初めて見た。恐らく彼女の境遇に共感できるものがあったのだろう。真隣で〝諦めない〟宣言をされて何とも言えない気分になったものの、しかし二人の距離が想定より早く縮まりそうなのは良いことだ。
 当真は青崎の肩を掴み、彼の身体を少し前に押し出した。
「……南ちゃん」
「? なあに」
「大丈夫。ウチの青崎くんに任せて」
「……? うん」
 当真が青崎の背中を叩くと、彼女は目を丸くして、よく分かっていない顔でぼんやりと頷いた。当真は白く尖った犬歯を見せて、彼女に向かって親指を立ててみせる。
 すると隣の部屋から彼女を呼ぶ店長の声が聞こえ、慌てて彼女は立ち上がった。
「はーい! ……呼ばれたから行ってくるね!」
「うん。また後でね」
 当真はにこやかに小さく手を振った。
 そうして彼女の背中を見送ってから、隣で端座している青崎に視線を送る。彼は顔に活気を張り巡らせて、銀河のような瞳を普段よりもいっそう眩しく輝かせていた。
「……当真先輩、分かりました。俺も当真先輩みたいに当て馬になって、南さんの恋路をサポートすればいいんですね?」
 エネルギーに満ち溢れた彼の顔はいつにも増して美しい。無気力に目を伏せている時ですら余裕で国一つ傾けられるだろうかんばせに力強い光が宿れば、それはもう当然直視できないような輝きを放ち始める。
 しかしそんな青崎に対し、当真は顔を紅潮させることも照れて目を逸らすこともなく、年季の入った現場監督のような目をして言った。
「青崎くん」
「はい! 俺は何をすればいいですか?」
「君はね、何もしない」
「何もしない……!?」
 青崎の顔がショックで青く染まり、彼の均等の取れた身体が傾く。彼は飼い主に捨てられたような顔をして目を潤ませ、当真の服の裾を弱弱しく両手で掴んだ。
「な、なんでですか!? 俺が頼りないからですか……!?」
「頼りないのはそうだけど、それだけじゃないよ」
「た、頼りないのは、そうなんだ……」
「俺思うんだけどね。君はね、ただ立ってるだけで完成されちゃってるんだ」
「……?」
「つまりは俺みたいに小細工する必要がないんだよ。まあ俺は好きでやってるから良いんだけど」
 そう言えば、彼の顔が今一つ釈然としないと言いたげに歪む。そんな彼の幅広い肩に、当真はスキップするような気軽さで右手をのせた。
「大丈夫。俺の目に狂いはない」
 自信満々に八重歯を見せてそう言うと、青崎は緩やかな瞬きを繰り返したのち、ぱっと顔を明るくして、「はいっ! 当真先輩が言うなら!」と素直に頷いて言った。