荒田蓮二は、佐山優の幼馴染だ。
元々家が近所にあって、小学校の頃はよく互いの家を行き来して遊んだものだ。学校でもずっと一緒で、クラスが離れればわざわざ休み時間の度に互いの席まで駆けつけていた。
けれども中学校に入学して、優が生徒会に入っていっそう勉学に励むようになって――それとは反対の道をわざわざ選んで歩くように、彼は派手な友人ばかりを連れ歩くようになった。平気で校則を破るようになったし、授業をサボってどこかに遊びに行くことも増えてしまった。いつの間にか髪を明るい金色に染めていて、耳には目を刺すような色のピアスを付けるようになった。
寂しかったし、嫌だった。
そりゃあ彼にだって自由はある。彼の人生に自分が口出しする権利はない。でも自分が整えられた道を丁寧に歩くほどに、蓮二との距離が開いていく一方で、それが優には耐えられなかった。
だから彼の素行に口を挟むようになった。一言二言忠告して、それで彼が元のように素朴に戻ってくれればいいのにと期待した。
けれどもどれだけ注意をしても蓮二は反発するばかりで、次第に顔を合わせる度に口喧嘩するような仲になってしまった。
「テメェは昔っからお節介なんだよ」
そう言われたことだってある。自分の気持ちは一方通行なもので、「もう一度昔みたいに仲良く喋りたい」という思いは、彼にとっては重たいだけの荷物なのかもしれなかった。
そんな彼には、最近仲の良い相手がいる。
「おーいっ! レンジくーんっ!」
「ゲッ……また来やがった」
廊下を歩いていた蓮二の下へ、明るい茶髪の男が駆け寄ってくる。その男は蓮二よりも小柄で、記憶に残るほどの鮮やかな特徴があるわけではなかったが、しかし妙に愛嬌のある快活な人だった。
人懐こい野良猫のような、とでも言えばいいのか。
偶然近くを通りかかっていた優は、身体を壁の後ろに隠して息を殺した。別に身を潜める必要はないのだが、何故か居たたまれない気分になって飛び出すことを躊躇ってしまう。
そんなふうに一人息苦しさを感じる優を他所に、彼は積極的に蓮二へ溌剌とした声を掛けていた。
「ね、レンジくんはこれから暇?」
「暇じゃねーよ。つかついてくんな」
「俺お弁当作ってきたんだ! 一緒に食べないっ?」
「ついてくんなっつってんだろ!」
「レンジくんの分も作ってきたんだよ!」
「ダーッ。話聞けよ!」
「まあまあ、良いから良いから」
怒鳴る蓮二の迫力を物ともせず、彼は太陽のような笑顔を浮かべて蓮二の腕を引いた。
見ているだけで心臓が嫌な音を立てる。そんなに近づいて大丈夫だろうか。蓮二は彼を邪険に扱わないだろうか。優はそんな具合に彼の身を案じた。蓮二には短気で荒っぽい所があるから、あの植物の茎のようにひょろりとした少年が跳ね飛ばされてしまわないか心配だ。
けれども彼はあれよあれよという間に蓮二を教室の中まで引っ張り込んで、猛獣使いのように鮮やかな手つきで蓮二を椅子に座らせてしまった。そして鞄の中から向日葵柄の包みをつまみ出して、布の結び目をほどき、中から弁当箱を取り出して微笑む。
「じゃーんっ。これが俺の手作り弁当です!」
「いらねーよンなもん……」
「そう言わずにほら! 一口だけでも!」
彼が手を合わせて顔を斜めに傾ける。
反抗しても無駄だと諦めたのか、蓮二は彼から箸を受け取って、ため息と共に弁当の具を持ち上げ口に運ぶ。
するとその瞬間、蓮二は電流を流されたのかと思うほど激しく目を開いた。
「……!」
「ね? どう? 美味しい?」
「……別に」
ぶっきらぼうな態度で蓮二は答えた。
が、どう見てもその顔には「美味い」の三文字が貼り付けられている。長い間近くで蓮二を見てきた優には分かる。あの顔はちょっとした感動すら覚えている時の表情だ。
「そう? 良かったぁ。口に合って」
それを茶髪の彼も理解しているのだろう。彼は花が開くように笑って、嬉しそうに目を細めた。
「俺こう見えて料理得意なんだよ!」
「そーかよ」
「レンジくんは俺のことを助けてくれた恩人だからね! どんどん食べていいよっ!」
「うぜー……」
優の胸が針で刺されたように痛む。
楽しげに談笑する二人を見て、優はふいにこう思った。
あれ。なんだ。
断らないんだ。と。
「……いやいや!」
そうしてすぐに我に返って、頭の中から嫌な匂いのする靄を追い払うように首を振った。
一体自分は何を考えているのだろう。別に蓮二が彼の作った弁当を美味しそうに食べていた所で、自分が後ろ向きな気分になる理由はない。
それどころか、むしろ良いじゃないかとすら思う。蓮二の知り合いは、そりゃあ人を見た目で判断するのは良くないことだと分かっているけれど――ルールや校則を気にしない派手な身なりの人たちが多くて、「本当にこのままで大丈夫なのか」と過保護な母親のように気を揉むことが多々あった。彼が悪い仲間とつるみ始めて、非行に走ったりでもしたらどうしよう。そんなふうに冷や汗をかいていたものだ。
しかしあの男の子は見るからに純粋そうで、明るくて、親しみやすくて、優しそうだった。一緒に居ると手を繋いで、明るい方へと引っ張っていってくれそうだ。
――僕も、あんなふうに素直になれたらなあ。
顔を見る度に嫌なことを言ってばかりで、きっと自分と居たって楽しいことなんか何一つとしてない。
蓮二もきっと辟易しているはずだ。考えてみれば当たり前のことだった。誰だって細かな注意と嫌味ばかり言ってくる相手よりも、明るく楽しい話をしてくれる人と喋りたいだろう。そう、例えばあの無邪気で爽やかな彼のように。
だがそんなふうに思い悩んだ所で、自分を変えられる自信はどこにもない。きっと次もまた彼の顔を見れば、いつものように可愛げの欠片もない小言を投げかけてしまうはずだ。彼の素行の悪さを几帳面に指摘しては、また彼の心から一歩遠ざかってしまう。そんな予感があった。
「はあ……」
そうして優が遠くから見つめている間に、次第に彼らの距離は縮まっていった。よく一緒にお昼を食べているし、放課後に連れ添ってどこかへ歩いていく姿も見かけた。
蓮二はどう思っているのか分からないけれど――少なくともあの茶髪の彼の方は、きっと蓮二を憎からず思っているのだろう。そうでなければわざわざ毎日手作り弁当なんて持ってこない。彼は「蓮二に助けられた」と言っていて、それから蓮二に好意を抱くようになったらしかった。
彼は蓮二の良い所をちゃんと分かっている。
蓮二が本当は優しい人であることを知っている。それは優にとっても嬉しいことのはずだった。乱暴者と敬遠されがちな幼馴染が、実は優しく実直であるということを皆に分かってほしかった。彼が素敵な人間であるということを知らしめたかった。だからこれで、自分の願いは叶ったはずなのだ。
なのにどうしてだろう。何故こんなに胸が痛いのだろうか。何も悪いことなんて起こっていないはずなのに、沢山の小さく細い針で心臓の奥底をつつかれているような心地になるのは何故だろう。
そんなある日、優は偶然聞いてしまった。
「あ、あの。レンジくん」
校舎裏の、静かな風が吹く夕焼けの下で、件の彼が懸命に胸の奥から絞り出す声を。
「――俺、レンジくんのことが好き」
思わず口元を押さえる。何とか声を漏らさないように両手で唇を塞ぐ。
校舎の影に身を隠し、優は必死で息を詰めた。盗み聞きなんて良くないことだ。頭ではそう分かっているのに、どうしてか足が地面から離れない。身体全体が一つの巨大な氷の塊になったように少しも動けなかった。
「あなたに助けてもらったあの日からずっと、俺はレンジくんのことが好きですっ」
震えた声で彼が言う。
立ち聞きしているだけの優には、彼がどんな顔をしているのか分からない。しかしその声からは思わず抱きしめたくなるような健気さが滲んでいて、聞いているだけでも彼が顔を真っ赤にして俯いている光景が思い浮かんだ。
「お、俺と、付き合ってくれませんか!」
優は耳を塞いだ。
これ以上聞きたくなかったからだ。自分とは違って素直で眩しい彼の声を。そしてそれ以上に、その告白に対する蓮二の返答を。
だから優は少しも足音を立てないように気を配って、突き飛ばされたようにその場から立ち去った。
「う、あぁ……!」
気づけば優の両目からは透明な雫が伝っていた。
自分は今、泣いているのだ。そのことに気が付いて、優は走りながらでも袖で涙を拭おうとする。しかし何度目を擦っても、大粒の雨のような涙が止まることはない。
優はひとけのない階段の踊り場に辿り着いて、そのまま壁にもたれて座り込んだ。
「あ、ああぁ……」
好きだった。
蓮二のことが好きだった。今になってそのことに気が付いた。だから蓮二と彼の距離が縮まるほどに胸が痛んでいたのだと、やっと心の底から理解することができた。
でももう遅い。今頃蓮二は彼の告白を受け入れているはずだ。あんなに無邪気に慕われれば、きっと誰だって容易く絆されるに違いない。彼はあの愛嬌と純真さで蓮二の心を溶かしたのだ。
もっと早く素直になれば良かった。「自分にはできない」なんて諦めなければ良かった。自分の本心を偽ることなく口にしていれば良かった。厄介な小言なんかで武装せずに、ありのままの言葉だけを渡すべきだった。そうすれば蓮二の心が遠ざかることはなく、今もかつてのように手を繋いで隣を歩けていたかもしれないのに。
しかしどれほど後悔を積み重ねようとも、それが優の今を変えることはない。蓮二の隣に立つのはもう自分ではない。その苦しい現実を受け入れなければならない。
「う、うぁぁ……!」
だけど、ああ、どうすればいい。何をすればこの胸に刺さった悔悟の念を取り除くことができるのか。
苦しくて息が出来ない。恋をしていたと気が付いたその瞬間に、優の恋は終わってしまった。消費期限の短い春だった。けれどもその終幕の全てが自業自得で形作られているから、こうして薄暗い場所で涙を拭うことしかできない。
優は鼻を啜って、涙で汚れた眼鏡を外し、赤く腫れそうなほど強く瞼を擦った。そして届かないことを知っていながら、好きだった幼馴染の名前を呼ぶ。
今更縋り付くなんてみっともない。
そんなことは分かっているのに。
「れんじっ……!」
「――ンだよ」
聞こえるはずのない声が聞こえた。
弾かれたように上を向く。するとそこには、よく見慣れた華々しい顔があった。
「……え? れ、蓮二?」
「テメェが呼んだんだろうがよ」
そう言って乱暴に頭の後ろを掻く姿は、どう見てもいつも通りの蓮二そのものだ。優は何度も強く目を閉じた。しかしどれだけ瞬きしようとも彼の姿が泡のように消えることはない。
「れ、蓮二が、何でここに」
涙で濡れた頬を腕で隠しながら、優は濡れた生温い声でそう尋ねた。
「そうだよ。何でここにいるんだ。あの子はどうしたんだよ」
「あの子って」
「さ、さっき君に告白してた子だよ!」
優は鼻を啜りながら言う。
「……こ、恋人、なんだろう」
言いたくない。でも言わなければ前に進めない。そんな予感があった。きちんと現実を直視して、裁かれて、それでやっと自分はこの気持ちに見切りをつけることができるのだと。
だから言った。恋人には優しくしろよ。付き合ったばかりの相手を置き去りにするなんて可哀想じゃないか、と。
「は?」
「え?」
「何の話だ?」
しかし蓮二は眉を寄せ、意味の分からないものを見る時の目つきで優を睨みつけた。そして壁に両手をつき、膝を抱えて蹲る優を静かに見下ろす。
「――恋人じゃねえけど」
「……へ?」
「つかフったし」
「……。えっ?」
優は目を丸くした。蓮二は居心地の悪そうな顔で首の後ろを摩った。
「こっ……断ったのか? あの告白を?」
「そうだけど」
「な、何で? あんなにいい子そうだったのに」
「……確かに、悪いヤツじゃなかったけど」
優は驚いた。てっきり二人は恋人同士になったのだと思い込んでいたのだが、どうやらそういうわけではないらしい。驚愕が喉に詰まって言葉を失っていると、彼は優と目の高さを合わせるために膝を折り曲げた。
そうして彼は、優が立ち去った後のことの顛末を、彼にしては柔らかい声で優に語り聞かせたのだった。
「――悪ィけど、ごめん」
蓮二はそう言って彼の告白を断った。目を伏せて、下を向いて、出来る限り彼の顔を見ないようにする。顔を上げて、それで泣き顔でも目にしてしまったら居たたまれないからだ。
普段の態度から薄々好かれていることは察していたが、蓮二はその気持ちに応えることができなかった。
「……そっか」
しかし彼の返事は、蓮二が思っていたよりも明るい色をしていた。
「そっか」
彼は再度同じ言葉を繰り返し、それから背を曲げて蓮二の顔を覗き込んだ。そして彼は焦げ茶の瞳を細めながら言う。
「それって、佐山さんが居るから?」
「は?」
思わず口から素っ頓狂な声が飛び出した。どうしてそこでその名前が出てくるのか。
「アイツに何の関係があんだよ」
「あるよ。関係」
「何が……」
「だってレンジくん、いっつも佐山さんのことばっかり見てるでしょ?」
「なッ」
「ほら、図星」
人差し指を鼻の先に突き付けられる。彼は唇の隙間から牙のように尖った八重歯を見せて笑った。
「レンジくん、俺と居てもずっと佐山さんのこと目で追ってるでしょ。俺、そういうの気づきやすいタイプなんだぁ」
「な……」
彼に指摘されて、そこで蓮二は自覚する。確かに自分はいつも彼を目で追いかけていて、彼の姿をずっと探していた。
思えば昔からそうだった。元々頭の良かった優は、中学に入ってから一段と勉強に打ち込むようになって、その分蓮二と遊ぶ時間は減っていった。彼は本ばかり読んで、蓮二と目を合わせてくれなくなったのだ。
けれども蓮二が少しでも規則を破ると、真面目な彼は顔を赤くして怒ってくれた。怒っている間、彼は蓮二のことだけを見てくれた。
それが嬉しかった。
だから蓮二は彼の目に留まるようなことばかり繰り返すようになったのだ。
気を引きたかった。
それはきっと、優に構ってほしかったからだった。
「……俺は」
好きだったのか。優のことが。
気づいた途端に波のような羞恥心が襲い掛かってくる。何せ格好が悪すぎたからだ。好きな子に見て欲しいから意地の悪い態度ばかり取っていただなんて、まるで小学生の天邪鬼だ。
「やっと気が付いたんだ」
困ったような顔をして彼が言う。蓮二は目元を押さえて軽く俯いた。
「早く追いかけた方が良いんじゃない?」
「あ?」
「さっき。そこに居たの。佐山くんが」
「は」
彼は真っ直ぐに蓮二の後ろを指さした。
蓮二は慌てて後ろへ振り向く。彼の指さす方向には何もない。だが彼が嘘をついているようにも見えなかった。
「すぐに走ってどこかに行っちゃったけど」
「どこかって……」
「さあ。それは分からない。……もしかすると、俺たちの話を聞いちゃったからかもね」
「な」
「変な誤解、してないといいね」
蓮二は硬く拳を握りしめた。そして勢いよく顔を上げて、彼を真剣に見つめる。
すると彼はまるでそうなることを初めから知っていたかのように、物分かりよくあっさりと頷いた。
「……頑張って。応援してる!」
彼は明るく笑って手を振った。
こうして蓮二は彼に背中を押され、優の元へと駆けつけた次第だ。
「そしたら、テメェが泣いてるから……」
「なっ、泣いてなんかない!」
「泣いてたじゃねえか」
「ただの見間違えだ!」
無理のある言い訳を重ねながら、優は腕で顔を隠して立ち上がった。頭を左右に振って、慌てて眼鏡をかけ直す。
服の端を掴んで唇を噛み、それから優は彼の肩を軽く小突いた。
「だっ、大体……」
「おう」
「それで、本当に、こっちに来るなんて、バカじゃないのか」
「……おう」
「酷い、ヤツだ。お前は……」
優だって先程疑似的な失恋の味を体験したばかりだ。だからフラれた時の胸の痛みは十二分に理解できる。
勇気を振り絞って告白して、それで断られた彼の心はきっと傷ついていることだろう。どれだけ表面上は明るく取り繕えていたとしても、だ。そんな彼を言われるがまま一人にしておくだなんて、何て酷い男なんだろうと思う。
けれども一番酷いのは、それでもこうして蓮二が駆けつけてくれたことを「嬉しい」と思ってしまう自分だ。
喜んでしまった。泣いてしまった。「来てくれて良かった」と思ってしまった。
最低だ、と分かっているのに、やっぱり涙が止まらない。
「やっぱり泣いてんじゃねえか」
「……ないてない゙……」
俯いて鼻を啜っていると、蓮二は呆れたようにため息をついてから、優の頭をそっと撫でて、自分の肩へと押し付けた。
涙が彼の服に滲む。蓮二は頭を掻いて顔を背けた。優は彼の服の袖を掴み、水っぽくなった声で言った。
「蓮二。あ、あのね」
「おう」
「僕は――」
***
「だから、さっきも同じ所でミスをしていただろう! 何でまた同じ問題で間違えてるんだ! 教えたことを全て忘れたのか!?」
「しゃあねーだろ分ッかんねェんだから! 大体なんだよ動く点って! 何で動いてんだよ点ごときがよォ!」
「一々そんなことに怒っていたらキリがないだろ!」
放課後の教室の中央には、聞き慣れた口論を繰り広げる二人の姿があった。
二人は机を仲睦まじそうにくっつけて、教科書を広げてああでもないこうでもないと言い合いを続けている。
そんな教室の扉の隙間から、当真と青崎は静かに顔を覗かせていた。
「当真先輩。あの二人って……」
「うん。上手く行ったみたい」
二人は同じ大学を目指すことになったらしい。しかし学力に開きがあるため、こうして毎日授業が終わると佐山が勉強を教えているそうだ。
サボり癖のあった荒田はまともに授業を受けておらず、佐山に追いつくためにはかなりの苦労を要するようだが、それでも以前より何だか二人は楽しそうだ。
そんな具合に喧嘩するほど仲がいいを体現する二人を、青崎はどこか鈍い熱の籠った眼差しで見つめていた。
「いいなぁ、当真先輩の手作り弁当……ッ!」
「散々味見したでしょーが」
当真は悔しがる彼の頭に軽く手刀を落とした。
全く今更どこに妬いているというのか。確かにこの当て馬期間、当真はせっせと毎日荒田のために手作り弁当を拵えていた。しかし青崎にはたっぷりと味見に付き合ってもらったし、荒田を羨ましがる必要はどこにもない。
「う、あ、その、それはすごく美味しかったんですけど……やっぱり俺も、当真先輩の作った弁当が食いてぇです!」
「機会があればねー」
「は、はい……」
萎れる彼を流し見つつ、当真は手帳を取り出し慣れた手つきで赤線を引いた。
「とにかく、これが当て馬の基本だ。分かったか青崎くん」
「はい……あ、あの」
「うん?」
「その、ずっと気になってたんですけど」
「うん」
「当真先輩って、何でコレにこだわってるんですか?」
青崎は当真にそう尋ねた。当真はしばしの間目を丸くする。青崎は二度瞬きをして、それから裏返った声を出して慌て始めた。
「あ、えっと、その、悪い意味じゃなくて」
青崎はパントマイムのように手を上下に動かした。きっと「誤解されるような物言いをしてしまった!」とでも思っているのだろう。
しかし当真は彼のそれが純粋な質問だと分かっているので、軽く笑ってから淡白な声で答えた。
「……受験とか、転校とか、大喧嘩とかさ」
「はい」
「そういう、〝もうこの人とは疎遠になってしまうかもしれない〟みたいなイベントって、人生に必ずいくつかはあるでしょ? どんなに仲の良かった相手でも、この時期を境に会わなくなってしまった……みたいな」
「……はい」
「漫画だったら結局何とかなるものだけど、現実ってそう上手く行かないでしょ。会わなくなった人とは会わなくなったままだ。本当は、ちょっとでも何かが違ってたら、一生一緒に過ごすような相手になってたかもしれないのに」
当真は青崎の顔を見上げて言う。
「でもその何かに自分がなって、それで誰かが幸せになるのなら、それって凄く素敵じゃない?」
すると彼はしばらくキョトンとした顔をして、それから瞼を大きく開けて、耳まで顔を真っ赤に染めて巨大な声で叫んだ。
「はいッ!!」
「声でっか」
「俺もそう思うっ、思いますッ!!」
「ステイステイ」
彼のその度を越えた勢いの良さに、当真は思わず大型犬に飛びつかれているような心地になった。百合の花のように美しい彼の顔を両手で押さえ、ぐっと腕を伸ばして何とか距離を取る。
「……ま、まあ。大部分は、俺が漫画脳だからってだけだけど……ラブコメで育ったみたいな所あるし……」
「当真先輩のそういう所が素敵ですッ!」
「話聞いてる?」
「大好きですッ!!」
「聞いてないなこりゃ……」
もしも彼が動物に変身する魔法にかけられたなら、巨大な犬になるに違いない。きっと犬種はシベリアンハスキーだ。一見クールに見えて実は……という所がいかにもそれっぽい。
青崎は透明な尾を振り回し、前のめりになって力強く言った。
「俺、やってみます……! 先輩の言う、〝素敵な当て馬〟になってみせます!」
「おお。が、頑張ろうね」
「はいッ!」
その勢いに少し引き気味になりつつも、当真は親指を立てて小刻みに頷いた。やる気があるのは良いことだ。今回も上手く立ち回れたことだし、きっと彼の良い手本となっただろう。当真は彼の肩を軽く叩いて、少し尖り気味の歯を見せて笑った。
「それじゃあ、次は青崎くんに任せてみようか」
「はい! 必ずや成功させてみせます! 当真先輩の笑顔のためにも!」
「そんなに肩に力入れなくて良いからね……」
少し心配ではあるが、ここは彼の士気の高さに期待しようではないか。
そんなことを考えていた数日後。
「アンタ、イト君の何なんだよっ!」
「そっちこそ! イト様に馴れ馴れしいんだよ!」
「ボクはイト君の特別なんだから当たり前だろ!」
「はぁッ!? お前みたいなチンチクリンをイト様が相手にするわけないだろうが!」
「ハァ~~ッ!?」
中庭で青崎を取り合ってキャットファイトを繰り広げている二人組を見かけ、当真はその場でずっこけてしまった。
火花を散らす二人の間に挟まれた青崎は、どう見ても「こんなはずじゃなかったのに……」という顔をして困っている。ずり落ちた鞄の紐を持ち直しながら、当真は口の端を痙攣させた。
「お、思い切り失敗してる……!」
彼が完璧な当て馬となれる日は、どうやらまだ先のようだ。
