当真が空き教室の扉を開けると、そこには落ち着きなく辺りを見回しながら椅子に腰かけている青崎の姿があった。
 扉が開く音を聞き、振り返り、そして当真の姿を目にした途端、彼は部活のOBが部室へやって来た時のように威勢よく立ち上がる。
「こっ、こんにちは!」
「ハイこんにちはー」
 従者のように頭を下げる彼の前をおざなりに手を振って素通りし、当真は部屋の端に置いてある紺色のソファに座った。このソファは手触りがよく、座り心地も良いので気に入っている。
「……それで」
 当真は校内の自販機で買ってきた紙パックのミルクティーを取り出し、ストローをパックに刺しつつ青崎を見上げた。
「渡した参考資料は見た?」
「はいっ!」
 元気いっぱいに青崎が返答する。毛先だけ色の薄い髪が所々外側に跳ねていて、それが乾いた長毛種の犬によく似ていた。
 青崎は当て馬について何も知らなかった。つまりはその場の勢いだけで「当真の趣味に協力する」と申し出たというわけだ。行き当たりばったりにも程がある。当真は頭を抱えたが、しかしスポーツ全般が特技の男子高校生がこの一風変わった趣味に初めから理解を示す方がおかしな話だと思い直した。
 そこで当真は彼に資料と称して、様々な恋愛漫画やアニメ、映画を押し付けたのであった。どれも質の良い当て馬が登場する作品であり、これさえ見れば当て馬の何たるかが理解できるだろうという珠玉のラインナップだ。
「どうだった?」
 当真は机の上に並んだ漫画を手に取った。そして紙をパラパラと捲りながらそう尋ねる。
 すると青崎は自分の鞄から新品の青いノートを取り出して、試験前の休み時間に復習をする時のような熱心さでノートの中身に目を通し始めた。もしや自主的にメモまで取ったのか。何だ、結構真剣じゃないか。当真は内心でそう感心しつつ、黙って彼の様子を伺う。
 そこで青崎はパン、と乾いた音を立ててノートを閉じた。そして彼は美しい顔を伏せ、まだ人の手が加えられていない秘境の湖のように澄んだ目をして言う。
「なんか……あの、その、報われなくて可哀想でした!」
 薄い。
 あれだけ時間をかけた上で出力される感想がそれか。
「あの、ちなみに他には?」
「えっ。えっと、その、最後はイイ感じに終わってよかったです!」
「……もしかして感想言うの苦手なタイプ?」
「あっ。ゔっ。すみません……」
「ああ、気にしないで。何を思うかも何を言うかも人の自由だし」
「おお、好きだ……」
 当真は無糖のミルクティーを飲み切って、紙パックを薄く潰し、それから立ち上がって机に両手をついた。
「いいか青崎くん。当て馬道とは奥深きものなんだ」
「か、顔が近っ……」
「一口に当て馬と言ってもその属性は多岐に渡る。ヘタレ系、チャラ男系、優男系など千差万別だ。大事なのは本命カップルに最も適した属性は何かを見極めて当て馬る(※造語・当て馬になるという意味)ことなんだ」
「は、はい、なるほど」
「確かに君の言う通り、当て馬とは報われないものだ。でもその報われない献身の先にこそ実りがあるんだよ! 俺はその実りをこそ愛している!」
 饒舌に語る当真の前で、青崎は両手を挙げて頷いた。その顔には小粒の汗が雨上がりの窓ガラスのような有様で貼り付いている。
 近寄りすぎたか。そう思った当真は咳払いをして、身体を下げてソファに座り直した。
「……まあ、というわけで。俺はこんな具合に日々精進しているわけだ」
「はい……! 俺も当て馬になって当真先輩の役に立ちます!」
 青崎は目を輝かせてそう言った。その眼差しは朝日のごとく眩しい。顔の良さとも相まって見ているこちらの網膜が焼かれそうだ。
「あ。でも……」
 しかしそこで、彼は自信なさげに背を丸める。
「俺、何から始めればいいのか、よく分からなくて……」
「成程」
 当真は腕を組んだ。
 参考書に目を通しただけではまだ実態が掴めない。それは当然のことだろう。申し訳なさそうに後頭部を摩る彼の前で、当真は指を軽快に鳴らした。
「百聞は一見に如かず、だ。青崎くん。まずはお手本を見せよう」
「? はい!」


***


 当真は青崎を連れ、二年二組の教室にやって来た。そして開きっ放しになった扉の影から音を立てずに顔を出す。青崎は道に迷った子犬のような顔でキョトンとしていた。
 当真は教室の中央を目線で示す。
 そこには鋭い口喧嘩を繰り広げる二人が居た。
「全く君は! 今日も遅刻だなんて。これで一週間連続だぞ!」
「……チッ。っせーな」
 その内片方の男は黒縁の眼鏡をかけていて、学校指定の制服を堅苦しく着こなしている。胸には風紀委員会の記章を付けていて、驚くほど黒い髪を眉毛の上できっちりと切り揃えていた。まさに絵に描いたような優等生だ。
 そんな彼は先程からしきりに金髪の男を叱咤していて、それに対して金髪の男は感じの悪い舌打ちを返していた。眼鏡の少年とは対照的に、彼はシャツのボタンを大幅に外し、その中に喉元まで隠れる黒いタートルネックのインナーを着込んでいる。耳にはピアスがいくつも取り付けられていて、足を大きく開いて椅子にもたれる姿が印象的だった。
「それに服装もだらしない! 君は一体どれだけ校則を破れば気が済むんだ!」
「ッたくよ、一々うるせェんだよ優等生サマがよぉ!」
「なっ……! 僕は君のためを思って……!」
 不良と優等生。
 それは水と油のように噛み合わない関係性だ。
 優等生は不良の素行を口煩く咎め、気の短い不良はその忠告に毎度のごとく青筋を立てる。彼らはそんな犬猿の仲であった。
「あっちの金髪の彼が荒田蓮二(あらたれんじ)くん。その彼と口論しているのが佐山優(さやますぐる)くんだ」
 当真は彼らに指の先を向けた。
 随分と騒がしく言い争いを繰り広げているようだが、周囲のクラスメイトは特段顔色を変えることもなく彼らを見守っている。彼らの喧嘩は恒例行事であり、今更驚くようなトラブルでもないのだ。
 慌ててメモを取る青崎に、当真は人差し指を立ててみせた。
「さて青崎くん」
「はい!」
「君はあの二人を見てどう思う?」
「どう……? ってのは……」
 そう問われた青崎はじっと目を凝らした。長い上下の睫毛がゆっくりと閉じる様は食虫植物が動く様子によく似ている。当真は「うーん、毛穴がない。どういうスキンケアしてるんだろ」と思いながら彼の顔を見つめた。ちなみに実の所青崎は風呂上がりに化粧水すら付けないし、日焼け止めすら塗らないタイプだ。
 そうしてしばらく考え込んだ彼は、眉間に皺を寄せて、聞き心地の良い低い声で答えた。
「えっと……」
「うん」
「すごく仲が悪いと思います」
「すごく仲が悪いね」
 簡潔な答えだった。それに当真は二度頷く。そして彼らの頭の上を指さして、勢いの良い声で言った。
「だが彼らの頭上に浮かぶ好感度メーターを見ろ!」
「何ですかそれは……!?」
 青崎は何もない所を何度も見て、当真の顔を何度も見て、それでも何も分からなかったため汗をかいた。そんな青崎の青い顔を見つめ、当真は首を傾げて目を丸くする。
「ほら、好感度メーターだ。頭の上に浮かんでるだろ」
「み、見えねぇです……! 逆に先輩には何が見えてるんですか……!?」
「90、91、……まだ上がるぞ!」
「あの、きじゅん、基準が分かんねぇです! 基準を知らねぇからそれが高いのかどうか分かんねぇですよ!」
「これは凄いな……あの二人は逸材だよ」
「そうなんですか!? な、なんも分からん……」
 好感度メーターとは要するに、対象の仕草、視線、呼吸の頻度、頬の色などからその人が相手に抱いている好意の総量を推測し、数値化し、当真の視界の中で可視化したものである。つまりは当真の人並外れた観察眼による一種の特殊能力のようなものだ。
「あの……じゃあ俺はどんな感じなんですか。俺から先輩に対する好感度メーター? ってどんな感じになってるんですか。すごく気になります」
「……」
「何で無言なんすか!」
「……まあ、それは置いといて。遠くの方へ」
「置いとかねぇでください!」
「あの二人は一見仲が悪いように見える。というか紛れもなく仲が悪い。しかしこの世にはこんな言葉がある――「喧嘩するほど仲がいい」だ」
 もしくは嫌い嫌いも好きの内、か。
 勿論この世に存在する犬猿の仲全てがそれに値するとは限らない。本気で殺したいと思うほど憎み合っている二人も居るだろうし、どう足掻いたって暖かな感情が花開く余地のない冷め切った関係性もある。
 だが彼らは前者――つまりは「仲は悪いが、それだけではない」二人組ということだ。
「あの二人、実は小学校からの同級生でね」
「知り合いなんですか?」
「んにゃ、調べました」
「最早やってることが探偵ですね……」
 当真は白々しくピースする。
 情報収集は当真の十八番だ。それをプライバシーの侵害と咎められればぐうの音も出ない。が、当真は人のために当て馬をやっているのではない。自分を満たすためだけに当て馬をやっている。なので特段気を病むことはない。当真は生来自分勝手な人間なのだ。
「彼ら、昔は凄く仲が良かったそうだ。けど中学に上がってから、どうやらギクシャクし始めたらしくてね。それからはお互い、顔を合わせる度に突っかかるようになったんだそうだ。今みたいに」
「でもそれって、結局お互いに嫌い合ってしまったってことなんじゃ……」
「本当に嫌いならわざわざ顔を見に行ったりしないよ。徹底して避けるなり何なりすればいいでしょ?」
「それもそうですね」
 彼は納得して頷いた。
 何にせよ、顔を合わせば喧嘩ばかり、素直になれない天邪鬼な二人組――の間に入って素の感情を引き出す役回りは、当真の最も得意とする所だ。
「というわけで、俺はあの二人に当て馬ってくる」
「いっ、いきなりですか……!?」
 ギョッとした様子で口を半開きにする彼に、当真は能天気な顔で親指を立てて見せた。
「任せろ青崎くん。君は俺の立派な背中を見ているといい」
「どうやるんですか?」
「まあ、まずはきっかけが必要だね。不審に思われない程度にあの二人のどちらかと接触を図る。……見る限り、俺と相性が良いのは荒田くんの方みたいだね」
「相性がいい……!?」
「当て馬する上で、という意味だよ」
 当て馬の役割を担うと言っても、二人組の内どちらと距離を縮めて、どちらを妬かせるかという、その選択が重要だ。たとえば自分に自信のないタイプを妬かせようとしても「あの人には俺じゃなくてあの子の方がお似合いなんだ……」と身を引いてしまうことになりかねない。
 二人を後押しするつもりが逆に関係を拗れさせただけで終わってしまった……という展開は、当真にとって耐え難いほど不本意なものなのだ。
「キッカケって、どうやって作るもんなんですか?」
「ん? 適当に」
「適当」
「うん」
「適当ですか」
「適当だよん」
「……それって……ものすごく……コミュ力が要るのでは……?」
「うん」
「……俺、頑張らねぇと……」
 萎れた花のような顔をして彼が言う。当真は頷きながら、「もしや彼はコミュニケーションが得意でないタイプだろうか」などと考えた。
 しかしまあ人間に得手不得手があるのは当然のことなので、そう気を落とす必要はない。彼には顔という最強の矛があることだし。そんなことを思いつつ、当真は視線を真上に向ける。
「青崎くんさあ、友達いる?」
「い、います。少しだけ……」
「じゃあその友達とどうやって仲良くなったかって覚えてる? はっきり、一言一句間違わずに」
「……? いや……」
「うん。そんな感じ。知り合ったきっかけって、余程衝撃的でなければ案外印象に残らないものだよ。だって初対面って、人生の中で相手について一番興味ない瞬間なんだし」
「そう、かも……」
 彼は口元を押さえながら頷いた。当真も軽く首を縦に振って、それから未だ口喧嘩を続ける二人を交互に指さす。
「たとえばあの二人なら……」
「二人なら?」
 目を瞬かせる青崎の前で、当真は目を細めて薄らと歯を見せた。

「――あ、あのっ!」
「あ?」
 廊下でのすれ違いざま、当真は荒田の服の袖を小さく掴んだ。
 ポケットに突っ込んでいた左手が滑り落ち、荒田は低く粗暴な声を上げる。そうして彼の酷く鋭い視線が当真に注がれる。
 しかし当真はそれに臆することもなく、むしろどこか照れた様子で口を半分だけ手で覆い、視線を床の上で滑らせてみせた。
「……ンだよ。用もねぇのに呼び止めんな」
 低い声色で彼は言う。
 その額には薄く血管が浮かんでいて、目の端は鬼のように吊り上がっている。それは誰がどう見ても苛立っている表情だった。何も言わずにただ無益に俯いている当真の姿は、短気な彼にとってさぞや煩わしく映ったことだろう。
 だが当真は空気を読まず、頭を鈍器で殴られても平気で立ち上がってくる人間のような鈍感さを発揮して――発揮したように見せかけて――果敢に彼の懐へと飛び込んだ。
「その、この間はありがとうございましたっ!」
「あ?」
「ほら、覚えてませんか? 俺ですっ! この間、あなたに助けてもらった!」
「この間……?」
「うぇっ!? 覚えてないんですかぁ!?」
「知らねぇよ。誰だテメェ」
 自分の顔を必死で指さし、当真はその場で軽く飛び上がった。まるで自分のことをどうにか思い出してもらおうとアピールするかのように。
 けれども努力は実らず、荒田の眉間に刻まれた皺が薄まることはなかった。彼は依然として当真に怪訝なものを見る時の視線を向けている。
「そんなぁ。俺ですよぉ。この間の帰り道で、不良に絡まれてた所をあなたに助けてもらったものですよぉ!」
「知らねえ。ンなもん一々覚えてねえよ」
「俺その時のお礼がしたくて、あなたのことずっと探してたんですよ!」
「いらねーよ。鬱陶しい」
「そんなこと言わずにぃ!」
「ゲッ。引っ付いてくんじゃねえ!」
 当真は彼の腕に縋り付いた。すると荒田は顔全体を歪め、そして当真をどうにか追い払おうとする。その顔には「妙なヤツに懐かれてしまった」という字が黒よりも濃い色で書かれていて、突如として現れた見知らぬ男に対する面倒臭さがありありと滲んでいた。
 しかし全身で嫌がられはするが、力づくで引き剥がされることはない。そんなことをすれば、見るからに非力な当真は怪我を負うかもしれないからだ。荒田という男は手荒で短気であるが、決して性根が腐っているわけではない。むしろ自分より弱い者には優しく、濡れた子犬は見捨てておけない性質である。
 要するにこうして一方的に距離を縮められる状況を作ってしまえばこちらのものだ。あとは彼の暴言に屈せず果敢に立ち向かいさえすればいい。

 嫌がる彼を何とか説き伏せ、見事連絡先を捥ぎ取った当真は、呆然と立ち尽くす青崎に駆け寄り「ムフー」と笑みを深めた。
「と、まあこんな感じだよ」
「と、当真先輩……いつそんな危ない目に遭ってたんですか!?」
「え?」
「不良に絡まれたって話です! 呼んでくれたらいつでも五秒で助けに行ったのに!」
 すると彼が血相を変えて肩を掴んでくる。あと三ミリで鼻先同士が触れ合うという所まで彼の美しい顔が迫ってきて、その眩さに当真は目を瞑り、口を半分開けて、そして緩く首を傾げた。
「そんな目には遭ってないけど?」
「へ?」
 当真は途端に淡白な表情を浮かべ、それから温度のない平らな声で言い切る。
「ああ。さっきの? 全部作り話だよ」
「おっ、ええっ……!?」
 荒田にとって喧嘩は日常茶飯事で、つまりは喧嘩の内容を事細かに覚えておくタイプではない。きっと本当に当真が助けられていたとしても、彼はその出来事を記憶の隅にも留めておかなかったことだろう。
 であるならば多少過去を捏造しても問題ない。彼に嘘がバレなければ良いだけの話だ。
「実際疑われなかったしね」
「これが……コミュ力!」
 当真のそれはどちらかと言えば詐欺に近いのだが、そんなこと知る由もない青崎は純然たる感心の声を漏らした。当真も特に否定することなく、堂々たる表情でピースする。
「……まあ、俺は顔が平凡だからね」
「? すげぇカッコいいと思いますけど……」
「うーん、フィルターが強化ガラスより分厚い」
 当真は呆れた。一体彼のガラス玉のような瞳には自分の姿がどのように煌めいて映っているのかと、一度彼の視界を覗いてみたい心地になる。
 それはともかく、これは当真の顔立ちが凡庸だからこそできることだ。良い意味で相手の記憶に残らない。「昔会ったことがありますよね?」と聞かれれば、何となくそうだったような気がしてしまう。どこにでもいるような顔だからこそ、多少強引な誤魔化しや嘘を信じ込んでもらえるのだ。
「だから君には使えない技かも。君の顔ってほら、凄く覚えられやすいから」
「ム……」
「? 何?」
「何でもないです……」
「なんかいじけてる?」
「いじけてません……」
 そう言って彼はそっぽを向く。どこからどう見ても拗ねている顔だ。当真は首を傾げ、それからすぐにその傾きを正した。
「とにかく、これでキッカケは作れたわけだ」
 あとは少しずつ好感度を調整して、好かれる……には一歩届かないが、「まあ悪いヤツではない」程度まで距離を詰めるだけだ。
 当真は自分の胸を叩いて胸を張った。二号こと後輩・青崎少年の手本となるような、そんな清く正しく完璧な当て馬とならねば、と、心の大事な紐を強く引き結びながら。