当て馬。
 恋愛漫画におけるそれは、「本命カップルの恋路を成就させるために用意された、予定調和のフラれ役」のことを意味する。
 例えば恋愛漫画を読んでいる時に、主役である本命カップルの二人――のどちらか片方に想いを寄せる、しかし報われない人物を見かけたことはないだろうか。
 突如現れたイケメン転校生に長年片思いし続けていた主人公を奪われる幼馴染。今まで複数人と遊びで付き合ってきたがために本命の主人公に本気だと思ってもらえないチャラ男。主人公の良き理解者だが、物語中盤で「そんなヤツじゃなくて、俺にしなよ」と冗談っぽく囁いてくる親友。けれども結局は皆恋に破れ、「早くアイツの下へ行ってやれよ」と背中を押し、一人になってから「……俺ってほんっと、良いヤツだよなあ……」と鼻を啜りながら呟くのである。
 言うなれば彼らは、いつまでも焦れったく燻っている主役カップルに投下される爆弾級のスパイスだ。カップルの片割れに「このままじゃあの人に取られちゃう……!」と良い意味での圧迫感を与えたり、あるいは鈍感な主人公に「俺ってアイツのことが好きだったんだ……」と恋心を自覚させたりする。そんな割を食う宿命を一手に担うのが当て馬というわけだ。

 当真春人は、この当て馬となって他人の恋愛を成就させることを趣味としている。
 否、趣味と言うより生き甲斐と呼んだ方がいい。
 当真にとって自らが当て馬となることは毎日のルーティンであり、義務であり、日常であり、生活の一部分だ。当て馬となって他人の恋を後押しすることこそが当真のアイデンティティであり、当真の人生はそれを中心に回っていると言っても過言ではない。
 周囲の人々の関係性をくまなく調べ尽くし、誰から誰に矢印が向いているかを読み取って、あと一歩踏み出すことが出来ずに悩んでいる恋人未満の間に当て馬として割って入る。
 ちなみに当真はプロの当て馬であるので、成立させるカップルの性別は関係ない。男女の組み合わせであれば少女漫画の当て馬の如く振舞うし、同性同士であればそれ相応に、という具合だ。
 閑話休題。


「だからさ。その新入生ってのが……」
「ねえねえ。何の話?」
「お。当真」
 ほとんど荷物の入っていない鞄を下ろしつつ、当真は隣の席周辺で雑談に勤しむ友人らに声を掛けた。
 当て馬志望にとって情報収集は欠かせない。恋のきっかけは思っているよりも身近な所に落ちていて、それを余す所なくつつくのがプロの当て馬だ。鋭い観察眼と人間関係に対する洞察力を持つもののみが主体的当て馬と成り得るのであり、故に当真は日々研鑽を行っている。
 なおこの友人計二名――それぞれ名を桜木と田中と言う――の間には、今の所何かしらのラブめいたものが芽生える余地はない。あくまで彼らは良き友人だ。
 当真は他人の恋路を応援することを生業としているが、別に恋や愛だけが尊いものだとは思っていない。
 あくまで〝芽生える余地のある恋を後押しする〟ことを信条にしているのであって、誰も彼もを恋愛的に結ぼうと思ってはいないのだ。結べるものなら結ぶけれども。
 彼らに良い相手が現れた暁には、是非とも友人系当て馬として名乗りを挙げさせてもらいたい所だ。
「新入生がどしたの? 何か目立つ子でもいた?」
「いやさあ。今ウチの部で話題になってんのよ。スッゲーイケメンの新入生が助っ人に来たって」
「へえ」
 腕を組んでそう話す田中に、当真は前のめりになって深く頷いた。
「田中ってサッカー部だったよね?」
「そうそう。そいつ帰宅部なんだけど、めちゃくちゃ運動神経が良いから何とか入部してもらおうとスカウトしてんのよ。本人は帰宅部が良いって突っぱねてるけど」
「それでイケメンって。天は二物をナントカじゃん」
「そんなにイケメンなの?」
「いやマジで。普通にモデルかと思った。ありゃモテるだろーなって感じの」
「男子校でモテても意味ねーだろ」
「それがさあ。そいつの顔見に他校の女子が来てんの。部活の練習時間に」
「マジで!?」
 桜木が声を裏返す。これには当真も興味深く目を輝かせた。
「そんなん……そんな、おま、早く言えよ! どんな女の子が居た!?」
「安心しろ。お前が行ってもモテない」
「クソッ……!」
「まあそう気ぃ落とすなって。桜木にもいつかいい出会いがあるからね。……そんで、そのイケメンって誰? 名前は?」
「ん? おお、青崎(あおさき)っつー一年坊主だけど」
「アオサキ……」
 聞いたことのない名前だ。頭の中のメモ帳に赤字で書き加えておく。当真は手の甲で口元を覆い、目を細くして頷いた。
「その青崎くんって子? 次はいつ助っ人に来るの?」
「今日だけど……何? 見に来る気? お前も桜木と同じかぁ?」
「だってそりゃね~。俺だって女の子と仲良くなりたいし」
「言っとくけどマジで女子はそいつのことしか見てねえぞ。俺はそれで心が折れた」
「一応期待はしたんだね……」
「俺たち女子との接点マジでねえからな。ここ男子校だもんなあ……」
 項垂れる田中の背を叩く。望むのならば相性の良い相手をそれとなく紹介するのもやぶさかではないが。ちなみに当真調べによると、今の所田中と最も相性がいいのは隣のクラスの斎藤だ。
 それはさておき、これは当真の持論なのだが――イケメンある所に恋の芽あり。美形の周りには自ずと恋の花が咲くものだ。
 イケメンというのはそもそも立っているだけで好意を抱かれる生き物だ。存在しているだけで感情の矢印を向けられるもの。要するに美形の周辺相関図は複雑になりがちであり、美形を中心として様々な恋愛模様が描かれるのである。
 つまり当真にとって美形の存在は要確認事項であり、リストに入れて漏らさず監視しておくべき人物であると言える。

 というわけで、下調べにやってきた。
 田中からのタレコミによれば、件の一年生は今日もサッカー部へ助っ人として駆り出されているらしい。すると成程、確かにフェンスの向こうに黄色い歓声を上げる女生徒の集団が見える。
 当真はそれとなく辺りを見回しつつ、ベンチで靴紐を結び直している知り合いの後輩の肩を叩いた。
「よっ。島くん」
「あ。当真先輩! お久しぶりです!」
「田中は? 走り込み中?」
「はい! あ、オレ呼んできましょうか?」
「いや良いの良いの。ちょっと顔見に来ただけだから」
 当真は顔の前で手を振りながら答えた。
 当真の交友関係は広く、学年を問わず友人が多い。何せ抜群のコミュニケーション能力と誰とでも気さくに触れ合える社交性、それらがなければ〝完璧な当て馬〟になることは不可能だからだ。
 当真が目指している先は善良な当て馬であって、憎まれ役ではない。当て馬としての役目を終えた後も人間関係は当然続く。その際に軋轢が生じたのでは一流の当て馬とは呼べない。あくまで後味は爽やかに、相手に一切気負わせることなくフラれることが重要なのだ。
 そのために高いコミュ力が必要であることは自明の理であり、プロの当て馬を自称する当真の付き合いが広いのは当然と言えるだろう。
「にしてもマジで他校の女子が観戦に来てんだね」
「そうなんですよ。スゲーっすよね」
 眩しげに目を細め、当真はグラウンドの外を見つめる。
 今日の天気は快晴だ。見上げた空には雲一つない。まだ四月だというのに今日は酷く熱い。目の奥を突き刺すような陽の光が燦燦と降り注いでいる。
 顔の前に手をかざして日差しを遮りつつ、当真は集中して目を凝らした。その噂の青崎くんとやらは一体どんな人物なのか。
「……お」
 しばらく見つめていると、やたらと水際立った男の姿を視界の端に捉えた。
 それは遠目で見ても息を呑んでしまうほどにスタイルが良く、尋常でないほど足の長い男だった。
 彼が走る度に黒く細い髪がはためいていて、色を抜いたのか元々色素が薄いのか、毛先だけが灰色に染まっているのが分かる。頭一つ飛び抜けて背の高い彼は、集団の中に居ても周囲からぽっかりと浮いて見えた。まるで彼だけが絵で描かれているように。
 当真は「おお……」と声に出さず思う。
 これは確かにモテるだろう。離れた所から見てもこれだけハンサムだと分かるのだから、近くで見た時にはきっとその美貌に目を焼かれるはずだ。
 彼が体操服の裾を持ち上げて汗を拭うと、グラウンド外から「キャーッ!」と高調子の悲鳴が上がる。
 青崎少年。成程、良いではないか。
 きっと彼を取り巻く相関図は美しい恋愛絵巻を描き出すことだろう。これは是非とも彼の交友関係について調べる必要がある。そんなことを考えながら、当真は何気なく顔を上げた。
「――」
 そこでバチン、と音が鳴った。
 そんな幻聴が聞こえるほどに、青崎少年と鮮明に目が合う。
 彼は確実に当真のことを見ていた。それも食い入るように。まるで生き別れになっていた家族を数十年ぶりに見つけたような顔で。
 当真は弾かれたように目を逸らした。
 流石に無遠慮に観察しすぎたか、と思ったからだ。
 変人だと警戒されて距離を取られては元も子もない。あくまでさりげなく自然な接触を心掛けなくては。よって今日の視察はここで切り上げる。
 青崎少年の方を見ないまま、当真は後輩たちに明るく手を振った。そうしてグラウンドに背を向け、静かにその場を立ち去る。
「……」
 そんな当真の背中を、青崎は鋭い鈍色の瞳で、ただひたすらにじっと見つめていた。


***


「あの……」
「はい? ……えっ?」
 六限目の授業を終え、さあ今日も人間観察に励むかと手帳を携えて廊下を歩いていた当真は、唐突に背後から声を掛けられた。
 振り向いてみれば、そこには信じられないほどに顔の整った男が立っている。
 鼻がツンと高く、唇が薄くて、瞼の二重線が筆で力強く描いたのかと思うほどくっきりとしている。目の縁を長く濃い睫毛が縁取っていて、見つめられると思わず息が詰まるぐらいに目力が強い。遠くから見てもハンサムであることは分かっていたが、間近で見るとそれはもう二度と忘れられないような美しさだった。
「昨日……、サッカー部の、練習試合、見に来てた……ました、よね?」
 紛うことなき青崎少年その人だ。
 当真は稲妻に打たれたような心地になった。目をつけたばかりの要注目人物に、まさか昨日の今日で話しかけられるとは。
 彼は長い前髪の端をつまんで持ち上げながら、もう片方の手をズボンのポケットにつっこんで目を伏せている。均整の取れた立派な肉体の上に驚くほど小さな顔がのっかっていて、対面してみると予想していたよりもずっと迫力のある男だった。
「当真センパイで、合ってます? 名前……」
「……そうだけど」
 当真が頷くと、彼は俯いたまま目線だけを当真の顔へと向けた。長い前髪の隙間から重たい睫毛に囲まれた瞳が覗く。
 当真は目を細め、彼の顔を見上げた。
 そして秘密裏に彼の仕草や表情を観察する。目の動かし方、呼吸の頻度、発汗量、瞬きの回数を。そうして彼がどうやら酷く緊張しているらしいと判断し、当真は首を傾げながら彼との距離を詰めた。
「俺に何か用?」
「用、っつーか。その……」
「それってここでは話しにくいことかな?」
「!」
「俺はこのあと特に用事とかないからヒマだけど」
「あっ。お、俺もです」
「じゃあ立ち話も何だし、落ち着いて喋れる場所へ行こうよ」
 当真は人当たりの良い笑みを浮かべてそう言った。青崎は少しの間固まってから、はっと我に返ったように首を上下に振る。
「ど、どこへ行くんですか」
「使ってない空き教室があるんだよ。プロジェクター置いてるから映画とかも見れるよん」
「この学校、んなスゲーもんがあるんですね……」
「いや俺が勝手に家から持ち込んでるだけ」
 ポケットから鍵を取り出して平然と言う。そして二階の空き教室の扉の前に立ち、慣れた手つきで錠を開けた。当真は教師たちとも仲が良いので、空き教室の一部分を私物化していてもお目こぼしを受けているのであった。
「ここ。俺がいつも勝手に使ってる場所」
「お、お邪魔します……」
 青崎は軽く頭を下げた。彼は知らない土地に連れて来られた犬のように忙しなく辺りを見回している。
 当真は教室に置かれてある机をくっつけて、今から面談を執り行うかのように青崎の対面に座った。人差し指の先を目の前にある椅子に向け、青崎にも座るように明るい声で言う。青崎は素直に頷いて腰掛けた。
「……さて」
「は、ハイ」
「確か青崎くん、だったよね」
「!」
「ああ。別に君をストーカーしてた……とかじゃないから。安心して。名前を知ってるのは、君が有名人だからってだけ」
「……? 有名人?」
 青崎は眉を寄せて首を傾げた。その顔はまるで自分の知名度の一切を認知していないとでも言いたげなものだった。
 当真は目を瞬かせ、彼と同じような角度で首を傾げる。あれだけ周囲の関心を集めているというのに、まさか一切の自覚がないのだろうか。そんなことが有り得るだろうか。しかし彼の顔に何かを取り繕おうという色は見えない。ならば本当に、彼はすこぶる鈍いだけなのか?
 何だか妙な子だ。その非常に鋭く整った容姿から、てっきり狼のようにクールで人を寄せ付けない冷徹な内面を想像していたのだが、思っていたよりもこう、何と言うか、ちょっと抜けているというか。
 出鼻を挫かれた当真は、しかし話を前に進めるために口を押さえて咳払いする。
「とにかく、そんな有名人の君が俺みたいなのに何の用かな?」
「それは……」
 当真は頬杖をついて問いかけた。
 当真は彼に見覚えがない。親密度を上げた覚えもないし、顔を見たのすら昨日が初めてだ。しかし当真へ向けられた彼の視線には、初対面からはかけ離れた熱が籠っている。
 何らかの情熱、もしくは因縁を感じさせるその色は、当真の心臓を豊かに跳ねさせた。
 当真は彼と関わった覚えがないのだから、であるならばこうして身が焼けるほどに熱い視線を向けられる理由は……彼と親しい人物に当真が接触したためか。もしかすると彼には既に意中の人物が居て、そんな相手と仲睦まじく話している当真の姿などを見かけてしまったのかもしれない。そういう展開ならば大歓迎。棚から牡丹餅のように転がり込んできた絶好の当て馬チャンスと言える。
 当真は意地悪く口角を上げ、イケメンの牽制を無謀にもこき下ろそうとするモブ系当て馬の顔を作る。凡庸である分、その表情は余計に鼻につく仕上がりになっているはずだ。
 そうすると青崎少年は顔をムッと歪めて、「アンタ……俺の〇〇とどういう関係なんですか」と追及してくるに違いない。
「……ハルくん、ですよね?」
 ――訂正、違うこともある。
 当真は口の端を痙攣させた。眩い星空のような瞳で青崎が自分を覗き込んできたからだ。
 何だその距離の詰め方は。何だその「ハルくん」などという呼び方は。そんな親しげな呼称を許可した覚えはない。
「確かに俺の名前は春人だけど……その呼び方に心当たりはないよ。誰かと間違えてるんじゃない?」
「やっぱりハルくんだ……!」
「俺の話聞いてる?」
「あっ、で、でも先輩のこと、そんなふうに呼ぶべきじゃねぇですよね。俺が後輩なんだし……」
「本当に俺の話聞かないね? 君」
 何かの思い込みに囚われているらしき青崎は、「当真先輩、当真先輩……」と自分に言い聞かせている。
 当真は眉間に皺を寄せ、親指の腹でこめかみを悩ましく押さえた。
「ゴメン、何の話? 君、俺のことを牽制しにきたんじゃないの?」
「牽制……? は、よく分かんねぇですけど。その、俺は……」
「うん」
「……お、俺のこと、覚えてねぇですか!?」
「は」
 するとそこで、青崎は机を両手で叩いて立ち上がった。
 突然巨大な声に鼓膜を貫かれ、当真の身体が少し浮く。導火線に火を付けたような声量で攻め立てられた当真は、両手で耳を覆って口を半開きにした。
「な、何……?」
「俺です! 覚えてませんか!?」
「誰……?」
「一途の一に一途の途でイトです! 青崎一途(あおさきいと)です!」
「情報量が極限まで少ない自己紹介ありがとう……誰?」
「昔小学生の頃、近所の公園で一緒に遊んでたイトです! ハルく……当真先輩が途中で引っ越して、それから会えなくなったけど……でも昨日、先輩が練習試合を見に来てくれた時に確信しました!」
「な、何を……」
「当真先輩こそが、俺の人生を変えてくれたあの人なんだって!」
 当真は顔を引き攣らせた。顔を蒼褪めさせたまま椅子を引いて、できる限り彼と距離を取ろうとする。
 しかし彼はそんな当真の手を取って、両手で握りしめ、小さな汗をいくつも額に浮かべて言った。
「お、俺……あの時からずっと!」
「え、いや、あの」
「ずっとあなたのことが好きでした!」
 扉を貫いて部屋の外にまで聞こえそうな声量で、彼が特大級の爆弾を投下する。
「よ、良ければ俺と。こ、こい、恋人になってくれねぇですか!」
 彼は叫んだ。
 それは当真が人生で初めて受けた告白だった。
 青崎はその整った顔を茹でられたように赤く染めて、まるで運命の相手に出会ったかのような目をして当真の手を握り込んでいる。目を潤ませ、頬を上気させて、凛々しい眉を下げたその顔は、全人類が一目で恋に落ちるだとうと思うほどに美しい。
 その誰しもの心を蕩かすような告白に、当真は唇を薄く開いて――。
「ゴメンけど無理」
 目にも止まらぬ速さで切り捨てた。
 当真は肩の高さまで右手を挙げて、死んだ目をして言い切った。
 そこには一切の逡巡がない。当真の眼の奥には冷たくも温かくもない、ただ黒いだけの虚無が横たわっている。
「あのね。ホンット~に申し訳ないんだけど、俺君のこと全く覚えてないんだわ」
「あっ……う……」
「そういう小さい頃の記憶ってのが全くなくてね。君の話にも全然ピンとこないんだよね」
 思い出そうとしてみたけれど駄目だった。頭の中に黒い霧がかかっていて、記憶の箱には頑丈な南京錠が取り付けられている。
「それに俺、自分の恋愛とか興味ないから。本当に」
「えっ」
「俺はあくまで当て馬なの。メインカップルになりたいわけじゃないの」
「当て……? メイン……?」
「……はっきり言わせてもらうけど。俺は他人の恋路にしか興味が持てない変人だ!」
 当真は自分の胸を親指で指した。
 変人の自認があったのかと思われそうなものだが、当然あるに決まっているだろう。
 己の可処分時間のほとんどを当て馬となることに費やす人間を変人と呼ばずして何と呼ぶ。これで自分を常識的な一般人だと思い込んでいたとしたら、それは変人というより最早不審者だ。今すぐに自分を客観的に見つめ直した方がいい。
「君が出会った……? 本当に出会ったのかどうかは知らないが。まあ仮に君の記憶が正しいとして、君が出会った頃の俺と今の俺では多分生まれ変わったレベルで性格が違うぞ?」
 幼き頃の青崎少年もまさか、小さな頃に遊んでくれた近所のお兄ちゃんがこんな方向性に進化を遂げているとは思うまい。
 彼の初恋を無惨に破壊してしまうようで申し訳ないが、これははっきりと断言しておかなくてはならない。彼の中にある思い出の君と今の自分は、ただ顔が似ているだけの別人であると。
「そ、そんなことねぇです!」
「そんなことあるよ。よく見なよ」
「見ていいんすか……!?」
「え、何。限度はあるよ……」
 積極的に身を乗り出され、当真は微妙な表情を浮かべて身体を後ろへ下げた。自分のペースで距離を詰めるのには慣れているが、強引に迫られることへの耐性はないからだ。
 青崎は目をカッと見開いて、まじろぎもせずに上から下まで念入りに当真を見つめた。そして真剣な形相で頷く。
「宇宙でいちばん素敵です」
「目が死んでるのか? お前」
「! お前って呼んでくれた……!」
「何で嬉しそうなんだ」
「距離が縮まった気がしました!」
「気のせいだよ」
 青崎は可視閃光現象のように眩い視線を当真へ送った。
 当真は唇を噛んで背を反らした。酷く居心地が悪かったからだ。
 こんな想定外は少しも望んでいない。映画を一本撮ったって良いほどのイケメンの恋路をこんな所で消費してどうする。もしもこの世界に脚本家が居たとして、これがその筋書き通りに発生した事象だというのなら、当真は即刻その脚本家をクビにするであろう。
「……とにかく。君がどう思っていようが、俺は君に興味がないの。恋愛的な意味で」
 どうやらこの青崎という男は、自分が思っていた以上に面倒な性質らしい。こんなに凛々しい顔をしておいて人の話を全く聞かないし。
 ここは明確に一線を引いておく他ない。当真はこれといって特徴のない顔に「心の底から迷惑です」という文字を貼り付けた。
 これ以上一ミリでも距離を縮めれば乾いた舌打ちが飛んでくるに違いないと思わせる顔だ。これには流石の青崎も引き下がる他あるまい。
「で、でも! 俺、これから好きになってもらえるよう努力します!」
 訂正。引き下がらないこともある。
 青崎は自分の胸を押さえ、硬く目を閉じ、顔を真っ赤にして叫んだ。
「俺、先輩に振り向いてもらえるよう頑張りますから……! ダメなところがあれば直します!」
「そういうことじゃなくてね」
「……はい」
「君に何か問題があるわけじゃないの。単純に俺は自分の恋路に関心がないだけ」
 彼が相手だから断ったわけではない。そもそも当真の心は誰かに特別傾くことがないように作られていて、だから彼の好意に応えることはできないというだけの話だ。
 つまりこの先彼がどんなふうに努力をしても、当真が彼に対して恋慕の情を抱くことはないわけだ。
 ならば半端に希望を抱かせるよりも、はっきりと拒絶した方が彼のためになるだろう。芽が出ることのない種に水を撒き続ける行為ほど虚しいものはない。
「大丈夫だ青崎くん。君ほどのイケメンならばきっとすぐに良い相手が現れる。その時は是非とも! 俺を使ってくれ! いや使え! 当て馬として!」
 怒られた犬のように萎れて俯く青崎の肩を優しく二度叩いて、当真はそれから熱く自分を売り込んだ。彼の気持ちに応えることはできないが、彼の心が別の方へ向くというのなら諸手を挙げて協力しよう。
 さて、こうまで脈がないことを示したのだから、彼もそろそろ諦めたことだろう。奇人アピールは十分に済ませたのだし、百年の恋も凍り付いたはずだ。
 腕を背中側に回し、身体を斜めに傾けて、彼の顔を覗き込んだ。そして当真は頷く。おお、ビビるほど綺麗な面だ。これまで彼の顔写真が芸能事務所に送られなかったことが奇跡のようなものだ。こんなにも美しい顔をしているのだから、もっと素敵な方へと矢印を向けてもらいたい。
「……ま、待ってくれ!」
 そうして当真はその場から立ち去ろうとしたのだが、そこで青崎に呼び止められた。
 話はもう完結したはずなのだが。そう思いつつ、顔だけを青崎の立つ方へと向ける。そして「まだ何かあるの?」とでも言うように頭を軽く右へと倒す。
「あ、あの」
「はあ」
「付き合ってほしいっていうのは、欲張りすぎました……。いや、恋人になってほしいって気持ちは、全然、変わんねぇんですけど……」
 青崎が巨大な図体を小さく縮めながら言う。当真は扉に手をかけたまま曖昧な相槌を打った。
「好きでいることは、許してほしいっつーか。あと、出来れば傍に居させてほしくて! こ、子分としてでも良いんで!」
「いや、間に合ってます……」
「だめですか……? 俺を子分にすれば毎日カレーパンを買ってくるというのに……?」
「要らん……。自分のアピールポイントそこなの?」
「あと手相とかも見れるし」
「意外な趣味だな」
「心理テストもメッチャ知ってます」
「そういうの好きなんだ」
「その上何も見ずにサイコパス診断もできます」
「そんな子分は嫌でしょ」
「どうっすか?」
「何が「どうっすか?」なんだ? 普通に結構です……」
 当真が頭を振ると、青崎は雷に打たれたような顔をして膝から崩れ落ちた。逆に今の口説き文句で了承すると思われているのが心外だ。当真は普通に迷惑そうな顔をして胸の前で手を振った。
「君のようなイケメンを顎で使う当て馬がこの世に存在すると思うか?」
「……」
「そんな顔をしたって無理なものは無理だ。ゴメンね、君のこと覚えてなくて」
 当真は彼から顔を背けて、彼を見ないままひらひらと右手を振った。
 淡白な返事は自分でも冷たいと思うものだったが、それに心が痛むことはなかった。何故なら当真は本当に自分の恋に興味がないからだ。それに付随して、自身へ向けられた好意にも。
 するとそこで、背を向けた方から「なら……!」と切羽詰まった声が聞こえてきた。
「その当て馬? ってヤツに、俺も協力します!」
 言われて、当真の動きが止まる。そして数秒経ってから当真は顔を上げ、彼の方を向いた。
 青崎は小さな汗を飛ばしながら、焦りの滲んだ声を口の中で転がしていた。
「当真先輩のやりたいこと、何でもお手伝いするんで……! 俺、どうにか役に立ちます! だから……」
「……君が? 当て馬に?」
「は、ハイ!」
 硬く目を閉じた青崎が、授業中に先生に名指しで呼ばれたように背筋を伸ばす。
 当真は顎に指を当てて、彼の姿を上から下まで遠慮なく凝視した。
「そう。君が……」
 当真は顔の下半分を手で隠し、もう片方の手で腕を摩りながら思案する。
 当真は自分を客観的に理解していた。目は吊り気味、顔は凡庸、無表情だと怒っていると誤解されるので、いつも酔っぱらったように笑っている。身長は平均より少し高く、いくら食べても太らない体質のため身体に肉がほとんどついていない。
 そんな自分の性能は、ゲームのガチャで例えるならば良くてレア(R)だ。つまりは特別性がなく、代替品がいくらでもいる。
 当真はそんなRなりに当て馬として尽力してきた。手を変え品を変えキャラを変え、どんな状況にも柔軟に対応できるよう多様に振舞ってきた。だがRのスペックではどう足掻いても手の届かない場所がある。
 そう、それは――イケメン系当て馬属性である!
 当て馬となる条件。そこには多少なりとも〝魅力的であること〟が含まれているのではないか、と当真は思う。
 考えてみれば当然のことだ。自分の想い人へ言い寄る者が、どうしようもなく低俗で何の魅力もない退屈な人間だったとして、果たして焦りを感じるだろうか? 「好きな人が取られてしまう!」と思うだろうか?
 否、思うわけがない。勿論良い気持ちにはならないだろうが、そこで抱く感情はどちらかと言えば、あまりにもしつこいナンパや未成年を口説こうとするいい歳をした大人に対するものに近いはずだ。追い払おうとはするが、心を掻き立てられるような焦燥に駆られることはない。好意を自覚させるにはあと一歩足らない。
 要するに当て馬に必要なのは「このままだと自分の立場が奪われてしまう」と思わせる圧迫感、言い換えれば「この人になら彼(もしくは彼女)が惚れてもおかしくない!」と思えるような魅力なのである。
 その点、「美形」という属性はあまりにも強い。顔が綺麗ということは、それだけで魅力的であるということだからだ。RよりSSRの方が高い攻撃力を持つのは当たり前だ。陳腐で安っぽい台詞でも、それが美形の口から紡がれたというだけで万人の心を震わせる破壊力を纏う。
 しかし当真の顔立ちは至って平凡、記憶に残るほど不器量ではないが記憶に残るほど美形でもないという塩梅だ。つまりは黙っていれば背景と化す。これで当て馬となるには役者不足であるという他ない。
 そんな生まれつきの力不足を、努力と愛嬌で何とか補っているのが今の当真の現状だ。
 であるからして、時折思うことがある。自分の顔が整っていたならば、もっと幅広く当て馬として駆けることが出来たのではないかと。
 当真は親指の爪に歯を立てて、青崎の姿を研究者のような眼差しで観察する。
 彼の容姿は非の打ちどころがないほど美しい。整い過ぎていて冷徹に見えるきらいはあるが、喋ってみればなかなかどうして可愛げもある。つまりは自分の好きな人の隣に居たら嫌だなと思うような男であり、それ即ち「当て馬として満点である」ということだ。
 彼が当て馬となれば、これまで以上に鮮やかにカップルを成立させることができるだろう。結べる二人の絆の幅も広がるだろうし、当真では力が及ばず諦めていた者たちの架け橋にもなれるはずだ。
「――青崎くん」
「ハイ!」
「君、本当にやる気はあるの?」
「ハイ! あります!」
「俺の趣味に付き合うってことは、変人の仲間入りをするってことだぞ? それでもいいの?」
「当真先輩の傍に居られるなら何だってやります!」
「そうか……」
 美しく澄んだ眼差しを向けられる。その誠実な表情を前にして、当真は深く頷き、彼の肩に薄い手のひらをのせた。
「――分かった。今日から君は『当て馬二号』だ」
「……! はい! 精一杯頑張ります!」
 当真がそう告げると、青崎は褒められた子犬のように顔を輝かせて頭を下げた。透明な耳と尻尾がブンブンと音を立てて揺れている様を当真は幻視した。それと同時に「彼はなんて趣味が悪いんだろう」とも思う。これほど忠告したというのにまだ折れないとは。
 だがまあ、いい。当て馬活動の可動領域を広げることができるのであれば、それは当真にとって悪くない話だ。
 すると青崎は切れ長の目を細めながら、当真の前で首を傾げながら言った。
「あの……」
「うん?」
「それで、その、当て馬? って、何ですか……?」
 当真は口の端を引き攣らせた。そして閉じた歯の隙間から息を漏らしつつ思う。
 ああ、これは前途多難だ、と。