当真は勢いよく空き教室の扉を開けた。
こじんまりとした教室の中では、青崎が社会の教科書を開いて必死に小声で読み上げている。そんな彼は顔を上げ、当真の存在に気が付くと、急いで教科書を閉じて立ち上がった。
「こっ、こんにちは!」
「こんにちは」
当真は軽快に足を浮かせて、スキップするように教室の敷居を跨いだ。そして青崎の前に立って、高い所にある彼の頭に手を伸ばす。青崎は自然と頭を下げ、当真は犬を撫でる時のように彼の髪を梳いた。
ひとしきり彼を愛でてから、背負っていたリュックを下ろして机の上に載せる。腕を伸ばし、首を回して、当真は彼の肩に手をのせた。
「さて青崎くん」
「はい」
「俺たちが次に当て馬となるのは陸上部の二人だ」
当真は目を爛々と輝かせて言った。
「この二人は幼稚園からの幼馴染でね。俺が見た所確実に両片思いなんだが、如何せんどちらも鈍いばかりに全く自分の気持ちに気がついていないんだ。そこで俺たちが当て馬となって彼らの恋を後押ししたい」
つらつらと説明する当真の前で、青崎は重要な試験範囲をノートに書き記す学生のように真剣な表情でメモを取る。それから彼は当真の顔を、その美しき鈍色の瞳で見つめた。
「当真先輩……」
「うん?」
「何だか、すごく楽しそうですね」
身を乗り出した青崎が不思議そうに首を傾げる。
当真は目を瞬かせて、彼から目線を外して、人差し指の先で頬を掻いた。
「……そう見える?」
「はい。前より、ずっと」
「実はそうなんだ」
当真は「バレたか」とでも言うように目を細め、薄く開いた口から小さな苦笑を零した。
青崎の言葉は的を得ている。当真の目に映る景色はこれまでよりもずっと、青空のように鮮やかで、見惚れるほどカラフルで、溌剌としたエネルギーに満ち溢れていた。
「俺、気づいたんだよね」
ソファに身体を預け、足を揺らしながら当真は言う。
「俺の事情とか、今までのこととか、そういう色んなこと抜きで考えてもさ。やっぱり俺は、幸せに結ばれる誰かを見るのが純粋に好きなんだ」
過去のトラウマや独りでいることへの寂しさ、誰かの架け橋になることへの執着心。青崎に心の隙間を埋め立てられて、そういう入り組んだ執着心が薄れたことで、やっと当真は本来の自分に目を注ぐことができた。
そんな今だからこそ胸を張って断言できる。
これは当真の純然たる趣味なのだ。誰に誇れるわけでもなく、誰のためというわけでもなく、ただ純粋に、「そうすると自分が嬉しくなるから」というだけの。
飾らない笑みを浮かべる当真に、青崎は少しの間静かに口を閉じて、それから自分の角ばった手のひらで当真の指を優しく包み込んだ。
「それ、すごく素敵なことだと思います」
「君がそう言うなら、そうなんだろうな」
当真はゆっくりと背筋を伸ばし、弾みをつけて立ち上がった。そして右手で軽く腹を摩りつつ、子供っぽい仕草で青崎の腕を引く。
「お腹空いたな。何か食べに行かない?」
「行きます。……へへ」
「? なんで笑ってるの?」
「デートみたいで、嬉しくて」
「デートだよ」
「……えっ」
当真は彼を見ないままポケットの中に携帯と財布を突っ込んだ。
青崎はしばらくの間空気を吸って吐くだけの機械と化していたが、迷いなく扉を開けて部屋を後にする当真の背中を見て我に返り、慌てて当真の影を追いかけたのだった。
「当真先輩、これ美味しいですよ」
「ホント? 一口ちょーだい」
迷いなく差し出されたチーズ入りのワッフルをはむ、と頬張って、当真は背景に花を散らしつつ口を動かした。唇の隙間から煙のような湯気が漏れる。熱い、だが美味しい。
「あふ」
「火傷してませんか? 大丈夫すか」
「平気。俺の舌超強いから」
「ああ……」
先日泊まりで遊んだ際に、煮えたぎる鍋の中身を「うん。いけるいける」と言いながら平気で掬って口に突っ込んでいた当真の姿を思い出し、青崎はぼんやりとした顔で頷いた。
「そういや当真先輩って何で大食いなんですか? 昔からそうなんですか?」
「小さい頃に俺の暴食を止めてくれる人が居なかったからじゃないか?」
「おわ……」
「気づいた時には胃袋がデカくなってた。太らない体質だったから何とかなってるけど。にしたって燃費が悪い……」
そうぼやきながら口の端を親指で拭う。そこで当真は前を向いて、ふいに目を見開いた。そして青崎の服の裾を引っ張る。
「ねえ。あれ、青崎くんのお母さん?」
「え」
青崎はぎょっとした様子で口を半開きにした。
少し離れた所に見知った女性が立っているのを見かけ、当真は一歩二歩と軽快に足を前へと繰り出した。そして自身の唇の近くに手を添える。
「こんにちはぁ!」
「あら? ……ああ! 春人くん!」
「三日ぶりですねぇ。今はお買い物中ですか?」
「そうなのよ。今からスーパーに行く所で……」
「おひとりですか? 俺暇なんで荷物持ちしますよ」
「いいのよぉ、ちょっと足りない調味料を買い足すだけだから。でもありがとうねぇ。相変わらず気の利く子だわ」
青崎の母は上機嫌に微笑んだ。
そんなふうに仲睦まじく、気安く歓談する二人を見て、青崎は少し顔を引き攣らせる。二人がそんなに仲良くなっていたということを全く知らなかったからだ。彼氏と母親の距離が絶妙に近い。何だか複雑な気分だ。
「あの。母さん。もうこの辺りで……」
「春人くんはうちの子とデート?」
「はい」
「あらぁ~。微笑ましいわねえ」
「母さん!」
顔を赤くした青崎が母と当真の間に割って入る。当真はその背中を見つめつつ、生温い視線を彼へ送った。
どうやら彼は巨大な居たたまれなさに襲われているらしい。思春期真っ盛りの高校男児がデート中に自分の母親と遭遇してしまう、という状況が心を苛んでいるのだろう。目の奥で「頼む! この時間を終わらせてくれ……!」という切なる炎を燃やす青崎に、彼の母もまた当真と同じような生温い眼差しを向けた。
「分かったわよ。邪魔して悪かったわね。……春人くん。うちの子ちょっとボーッとしてる所があるけど、いい子だからよろしくね。あ、それからイトくん。今日お父さんもお兄ちゃんも早く帰ってくるから、夜ご飯どこか食べに行くかも……」
「分かった、分かったから!」
ありったけの焦りを浮かべつつ、青崎は母の背中を押した。当真はにこやかに手を振って彼女を見送る。そして青崎の肩をそっと叩いた。
「いいお母さんじゃないか」
「ううう……!」
「そう恥ずかしがることないよ。仲が良いのは素敵なことだ」
当真は何の含みもない声で言った。
青崎が顔を上げる。当真を見つめる。当真は緩やかに眉を下げて、少しはにかみながら頬を掻いた。
「……羨ましい」
「ぁ」
「って、素直に思えるようになったんだ。しかもポジティブな意味で」
秋の風のように涼やかな瞳。そんな両眼から生み出されし軽やかな視線を、当真は驚いた様子の青崎に向ける。
「これって結構凄いことだよ。表彰台で言えば、一番高い所って感じ」
当真は笑って言った。
それに青崎が目を丸くする。そして彼は腕を伸ばして、当真の頬に自分の頬を寄せて、ぎゅっと当真を抱きしめた。「何だよ、もう」と当真は呟いた。
「……いつか、俺さ」
「はい」
「今じゃなくても良いから、二人に……両親にね、手紙でも書いてみようかなって思うんだ」
当真は眩しそうに目を細めて、青崎の肩に頭をのせた。
「今更二人をどうにかしたい、とか。そういうわけじゃなくてね……。そりゃ大変だったこととか、嫌だったこととかもあったけどさ。感謝してることも、いっぱいあるからさ」
「……はい」
「だから、元気にしてるのか、とか。今何してるのかとか。そういうことを聞いてみたい。……迷惑かな、これ」
「……もし迷惑に思われたとしても、書いちゃいましょう。当真先輩の好きなように」
「いいかな?」
「はい。いつかその時が来たら、一緒に何を書くか考えましょうね」
「君と?」
「何ですかその顔は。これでも俺、昔から作文だけは得意なんですよ? コンクールで賞を取ったこともあるし……」
「そうなの!? 今度読ませてね」
心地の良い風が肌の傍を吹き抜けていく。
そこで青崎が立ち止まる。当真は彼へと鼻先を向ける。すると彼は当真の頬を両手で挟んで、額同士をゆっくりと触れ合わせた。
「当真先輩……」
彼の声は柔らかな熱を帯びていた。
少しずつ彼の整った顔が近づいてきて、優しい手つきで頬を撫でられる。当真は目を半分だけ閉じる。
そして唇同士が接する直前、当真は何気なく遠くを眺めて、そこでカッと目を開いた。
「あっ!」
「えっ?」
突然当真は声を張り上げ、それに驚いた青崎が手を離す。
当真は血相を変えて、青崎の肩を跡が残りそうなほど強く掴み、まるで偶然街中で大好きなアイドルと出会ったのかと思うほどに必死な顔で遠くを睨んだ。
「あの二人!」
「え、えっ?」
「丁度当て馬しようと狙っていた二人組だ!」
「え。どこですか」
「し、しかもあの様子は、絶賛喧嘩の真っ只中だ……!」
当真は口を押さえ、拳を固く握りしめた。
当然甘い空気は霧散して、キスのタイミングは完璧なまでに押し潰されてしまった。それに青崎は肩を落としつつも、目を輝かせる当真の横顔を浴びて「まあいいか」という気分になる。
当真の笑顔を特等席で見ること。それが青崎にとっての、何よりも特別な幸せなのだ。
「こうしちゃいられない! 青崎くん、二人を追いかけるぞ!」
当真は彼に手を伸ばした。
青崎は彼の手を取って、「はい!」と叫んだ。
「どこへなりとも、お供します!」
笑って言えば、当真もまた同じように歯を見せて笑った。
春の日差しのように、屈託のない顔で。
