隣町のカフェの店内で、カフェオレの底に溜まったシロップを掻き混ぜている青年は、自分のことを「江波誠」と名乗った。
当真は店員に渡されたメニューを眺めつつ、さり気なく江波の様子を伺う。
「オレのことは好きなように呼んでくれて良いよ」
「じゃあ、江波くんっていうね。……あっ、すみませーん! この欧風カレーと、ナポリタンと、あとデザートにいちごパフェ一つと、本日のおすすめケーキお願いします」
「おお……」
彼は唖然とした様子で、自由奔放にメニュー表を読み上げる当真に信じられないものを見る目を向けた。
「それってまさかオレの分も入ってる?」
「? ううん。俺の分だけ。あ……一緒に何か頼んだ方が良かった? あんまりお腹空いてなさそうな顔に見えたんだけどな」
「いや、そうだけど。え、一人で食うの?」
「うん」
「人って見かけによらないなあ」
頬杖をついた江波が意外そうに目を瞬かせる。それから彼は背を伸ばし、抑揚に乏しい声色で当真に話を切り出した。
「当真さんってさあ」
「うん?」
「イトくんと付き合ってんの?」
当真は音もなく咳き込んだ。手の甲で口を押さえて、世界一静かな呼吸困難に陥る。
「っ、けほっ、な……」
「付き合ってないの?」
「な、ないよ!」
慌てて鼻の前で右手を振る。熱気が一挙に顔へと押し寄せてきて、なんだか酷く居たたまれない気分になった。
「本当に付き合ってないんだ」
「ないよ」
「そっか。良かった」
「よか……、ん?」
江波の返答に相槌を打ったのち、当真は目を点にして背筋を正した。頭の後ろを固いもので殴られたような眼差しで、彼の温和な微笑みを凝視する。
すると江波は目を細めながら、聞き心地の良い落ち着いた調子で言った。
「オレ、好きなんだよね」
イトくんのこと。
と、彼は凪のような声で打ち明けた。
当真は瞬きの方法を忘れ、彼の顔を呆然と見つめた。一瞬だけ頭の中が静かになって、当真は口を閉じる術を見失ってしまった。
「――そ。う、なんだ?」
しかし腹に力を込めて何とか持ちこたえる。当真はすぐに心を透明にして、口を薄く開けて微笑んだ。
「江波くんは、いつから彼のことが好きなの?」
「中学校の頃からかな」
「へえ。同じ学校だったの?」
「そう。高校に入って離れたけど、中学の三年間はずっと同じクラスだったんだ」
温かい紅茶に口をつけながら、当真は青崎が尋常でなくモテる男であったことを思い出した。
彼の中身はドのつくポンコツとしか言いようがないけれど、一方で彼は善良だし、思いやりはあるし、何より顔が良い。つまりは男女問わず好かれる性質の男だ。そりゃあ彼に想いを寄せる人間は星の数ほどいるだろう。
「だから付き合ってないって聞いて安心した。それならオレにもチャンスがあるってことだよな?」
「そりゃ……」
頷きかけて、そこで動きを止める。
……彼は、青崎が自分に告白したことを知っているのだろうか。付き合っているのか、と尋ねてくるくらいだから、他の人より特別仲が良いとは思っているのだろうが。でも彼の話を聞いた上で、「青崎くんって俺のこと好きなんだけど、それは知ってる?」と問えるわけもない。
何と答えるべきか二の足を踏んでいると、そこで江波は机に手を突いて、思い悩む当真へと顔を近づけた。
「実はね。オレ、キミに頼みたいことがあるんだよ」
「頼み……」
「そう。キミに協力してほしいんだ」
当真は彼にぎゅっと手を握られた。当真を見つめる彼の瞳の奥は、朝露のような輝きを放っている。
「オレとイトくんのことを応援してほしい。今一番彼と仲が良いのはキミだって聞いたから」
彼は真剣に言った。
当真はしばらく彼の言葉を咀嚼して、飲み込んで、胃の中で溶かした。それから頭のネジを何とか回して顔を上げる。
そして勢いよく彼の両手を握り返し、顔中に色鮮やかな活力を漲らせた。
「……そ、りゃ、勿論!」
「いいのか?」
「当然! こう見えても俺は、当て馬として恋を成就させることには定評があるんだ」
当真は胸を張って、握りこぶしを身体に軽く打ち付けた。
「任せてよ。俺、こういうのは得意なんだ」
彼の手を上下に振りながらそう言うと、江波は嬉しそうに愁眉を開いて微笑んだのだった。
***
だってさあ、と、当真は晴れた空を眺めながら思う。
――俺ってば、確かにお金持ちだけどさ。それだって、結局父さんのお金だし。
というかその父さんとももう二年近く会ってないし。定期的に父さん名義で銀行にお金が振り込まれてくるから、多分元気にはしてるんだろうけど。今更連絡取る勇気なんてないし、取ったところで迷惑に思うだけだろうし。
顔だって普通だし、運動だって不得意だ。頭はそこそこ良いけれど、それだって結局一握りの天才には敵わない。
それに、自分が誰かを好きになる所なんて想像がつかない。
好きになって、それで上手くやっていけるとも思えない。
友達として、当て馬としてなら完璧に立ち回れるけれど、でも多分家族とか、恋人とか、そういうのには向いていない。
現状を見ればすぐに分かることだ。自分は彼の好意に甘えたまま、彼の告白に応えることもなく、〝彼が自分を好きでいてくれている今〟を怠惰なままに受け入れている。
そんな人間に、青崎のような純粋で善良な男の隣に立つ資格があるとは、とてもじゃないが思えなかった。
誰かを好きになったことがないから、当真には恋がどんなものなのか分からない。本当の意味での恋を知らない。
でも青崎のことは、人として、友達として好きだと思う。
だから幸せになってほしい。
そんな中で現れた江波という男は、知れば知るほどに魅力的で、まさに青崎の隣に立つに相応しい青年だった。
物腰は柔らかく、穏やかで、滅多なことでは怒らない。それに春光のごとく柔和な顔立ちをしていて、いつも眠たくなるほどゆっくりと優しく喋ってくれる、そんな男だった。
彼は中学の頃から同じクラスだった青崎にずっと片思いをしていて、その恋は進学で離れてしまった今でも続いているのだという。数日前に彼は偶然街中で青崎に再会し、そこでどうにか連絡先を交換できたのだそうだ。
「中学の頃はさ。イトくんってどこのグループにも属してなくて、誰も彼の連絡先を知らなかったんだよ」
「ああ、なるほど……」
「だからこの間ばったり街で会って、聞くなら今しかない! って思ったんだ」
彼は嬉しそうに両手で頬を押さえた。彼の長い睫毛が日差しを反射して、水面のようにきらきらと輝いていた。
「キミが協力してくれるなら心強いよ。だってイトくん、ガードが堅いからさ。一緒に遊ぶ約束を取り付けるのすら難しいんだ」
江波は目を輝かせてそう言った。
当真はふむ、と頷いた。そして唇に浅く歯を立て、真剣に考え込む。
これまで当真は当て馬としていくつものカップルを成立させてきた。が、そのほとんどが今回の場合は当てにならない。
何故なら当真は今までずっと〝フラれ役〟に徹してきたからだ。二人組の片割れと接点を持ち、適度に絡み続け、そして最終的には呆気なく袖にされる。そういうやり方で当て馬役を担ってきた。
だが青崎相手にはその方法が通じない。それが何故かと言えば、彼は初めから当真に好意を示しているためだ。
……こういう時当て馬となるには、〝昔好きだった人〟の枠に収まるしかない。
要するに綺麗な思い出となるわけだ。
昔好きだったけれど、今はほろ苦い失恋の記憶と共に胸の奥に仕舞っている人。そういう位置に立つことができれば、彼の恋の邪魔をすることなく綺麗に舞台から退場することができるだろう。
よし、と当真は拳を固く握りしめた。
一人の友人として、当真は青崎の幸せを願っている。心の底から「好きだ」と言ってくれたのは彼が初めてだった。だからこそ彼には手垢のついていない幸福を掴み取ってほしい。当真は心の底からそう願っている。
「……あ」
休日の昼下がりに、昼食を取るため街に出かけた時、当真は偶然二人が歩いている姿を見かけた。
彼らは雑貨屋の前に並んで立っていて、二人で顔を見合わせながら、洒落た小物を手に取って話している。
当真はその背中を見て、「何だ、休みの日にデートしてるんだ」と無意識に思った。
随分と仲が良いじゃないか、とも思う。青崎はパーソナルスペースの広い男だ。基本的に人見知りであり、心を許した相手の前でしか気の抜けた笑顔を見せない。そんな彼が休日に二人きりで遊ぶことを受け入れているのだから、青崎は十分江波に対して心を開いていると見ていいだろう。
当真は自分でも気づかない内に、自身の胸を強く押さえていた。身体の中を冷たい風が通り抜けていく。まるで心臓の辺りに巨大な穴が空いてしまって、そこを乾いた空気が自由に出入りしているかのように。
それから当真は我に返って、水を浴びたあとの犬のように首を振った。そうして「なんだ」と思ってしまったことにショックを受ける。だってこれは良いことのはずだ。願ってもない展開だ。手を叩いて黄色い声援を送りこそすれ、決して俯くような場面ではない。
この状況で自分にできることはない。たまたま居合わせてしまったことがバレない内に、さっさと影も残さず立ち去るべきだ。
と、そう思っていたのに。
「――あ、れ。偶然、だね」
「! 当真先輩!」
気づいた時にはマスクまで外して、青崎の背中を軽く叩いてしまっていた。
振り向いた青崎の顔がぱっと輝く。その星空のように綺麗な瞳を見て、当真は冷水を浴びたような心地になった。背中の窪みを溶けた氷のような汗が伝っていく。
自分は一体何をしているのだろう。デート中の二人の間に割って入るだなんて、当て馬として失格にも程がある。普段の当真ならばたとえ高熱に魘されていたとしてもしないはずの、落第級の最悪な行為だ。
「ごっ。め、ん。邪魔、しちゃったね。ごめんね」
「あっ。とう……」
「じゃあね、楽しんでね!」
生色を失ったまま、当真は彼らに手を振った。そして二人に背を向けて、振り返ることもなく早足で歩く。十分に彼らから離れた所で立ち止まり、そのまま頭を抱えて座り込む。
「やっ……」
やってしまった。
とんでもない失態だ。これでは彼らの恋路をただ無暗に邪魔しただけだ。
本来ならば彼に話しかけることすら控えるべきなのだ。青崎から完璧に距離を取ることで、初めて当真は当て馬の枠に収まることができるのだから。
こんなつもりじゃなかった。
そんなのはただの言い訳だ。
当真は両手を顔に押し付けて、「どうにか挽回しなくては」と祈りを捧げるように深く誓った。このままでは合わせる顔がない。この失敗は完璧な立ち振る舞いで埋め合わせなければ、と。
しかしそれからというもの、やることなすこと何一つ上手く行かず、当真は虚しい空回りばかりを続けてしまうことになる。
校内を歩いている青崎を見かけるとつい声を掛けてしまうし、その癖一言二言しか喋れずにその場から逃げてしまう。江波に関する話題を振ろうにも、何故か言葉が詰まって出てこない。二人にプレゼントしようと思って買った美術館のチケットは、結局有効期限が切れたためにただの薄っぺらい紙切れと化した。
「ごめん。ホンットごめん。俺、全然役に立てなくて」
「いや、気にしないでよ。オレだって最初から上手く行くとは思ってないからさ」
当真が何度も頭を下げると、江波はさっぱりとした笑顔を浮かべて頬を掻いた。その他責を含まない爽やかな仕草が余計に心を苛む。
「ゴメンね……」
「良いって。気にしないで。つか頼んでるのはオレの方だし。当真さんの方こそ、嫌になったらいつでもやめていいから」
返しのついた棘のように、彼の言葉が胸に突き刺さった。こんなにも良い人だからこそ心苦しい。いつまで経っても背中を押せないのがもどかしかった。
――なんで、こんなにも上手く出来ないんだろう。
当真は自分自身にそう問いかけた。
これまではもっと器用に、要領よく、笑えるほど完璧に全てを乗りこなすことができた。自分が何をするべきなのかが手に取るように分かった。
なのに、今の自分はどうだ。向かいたい未来とは正反対の方にばかり足を踏み外して、目の前に転がっていると分かっているはずの石を避けることすらできない。
「はあ……」
深いため息をつく。
ここ最近は青崎に会っていない。いや、会わないように気を配っている、と言った方が正しい。彼と江波のためを思うならそれが正解だ。
なのに、常に背中に虚しさが付き纏う。理由の分からない虚無感が。身体の建て付けが悪くなってしまったかのような座りの悪さが。
――一体今、彼は何をしているのだろう。
気を抜くとそんなことを考えてしまう。彼が今どこで何をしていようと、自分が気にする必要はないというのに。
「……んぱい」
こうして彼の声が頭の中で再生される始末だ。そんな声を振り払うように当真は顔を顰めて、両耳を軽く両手で叩いた。
「当真先輩!」
「え」
するとそこで腕を掴まれた。
顔を後ろに向けると、そこには見慣れた美しい男が立っている。当真は目を見開いた。
「な……」
「先輩。今から帰る所ですか?」
「ぁ。う、ん。そう、だけど」
「なら一緒に帰りましょう」
彼は人懐っこく笑った。
当真は足を引きずって、彼から一歩ずつ距離を取る。
「いや。その。俺は……」
「最近。一緒に居る時間が少ないから、ちょっと寂しくて」
青崎は鞄の紐を握りしめながら俯いた。当真は彼の前で尋常でない量の冷や汗をかいた。額に雫が浮かぶ。青崎はそれに気づいていない。
彼は頬を掻きながら、当真に期待のこもった眼差しを向けた。
「だから、今日こそは一緒に……」
「――嫌」
彼の口が弧を描いたまま硬直する。
当真は思わず自分の唇を押さえた。自分は今、何と言ったのだろう。それを明確に把握する暇もなく、指の隙間から未検閲の言葉が溢れ出す。
「い、いや」
「っ、は」
「嫌だ。イヤ」
当真は首を横に振りながら言った。
はっきりと当真の口から発せられた「嫌」の一言に、青崎は頭を鈍器で殴られたような顔をして呆然と立ち尽くす。そんな彼に背を向けて、当真は走ってその場から逃げ出した。
嫌だった。
彼が自分以外の誰かに取られてしまうのが、どうしようもなく嫌だったのだ。
今になってそれを自覚した。目元が熱くなって、喉の奥から引き攣った声が漏れる。
心の奥の秘密部屋。そこに閉じ込めていた子供の自分が、「誰にも取られたくない」と泣き喚いて癇癪を起こしている。
背中なんて押せるわけがなかった。自分が一番そうなってほしくないと呪っている未来に、どうして笑顔で飛び込むことができようか。
「っ、ゔっ」
「だ、大丈夫ですか!?」
日頃の運動不足が祟り、すぐに体力は底を尽きた。足がもつれて転んだ当真の顔を、通りがかった高校生が驚いた様子で覗き込む。
当真は「平気」と「大丈夫」を繰り返しながら立ち上がった。僅かに垂れてきた鼻血を手の甲で拭う。後ろを振り返る。そこに青崎の姿はなかった。それに当真は色褪せた安堵感を覚えた。
でもそれと同時に、「もう逃げられないな」とも思う。
逃げ続けていた自分の心に向き合わなければいけない。
――俺は、青崎くんのことが好きだ。
その色のついた感情を、当真はやっと直視した。
春によく似た、目の眩むような初恋を。
***
日曜日の昼過ぎに、当真は缶ジュースを片手に持って公園のベンチに腰かけていた。
赤く染まった紅葉が紙吹雪のようにあちらこちらで舞っている。大きな茶色の犬とその飼い主らしき女性が正面を通り過ぎて、近くでは子供が氷鬼をして遊んでいた。
秋の空気は長閑で心地いい。
「こんにちは」
「……あ」
後ろから声を掛けられて、当真はすぐに振り向いた。
そこには紺色のキャップを被った江波が立っていて、彼は穏やかに微笑みながら当真の真向かいにやってくる。当真は少し腰を浮かせて、彼が座りやすいように身体を右に寄せた。
「ここ、どうぞ」
「ありがとう。つか待たせちゃった?」
「ううん。俺も今来たばっかだから」
当真が顔の前で手を振ると、江波はほっとした様子で頬を緩める。彼は当真の隣に座ってから、メッシュのキャップを右手で外し、雲一つない快晴の空を眺めた。
「涼しくなってきたね」
「うん。過ごしやすくて嬉しい」
「当真さんはもうお昼食べてきたの?」
「ここに来る途中でサンドイッチ買って食べたよ。駅前に美味しいお店があるんだ。こう、南口を出てね、ぐるっと回った所に……」
身振り手振りを交えながら説明する。そんな他愛もない話に耳を傾けながら、江波が柔らかい声で相槌を打つ。
そうして雑談に区切りがついたあと、当真は黙って彼の横顔を見つめた。缶に残っていた生温いジュースを飲み干して、口元を手の甲で拭う。そして彼の方へ身体ごと向き直る。
「……あのね」
「うん」
「今日江波くんに来てもらったのは、どうしても伝えなきゃいけないことがあるからなんだ」
やっと本題へと踏み込んだ。とにかく喉が渇いて、声の端が裏返りそうになる。全校生徒の前で答辞を読み上げた時にすら緊張なんてしたことがなかったのに。そんな緊迫感が伝わったのか、江波も顔の筋肉をそれとなく引き締める。
側面が窪むほどに強く缶を握りしめ、当真は意を決して口を開いた。
「俺。青崎くんのこと、好き、なんだ……」
身体の内側が燃えているように熱い。走ってもいないのに勝手に呼吸が乱れる。
当真は俯いたまま言った。江波の顔に目を向けることができない。きっと彼の顔を見たら、その瞬間に身体を動かす機能が止まってしまうからだ。
「好きだ、ってことに、この間やっと気が付いて」
「……そっか」
「協力するって約束したのに、裏切るようなこと言ってごめん」
喜んで応援すると言ったその口で、正反対のことを自供する。
そんなの不誠実だ。分かっている。後出しの我儘で約束を反故にするなど、面罵されたって文句は言えない。
でもこのまま黙って何にも気づかなかったふりをしている方が、それより余程不誠実だと思った。どちらにせよ険しい道を歩くことになるのなら、せめて正直な方を選びたい。
「こんな気持ちじゃ応援なんて出来ない、って思ったんだ」
自分の心に嘘をついたまま何かしようとしても、きっと碌な結果にならないだろう。それは江波に対しても、青崎に対しても迷惑のかかる行いで、きっと誰のことも幸せにしない。
「……だ、だからと言って、江波くんの恋路を邪魔するぞ、って宣言してるわけじゃなくてね」
「――」
「ただ、二人をくっつけるために何かしたり、無理に青崎くんから距離を取ったりするようなことは、出来ないと思うから……」
同じ人を好きになってしまったのだから、安全で、平和で、誰も怪我しない着地点を見つける方が難しい。どちらかの心が、あるいはどちらの心も傷つく道を、避けて通ることは不可能なのかもしれない。
それでもどうにか妥協点を探したいと思う。たとえ波風立たない選択なんてはなから無かったとしても、彼に真正面から向き合いたい。
「だから、ごめん。君たちを応援するって約束は、なかったことにさせてほしい」
当真は深く頭を下げた。
楽しそうに遊ぶ子供の声や、快活な犬の鳴き声が聞こえてくる。当真は硬く目を閉じて、着ていたシャツの端を強く握った。
しばらくの間、江波は何も言葉を発さなかった。
怒鳴られたって仕方がない、と当真は思った。もしも手元にコップがあったなら、その中に注がれている冷たい水を頭にかけられたっておかしくない。そんな想像が頭の中を駆け巡る。
だが、そこで。
「――だってさ」
怒るでもなく、悲しむでもなく、江波は天日干しした後のような声で、当真でない誰かに向けて言った。
彼の言葉が頭の中で反響する。葉の降り積もった地面に視線を落として俯いていた当真は、それから「え」と小さく呟いて顔を上げた。
そして瞼が痛くなるほど目を見開く。
「ほ、本当、ですか」
当真は声の作り方を忘れてしまった。
何故なら目の前に、ここには居るはずのない、よく見知った青年の姿があったからだ。
「な――」
「ほんと、ですか? 本当に?」
「なんで、君が」
「俺、てっきり、当真先輩に嫌われたのかと」
涙が零れ落ちそうなほどに瞳を潤ませた青崎が、動揺に目を見開く当真の手を握りしめる。
当真は深く困惑した。視線をぎこちなく動かして、青崎の整った顔を見上げる。
「な、何で、青崎くんがここに?」
当真は戸惑いながらそう尋ねた。
すると青崎は口をもごもごと動かして、答えにくい事柄を口の中で転がしているような表情を浮かべる。彼は自分の靴の先を見つめて、苦笑する江波に視線を向け、それから身体を一歩前に出して、硬く引き結んでいた唇を少しずつ開いて言った。
「……実は――」
***
「俺、どうすれば当真先輩を振り向かせられると思いますか?」
アルバイト先の休憩室で、コップの中の水に映る自分の顔を見つめながら、青崎は凛とした表情で真剣に問いかけた。
青崎に突然そう尋ねられた先輩二人――瀬古と月野は互いに顔を見合わせる。
「えっと……それって恋バナ?」
「っす」
「おお。珍しいじゃん。月野さんにならともかく、オレにまでそんな相談してくるなんて」
「まあ、藁にも縋りたい気分で……」
「誰が藁だ誰が」
瀬古に眉間を抓まれ、青崎は唇にいくつも皺を寄せた。そんな微笑ましい光景に月野が柔らかな笑い声を上げる。穏やかに目を細めた彼女は、それから青崎に向き直った。
「それって、今まで以上に当真くんに本気になったってこと?」
「そういうことです」
「お前、前に『付き合えなくても傍に居られるだけで良い』っつってなかったか?」
「っす。でもやっぱり付き合いたいなと思いました。俺は当真先輩の恋人になりたい……」
「自分の欲に素直になったんだな」
「あと当真先輩、俺がチューしても嫌な顔してなかったんで。多分嫌われてはないと思うんです」
「ブホッ」
あまりにも赤裸々すぎる青崎の物言いに驚き、瀬古は思わず盛大に咳き込んでしまった。まさか突然友人のプライベートが明け透けに暴露されるとは思わなかったからだ。シフトの都合で丁度不在の当真に対し、「まさかこんな所でぶっちゃけられてるとは思わんだろうな……」と哀れに思う。
「何で急に噎せたんすか?」
「お前のせいだよ、お前の。……てかそこまで進んでんなら、そりゃもうお前、脈ありじゃん」
「と、思いますよね?」
「おお? うん。違うん?」
「……それが、分かんねぇんです」
「分からない?」
「嫌われてない、とは思います。多分、好意的に思ってくれてる、とも。でも何でか、それ以上先に進まねぇんです」
「友達止まりってこと?」
青崎は静かに頷いた。
「いくら『好きだ』って言っても、軽く受け流されるんです。はいはい、ありがとうね、って感じで……」
「ああ……」
月野は困ったように眉を下げ、視線をゆっくり上へと動かした。
「……確かに。当真くんって、自分のことに関してだけは物凄く鈍い所があるから。もしかすると青崎くんのこと、よく懐いてくれてる近所の子どもみたいに思ってるのかも」
「こ、こども……」
青崎はショックを受けて蒼褪めた。月野は「物の例えだからね?」と焦ったように付け足して、その隣で瀬古は難しそうに腕を組んだ。
「にしても、それってどうすりゃ良いんだろうな。直球で告白しても流されるんだし……」
「そうね……」
「……アピールの方法を変えてみるとかは?」
「どんなふうに?」
「いや、そりゃ。急には思いつかんけど」
瀬古は眉間に皺を寄せ、爪の先で頭を掻いた。
思い付きで投げかけた抽象的なアドバイス。しかし青崎は、その提言に対して黙ってじっと考え込んだ。
「――あっ」
そして勢いよく顔を上げる。
青崎は机に手を打ち付けて立ち上がった。バン、と空気が割れるほど強烈な音が響く。
「……当て馬作戦だ……!」
青崎は目を輝かせて叫んだ。
そうだ。何故今までこれを思いつかなかったのだろう。自分はずっと当真の傍で、〝これ〟が如何に有効的で実利的かを学んできたというのに。
目を点にして首を傾げる二人の前で、青崎は希望に満ち溢れた様子で拳を硬く握りしめた。
自分の気持ちに無自覚な人や、今一歩大事な所まで踏み出せない人。そういう相手を突き動かすには、当て馬の存在が欠かせないのだということを、青崎は彼から直接的に教えてもらったのだ。
思い立ってからの青崎の行動は早かった。青崎は前のめりになって、二人の顔を真っ直ぐに見据える。
「南さん! 瀬古さん!」
「はいっ!」
「おお?」
「俺に力を貸してください!」
青崎は両手を合わせて頭を下げた。
二人は目を丸くして首を傾げつつも、熱のこもった青崎の双眸を見て、すぐさま親指を立ててみせたのだった。
そこからは驚くほど円滑に話が進んでいった。瀬古や月野の二人に限らず、青崎に快く協力を申し出る者が後を絶えなかったためだ。
「当真には恩があるんだよ」
「アイツが居なかったら、多分俺、カナタと付き合えてなかったからさ」
「つかアンタら、それで付き合ってなかったのかよ。当真のヤツ、どう見てもアンタのこと好きなのに。しょうがねえなあ」
当真と深く関わりのある者からすれば、彼が青崎を憎からず思っていることは一目瞭然で、だからこそ延々と堂々巡りを続けている二人にじれったい思いを抱えていたのだ。
青崎の話はすぐに広まって、当て馬に相応しい人物を皆がこぞって探してくれた。
「当て馬役? 面白そうだからやるよ」
そこで白羽の矢が立ったのが、この江波誠という男だったわけだ。
彼は確かに青崎の元同級生だった。が、中学時代はほとんど喋ったことがなく、面識がないと言っても過言でない。そんな彼は青崎の話を人伝に聞きつけて、興味津々と言わんばかりの顔で堂々と挙手したのだった。
「久しぶり。イトくん? だっけ? 中学の頃はあんま絡みなかったけど、凄いイケメンが居るっていうので名前だけは知ってたよ」
「あ。ええと……俺は確かに顔が良いが、顔が良いからといって惚れないで貰えると助かる。俺は当真先輩一筋だから」
「ブフッ。ちょっと待って。キミってそんなキャラだったの? 意外すぎるだろ」
江波はとにかく面白いことが大好きな男で、ギャップを凝縮したような青崎の人柄をいたくお気に召したようだった。
「はー……心配しなくても、オレ恋人居るよ。二つ年上の、超かわいいカノジョ。写真見る?」
「え。それって大丈夫なのか?」
「何が?」
「当て馬役を引き受けたら、その彼女さんが嫉妬しないか?」
「彼女にはもう許可取ってあるよ。むしろヤキモチ妬くどころか、目ぇキラキラさせて『何それ!? ちょっとアンタ、それ絶対成功させなさいよ、そんでアタシにどうなったか教えなさいよ』て言ってた」
そういうわけで、惚れられる心配も、関係性が拗れる可能性もない。彼はまさに当て馬役にうってつけの男だったのだ。
「……と、いうことなんです」
「は……」
当真はあんぐりと口を開けたまま固まった。指の先を青崎に向ける。瞼を痙攣させる。そして小さな瞳孔をじりじりと揺らした。
「つ……まり、は」
「はい」
「これ、全部ウソだったってこと?」
当真が江波に目を向けると、彼は握りこぶしで頭を軽く打って舌を出した。
青崎は両手の指を突き合わせつつ、汗を浮かべて身を縮ませる。
「騙すようなことして、すみませんでした……」
申し訳なさそうに彼は背を曲げた。
衝撃が電流のように全身を走る。身を削るような覚悟も、決意も、その全てが徒労であったという。彼を取られたくないという切なる願いは、ただの杞憂に過ぎなかったのだと。
その事実を目の当たりにした当真は、永遠にも思える短い時間を沈黙に費やして、それからぱっと口を押さえた。
そして顔を伏せ、出し抜けに晴れ晴れしい笑い声を上げる。
「ふっ、ふ、あはっ」
「と、当真先輩?」
突然高らかに笑い始めた当真を前にして、青崎が困惑の表情を浮かべる。しかし当真はそんな彼の困り顔を注視するでもなく、ただ腹を抱え、目元を押さえ、曇り一つない笑みを零した。
まさか、自分が今までやってきたことが、こんな形になって帰ってくるとは。宛てもなく空に向かって投げた紙飛行機が、素晴らしく立派になって舞い戻ってきたような気分だ。
今まで自分は散々当て馬として誰かの恋路を後押ししてきた。けれどもいざ自分がその立場になって、やっと初めて分かった。
そうか。誰かに背中を押されると、こんな気持ちになるのか。
――なんだ。
――存外、悪くないじゃないか。
役目を果たした江波はというと、「じゃ、オレこの後カノジョとデートの約束してるんで」と言って、足早にその場を去って行った。
乾いた秋風がそっと吹き、地面に積もっていた落ち葉が舞い上がる。
二人はベンチに並んで座って、しばらく黙って景色を見つめた。
「……あのさ」
十分に穏やかな空気を取り込んで、ゆっくりと心を落ち着かせたあと、当真は緩やかな声で切り出した。
「青崎くん」
「はい」
「……その。改めて、聞くのも。何なんだけどね」
「はい」
「その……。ええと。つまりは……」
口を開いたは良いものの、上手く言葉がまとまらない。落ち着いて、大丈夫、深呼吸。そう自分に言い聞かせる。
「つまりは、その。君は」
当真は身を乗り出して、彼に顔を近づけて尋ねた。
「俺が君のこと好きだって言ったら、嬉しい?」
一番聞きたかったことを言えた。
青崎は呆然として、何度も目を瞬かせる。
そして彼は当真の肩を抱きしめるように掴んで、満点の星空よりも眩しく瞳を輝かせた。
「――はい!」
雲の上まで届くような声で。
「今なら、宇宙まで飛んで行けそうです!」
と、屈託のない笑顔を浮かべながら。
