「……あの花束の色合いが、とても響子(きょうこ)先生に似合っていたわ」
 珍しく三藤(みふじ)先輩が。
 自ら会話に、参加している。

 放送室では高嶺(たかね)が、都木(とき)先輩に今朝の出来事をギャアギャアと説明していて。
「で、海原(うなはら)がいつも以上に鈍くてですね!」
 まったく。いちいち僕を、会話に挟まないでもらいたいのだけれど。
「そうね、特に『あのとき』なんて……」
 三藤先輩も、なんだかんだと。
 玲香(れいか)ちゃんの名前を連呼した僕を、まだ根に持っているようだ。

 いつもならここで我らが天使、春香(はるか)陽子(ようこ)が。
 まぁまぁと、おだやかに場を取り持ってくれるはずなのだけれど……。
 きょうも春香先輩は、無言で黙々と作業をしている。


 ふと、高嶺のおしゃべりがやんで。
 たまたまみんなの視線が、春香先輩に集まった。
 すると先輩は、まるでそのタイミングを見計らっていたかのように顔を上げると。
「みんなに提案なんだけど」
 いままでの話しには興味がないと、そんな雰囲気で。
「明日の終業式の機器担当は、部長と由衣(ゆい)ちゃんにお願いしていいかな?」
 いきなり真面目な話しをはじめてきた。
「……確か担当は、美也(みや)先輩と陽子じゃなかったかしら?」
 三藤先輩が、不思議な顔をしながら問い直す。

「ねぇ月子(つきこ)、わたしの話し聞いてた?」
「えっ?」
「いま、わたしはね。部長と由衣ちゃんって、提案したんだけど?」
 いったい、どうしたのだろう?
 なんだか春香先輩にしては、随分と攻めたいいかただ。

「え、えっと……。海原君は月子ちゃんと、先生がたとの調整とかあるし。由衣は終業式初めてだから、わたしたちのサブで入るんじゃないの?」
 都木先輩が、助け舟に入るけれど。
「美也ちゃん。一年生だろうと、本番できなくてどうするの?」
 どうやら春香先輩には、譲る気がなさそうだ。
「……でも陽子先輩。いきなりわたしと、海原だけですか?」
「部長だって、自分でひととおりできるくらいはわかってるでしょ? それに由衣ちゃんはさ。わたしともっと、練習したよね?」
 春香先輩の口調が、もう一段階キツめになると。
 三藤先輩が僕を見るので。
 ……ぼ、僕は遠慮がちに。
「春香先輩。練習はしましたけれど、いきなり本番ではさすがに……」
 そういいかけたところで、春香先輩が。
「そんなんじゃ、なにもできないよ!」
 口を挟んで。
 そこから、さらに声が大きくなって。
「海原君は部長でしょ? どうしてすぐに、やってみますっていえないの!」
 ……で。
 ……あらら。
 口にした本人までもが、目を丸くして固まってしまう。

「……ちょっと陽子、いきなりそれはないよ」
「陽子、もう少し冷静になったらどう?」
 都木先輩に、三藤先輩が声を被せて。
「とりあえずお茶でも飲みなさい」
 そういって春香先輩の湯呑みにお茶を追加しようと、席を立とうとする。
 だが、春香先輩は。
「お茶なんていらない!」
 短く告げると……。
 なんとそのまま、放送室から飛び出してしまった。


「あら?」
「失礼します!」
 ちょうど扉で、春香先輩と藤峰(ふじみね)先生がすれ違って。
「ちょっと!」
「陽子先輩!」
 慌てて都木先輩と高嶺が、追いかけようと席を立ったのだけれど。
 先生がやわらかく両腕を伸ばして、ふたりをとめると。
「海原君、あなたがいってあげて」
 なぜか僕を、指名する。

 ……へ?
 ぼ、僕ですか?
「いいからアンタ、早くいきなよ!」
「そうそう、ヨロシクねっ!」
 高嶺と先生に、追い出されるようにして放送室を出たけれど……。
 どうして、僕なんだ?
 それに。いったいどこにいけばいいんですか、僕?


 ……とりあえず。
 なんとなく教室棟三階の一番奥、二年一組の教室の前まできてみたけれど。
 残念ながら教室の中には、誰もいないようだ。
 あとほかに、春香先輩がいきそうなところといえば?

 ……あ、そっか。
 なぜかこのとき。
 僕は、先輩の居場所がわかった気がした。


「し、失礼します……」
 恐る恐る、非常階段へ続く扉をあける。

 最初に、二階へとつながる下の踊り場を見て。
 それから上にある踊り場に、視線を移すと。
 ……やっぱり。
 途中の階段に、春香先輩が小さくなってうずくまっている。

「……海原君かぁ。誰の差し金?」
 気配を感じた先輩が、顔を少しあげて僕に聞く。
「ご、ご想像にお任せします」
 遠慮のつもりで答えたのだけれど、別の意味にとらえられたようで。
「自分の意思できた、とはいえないんだね……」
 なんだか、先輩を傷つけてしまった。

 正直、次にどんな声をかけるべきか。僕にはよくわからない。
 ごめんなさい?
 なにがあったんですか?
 きっといまは、そのどちらでもでもないだろう。
 残念ながら、こんなときに。
 気の利いたセリフが、口からどんどん出てくる便利な機能なんて……。
 僕には備わっていないんだよなぁ。


「……隣に、座っていいよ」
 そうこうしているうちに。
 気遣わなければいけないほうに、気を遣わせてしまった。

「し、失礼します……」
 恐る恐る、春香先輩の隣に腰を下ろす。
 どの程度離れて座ればいいのだろう?
 あるいはその逆で、どの程度近づいて座るのが正解なのだろう?
 ……そんな距離の測定機能も、僕にはついていなくて。
 結局また、沈黙するしかなかった。


 夏の暑さを、直に浴びながら。
 青い空に不釣り合いな、重苦しい空気を僕は吸っている。
 相変わらずうずくまったままの、春香先輩を近くに感じながら。
 例えば、その背中をさするとか。
 他の誰かのように、やさしく髪の毛をなでてあげるとか。

 ……そんなことが、できるはずがなくて。
 僕はただ、待つことにしかできなかった。


「『失礼します』って。もう、さっきもそれ聞いた」
 ずいぶんたって、春香先輩が無理に笑ってこちらを見てくれて。

 僕はこのとき、初めて。
 先輩は、一度目の涙が止まったあとなのだと気がついた。


「……ねぇ海原君。みんなで海にいったの、覚えてる?」
「え?」
「まさか、覚えてないの?」
「と、とんでもないです!」
 僕は、五月の連休の大切な思い出を忘れたのではなくて。
「……いきなり聞かれて、戸惑っただけです」
 正直にそう答える。
「じゃぁ、帰りのバスのことは?」
「そ、それも覚えています」
「そっか……」
 春香先輩は、いったん言葉を区切ってから。ゆっくりと空を見上げると。
「……あのときみたいに、座ってくれる?」
 ずっと遠くの、なにかを探すような顔をして。
 僕にとって、かなり難しいことを頼んできた。

 僕はあのときのバスの座席幅を、慎重に思い出す。
 どうやらいまの位置は、少し遠いようだ。
 ならばもう少し、先輩のそばに座り直そう。
 そして適切な移動距離を、頭の中で必死に計算していた、そのとき。

「……遅いよ」
 そういって、春香先輩が。
 僕の近くに、座り直してきた。


 それから、あのときと同じように。
 やさしいブーケの香りがしたと思うと。
 直後に僕の左の肩に、やや重みが増す。

 あのときよりも、それは少しなんらかの意志が増しているようで。
 だから僕は、そのまま動けなかったし。
 春香先輩もそのまましばらく、動かなかった。



 ……夏の太陽を直接浴びているので、きっと、汗をかいてきたのだろう。
 少し、肩が熱くなってきて。
 腕にも、もっと熱を感じている。

 そのとき、建物の中で。かすかに物音がした気がして。
 同じことに気がついたのか、突然思い出したように春香先輩が頭を上げる。
「ごめんね。なんかわたし、この前も汗かいたあとだったね……」

 その弱々しい声色の理由は、顔を見ればすぐにわかった。
 さらに、肩や腕に感じていたのは、誰の汗でもなくて。

 ……春香陽子の、涙とその熱だった。



 ……涙を、見られた。
「きょ、きょうは。もう帰るね!」
 わたしは、海原君を前に。
 最後の力を振り絞ってそれだけいうと。
 非常階段を急いで降り、扉をあけて。
 二年一組の机の上にあった鞄を手に取り、海原君から急いで離れようと。
 長い廊下を、必死に走る。

「……あのときね。バスの中で寝ていたわけでは、なかったんだよ」
 いまさらそんなことを伝えたって、なにもならない。
「それにね、わたし以外の誰かさんたちも……」
 そうやって口にしなかった自分が、なんだっていうの?

 その、『誰かさん』のうちのひとりに伝えたい。
 教室に、鞄を届けてくれてありがとう。
 気をつかってくれて、ありがとう。
 でもね、でもね……。
 わたしの鞄を置いてくれた、その場所は。
 わたしの机じゃ、なかったよ……。



 ……僕は春香先輩の足音の余韻が、三階の廊下から完全に消えるまで。
 同じ場所で、ひとり座り続けたままで過ごす。

 もしかしたら、春香先輩は。
 この非常階段の、さらに先。
 そこにある『なにか』を、知っているような気がした。


 放送室に戻ると、三藤先輩は。
「ほかのふたりは、講堂で機器の練習をしているわよ」
 窓の外を眺めたまま、そう僕に告げた。
「あの……」
 僕が、春香先輩についていいかけると。
「鞄を忘れなかったのなら、それでいいの」

 そういうと三藤先輩は、外に視線を固定したまま。
「早く、講堂にいきなさい」
 小声で僕に、そう添えた。


 ……当時はわからなかったけれど。
 ずっと未来の僕なら、わかる。

 あのときの、僕のシャツの肩口に残った。
 乾ききれなかった、涙の跡を。

 三藤月子は、きっと。


 ……見たくは、なかったのだろう。