帰りのホームルームが終わり、高尾先生が廊下へ出た瞬間。
机から立とうとした僕の背中に、激痛が走る。
「グェッ!」
同じように、帰りかけていたクラスの女子数人が。
その声に驚いて、僕を見る。
「だ、大丈夫海原? どこか痛いの?」
『女優』になった、高嶺由衣が。
極めてわざとらしく、心配そうな声を出して近寄ってくる。
「ちょっとカバンに、勢いがつきすぎただけだから」
「えっ……」
「あ! あとはわたしが看とくから、みんなまた明日〜!」
「う、うん。またね〜」
「ほんと。高嶺さんって、やさしいよねー」
「海原君って、おっちょこちょいなのかな?」
どうしてうちのクラスの女子は、人を見る目がないのだろう……。
高嶺は加害者、僕は被害者なんですけど……。
「じゃ、お疲れ」
山川俊だけが、真実を知っているけれど。
乾いた声で、その場を離れる。
カレーパンの……。
カレーパンの恨みだよな、きっと……。
「……で、どうだった?」
謝る気など一切ない高嶺が、ワクワクした瞳で僕を見る。
「それより、どうだった?」
僕は逆に、三藤月子の怒りのボルテージしか興味がない。
「アンタが先」
訂正だ……。
コイツには勝てそうにないので、さっさと終わらそう。
「普通だった」
「は?」
「だから、普通が一番よかった」
「アンタ、『あの』波野姫妃に会ったんだよ? 感受性とかついてないの?」
いったいそれは……。
耳とか鼻みたいに、体から出っ張ってるものなのか?
ダメだ、さっぱりわからない……。
「……確かに、演劇部だけあって。やたらと色んな表情をしてたけどな。僕には本人の普通が、一番しっくりきた」
……なにそれ?
そんな海原の、極めて真面目な答えに。
わたしの心は、なぜか一瞬だけざわっと音を立てた。
え? まさかコイツ……。
『普通の女の子』として、認識したの?
確かに、舞台の上で輝いていた『お姫様』だといったのはわたしだ。
だから、だからこそ。
「噂どおり、キラキラしてて可愛かった!」
そんな、『平凡な』評価でよかったのに。
だって、『普通』だとわかるには。
その人の『普通』を知らないと、わからないんだよ?
……いやいや。
きっと、深い意味はないはずだ。
だって海原だもん。『普通』の海原なんだから。
でも、そんなアンタを理解するまでに。
わたしはいったい、どのくらい時間をかけてきたんだろう?
……『普通』のアンタなんて。
わたしは。
一回じゃ、わからなかったよ……。
「おい、聞いてるのか? 高嶺ってば!」
……海原の声で、ふと我に返る。
「えっと、なによ?」
「だからさぁ。三藤先輩はどうだったんだ?」
なぜか、わたし頭の中で。
まだ知らない波野先輩と。
月子先輩をはじめとした、部活のみんなの名前がかけ巡る。
ねぇ、この感覚って……。
いったい、どういうこと?
「『普通』だったよ……」
「えっ?」
わたしは、かろうじてそれだけ答えると。
「いくよっ!」
あとは一刻でも早く、部室に移動して。
……海原とわたししかいない空間から。
なぜかはわからないけれど、抜け出したくなった。
……放送室の、扉をあけると。
三藤先輩がちょうど、お茶を淹れているところだ。
でもあれ?
湯呑みが……ふたつだけ?
「由衣さん。ほかのみんなは先に移動して、講堂で新しいマイクのテスト中だけれど。あなたはどうする?」
「わたしも、いってきます!」
高嶺は、即座に答えると。
カバンを僕に押し付けて、消えてしまう。
「……適温だと思うので、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
そう。先輩のお茶は、いつでもパーフェクトだ。
僕は、赤銅色の焼き物の湯呑みを手にして。
いただきますと、ひとこと添えてから……って。あ、熱ッツ!
「あら、失礼。少し心が乱れていたのかもしれないわ」
……まだ怒っているんですね。ご、ごめんなさい!
「わたしに謝る必要なんて一切ないわ。別にお昼を一緒に食べる義務は、部則に記されてはいないわよ」
えっと……。
ぶ、部則なんて。
あ、ありましたっけ……。
「よろしければ、もう一口お茶をどうぞ」
熱すぎるお茶に、氷の三藤先輩を入れたら飲めるかも……。
いや、いまならお茶も凍るだろう。
「あの……。も、もう少し冷めてからでも?」
「わたしが、せっかく淹れたのだけれど?」
「で、では……。い、いただきます。あ、熱ッツ!」
……ようやく、三藤先輩が小さくほほえんだ。
「まぁ、もういいわ」
「へ?」
「少しはスッキリしたので、許してあげる」
「あ、ありがとうございます……」
「念のため、いえ参考のために聞くけれど……」
「はい?」
「『お話し』は、終わったのかしら?」
「あ……」
そもそも、波野先輩はなんのために僕と会っていたんだ?
それに、あれで話しは終わったのか?
斜め向かいで、藤色の瞳がじっと僕を見つめている。
……う、嘘だけはいけない。
「わかりません!」
その場で斬首にあう覚悟で、僕はそう答えた。
……いまのわたしに、『余裕』なんてない。
お茶だってそうなの。
きょうは、海原くんの飲みやすい温度に、上手に冷ませる自信がなかった。
まぁ、少しは感情を伝えたくて。
熱々のまま出したのも、事実ですし。
ただ、それを無理して飲む姿を見て。
ごめんなさいではあるけれど、溜飲を下げたのもまた、事実なの。
……果たしてこれは、いったいどういう感情なのかしら?
どうしてわたしは、『余裕』がないの?
波野さんのことも、よくわからない。
そもそも、その存在も知らなかったけれど。
海原くんに、わざわざ話しかける理由がわからない。
まぁ、ひょっとしたら。
海原くんだからこそ、話しかけるのかもしれないけれど……。
いずれにせよ。
これきりで終わることはないだろう。
なぜだか、そんな予感がする。
「それで。今度はいつ、お話しするの?」
ヒントを、探すため。
わたしは目の前で縮こまっている海原くんに、質問する。
「わかりません」
「どうして?」
「特に、約束したわけではないので……」
「えっ……」
いきなり、海原くんの『約束』という言葉が。
わたしの胸に、チクリと刺さった。
そうだね、君はいつも。
……『約束』を守ってくれる。
それなら、わたしが彼に『約束』を迫ればいい。
でも、どんな権限でそれができるの?
それに、どんな『約束』をお願いするの?
わたしは、彼にそれを強制する権限なんて持っていない。
だとしたら。海原くんという存在は……。
いったいわたしの、なんなのだろう?
「……まぁ、お好きにどうぞ」
「へ?」
「わたしは、気にしませんので」
わたしの、精一杯の強がりだけれど。
でも、いまは。
代わりになる言葉を見つけられなかったから、仕方がない。
「ところで、次回の委員会の相談なのだけれど……」
……そう。
彼とわたしは、こうしてつながっている。
部活動と委員会。
わたしたちは、ふたつのつながりで。
つながっているのだから……。

