教室棟の、長い廊下を抜けて。
 食堂へ向かうために、玄関ホールをとおり過ぎようとすると。
 下駄箱の影から、波野(なみの)姫妃(きき)がひょこんとあらわれた。

「授業が遅かったんだね。もうきてくれないかって、姫妃心配したよー」
 あの……その上目遣いは。
 いったい、どんな演技なんですか?

「じゃぁ、いこっか?」
「へ?」
 下駄箱に視線を、動かすと。
 波野先輩と僕。
 すでに『ふたり分』の靴が、並べてある。
「お履き物、ご用意させていただきました」
 今度は……。ここは、旅館なんですか?
 彼女が、うやうやしくお辞儀をすると。
 例の『お団子』が頭に見える。
「わざわざ、外に出るんですか?」
「うん! お・そ・と・で・話そっ!」
「ええっ……。暑くないですか?」
「だって、秘め事だよ。ふたりの」
 もう、いったいなにがしたいんだか……。

 先輩は、そのあとは軽い足取りで。
 それに連れられ、僕たちは並木道を見下ろす、裏道へと進んでいく。
 ここにくるのは、なんだかとてもひさしぶりで。
 実は途中に、点々とベンチが置いてあることに、
 僕は初めて、気がついた。
「えー、残念ながらあいにくの暑さで誰もおりませんが〜」
 今度は、マイクを持つフリをして。
「この先、ぐんと気温が下がって人恋しい季節になりますと。なんとこの裏道は……。カップルたちの、隠れた人気スポットになります」
 先輩が、ちょっとだけワクワクしたような顔で僕を見る。
 あぁ、なんのつもりか当てて欲しいのか。
 じゃぁ、これは多分……。



「……バスガイド?」
 ……予想しない、彼の答えに。
 わたしは思わず、転びそうになった。
 後輩君の顔を、ちょっと不満げに見ると。
 どうやら不正解だと、気づいたみたいたいだけど。
「もしかして! 観光列車の語部《かたりべ》ですか?」
 ごめん、わたしには意味がわからない……。

「違うよ、レポーター!」
「あぁ!」
 ……そうやって、そっちか!
 みたいなリアクションを期待していたのに。
「はぁ?」
 なにその、気のない返事?

 まぁ、乗り気じゃないのは知ってるけれど。
 このわたしに誘われてんだから、少しは張り切ったらどうなの?


「もういい、座ろっか?」
「へ? ここですか?」
「ダメなの?」
 なんなのもう! 調子狂うなぁ。
 そう思ってわたしは、やや乱暴にベンチに腰を下ろしたのだけれど。
「あ!」
「きゃっ!」
 なに、いまの? 虫じゃないし?
 自分の身に起こったことの、意味がわからず。
 わたしはこわばった顔で、彼を見る。

「……鉄枠が、暑さで熱くなっているんですよ」
 後輩君は、わたしにそう解説すると。
「晴れている日は、特に気をつけないと。先輩は女子ですから、生足じゃなくてスカートが当たるように座ってください」
 一応、女性扱いはしてるみたいなのはわかった。
 どうも、ありがた〜いアドバイスだけどさ。
 そういうの、座る前に教えてよ!

 それから、彼は。
 わたしの、不満げな表情くらいは気づくのか。
 なんだか真面目な表情で、わたしを見る。
「あの……」
「なに?」
「火傷してないか念のため、確認したほうがいいんじゃないですか?」
 おおっ、意外と大胆。
 もっともらしいことを、いうくせに。
 な〜んだ。このわたしの、太ももを見たいんだね?

「反対側を向いていますんで、終わったら教えてください」
 ところが、この男子はそういうと。
 本当に反対を向いたまま、動かない。
 いやいや、わたしが油断したら振り向くんでしょ?
 でも、そんな素振りはちっとも見せないもんだから。
「……もういいよ、こっち向いて」
 結局、わたしのほうから。
 声をかけてしまった……。


「特に、火傷してなかったよ」
「あぁ、よかったです」
 まさか本当に、心配してくれていたの?
 わたしが戸惑って、どう返事しようか考えていたら。
 今度は、いきなりアタフタし始めて。
「なんだか、怒っているのって……。もしかしてさっきの『生足』って表現が、よくなかったんですか?」
 なにそれ……。
 そこなの、聞くところ?



 ……よくしゃべったり、無言になったりと。
 なんだか忙しい人だ。
 波野先輩は、そのあと小さく笑うと。
海原(うなはら)君って、やさしいんだね……」
 初めて聞く声色で、そう告げた。
「火傷チェックとかいって、わたしのスカートめくる口実かと思ったら……。ホントにずーっと反対向いてるなんてさ。なんか変」
 今度もその音色に、変わりはなくて。
「え? 変なんですか?」
「変だよ、変。なんか変だよ」
 やたらと『変』だと、繰り返した。

「……いわれたとおりに座ったら、熱くなかったよ。はい、海原君も座って」
 その笑顔は初めて、演技ではないもので。
 そんなふうにできるなら、いつもそのままでいいんじゃないかと。
 思わずそう、僕は考えた。


「……お昼ごはん、食べようか?」
「もちろんです。僕もいただきます」
「海原君は、パンふたつだけで足りるの?」
「いえ。いつもは部室で食べるので、おかずをめぐんでもらえ……」
「ごめん! この話題はストップ!」
 なにか余分なことをいって、気に障ったのだろうか?
 あがっていた顔が下がり、『お団子』だけが視界に入ってくる。

 近くの木で、クマゼミがまだ鳴いている。
 そうだ、話題を変えよう。
「この時期にクマゼミが鳴くなんて……」
「ちょっと待って! 食事中に昆虫の話しされるのは苦手」
「す、すいません……」
 あぁ、また余分なことを……。
 反省する僕など気にせず、クマゼミは近くでひたすら自己主張を続けている。

 ……その、セミにも見捨てられて。
 周囲が少し静けさを取り戻した頃。



「……ごめんね」
 わたしは小さく、彼に詫びる。
 わたしのことを、心配してくれたのに失礼なこといったり。
 しゃべるなって、わがままいったり。
 そもそも、お昼を邪魔したりして……。

「もう、だからぜんぶあげる!」
 わたしはそういうと、自分のお弁当の蓋に、おかずをどんどん並べ出す。
「え、ちょっと、先輩!」
「まだ口つけてないから、平気!」
「いや、そうじゃなくて。あ、あぁ〜」

 もう、だから先に教えてよ!
 わたしが慌てていたせいで、ベンチの微妙な場所にあった蓋が傾いて……。
 おかずがすべて、地面に落ちてしまった。

 ……わたしの見せかけの善意は、彼には届かない。
 そう思って、悲しい気持ちでおかずを見つめていると。
「そんなに食べたかったのに、わけてくれようとしていたなんて……」
「えっ?」
「も、もったいないんで。拾って食べます!」
「ダメ! 地面のはダメだよ!」
「で、でも……」

 ……やっぱり、この彼はちょっと『変』だ。
「あのね! 食べたかったんじゃなくて、わけてあげたくなったの!」
 あれ? そんな……。
 こんなつもりじゃ、なかったのに……。
 わたしは、当初彼に近づいた演技など忘れて。
 わたしの思いを、理解してもらおうと。
 このとき、自分でも驚くほど。
 素直で、必死だった。



「……ご飯だけに、なっちゃった」
 ……そういって肩を落とす先輩に、僕は。
「いや、がっかりするにはまだ早いです」
 そう伝えて、手元のパンの袋を見せる。
 不思議そうな顔をした波野先輩は、僕が両手に持ったそれを見ると。
 おかしそうに笑い出した。

「このカレーパンの、カレーをどうぞ。なんちゃってカレーライスになります」
「いやだ! ふりかけあるから、い〜らない〜!」


 ……食べ終えたものを片付けると、もうほとんど昼休みは残っていない。
「きょうは、ありがとう」
 帰り道、波野先輩が穏やかな声で僕に告げる。

「……いえ、せっかくのおかずを無駄にしてごめんなさい」
 それを聞いた、彼女は。
 なぜか突然早足で三歩進んでから、振り返ると。

「食べ物を大切にするのは、いいんだけどさ!」
 そこまでは、はっきりした声で。
「おかずが主役なのは、ちょっと違う……」
 そのあとの、言葉は。
 なぜだか最後になればなるほど、小さな声になっていった。



 ……玄関ホールに戻り、それぞれの下駄箱で靴を履き替える。
 よし、これで約束は果たした。
「あ、あのね……」
「はい」
「放課後って、なにしてる?」
「部活です」
「帰りは?」
「部活の続きみたいなのが、降りる駅まで続いています」
「明日のお昼は?」
「いつもお昼は、部室です」

 ……多分これで、話しも終わりになる。
 そう、思ったのだけれど。

「ねぇ海原君? ……部活って、そんなに大切?」
 思いがけない質問に。
 僕は一瞬、答えに詰まってしまった。

 大切?

 ……それだけで、足りるのだろうか?


 言葉が足りなくても。
 気持ちは伝わって欲しいと思い、僕が答える。

「もう、体の一部みたいになっちゃった、みたいな感じですかねぇ?」

「なにそれ?」
 あぁこれはきっと。
 また『変』だねと、いわれるかと思ったのに。


「……そっかぁ。ちょっとうらやましい」
 そう答えると、波野先輩は。
 少しうつむいて、黙ってしまった。


 ……聞いてもいいのか、少し迷った。

 聞いたらまた、ややこしくなりそうだけれど。


 ……つい知りたいと、思ってしまった。


「波野先輩は、どうですか?」


 やっぱり、僕は空気が読めなかったようで……。

 彼女は、うつむいたまま。
 食堂帰りの生徒たちから隠れるように、並んだ下駄箱の陰に移動すると。
 そのまま、人の波が静かになるまで。
 そこから動かなくなった。


「急に、ごめん」
「い、いえ……」
「待ってくれてありがとう。あとやっぱり、ごめん……」

 そういうと、波野姫妃は。
 僕の視界から、走って消えていった。


 ……わずかでは、あったけれど。

 そのとき一瞬だけ見えた、瞳にためた涙は。


 決して、演技ではない。
 そう僕に、訴える涙だった。