「……海原くん」
こ、この声は……。
「いま、いいわよね」
ひ、ひじょーに、マズイやつですね……。
三藤月子に、うながされ。
一年一組の廊下の隣にある、非常用扉をあける。
一瞬、太陽の熱気があがってきたけれど。
先輩の側から、真冬の冷気がガンガン流れてくる。
三藤先輩は、左手でその黒髪をサッとうしろに一度ながすと。
目の前で腕組みをして、じっと僕を見る。
「いったい、どういうことかしら?」
これは絶対、波野姫妃のことだよなぁ……。
最近少しは僕も、察しがよくなったと思う。
無駄にあがいても仕方がない。
はい、正直に話します。
「……お昼休みにもう一度会ってくれと、頼まれました」
「えっ?」
「いえ。なので、きょうの昼休みに、と……」
いいかけた僕を、三藤先輩が遮ると。
「わたしは今朝。学年差カップルが誕生した、と小耳に挟んだのだけれど?」
「へ?」
「海原くんではないだろうと、『念のため』確かめにきたつもりだったのに……」
「えっ?」
「そうね。どうやら事実だったようね……」
「ちょ、ちょっと先輩!」
「だってそうでしょう! 『今後も』お昼を共にする仲になっているなんて、思ってもいなかったわよ!」
珍しく、三藤先輩の声のボリュームが。
一気にふたつほどあがっている。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
僕は、慌てて。
「誤解ですよ! それはあくまで周囲の感想であって。僕はただ、朝の話しの続きがあるから聞いてくれと……」
「それで?」
「だから昼休みに『もう一度』会えと、一方的にいわれただけです!」
「……周囲の感想ということは。そう見えた、という意味じゃないかしら?」
「え……。だってまともに話したの、今朝が初めてですよ!」
「本当に? 証明できる?」
「ええっ?」
ふと、三藤先輩が我に帰ったような顔をする。
おまけにあれ……? 耳が。両耳が、赤くありません?
「……授業なので、帰ります」
「へ?」
「先生がいるから、帰ります!」
カンカンカンカンと、靴音を響かせながら。
せわしなく非常階段をのぼる先輩のうしろ姿を、ポカンと見送っていると……。
なんだか、確かに背中に視線を感じてきた。
「あーら。また海原君は、悪い子だよねぇ〜」
「ふ、藤峰先生?」
「ちょっと背伸びでもしようと思ってきたらねぇ。お熱いことで……」
「いえ、そんなんじゃないんですよ! 誤解ですから!」
「え〜、なんのこと〜?」
僕が、もう一度いい返そうとしたとき。
非常扉が、『ガタン!』と開くと。
「ふたりとも、サボらない! 授業のチャイム鳴りましたけど!」
高嶺が、僕たちに向かって。
……容赦なく、吠え始めた。
「……遅刻だよ。どこいってたの?」
少し息を切らせながら、月子がやっと帰ってきた。
「ちょっと、下」
なんなのもう。『下』って、やっぱり昴のところだよね?
英文を板書していた響子先生が、チラリとわたしたちを見る。
口元が笑ったの、見えちゃいましたよ先生?
……部活の時間は、ともかく。
なにかあればすぐ、一階まで降りちゃうんだから。
ただでさえ、あなたは目立つのに。
制服の違う一年生の廊下にいったらもう、なんというか……。
「学年差カップル誕生!」
そう、そんな風にしか見えないよねぇ、まったく。
……前の休み時間に男子の会話の中で、そんな台詞が聞こえてきた。
「しかも、あの演劇部の『姫妃姫』だってよ!」
「え? でも姫妃姫って誰とも付き合わないんじゃ……」
「俺も昔、振られたヨォ……」
玲香ちゃんを、囲みながら。
仲良くなったバスケ部の子たちや、ほかの女子が。
「まったく……。男子ってこれだからさぁ〜」
そんなふうに、あきれ気味に話している。
とはいえ、聞こえてしまったその子たちも。
「でも波野さんって、ぜんぜん恋愛とか興味なさそうなのにね?」
「劇団目指してるんだっけ?」
「芸大じゃなくて?」
「うーん。とにかく演劇命、みたいな子なのにねぇ〜」
そうやってしっかり、ちゃんと恋バナで盛り上がっている。
「でも、その三年生も念願かなったみたいな感じで。よかったね!」
「え、赤根さん?」
「もう、玲香でいいってばぁ!」
「じゃ、じゃぁ、玲香……。その男子、一年生だってよ」
「えっ! そ、そうなの?」
「うん、年下らしいよ。名前までは知らないんだけど。誰か聞いた?」
「聞いてなーい」
「あとで五組の子に、聞いてみよっか?」
「玲香なら、波野さんに直接聞けちゃいそうだけどね?」
「い、いや〜。そこまで他人の恋愛に、興味ないよ〜」
……すると、隣で本を読んでいた月子から。
昴曰くの『藤色の炎』みたいなものが、わたしにも見えた気がした。
い、いや。
別に、昴とは決まったわけじゃないし……。
でも、なんだか。
『誰とも付き合わない』とか、『みんな振られた』とか。あと、『年下の男子』?
それだけ、心当たりのあるフレーズが並んじゃうと、つい……ね。
……まぁ、単なる誤解だったんだろうけれど。
それにしても、月子。
いったい『下』で、なにを話してきたのかな?
……い、勢いで。
つい口にしてしまった……。
わたしは、先ほどの海原くんとの会話を。
頭の中で、何度も何度も繰り返す。
「だってそうでしょう! 『今後も』お昼を共にする仲になっているなんて、思ってもいなかったわよ!」
あぁ……。
「本当に? 証明できる?」
あれでは、まるで。
わたしが、海原くんと『なにか』あるみたいじゃない……。
海原くんは、嘘をついていない。
いや、彼が嘘をつくはずはないし。
そもそも学年差カップルなんて、その辺に落ちてるものでもないのだから。
きっと誰かの、勘違いのはず。
「いったいなんの話かしら?」
「ご、誤解ですよ!」
そんな程度の、軽い話しで終われたはずなのに。
お昼休みに、もう一度会う?
そんな……。
いったいどうして、そんなことになっているの?
……もう。
なんだか頭の中が、どうにかなりそうだ。
「……おーい、かえってこ〜い」
気がつくと、目の前で響子先生がテキストを振っている。
「みんなもう、演習問題はじめちゃってるわよ〜」
声は素っ気ないけれど、目は笑ってくれている。
「まぁ、ちゃっちゃと終わらせて。妄想はそのあとお好きなだけどうぞっ!」
あぁ、わざわざ、耳元でささやかれた。
先生絶対、からかっていますよね!
……お昼休みまであと、二十五分。
教室棟の、一階と三階で、
同じ、右最前列廊下側の席に座るふたりが。
このとき、まったく同時に。
大きな大きな、ため息をついた。

