海原(うなはら)君。パン買いにいくなら、そろそろ帰ろっか?」
 なぜか、急に掃除したいといって。
 部室の窓をピカピカに拭き終えて、ご満悦の都木(とき)先輩が僕に声をかける。
 ……って、え?
 先輩なんでパンのことを、知っているんですか?

「えっと、チョコクリームメロンパンだっけ? 人気だから、遅くいくと残ってないよって響子(きょうこ)先生がね……」
 ウ、ウソだろ……。
 まさか都木先輩のスマホにまで、連絡してくるなんて……。
 パンにどんだけ執念深いんだ、あの先生?
 それに『坂の上』で授業とか、してないんですか?
 仮にも教師? ですよね……。
「あと。玲香(れいか)ちゃんもひとつ食べてみたいから、追加しといてだって」
「まったくあのふたり……。二学期からこちらにくるんだから、そのあと好きなだけ買えばいいじゃない」
 三藤(みふじ)先輩が、きっちり僕の気持ちを代弁してくている。
 そ、そのとおりですよね!
 なにもきょうじゃなくても、いいですよね!
「あ。……ちょっと待って」
 え?
 今度はなんですか、都木先輩?
「追加で先生がね……。えっと、『文句いわずによろしく!』だって」
 も、もしかして……。
 この部室に、盗聴器とかついていませんか?


 ゴミ捨てにいっていた、高嶺(たかね)が戻ってきて。
 帰りのバスは、四人で乗ることになった。
「……なんか最近、陽子(ようこ)先輩って居残り多くないですか?」
佳織(かおり)先生に、追加で英語を教えてもらっているそうよ」
「でもそれだけじゃなくて。なんだか、最近陽子って変わったよね?」
 そう、さすがの僕でもわかる。
 ……春香(はるか)陽子(ようこ)は、なにかが変わった。

「アンタ、変なことしたとかじゃないよね?」
「……そうなの、海原くん?」
 いや、違いますけど!
 ……というかだいたい、変なことってなんですか!
「うーん、そうじゃないっていうか」
 都木先輩が、少し考えるような表情をしてから。
「なんとなく。『秘めた思い』、みたいな感じかなぁ?」
 より謎めいた感じのことをいう。

「え、もしかして美也(みや)先輩! 『恋バナ』ですか?」
「違う気がするなぁ〜。もっとなにか大きなこと、みたいなの?」
「『恋バナ』って、ちっちゃいんだ……」
 高嶺が、よくわからないことをボソッといってから。
「月子先輩、親友なのに心当たりないんですか?」
 また挑戦的なことを聞いている。
「もしわかっていたら、すでにお伝えしています」
 三藤先輩は、そう答えてから。
「まぁ、人によるわよ」
 ちっとも小さくない声で、ボソリと付け足した。

 ……結局僕たちには心当たりというか、予想がつかない。
 ただどうやら春香先輩に、なんらかの変化が起こっているのだけは。
 みんなの、統一見解ではあるようだ。


 駅に着き、百貨店の隣にある先生たちいきつけのパン屋に入ると。
 若干顔馴染みになりつつある、店員が。
「いつもありがとうございます!」
 そういって、僕たちに先に声をかけてくる。
「どうぞ!」
 笑顔で渡されたふたつの大きな紙袋には、『ウナハラ様お支払い済み』と書かれたメモがとめられていて。
 戸惑う僕たちに、店員が笑顔で続ける。
「先週末に『おふたりで』お越しいただいた際に、本日分は予約という形で既にお支払い済みなんですよ〜」
 ……ま、まさかパン屋に先払いとか。
 どんだけ馴染んでるんだ、あの人たち?

「追加のチョコクリームメロンパンは、六つでよろしいですか?」
 えっ、六つって……。
 もしかしてここの四人と、あとふたりの分?
 このパン屋のおばさんも、超能力者かなにかなのか?
「おばさんじゃないけどね、少年……」
 一瞬、なにか低い声が聞こえたけれど。
 店員の『お姉さん』は、すぐに笑顔に戻って。
 手際よく追加のパンを袋に入れていく。

「……ねぇ、並ばなくていいの?」
 数のことは気にならないらしく、高嶺が小声にならないボリュームで僕に聞く。
「そんなに売れるパンじゃないんで……」
 またなにか、低い声が聞こえたけれど。
 経営に関する高尚な話しだろう。ここは華麗に、スルーしておこう。

「……それでは、追加分のお代を」
 三藤先輩が、パン屋の経営を心配して。
 じゃなくてごく当たり前に、僕の代わりに聞いてくれたのだけれど。
「いえいえ、結構です」
「へっ?」
 思わず僕は、先輩と同じタイミングで聞き直したところで、すかさず。
「じゃぁ、無料サービスですか!」
 おい高嶺、それじゃパン屋が潰れるぞ……。

「いえいえ」
 パン屋の『お姉さん』は、変わらない笑顔で。
「ツケ払いも、たまに頼まれていますので……」
 えっ……。
 ツケ払いって? あの、『あとで払うぜ』ってやつですか?
 そ、そんなことまでしているのか? やっぱりパン屋、潰れません?
 すると店員の目が、キラリと光る。
「私立高校独身教諭、月給制、ボーナスあり、車検は来年」
「へっ?」
「……向かいの銀行に、毎月決まった日にいらっしゃいます」
 なにその、営業スマイル?
 ……窓の外、道路の向かいに確かに銀行がある。
「あちらに向かうと、いつもこちらにいらっしゃいます」
 銀行のち、パン屋か。
 なるほど。恐ろしいほど確実に、藤峰先生を抑えているのだろう。
 僕は、給料を手にパンを大量に買いにくる先生の姿を頭に思い浮かべながら。
 この店員は、パン屋が潰れても債権回収屋にはなれると確信する。

「潰れませんけどね……」
 お店を出る前、また低い声が聞こえて。
「いつもありがとうございます〜」
 僕はまた、大人の怖い『お姉さん』の知り合いが増えた気がした。


 お店を出てから、僕はふと思い出す。
 パン代は支払い済みで、追加分もツケ払い。
 じゃぁ、あの商品券っていったい……?

 すると絶妙のタイミングで、都木先輩のスマホにメッセージが入る。
「えっと。サプラーイズ! だって。あと……これは自分で読んで……」
 なぜか、都木先輩が冷めたような声で告げると。
 やや強引に、スマホを僕に渡してくる。
 どうしてだろうと、僕が画面を見ようとすると。
 画面と僕のあいだにスッと、栗色の塊が侵略してきた。
「ちょっと、近いわよ!」
 三藤先輩が、高嶺の頭と呼ばれる物体をずらそうと反応する頃には。
 すでにアイツは、中身を読み終えていて。
 とんでもなくわざとらしく、棒読みで音読する。
「前に女の子に買うプレゼントのお金がないって泣かれたよね」
「は?」
「だから商品券で許して、ごめんなさい」

 ……た、高尾先生。
 真っ赤なウソ、いや真っ黒なウソじゃないか、それ……。

「……先にいくわ」
 極めて冷静な顔で、三藤先輩が歩き出す。
 都木先輩はスマホを指して、低い声で。
「もういいかな?」
 そう告げると、まるでスマホが汚染されたみたいな顔をする。
「先生のお金でプレゼント買おうとするなんて、サイテー」
 おい、高嶺!
 僕が頼んだわけじゃないことくらい、今朝のやり取り見てたらわかるだろ……。

「メロンパンまで、たかるつもだったんですね……」
「えっ……」
 なんでここにパン屋の『お姉さん』が!
「パンの耳、入れ忘れていました」
 僕と目をそらしたまま、ボソリともらす。
 サービス品、受け取りました!
 でも全部。ご、誤解ですから!


 ひきつった笑顔をした店員が、パン屋に戻ると。
 三藤先輩がその藤色の瞳で、僕をまっすぐ見つめてくる。
「念のためお知らせするけれど。きょうはパンを持ってあげません」
「わたしも手伝うのや〜めた」
「帰る向きが違うので、そもそもわたしにも無理だねー」
 ……か、神様に問いたい。
 きょうの僕に、たった一ミリでも非があるのなら。
 いますぐ教えてください!

 そのあと、駅のプラットフォームで。
 反対側の電車に乗る、都木先輩は。
 明らかに僕を無視して、ほかのふたりにだけ手を振って帰っていき。
 残りのふたりは、明らかに必要以上に距離を置いている。
 そのまま会話のなく列車に乗って、いつもの乗り換え駅に到着すると。
 ……そこには、赤根(あかね)玲香(れいか)と。
 トラブルの張本人、高尾(たかお)響子(きょうこ)がプラットフォームでなぜか手を振っていた。

「玲香先輩、いきましょう」
「海原くんからは、離れたほうがいいわよ」
「えっ? なに?」
 事情を飲み込めていない、玲香ちゃんを連れて。
 先輩たちが次の列車の乗り場へと、足早に向かう。
 逆に、しっかり事情を理解している高尾先生は。
 なんですか?
 その微妙な笑顔?
「……うわぁ。思った以上に怒ってるねぇ〜」
 僕にはわかる。この人はいま。
 絶対人ごとだと思って、楽しんでいるのだ……。

「海原君。パンをありがとう!」
「先生。いまいうべきことは、それですか?」
「だってこの先。あの子たちの相手するのってもっと大変だよ〜。だから、君にはも〜っと免疫をつけてもらって。乗り越えてもらわないと困るからね!」
 あぁ、あまりに無茶苦茶な理屈で。
 いい返す気にもなれない……。
「まったく……。そもそもパンは、明日の朝受け取りじゃなかったんですか!」
 それでもなんとか。
 僕はあえて、少しだけキツイいいかたで先生に迫る。


 すると、一瞬驚いたような顔をした高尾先生が。
 そのあと視線を遠く、遠く。
 ゆっくりと線路の上の空へと移し、沈黙してしまう。
 ……え?
 なにその、悲しげな瞳?

 別のプラットフォームから、列車が発車してその車輪の音が消えるまで。
 先生の沈黙が続く。
 え、もしかして泣くの?
 今度は僕が泣かせたとか、いい出すの?


「パンってさぁ……」


 ……大人って、わからない。
『お姉さん』って、怖い。
 いや、訂正しよう。
 高尾先生って……。

 メチャクチャだ。


「パンってさぁ……」
 高尾響子は、もう一度そう繰り返すと。
 わざわざ遠い目をして、それからうるうるした瞳で僕を見て。

「その日のうちに食べたほうが、おいしいんだよ……」


 そう告げると、乗り換え階段へと早足で逃げていった。


 ……で、そのあとは結局。

 あまりに放心状態で列車に乗った、僕を見て。
 玲香ちゃんの、高尾先生への事情聴取が始まって。
 三藤高嶺連合軍が、先生に『口撃』を加え続けた。

 ちなみに高尾先生は、反省の印として。
 先生の宝物のパンの一部を、みんなに譲渡することで和解した。


 ただ、僕にもパンがわけ与えられたかどうかは。

 ……この際、そっとしてもらいたい。