花紺青色(はなこんじょういろ)の世界に、桔梗(ききょう)の花が。
 華やかに咲き誇っている。

「あ、あの……。そ、そろそろ動いてもいいかしら……」
 そうだった。
 あまりの光景に、時間が経つのを忘れていた。

 ……こ、これは現実だ。

 両耳を赤くした三藤(みふじ)先輩が、ぎこちなく右腕を上げながら。
 少し顔を横に向けて、紅赤色の玉かんざしに手を伸ばす。
「お、お団子……」
 横に控えていた三藤母が、思わず吹き出す。
「……もう、海原(うなはら)君。なにをいうかと思ったら」
「し、失礼しました! あまりに別世界だったので、驚きすぎて……」
「少し前に月子(つきこ)が、いきなり浴衣が着たいといい出したのよ……。でも、ほめていただけてうれしいわ」
「は、はい……」
「それで……。海原君がほめてくれたのは。浴衣の柄かしら? それとも娘のために頑張った母親?」
「……いえ、それを着ている。……な、中身です」

 一瞬、沈黙が流れ。

 それからもう一度、三藤母が吹き出した。

「まぁ月子……。あなたですって!」
「もう、わざとらしくいわないで! それに海原くん!」
「は、はい」
「そこは浴衣を着たこともほめてから、わたしをほめてよね……」
「す、すいませんでした!」


 突然カシャッという音がしたので、驚いて振り向くと。
 三藤母がスマホで、僕たちの写真を撮ったらしい。
「お、お母さん!」
「なかなかよく撮れたわ。はい、じゃぁもういいから! いってらっしゃい!」
 そのまま僕たちは玄関から押し出されると。
 三藤先輩が続けて、なにかいおうとする前に。
 大きな音でガシャッと、玄関の鍵がかかる音がした。

 ……少し陽の傾いた玄関先は、まだまだ暑さが強いけれど。

 でも、先輩の顔が真っ赤なのは。
 暑さのせいでないことくらい。

 ……さすがの僕でも理解した。


 駅の反対側へと渡る踏切で、列車がとおり過ぎるのを待つ。
 隣の三藤先輩は相変わらず、視線を下にしたままで。
 家を出てから、ひとこともしゃべらない。

 進入速度を下げた列車が、僕たちの目の前をゆっくりと通過する。
 二両目の窓から、外を見ていた小さな女の子が。
 三藤先輩の姿に、気がついて。
 隣のおばあちゃんらしき人に、慌てて声をかける。
 おばあちゃんがこちらを見て、目を細めたのがわかった。
 小さな女の子は、キラキラと目を輝かせたままで。
 見えなくなるまでずっと、窓に張り付いたままだった。

 遮断機が、上がる。
「先輩の浴衣姿が、注目の的でしたよ」
 でも返答は、特にない。

 もしかして、余分なひとことだったのだろうか?
 そんなことを考えながら、僕が歩き始めようとしたそのとき。

 ……小さな声が、耳に入ってきた。

「ん」
「ん?」
「ん」
「へ?」
「ん!」

 顔を、踏切の先に向けたまま。
 三藤先輩が、右手の小指だけを僕に差し出している。

「……包むのは、三本まででしたね」
「ん」
 先輩は、もう一度短く答えると。
 僕が包み込んだ小指に力を入れて、爪を僕の指に突き刺してくる。

「……注目の的に、ならなくていいの」
「へ?」
「海原くんが、見てくれればそれでいい……」
「え? いまなんて?」

 声が、小さすぎて。
 最後に聞こえた言葉が本当だったのか、自信がない。
「先輩、もう一度最後の部分を……」
「もぅ。そこ! 右に曲がって!」


 さすがの、僕でも。
 いまからのふたりのいき先は、とっくにわかっているのだけれど。

 ……僕たちの行く末は、まだわからなかった。


 神社につき、鳥居の前に立つと。
 三藤先輩はそっと、小指を抜く。
「会いにいくわよ、はい一礼」
 浴衣姿で、丁寧にお辞儀する先輩のうしろ姿を。
 僕はこの目に、しかと焼き付ける。

「この砂利、頑張ったわね」
「なんかこうやって歩くと、ちょっとだけ楽しいです」
「どうして?」
「お参りする人たちの道をつくった、みたいな?」
「なにそれ。そんな余裕なんてなかったでしょう?」
 ようやく、三藤先輩が笑顔になって。
 そしてこのとき、僕は初めて。
 もし手元にスマホがあれば。この表情を写真に残せたのにな、と考えた。


 ……ふたりで、参道の途中にある、小さなお(やしろ)のそばまでやってくる。

「こんにちは、(はら)さん」
 三藤先輩が、当然ここにいるのだろうと。驚くこともなく声をかけると。
「うむ」
 原さんが、お社のうしろから、のんびりと現れた。
「お、おひさしぶりです」
「うむ」
「きょうは、あの犬はいないんですか?」
「もう、寝たわい」
 昼寝にしては遅いけれど、そんなに年寄りの犬なのだろうか?_

「学校が始まるので、ご挨拶に伺いました」
「うむ、なかなかよき立居姿じゃ」
「あ、ありがとうございます」
 三藤先輩が、照れながら返事をすると。
 原さんが笑顔になる。

「して……。まぁええ。ふたりとも、まだまだ、じゃのう……」
 原さんはひとりで質問しうようとして、ひとりで解決してしまったようだ。
「うむ、ご苦労じゃった。もう帰りなさい」

「ありがとうございました」
 先輩が丁寧にお辞儀を始めたので、僕も慌ててそれに続いて、頭を下げる。
「海原くん、このままの体勢で。お社にもお祈りしましょう」
 ……なぜだかわからないけれど。
 僕は先輩にいわれて、それに続く。

「では、帰りましょうか」
「へ? 本殿はいいんですか? あとあれ、原さんは?」
「きょうはこのまま、戻っていいそうよ」
 そういうと、三藤先輩は。
 なんだか原さんから、いい話しでも聞いたみたいで。
 足取り軽く、鳥居に向かって歩き出した。



「……あぁ、原の婆さんじゃないか」
「おぉ宮司か、暇で散歩でもしとるのか?」
「そっちこそ、夏も終わるというのにまだおったんか。……ん? あの浴衣は、三藤さんと、隣のは……。もしかして『婿殿』か?」
「あれは……。海原(うなはら)(すばる)じゃ」
「なに? 『婿殿』じゃないのか?」
「なにも答えんぞ」
「婆さん、もうええじゃろう。そろそろ、神社の跡取りを教えてくれんのか?」
「心配するな。あと数百年は、ここで暮らしてやる」
「おぉ、ということは……」
「跡継ぎが誰とはいわんがの。神社の心配だけは、無用じゃ」
「そうか……。ケチくさいが、ちょっとは安心したわい」
「ここはな、居心地がよい」
「そりゃぁまぁ、うれしいことじゃ」
「特に『今年』はな。ひさしぶりに大層、居心地がよかった」
「わしが宮司じゃ。当たり前よ」
「それは毎年のことじゃ。まだまだ励め」
「それも面倒じゃが、仕方ない。婆さん、また来年な」
「うむ」

 ……宮司になって、数十年。
 原の婆さんのことは、親から聞いておったが。
 わしなどあんな若いときに会ったことなど、なかったぞ。

「あの……。参道の途中にある、小さなお社で。原さんとおっしゃるかたと、たまたま出会いまして……。」
「……はぁ、それで?」
「この先で最初に出会うかたに、必ず伝言しろといわれまして……」
 ワシが、本殿前を掃除していたら。
 そういってきた女性がおっての。
 なんでも次の日、お社にくるようにといわれて。
 まさかと思って、半信半疑でいってみたら。
 本当に原の婆さんがおっての、そりゃぁ驚いたわい。
「……その女性が、奥様なのですか?」
 うむ、三藤さんは賢いのぅ。
 まったく。
 先代によればあの婆さんは、恋のなんとからしい。
 ただ気まぐれな上に、自分が気に入った者にしか声をかけんので。
 大々的に宣伝できんのじゃ……。
 ほれ、最近はSNなんとかとか、あるじゃろ?
 それで人気になれば、ドーンと大きな賽銭箱でも置いてやろうかと思ったが。
 なかなかうまくいかんもんじゃ……。

 なに? 生臭なんとか……じゃと?
 それは『坊主』じゃ。
 わたしは『宮司』じゃから違うじゃろ?

 あとはな。響子《きょうこ》は小さい頃から、あの婆さんと気が合うのか。
 境内のあちこちでよう話しとった。
 周囲からすれば、気持ち悪いただの独り言にしか聞こえんから。
 なんやかやと、えらく心配されたもんじゃ。
 まぁ、ワシらは気にせんかったがな。
 しっかし、原の婆さんは……。娘にはあんまり役に立たんのじゃないか?
 だから三藤さん。あまり婆さんに期待すぎんでな。
 もう一度いうがあれは、気まぐれな婆さんじゃ。



「……夏のあいだだけ、お社の扉を少しあけておくそうよ」
「どうしてですか?」
「原さんが、暑いからじゃないかしら?」
「え……。じゃぁやっぱり原さんって……」
「この先は、宮司さまとわたしの内緒話だから、お話ししません」
「ちょっと三藤先輩、もう少しだけ教えてくださいよ〜」
「ダメよ。わたし、口は堅いの知ってるでしょ?」
「そ、そんなぁ〜」


 ……鳥居から出る際は。
 ふたりで揃って、いきよりも丁寧に一礼した。


「ねぇ海原くん」
「はい」
「きょうは、わたしの願いを聞いてくれて、ありがとう」
「い、いえ。こちらこそ貴重なものを……」
「そ、それでね?」
「ええ」
「今度は……。海原くんのプランで、どこかに出かけましょう……」

「えっ! そ、それって……」
「チ、チームワークのためよ!」
 僕の話しをさえぎって、先輩は慌てたようすで早口になる。
「ぶ、部長と。ふ、ふ、副部長だから。なにかと理解し合わないと、ね?」

 傾いた西日が、三藤先輩を照らすので。
 その正確な表情が、わからなかった。
 ……もっとも、このときの僕に。
 その表情が読みきれたのかは、自信がないけれど。


「じゃ、じゃあ先輩……」
「な、なにかしら?」
「いつか一緒に、いきましょう」
「えっ、えぇ……」
「乗ってみたい、『新型車両』があるんです!」
「は?」
「ほら。同じクラスにいる挙動不審の山川(やまかわ)、覚えていますか? まぁ、まぁそれはさておき。そいつがですね……」
「ちょ、ちょっと……」
「乗り心地が違うんだって、夏休み前に何度も自慢されて……」

 なぜか三藤先輩が、僕のシャツを裾を少しキツめに引っ張る。

「あのね、海原くん。わたしね、きょうお弁当作ったわよね?」
「はい」
「浴衣、着てあげたわよね?」
「え、ええ……」
「それで、そのお返しなのに。電車に乗りにいくだけなの?」
「し、新型車両なんですけど……。乗ってみたくないんですか?」


 三藤先輩が、大きくため息をついたのがわかった。
 ……な、なんで?

「もういいわ……」
 あきれた声で、そういうと。
 先輩はもう一度。右手の小指を一本伸ばしてきて。
「これだけは、間違わないでもらえないかしら?」
 そういって、家の前まで離さず歩けと、伝えてきた。





 ……わたしと、わたしたちの夏休みはこうして過ぎていった。


「来年も、原さんに会いに。またこちらにうかがいます」

「……ほう。誰とくるのか知らんけど。長生きする楽しみができそうじゃ」

 わたしは、誰とくるかは予想がつく。
 でも、いったいどんな関係で、会いにいけるのだろう?

 ……多分、原さんは。
 その答えを、知っている。

 海原昴。
 あなたは来年、わたしと……。



 ……絆創膏の巻かれた、人差し指で。
 枕元に置いた香水の小瓶を、そっとなでながら。


 わたしはその晩。


 この夏で一番の、幸せな眠りに落ちた。