……わたしは、雨の中。
 ひと気の絶えた参道を、まっすぐに走り続ける。

 体が、濡れる。
 砂が、跳ねる。
 でもいまは……。そんなことは重要じゃない。
 わたしは、とにかく。
 みんながいる、あの空間から。
 少しでも遠くに、いきたかった。


 ……小さなお(やしろ)の前で、青柳色(あおやぎいろ)の和傘をさしている人が見えて。
 わたしは泥をかけてはいけないと、一旦歩みをゆるめる。
 でも、こんなところで常識人っぽく振る舞ったって。
 ずぶ濡れなんだから、余計変に思われちゃうのに……。

 無言で、傘の人の脇をとおり過ぎようとした、そのとき。
「巫女のお嬢ちゃんは、傘がないんじゃのう……」
 そんな声が、聞こえた気がした。

 見たらわかるでしょう? どうか、放っておいて。
 その声を無視して、進もうと思うのに。
 ……え? どうして?
 なぜか両足が重くなって、先に進めない。
 焦って顔を、横に向けると。
 木陰で雨宿りをしている犬がいて。
 じゃぁ。えっ、もしかしてこの人って……。

「……(はら)さん、ですか?」
「いかにも」
 原さんはゆっくりとうなずくと、わたしを見て。
「して、どうするつもりじゃ?」
「えっ?」
「どうするつもりじゃ?」
 そんなことを、聞いてくる。

 いったい原さんは、わたしのなにを知っているのだろう?
 でも、なにも知らないのに。
 わたしにそんなことを聞いたりは、しないはずだ。

「まだまだ、じゃのう……」
 わたしが、次の句を発する前に。
 原さんの姿が、見えなくなった。
 いや、少し違う。
 わたしの、大好きだけれど聞かないことに慣れないといけない。
 そんなふたつの声が、聞こえてきて。
 わずかに一瞬、振り向いただけなのに。

 ……原さんは、もう。
 その姿を、消していた。


「……陽子(ようこ)っ!」
 わたしの親友、三藤(みふじ)月子(つきこ)が。
 どこにそんな力があるのかと思うくらい、力強くわたしを抱きしめる。
 真夏の夕方、一気に降った雨の中を全力で走ってきたからなのか。
 月子の体が、湯気が立つくらい熱い。

 ……あなたは普段、体温がとても低いのに。
 いまは、その温もりが。
 体の奥まで、染み渡る。

 わたしが、月子を抱きしめて。
 月子がわたしを、抱きしめ直す。
 ああ、この子からわたしは。離れることができなくなるよ……。


 ……それから、ふと。
 ふたりの周りだけが、雨が降っていないことに気がついて。
 どうしてだろうと、顔を上げると。
 青柳色の、和傘が。
 わたしたちを覆っていることに、気がついた。


「……なんだか、抹茶パフェみたいな色ですよね」
 背中のほうから、海原(うなはら)(すばる)の声がして。
 思わずわたしの肩が、震えだす。

「陽子、どうしたの?」
 月子の、心配そうな声が聞こえてきた。
「だ、だって……。この状況で、抹茶パフェとか普通いう? おかしくない?」
 わたしの震えが、笑いをこらえているものだと気がついて。
 月子がゆっくり、抱擁を解いてくる。

 でも、涙なのか、雨なのか。
 まだわたしには、彼の顔が見えにくくて。
「月子、もう少しこのままでいて」
 そう甘えて、月子の肩にもう一度顔をうずめる。

「ところで海原くん。その和傘、どこにあったのかしら?」
「おふたりが抱擁しているときに、一瞬目をそらしたら……。そこのお社に立てかけてあったので、お借りしました」
「どうして、目をそらしたの?」
「い、一緒に混ざるわけにはいかないな、と思ったので……」
 海原君と月子の、そんな会話を聞きながら。
 原さんが、濡れなければいいなと思うと同時に。
 ……え? もしかして!

 慌てて顔を上げて、振り向いて。
「海原君、ずぶ濡れじゃない!」
 いまさらのことに気づいて、大きな声が出た。


「いや、さすがに三人入るのは無理ですし……。せめておふたりを濡らさないようにしないと。藤峰(ふじみね)先生に、風邪をひかせるなといわれましたし……」

 ……はぁ。
 これが、海原昴だ。
 抹茶パフェとか、藤峰先生とか。
 感動の場面だよ?
 どうしてそんな妙な現実感ある言葉、出してくるのかなぁ!

 でも、そうだよね。
 この体勢で傘に三人はきついよね。
 ただね、それで君だけが濡れていいなんて。
 そんなのは、あっちゃダメ。


「ねぇ、いい方法があるの」
「え?」
「月子と海原君、背中合わせに立ってもらえない?」
「ちょ、ちょっと陽子……」
「いいからいいから。早く背中をくっつけてよ」


 ……わたしの大好きな親友と、わたしが好きになった人が。

 わたしの前で背中を合わせている。


 ふたりの濡れた背中と背中が触れ合うと、また湯気が上がっているけれど。
 このときばかりは、気にならない。
 だってね……。


 わたしは、背中合わせのふたりに背を向けると。
 自分もそっと、背中を合わせる。

 ……うん、これでいい。
 あたたかくて、これが好き。


 わたしからは、月子も、海原君も見えないけれど。

 互いの体温を感じて、互いの存在がすぐそばにいるのがわかる。


 ……それぞれ、見ている景色は違っても。

 過ごしている時間は、一緒だよ。



「なんだか、雨が止んだわね」
「原さんのおかげじゃない?」
「えっ、もしかして原さんに会ったんですか?」


「……して、どうするつもりじゃ?」
 もしもう一度、原さんに聞かれたときは。
 
 答えは、たったひとつだとわかった。


「大好きなみんなと、一緒にいます」



 ……わたしは、海原昴君が好き。

 だけど。
 誰かの好きまでは、奪わない。

 これが、わたしの答えだ。



「……陽子?」
「春香先輩?」
 ……どうしよう。
 そう心に決めた瞬間。
 なんか、心の底から楽しくなって。
 わたしは背中をくるりと回して。
 ふたりを思いっきり抱きしめたくなった。

 でも、やっぱりそれはちょっと……。
 まだ、刺激が強すぎるよね?

「なんでもないよ」
「それにしては、楽しそうな声ね」
「よ、よかったです……」


 それにしても、このふたり。
 本当にわたしの心の中、わかっているんだろうか?
 まぁいい、わたしたちはこの先もずっと……。



 ……恋するだけでは、終われない。
 ふと、そんな言葉が頭によぎって。

 わたしはまた肩を少し、震わせた。

「陽子、また笑っているの?」
「背中だと、わかりにくいですよねぇ……」
「海原君は、顔見たってわからないでしょ?」
「それもそうね、背中だけで十分だわ」
「えっ、ええっ……」
 そんなことを、互いの顔を見ずに話しているうちに。
 気まぐれな、雨がやんで。
 あたりは一気に、蒸し暑さがこみ上げてきた。


「……やっときたわね」
「全員、再集合ですね」
 確かに。
 みんなが、大きな声をあげながら。
 参道の向こうから、走ってくる。


「ねぇ、ちょっと借りるよ」
「えっ?」
 わたしは、海原君の手から青柳色の和傘を手に取ると。

 いまの気持ちを、少しでも早くみんなに伝えたくて。

「ちょっと、離れて〜」
「うわっ!」
「な、なにするの陽子!」

「みんな〜! ここだよ〜!」


 生まれて、初めて。

 夏の空に向かって。


 笑顔で思いっきり、傘を振り回した。