「必ず、ノックの返事を聞いてからにしてね」
重苦しい声で、春香陽子にいわれると。
わたしはますます、気が重くなる。
なんで『部室』に入るだけなのに、きょうはそんなことを?
とはいえ、真面目な顔の陽子先輩に聞くわけにもいかず。
わたしは指示どおりに、扉をノックする。
「……どちらさまですか?」
え?
いまの声、月子先輩でしょ?
なにその、他人行儀?
「月子、わたしだけど。あけていい?」
「あなたと、あとは誰かいるの?」
なに、この重たい感じ?
本当にここ、部室なの?
わたしの驚きを察したのか、陽子先輩がじっとわたしを見る。
「動揺しないでいいよ。あれは月子だから」
「いや、だからこそ、余計動揺してるんですけど!」
「あぁ、『由衣さん』もいるのね……」
すいませんね、大きな声出して!
まったく。せっかく『名前呼び』が定着しつつあるのに……。
……わたしは、数日前の放課後の『機器室』でのやり取りを思い出す。
「……ねぇ月子。『由衣ちゃん』って呼ぶのはダメ?」
「陽子。『あの』高嶺さんをそう呼ぶのは、無理だわ」
「わたしも、『この』先輩にそこまでは求められません」
「もう、ふたりとも意地はらなくても……。じゃ、せめて『由衣さん』にしない?」
「美也先輩、それは義務ですか?」
「つ、月子ちゃん……。ま、まぁ仲良くしようっていう一環だからさ……」
「ねえ、どう思う海原君?」
「ええっ? 春香先輩、僕に聞くんですか……」
「そうね。どうしたらいいかしら、海原くん?」
「み、三藤先輩まで……」
「もう、部長権限で決めちゃったら?」
「都木先輩……。呼びかたまで、僕が決めるんですか?」
「そうでもしないと決まらないよ、海原君!」
「春香先輩まで、そんなぁ〜!」
……『美也先輩』と呼ぶことは、すんなり決まったのに。
わたしの呼びかたは、渋々ながら。
アイツが困り果てた顔を見た『から』、最後まで粘り続けた月子先輩が。
「いいわ、それ『くらい』なら呼んであげるわ」
やたらと恩着せがましく、わたしの呼称を決定して。
アイツ以外の女子部員は、互いを下の名前で呼び合うことになった。
……まったく。
少々、呼びかたが変わったとしても。
あの先輩のわたしに対する態度は、相変わらずの反応のまま変わらない。
「少し待ってもらえるかしら」
中から、そんな月子先輩の声が聞こえたけれど。
「別に。自分であけますんで」
わたしはそう無愛想に答えて、扉に手をかける。
でも、えっ?
なにこれ! 鍵かかってるし!
……ギィー、ガタガタ、ゴトン、ガガガ。
機器室の中からたくさんの物を動かしたり、重たいなにかをひきずる音がする。
それからようやく鍵を、あける音がして。
「どうぞ……」
うつろな表情の、海原昴が現れた。
……っていうかなにその、暗い顔!
「アンタ、どうしたの?」
わたしが思わず、声をかけるけれど。
「まぁ、とりあえず入ってくれ……」
なにその、感情の消えたいいかた? 大丈夫なの?
『機器室』に入ると、こんな時間にも関わらず蛍光灯がついている。
いや、異様なのはそれではなくて。
すべての窓に暗幕が張られ、更にガムテープで目張りされている。
陽子先輩と海原が、無言で扉を閉めると。
「えっ?」
そのまま無言で鍵をかけて……って。
机や椅子で、バリケードを作り出してるし!
「由衣がきたから、ようやく揃ったね……」
かつてない重苦しい声を出しながら、美也先輩がわたしを見る。
「あの、これはえっと……」
「もう少し、小さな声にしてもらえるかしら?」
「声が大きいよ、由衣ちゃん」
月子先輩はともかく、陽子先輩まで……。
怖い、怖すぎる!
……ふと、視線をずらすと。
部屋の隅っこに、なにかがうずくまっている。
え、なにあれ?
生き物っぽいけど……。
生きて、生きてるんだよね?
「先生、全員集合しました」
美也先輩が、そう声をかける。
……っていうことは、あれは。
顧問の、藤峰佳織先生なの?
先生は、なかなか動くことができないようで。
「よっ」
美也先輩が、上に被せてあった新聞紙をめくって肩をトントンと叩いている。
「ダメね、冷凍しすぎたイカの目玉みたになっているわ」
「いえ、三藤先輩。僕にはどちらかというと焦げたニジマスに見えますけど?」
わけのわからない会話はどうでもいいけど、なんか先生がピクリと動いたよ!
そしたら……。ウソっ!
先生が、上半身だけフラフラさせながら起きあがって。
「ご、後生だがら。あ、あとのごとは……。よ、よろじぐ……」
それだけいうと、そのままドサリと倒れ込んだ。
「やっぱりダメだったね」
「そうだね、ちょっと無理か」
陽子先輩、美也先輩……なんですかこれ!
もうわたし、叫んでもいいですか?
「……で。わたしの役割は本当にそれだけですか?」
「なにか不満かしら、由衣さん?」
「いいえ……。でもそれって、わたしたちがやる必要あります?」
「あらしらぁぁ、ながまぁでしょぉぉ……」
「ちょっと陽子、その辺の余った暗幕でも被せて静かにさせてもらえない?」
「了解月子。美也ちゃん、ちょっと手伝って!」
「オッケー。先生、このままもう寝てていいですよ!」
……やっぱ変でしょ、これ。
月子先輩が、思わせぶりに。
美也先輩が笑いをこらえながら、説明してくれた。
土曜日の夜、残業中の先生が。
フランスパンに塗った、大量の夏みかんマーマレードを。
コンピューターの上に盛大にこぼしたらしい。
「なんでも、季節の新作だったそうよ」
真面目な顔で、月子先輩が解説を続ける。
「サラサラのマーマレードが、キーボードの中に染み込んでいくのを慌てて拭こうとして。運悪く隣のコーヒーもこぼしたらしいの」
「パソコンが、壊れたってことですか?」
「一学期の全校生徒のテスト結果が、すべて消えたそうよ」
……なんだか、暗幕の中から。
モゴモゴと、まったく聞き取れない音が聞こえてくる。
「コンビニで買ったプリンを混ぜた、キャラメルマキアート」
「は?」
「ただのコーヒーじゃない、だって」
え、海原?
アンタ、いまの聞き取れたの?
「……っていうか、そんな無駄な情報翻訳しなくていいから!」
「いや、いったのは先生で僕じゃない」
「アンタが、翻訳しなかったらただの雑音じゃん!」
「ふたりとも、わたしが話しているのよ。聞きなさい」
月子先輩がそういうと、陽子先輩が隣でまぁまぁとなだめてくれている。
で、話しを戻すと。
「その夜から今朝の4時までかけて。どうにか再入力が終わったそうよ」
……って、え?
土曜日、日曜日……って、先生? きょう月曜日だよ?
「お風呂入ってます? 歯磨きしました?」
思わずわたしが、先生のほうを向いてそういうと。
アイツが返事を通訳しようと、口を開きかける。
「ちょ、ちょっと待った! 歯磨きの結果とか、聞きたくない!」
わたしが、慌てて付け足すと。
「ちょ、ちょっと知りたくないかも」
「や、やめとこ!」
美也先輩と陽子先輩も、両手を振ってアイツをとめる。
「ええっ……」
ちょっと、なんでそんなに残念そうな顔なわけ?
「あのね、海原くん……」
月子先輩は、小さくため息をつくと。
「先生はまだ独身よ。ここは読者のためにも、イメージを守るべきだわ」
なんだか既に、翻訳なしで答えを知っているかのように首を横に振る。
「……それから、無事に入力できて安心したら意識が飛んだらしくてね」
印刷機と、コピー機のあいだに倒れ込んで。
両方の機械を『物理的』に破壊した結果。
今朝発表の一学期の総合成績を、廊下に張り出せなくなったと。
都木先輩が、ちょっとワクワクした顔で話してくれた。
なるほど。
だから今朝近所のコンビニに、先生たちがやたらと多かったのか。
でも先生、どうせなら。
夏休みの宿題プリントを刷る前に、壊してくれたらよかったのに……。
思わずわたしは、少し余分なことを考えたけれど。
問題は、そこじゃない。
「で。わたしたちに、印刷機に『なれ』というのよね……」
月子先輩があきれた顔で、暗幕に包まれたまま動かない物体を眺めている。
「まぁもうやるしかないんで、始めましょう」
「そうだね、ということで由衣もよろしくねっ!」
妙に前向きなアイツと美也先輩が、そういうなら。
……まぁわたしも、手伝うけどさぁ。
でもひとことだけ、いわせてもらえるかな?
「本当に、生徒がやっていいんですか?」
「ほかの先生だって、やりたくなんてないから頼まれたのよ。まぁその分、無事に作業が終わったら、この先生に恩をたっぷり売ればいいんじゃないかしら?」
月子先輩が、恐ろしいことをサラリと答える。
前から思ってたけど、この先輩は敵にしないほうがいいよね……。
そんなわけで、わたしたちは。
各学年上位百名、合計三百名分の順位・氏名・得点を。
自分たちで文字どおり『手書き』することになった。
本来、ほかの生徒の成績を生徒が知るのはまずいけれど。
どのみち掲示される物なら、生徒が手伝っても少し早く知るだけだかからと。
校長としては、許容範囲らしくて。
だからせめて、情報漏洩に気をつかいましたとアピールするために。
「信頼する仲間とバリケードが、必要なんだよね?」
なんだか陽子先輩も、楽しそうだ。
信頼する『仲間』ねぇ……。
まぁ一応、わたしも納得するしかないよね。
それにしても。
「上位百人の成績とか、いります?」
「昔から、ずるずるとやめられないんだって」
都木先輩が、そう答えてから。
「なんだか『佳織先生』が、いまの校長ならみんながやめたいなら聞いてくれるかもよって。前に話してたけどね」
ちょっとだけ意味ありげな顔で、わたしたちを見て付け足した。
掲示用の紙の調達や道具の補充、そのほか先生たちとのコミュニケーションは信頼の厚い、美也先輩。
模造紙に書くためのレイアウトや氏名や得点の確認などは、細かい作業の得意な陽子先輩。
それに、掲示サイズを毛筆で三百人分書き切れるのは。
……まぁ月子先輩しか、いないよね。
あとは、海原?
アンタが、筆洗いとかの水運びするなら。
わたしなんていなくても平気じゃないの?
「由衣さんなら、誰かが近寄っても絶対部屋の中に入れないから必要だといい切ったのは。部長の海原くんなのよ」
月子先輩の説明だと、なんかわたし。
ただの『番犬』扱いされている気がするけれど。
「由衣ちゃんなら、わたしたちがもし後日誰かに文句言われても。絶対情報を悪用したり、ズルしたりしなかったって。胸張って答えてくれるでしょ?」
陽子先輩みたいな説明なら、ちょっとは役に立てるんだって思えてきた。
「まぁ、みんなで一緒にやるのって、楽しいよね!」
美也先輩の笑顔で、よし! やる気が出てきた。
「み、みんなも……。ほ、ホウショウブだから……」
もう、『佳織』先生は……。
そこで好きなだけ寝てていいから!
ちなみに、女子同士が互いを下の名前で呼び合うことになったとき。
実は、この先生も強引に割り込んできて。
「これからは『佳織先生』と『響子《きょうこ》先生』だからねっ!」
そうやって、ここにいない親友の分まで勝手に宣言して。
鼻歌を歌いながらパンを食べに帰っていった。
「……とにかく、『放送部』の初仕事を始めるわよ」
月子先輩が、部長を差し置いて号令をかける。
「そうですね、では……」
「……ってさぁ! アンタは早く、水汲みに走りなよ!」
なにかいいかけた海原昴の背中を、わたしは手加減なしにバシリと叩いて。
それを合図に、みんなで一斉に作業をスタートさせた。
……こうして、短縮授業が終わるはるか前に。
わたしたちの共同作品が無事、完成した。
ただ、さすがに。
中央廊下に掲示するのは、ほかの先生方にお任せした。
手書きの掲示に、『味』があると。
校長はじめ、先生がたの評判は上々で。
生徒たちも、達筆が三百人分並んだその掲示物を見て。
テストの結果のいかんに関わらず、なぜか大喜びだった。
海原はこの暑い中、水場とのバケツ数十往復に疲れ果て、部室で休憩中だ。
あれだけ筆をしょっちゅう洗って、アイツを走らせる必要が。
本当にあったのかは、わからないけれど。
それでも類い稀なる集中力で、月子先輩は三百名分を美しく書き切って。
いまは、墨で汚れた割烹着を洗濯中だ。
陽子先輩は、機器室の暗幕にくるまれたまま廃人と化した響子先生のために。
コンビニに栄養になりそうな物と、特大の汗拭きシートを買いに出た。
そして、美也先輩とわたしは。
帰りのホームルームが終わった、各クラスに立ち寄りながら。
全員分のカバンを集めてまわっている。
「……本当に、わたしたちがやってよかったんですか?」
「校長も喜んでいたでしょ? それに……」
確かに。
「きょうは、本当にありがとう」
校長は満面の笑みでそういうと。
「あなたたちが藤峰先生をはじめ、教師を救ってくれたのを誇りに思うわ」
なんか、あんなふうにいってくれたのは。
ちょっとくすぐったかったけれど、素直にうれしかった。
そういえばあともうひとつ、わたしには気になることがある。
美也先輩になら、愚痴ってもいいだろう。
「ところで、先輩?」
「うん? どした?」
「なんかこの部活、わたし肩身が狭いです……」
「まだ入ったばかりでしょ。気にしないの!」
まぁそうなんだけどねぇ。
なんなの、ここの人たち……。
海原が、学年七番だったのはまぁいいとして。
二年生のふたりは。
「一番 三藤月子」
「二番 春香陽子」
……本当にそうだったし。
それに。三年生の掲示だって。
「文系三番 都木美也」
……なんか学年三十番の自分が、かすんで見えた。
「由衣なら、大丈夫!」
美也先輩が笑顔で、わたしを見る。
「『放送部』の子って、成績上がるから!」
……なにそれ?
でもその根拠のなさが、わたしは大好きだと思った。
「それはそうと、今度先生に。なんかおごってもらおうね?」
「一回じゃ足りませんよね!」
「当たり前でしょ〜」
こうして。
いや、こんなものでいいのかはわからない上に。
ちっとも『放送部』っぽくない中身だけれど。
わたしたち『新生・放送部』の初仕事は。
笑顔とともに、無事に完了した。


