「いやぁ。初日にして、充実した一日でしたねぇ〜」
……え?
爽やかにいった、つもりなのに。
なぜか高嶺が、白い目で僕を見る。
な、なにか問題でも?
「なんでひとりだけ、そんなにさっぱりしてんのよ?」
「え? 砂利と埃まみれだからどうにかしろっていったの、お前だろ?」
「だからって、さっぱりしすぎ!」
「まぁまぁ。男子はこういうときに、気楽でいいよねぇー」
高尾先生が、フォローに入る。
実は、お世辞にも。掃除しなくても使えます、という代物ではないのだが。
神社には、宿坊があって。
その横に、古くなった浴室が壊れたので増築したというシャワー室がある。
「お湯が使えるかも、試しといて!」
高尾先生が、デッキブラシなど掃除道具一式を渡してきて。
砂利山を思えば、天にジャンプできそうなくらい楽な作業だと。
シャワー室は先生の予想以上に、キレイに仕上がった。
「でも、ひとりさっぱりして。なんかズルくないですか?」
高嶺が、まだ文句をいっている。
「明日から、わたしも入ろっかなぁ?」
「玲香先輩、そのあとの肌のお手入れとか大変ですよ……」
「由衣さんが、入らなければいいだけじゃないかしら?」
「え? じゃぁ月子先輩。コイツの前で、湯上がり姿を見せられますか?」
「そ、それは……」
「でも、汗だくなのとどっちがいいんだろうねぇ……」
返答に詰まった、三藤先輩に代わって。
春香先輩が、横で苦笑しながら答えている。
きょうの昼食は、三藤先輩の体調に留意して。
社務所にあった、インスタントの麺で済ませて。
代わりにいま、目の前にある夕食は。
近所の中華料理屋から、先生が出前を取り寄せてくれた。
「部費を貯めるはずが。それでは、ただ散財しているだけの気がします」
三藤先輩は、強硬になにかを作るんだといい続けたものの。
「また体調崩したら、そっちのほうがダメ!」
それを上回る勢いで、春香先輩が絶対に無理をするなといい張った。
食事が終わると、親からの『参加条件』でもあるお勉強タイムが始まる。
皿洗いなどについては、英会話の練習がてら。高尾先生と春香先輩の担当だ。
「台所とかだけでも、意外と初めて聞くような単語が多いですよね?」
ふたりの会話が、聞こえてきて。
僕は、隣で英語のテキストを広げている三藤先輩に感想を述べる。
「日常の言葉って、意外といえないものね」
「そうそう、あれとってとかそれちょうだいとかだけだと、ダメだよねー?」
えっと、玲香ちゃんなら……。
それでも通じさせそうな気も、しなくはないけどな?
珍しく高嶺が、代数の教科書を開いたままで。
さっきから会話に加わってこない。
すごい、集中している!
……はずはなくて。
「頭を使うと、眠たくなるのかしら?」
シャープペンを握って勉強した『ふり』をしているだけだ。
まぁ授業中も、よく寝てるもんなぁ……。
「この調子だと、海原くんが負けることはなさそうね。あと、スペル違うわよ」
そういって、三藤先輩が英単語を指差したところで。
偶然、僕の右手があたってしまった。
「あ」
「あ……」
思わず、互いの視線が出会った、そのとき。
「わたしが集中してる横で、なにしてんのよ!」
高嶺が、思い切り定規を曲げて僕の左手を叩いてくる。
「イテッ!」
「まったく、ちゃんと勉強しててよ! 目覚めが悪い!」
「由衣ちゃん、寝てたの自分でバラしちゃってるよー」
「玲香先輩、それは内緒にして!」
「あなた、もうみんな知ってるわよ」
「寝てませんし!」
いや、思いっきりバレてるんだけどさ……。
……なんだか、にぎやかな海原君たちを横目に。
乾かしたお皿を拭きながら、わたしは春香陽子に英語でささやく。
「向こうで、一緒に勉強してきたら?」
練習の成果が、確実に身を結びつつあって。
彼女が聞き直さずに、英語でボソリと答える。
「いいんです。あの輪の中から、離れる努力も必要なんで……」
……そんなに無理しなくてもいいのに。
不器用でもいいのに。
佳織から、この子が留学したいといっていると聞いたとき。
わたしたちふたりは、まったく同じ感想を抱いた。
「ねぇ佳織、急がなくてもいいんじゃないの?」
「わたしもそう思うんだけど、意外と頑固なのよあの子も」
「そこまでこだわる理由って……」
「まぁ、きっと……」
「なんとも、罪作りな話しよねぇ……」
違う世界を、歩いてみたい。
決して、長い付き合いではないけれど。
のんびりしてそうなこの子が、そんなことをいうとは。
正直、思ってもみなかった。
少女はあっというまに、大人へと成長していく。
そう表現するのは簡単だが、わたしは実際にそんなことなどなかった。
だから陽子ちゃんは。
昔のわたしより、『はるか』に勇気があると思う。
思わず、自分でいって自分で笑いそうになる。
そういえばこの子、『春香』だったわね……。
「先生、どうしたんですか?」
「なんでもないわ。ただ陽子ちゃんって、強いよなぁって思っただけ」
「わたし。強くなんかないです……」
「いいえ。自分が強くないといい切れるあなたは、それだけで十分強いんだよ」
……この夏。
この子のために、ベストを尽くさねば。
それが、使命だと。
わたしは改めて、心に誓った。
……列車がとおり過ぎ、踏切が上がるのを待ちながら。
「夜なのに、暑い!」
「夏だから、当たり前でしょう……」
僕は、帰り道も変わらない高嶺と三藤先輩のやり取りをぼんやりと眺めている。
「じゃぁ、今夜はわたしが先ね!」
「オッケー。明日はまた決めようね!」
うしろにいる、玲香ちゃんと春香先輩は。
このあとのお風呂の順番を、仲良くジャンケンで決めたらしい。
列車を待つ時間があれば、体力作りを兼ねて歩いて帰ろうと。
「歩くだけでは、体力はつかないわよ……」
「月子は近いけど、わたしたちはもうちょっと遠いの!」
反対する三藤先輩の意見を押し切ったのも、このふたりだ。
「……海原くん、ちょっと」
三藤先輩の家が近くなると、先輩の歩みが遅くなる。
その目が、なにかを訴えようと僕を見るけれど。
すいません、いつものごとく。
そういうのは、苦手なんです……。
今夜の先輩は、僕の理解力のなさには特になにも不満を述べない。
まぁ、もしかしたら。
とっくに悟りの境地に、入っているだけなのかも知れないけれど。
「……あのね、わたしも体力作りを兼ねるから」
「は、はい」
「最後にもう一度、わたしの家まで送ってくれる?」
「えっ……?」
なんというか、三藤先輩にしては大胆な提案だ。
でも僕は、それよりも。
午前中のこともあって、体調のほうを心配した。
「まだ初日ですから。きょうは、少しでも休んだほうがいいんじゃないですか?」
「だからあれは、『金縛り』だったっていったでしょ」
そうだった。
やや遅くなったお昼ご飯のときに、先輩は。
原さんに出会ったあと『金縛り』にあって。
気づいたら横になっていた、という説明をみんなにした。
「……えっと、早起きしたから疲れただけですよ」
高嶺は、いつもどおりの反応で。
「月子、無理しないでね」
春香先輩は、いつもみたいにやさしくて。
「ねぇ、わたしもそこにいったら『金縛り』になるかな? いってみてもいい?」
玲香ちゃんは。まぁ……そんな感じだよね。
僕は正直、よくわからない。
目の前の先輩を支えるのに必死で、それ以外のことなど考える余裕もなかった。
ただ、『金縛り』だろうがなんだろうが。
先輩にはもう倒れずに済むように、体調に気をつけて欲しいとだけ思った。
ちなみに、高尾先生は。
「原さんねぇ……」
そういったきり。
そのあとは黙ったままだった。
「とにかく。きょうは三藤先輩は、少しでも早く休んでくだ……」
僕がいい終えるよりも先に、三藤先輩は早足で自宅の門までいってしまって。
「もういいわ、早く『お散歩』にでもどうぞ。また明日!」
非常に不服そうな顔で、先輩はみんなに一礼だけして玄関へと消えていく。
「海原君、嫌われちゃったね?」
春香先輩が、ちょっとだけ同情したような表情で僕を見る。
「月子ちゃん、悔しそうだったねぇ〜」
「まぁ、たまにはいいんじゃないですか?」
玲香ちゃんと高嶺の会話に、僕は慌てて割り込む。
「そ、そんなに……。『散歩』にいきたかったのかな?」
すると、ふたりが同時に僕を見て。
大袈裟にため息をつく。
「はぁ〜……」
「これだからアンタは……」
春香先輩が、続きをつないでくれたけれど……。
「その辺がね。海原君の、壊滅的に鈍感なトコだよ」
……って、先輩は最近。ちっともやさしくない!
「きゃ〜、陽子先輩いっちゃったー!」
「陽子ちゃん、最近本性だしてきた〜」
「ちょっと! それってひどくない?」
あぁ、こんなときに、僕はたまに思うのだ。
せめてもうひとりくらい、男子部員がいてくれたら……と。
……続いて、僕の家まであと少しというところで。
高嶺がこちらを振り向く。
「まさかアンタ、先に帰るとかないよね?」
「へ?」
「女の子三人いて、そのまま帰るとかしないよね?」
「えっ……」
この三人組の身に、危険が及ぶ日は。
きっとこの国が沈む日じゃないかと、思ったけれど。
でもさすがに、これまでの学習の結果を踏まえて。
口にはしなかった。
このまま自宅の玄関へと逃げ込めば、一日が終わるれど。
そうしたら、扉をこじあけてでも侵入され。
それこそ無事な朝は迎えられないと悟った僕は、泣く泣く自宅をスルーする。
「じゃぁ、由衣ちゃんを先に送ろうか?」
「あ、おふたりのほうを先にどうぞー」
「いやいや、由衣ちゃんが先でいいんだよ」
「いえいえ、先輩たちをお送りしないとー」
「いま、ちょっと年寄り扱いしなかった?」
「そんなことないですよー」
えっと、いつまでこの譲り合いは続くんだ?
みんな、早く風呂に入って寝たくないの?
「どっちでもいいんで、ジャンケンで決めてください」
僕が口にすると、六つの目玉が同時に僕を威圧して。
「海原のバカ!」
「やっぱ空気読めないかー」
「その辺が、あまりに鈍感なトコなんだよ」
容赦ない言葉が降り注いできて。
……僕は。
みんなに愛されていないんだなと、悲しくなった。
「じゃぁね〜、由衣ちゃん!」
「約束どおり、朝も迎えにきてくださいよ!」
ジャンケンで負けた高嶺が、目を思いっきり細くして、家へと帰る。
「それでは。あとふたりのレディーを、よろしく頼むよ昴君!」
「玲香ちゃん、僕がいなくても大丈夫なんじゃない?」
「そ、そんなことないよ。海原君がいてくれると、とっても安心なんだよ」
「春香先輩。さっきまでの毒舌キャラから、いきなり変わっていません?」
そんな他愛もない話をしながら、玲香ちゃんの家に向かうと。
「ねぇ昴君?」
玲香ちゃんが突然近くにきて、僕を見ながらニヤニヤしている。
「ひさしぶりに、うちに寄ってく?」
「!」
驚いているのは、春香先輩のほうだ。
「あ、あぁ。小学校のとき以来ですよねー。いきなりすぎて驚きましたー」
「あ、そ、そっか。そういうことね!」
そうなんですよ春香先輩。
これは単なる、イタズラです。
「……なんで、こういうとき『だけ』は、わかるのかなぁ?」
春香先輩と、話していて。
玲香ちゃんがそうつぶやいていたのは、聞こえなかったけれど。
とにかく、玲香ちゃんの家に到着したあとで。
今度こそ僕は、無事に自宅に戻った。
「……明日も早いの?」
母の質問には、半分眠りながら返事をした気がする。
それくらい疲れた……。
いや、充実した、一日が。
こうしてようやく、終わりを迎えた。


