空になったグラス、しなしなになったポテト。だし巻き卵と串焼きの残骸。
頬杖をつきながら、ぼーっとそれらを眺める。

どうでもいい会話と鳴り止まない乾杯の音、それと笑い声。
そういうのが耳から入ってくるたびに頭の奥がジンジンして、やっぱり居酒屋って疲れる。


『あれ?木内くん帰っちゃうの?終電の時間とっくに過ぎてない?』


帰りますよ。歩ける距離なんで終電とか関係ないです。あと正直眠い。こちとらシフト明けなんで。


『あはは。たしかにずっと眠そうだったもんね〜。でもよかったね、帰ったら佐久間(さくま)くんいるんでしょ?』


……いるでしょーね。どうせソファで寝落ちてると思うけど。ほんとだらしない。共用部屋にあるものはおまえだけのものじゃないっていつも言ってんのに。
あいつの自分さえよければいいってとこ、ほんとむかつく。


『もうなにそれ〜。今更照れ隠ししなくてもいいんだよ?』


照れ隠し?なんで俺が。


『またまた〜!いーっぱい話してくれたじゃん。佐久間くんのこと!大好きなんだよね?』


……は?




「───なにそれ……」


そんな自分の声に瞼を開いた。
爆弾発言を落としたバイト先の先輩はどこにもいなくて、俺は自分のベッドの上。


カーテンの隙間から陽の光が差し込んでいる。

朝……?あ、なんだ、夢か。
びっくりした。あいつのことが好きとかわけわかんないこと言ってくるから。

こんな悪い夢ない。寝汗かいてるし。


バイトばっかで疲れてんのかも。だから悪夢を見るんだ。体は重いし頭は痛い。しかも喉はなぜかカラカラだし。
オーダーの飛ばしすぎ?そんな喋ったっけ。

そんなことを考えながらスマホを開く。


「んー……?」


バイトのグループチャットの通知。
なにこれ……写真?


《昨日の写真共有しまーす》
《みんなこれからも一緒に頑張ろう〜!》


一緒に送られているメッセージに眉を寄せる。
居酒屋の座敷。数十人の集合写真。


……この居酒屋、知ってる。
ていうか、さっき夢で見た……よな?
つーかこれ、端っこに俺写ってんじゃん。え?なに……。


「夢じゃ……ない……?」


じゃあなに、頭が痛いのも喉がカラカラなのも酒の飲み過ぎ?
ポテトもだし巻き卵も串焼きも食べてたってこと?


『いーっぱい話してくれたじゃん。佐久間くんのこと!大好きなんだよね?』


先輩のこの言葉も、夢じゃないってこと……?

思わずガバッと起き上がる。


「い、や……一旦落ち着こう」


わかる。正直叫び出したいよな。でも落ち着け。あり得ないって。

まず昨日。俺はクローズまでシフトが入ってて、確か……そうだ。先輩たちに飲みに誘われた。大学生組の飲み会があるって。

断ろうとしたけど無理やり連れてかれた。先輩だし、強く言えなかったんだよ。


そんでその後……なにした?酒飲んで、飯食って、そんだけ?


いや、たぶんちがう。
なにも覚えてないけど、すごい喋ってた気がする。隣にいた先輩が相槌を打ってて、酒飲みながら俺はずっと何か話してた。

先輩はなにを聞いてあんなことを言った?
俺は佐久間のなにを喋ってた?

あいつのことが大好きって、俺が……?
よりによってあのルームメイトを!?


「……さいあく」


頭を抱えてため息を吐く。

……なんかどっと疲れた。起きたばっかりなのに。
顔でも洗ってこよう。そうしたら少しは思考もさっぱりするだろ。



「───あっ、」


ガチャり部屋から出た瞬間、聞き慣れた声がした。
ダイニングを挟んだ向かいの部屋。

ルームメイトの佐久間 (ぜん)が出てきたところだった。

明るい茶髪に寝癖がついている。ぱかっと口開けて、
あからさまに"げっ"て顔。
感情がそのまま表情に現れるやつで、動きが一々大きくて鬱陶しい。


「いたのかよ……」


ちらっと見えたあいつの部屋の中は相変わらず散らかってた。ダンベルとかいつ使ってるんだよ。使ってるとこ見たことないんだけど。ほんとだらしない。

どんなに考えても、俺がこんな奴好きになる要素、なくない?


「っはぁ?いちゃ悪いかよ。ここ俺の家なんですけど」
「俺の家でもあるから。なに、トイレ?」
「ちっげーよ。シャワー!」
「うわ、おまえ昨日風呂入らずに寝たんだろ。きたねー」


むかつく、っていう感情を隠そうともしない佐久間。

こいつとは高校からの付き合いで、学部は違うけど同じ大学に通ってる。

昔から佐久間の周りには常に人が集まっていて、こいつはその中心にいつもいた。
どこにでもいるだろ。クラスの中心的人物。それがあいつ。

一人でいたい俺からすれば、本当に迷惑なだけだったけど。声でかいし、リアクションもでかいし。
あーもう、なんでこんな奴とルームシェアなんかしちゃったんだろ、俺。


あ。そうだ。


「ついでにシャンプー詰め替えとけよ」


昨日風呂入った時残り少なかった。

そういうのは俺がやるって一緒に住み始めた時におまえが言ったんだぞ。


「んなこと言われなくてもわかってるって……つーかついてくんなよ」
「顔洗いたいんだよ」


おまえのせいで朝から嫌な気分なんだよ、こっちは。

洗面所の前でなぜか立ち止まる佐久間をスルーして、洗面台の水をじゃっと流す。


講義は午後からだし今日はシフトも入ってない。久しぶりに家でゆっくりしようと思ってたけど……佐久間いるんなら出ようかな……。

いや、それもそれで逃げてるみたいで気に入らない。


顔を洗う手の隙間から、佐久間がまだ突っ立ったままなのが見える。
……なにしてんの、こいつ。


「突っ立ってなにしてんの?入るんなら早くして。寝汗かいたから俺も入りたいんだよ」


タオルで顔を拭きながらそう言っても、佐久間は動かない。
なに、その気まずそうな顔……。


「……まさかとは思うけど、今更裸見られたくないとか言うなよ」
「ばっ、ばかじゃねぇの!そんなんじゃねーし!」

「……」


昔からわかってたことだけど、ほんとにこいつは思ってることがそのまま顔に出過ぎだ。嘘がつけない。

図星なんじゃん……鏡見てみろよ。恥ずかしーって顔してんじゃん。

ていうかなんで急に?
今までこーいうことがあってもノータイムで脱いでたのに。


……あ。たぶんあれはぐるぐる頭の中で考えてる時の顔。眉寄せて、ぎゅっと唇結んでる。
なんだかんだで俺に先にシャワー譲るのも嫌だ、とか、くだらないこと考えてんだろうな。

アホすぎ。
で、どうせ脱ぐよ。ほら、Tシャツに手をかけた。


俺の後ろを通ろうとする佐久間にやれやれと息を吐く。


わからないのは、どうしてこいつが変な態度取ってんのか。なにか隠そうとしてんのか?それとも意識してる?なにを?……俺を?

はは。まさかね。俺もアホすぎ。
意識する理由がないじゃん。俺の昨日の夢をあいつが見たわけでもなし。




「───……っ」


その時ふわり香った匂いに、考えるより先に体が動いてた。

待って。
なんて、実際に口に出したかはわからない。


「っわ……!?」


佐久間の間抜けな声と、どんっとあいつを壁に押し付けた音。
ぱさり、Tシャツが床に落ちたのが視界の端で見えて、でもそんなのどうでもよかった。

数十センチ先の距離で、佐久間が目を見開いている。


「昨日、誰といた?」


俺って、こんな低い声でるんだ。
なんて、頭の片隅で考えてた。


佐久間から香った知らない匂いと、さっき気まずそうにしてた姿が重なる。

もしかして隠そうとした?俺の知らない奴と一緒にいたことを?
匂いが移るって相当じゃない?なにしてたの、おまえ。


「これ誰の香水の匂い?おまえのじゃない」


すん。
……ほらここ。やっぱりおまえの首んとこからする。

さらに近づいた俺に驚いたのか、佐久間はびくっと肩を揺らすだけ。
俺、黙ってほしいわけじゃないんだけど。ちゃんと言ってくれないとわかんないじゃん。


「せ、芹沢だよ……おまえも知ってんだろ」


なんとか絞り出したような声に眉を寄せた。

芹沢って、おまえと同じ学科の奴だよね。
何回か会ったことあるけどさ。


「あいつ、こんな匂いだった?違くない?」
「知らねーよそんなの……!」


キッと睨まれて、どんっと胸をぐーで叩かれた。

あぁそう。そういう反応するんだ。
離れろって意味だと思うけど、あいにくおまえの言う通りになるのはごめんだから。


「なにそれ。隠し事でもしてんの」


やっぱそうなんでしょ。俺に言えないようなことしてんの?
ちがうって大きな声を出す佐久間に、どう詰めてやろうか考えてたら、不意に小さな声であいつは言った。


「……買い物だ」


買い物?


「芹沢が新しい香水が欲しいって言うから……買い物に付き合ったの忘れてた」


上機嫌ですぐに香水つけてたこと、酔った自分を支えて途中まで一緒に帰ってくれたこと、その時に匂いが移ったこと。

まさかの事実に思考が止まる。

知らない奴と一緒にいるのかと思ってたけど、こいつの言ってた通り、相手は芹沢だった……?

……感情にまかせて壁に押し付けたり詰め寄ったりしたけど、ぜんぶ俺の勘違いってこと?

やば、気まず……。


「…………あそう」


一歩後ろに下がって、距離を取る。
何やってんだ、俺。


「……おまえね、なにをどう勘違いしてこんなことしてんだよ」


そう言われても仕方ないけど、おまえに言われるのは腹が立つ。
顔を逸らして「べつに」って言ったら、間髪入れずに「じゃねーだろ」って突っ込まれた。


「つーか俺が誰といようがおまえには関係ないじゃん」


ぴく。
その言葉が俺の中で強く引っかかった。

間違ったことは言われてない。むしろその通りで、その通りだからこそ……イライラする。


「んなことはわかってんだよっ」
「いっっ!?てぇなぁ、もう!」


あいつの腕を思い切りつねって、ふんっと踵を返す。

あーもう。こんな風に感情が乱れるのは、きっと変な夢を見たからだ。
先輩がおかしなことを言うから。


「……とにかく、それはやく落として」
「はぁ?」
「その匂いだよ」
「なんで」


ドアに手をかけたまま、あいつの言葉を頭の中で繰り返した。

なんで……?


確かに佐久間が誰といようが俺には関係ない。こいつがどんな香りを纏っていようが関係ない。ていうか今までこんな風に気にしたことない。

はずなのに、あいつから知らない香りがしただけで、体が動いてた。すごく大きな感情に思考を支配されてた、ような。そんな気がする。


たぶん、これは───。


「……むかつくから」


ドアを閉めて、ずるずるとその場にうずくまった。

最悪だ。

たぶん、あれは独占欲。
もっと言えば嫉妬。

なんであいつに対してこんな感情を抱くのか。


『佐久間くんのこと!大好きなんだよね?』


……まじで、もう。ほんとにさぁ……。
勘弁してよ。

こんなんじゃ、否定もできない。

俺、ほんとにあいつのこと好きじゃん。
しかも割と本気で。

自分の中にこんな感情があったことにびっくりする。
そんでよりもよって相手はあいつ。

なんでだよ、俺。ありえないじゃん。
高校の時から顔を合わせれば言い合ってばかりで、鬱陶しいって思ってたはずなのに。

きっかけは何?いつから?
さっぱりわかんないけど、こんなの自覚してどうすればいいんだよ。


あいつにバレたら笑われそう。
おまえが俺を?ウケるんですけどって、口大きく開けて笑いそう。

うわ。想像しただけでむかついてきた。

勝率なんてないに等しい。
この気持ちが報われることなんて、たぶんないんじゃない。あいつ男だし。

……でもな。


「なんとかして俺のものになればいいのに……」


ぽつり呟いてから、思い出した。
俺が佐久間を壁に押し付けた時。

あいつ、どうなってた?
顔赤くして睨んできた。

えげつない音も聞こえた気がする。
あいつの心臓の音。バクバクいってたよな、確か。


明らかに反応が普通じゃなかった。


もしかして、俺のこと少しは意識してるんじゃないの?
ていうか好きまでいってるんじゃない?

心の底から嫌われてるわけじゃないんなら、勝率もゼロじゃない。
そもそも佐久間相手に俺が負けを認めるなんて、死んでも嫌。


あいつに負けるのはごめんだし、俺だけこんな感情に振り回されてんのはフェアじゃない。


じゃあもう、もっと意識させよ。
俺のこと好きにさせて、喉から手が出るほど欲しがらせて。

それで、好きだって言わせてやる。