空になったグラスと、こんもりと山になっている枝豆の殻。濃い味の唐揚げ、それとえいひれ。
ぐでんと卓に突っ伏して、ぼーっとそれらを眺めてる。

頭はぐるぐる、体はぽかぽか。
周りはざわざわぎゃーぎゃーあっはっは。

居酒屋なんてどこもそんなもん。


……え?なに?そろそろ終電?なんだよ、もう帰んの?俺やだよ、帰ったら口うるさい奴がいんだもん。ソファで寝るなとか言ってくるよどーせ。あれは俺が自分の金で買ったやつなのに。勝手に寝かせろって、おまえも思うだろ。


『散々あんなこと言っといて今更なんだよ。つーかはやく帰る支度しろよ』


はぁ?んだよ、芹沢(せりざわ)。あんなことってなんだし。俺ら楽しく飲んでたじゃんか。おいこら。聞いてんの?
その人工パーマ、割り箸で引っ張っちゃうぞ。


『だる……あんなの俺が一方的に惚気られてただけだわ』


なんじゃそら。
惚気って、だれが、だれのだよ。


『アホかよ。おまえが、木内(きうち)のをだよ。おまえ、あいつのことめっちゃ好きじゃん』


……は。




「───っは!?」



瞼を開いた先には見慣れた天井。
喧騒の中でとんでもない言葉を俺にぶつけてきた芹沢なんてどこにもいなくて、いつのまにか自分の部屋のベッドの上にいた。


窓から差すのは九月の残暑を感じるじりっとした陽の光。

朝か……今何時……?
つーか存在感ありすぎなんだよ。太陽さんよ。


手のひらで陽の光をガード。だって眩しすぎる。


あーもう……やべー……昨日どうやって帰ってきたのか覚えてない。
確か同じ学科の芹沢と飲みに行って、なんか調子よくて、そんで……すげー喋った気がする……。

何喋ったか覚えてないけど、なんかすげー喋ってたよ。
いま喉カラッカラだもん。酒飲んだからだと思うけど。


「あっつー……」


蒸し暑いと思ったらエアコンをつけていなかった。リモコンに手を伸ばす。ピッと音を鳴らして、それだけで俺は力尽きた。


ベッドに寝転がったまま自分の体をさぐる。
スマホに、財布……。あーよかった。落としてない。

それだけわかればいいや。
風呂入ってなさそうでも着替えてなくてもオールオッケー。



『おまえ、あいつのことめっちゃ好きじゃん』


……。

いやいや、なにがオールオッケー!だよ。オッケーでもなんでもねーよっ。

夢じゃない。さっき俺が見てたのは、自分の記憶だ。たしかに俺は昨日芹沢と飲みに行って、枝豆も唐揚げもえいひれも食べた。


『散々あんなこと言っといて今更なんだよ』
『あんなの俺が一方的に惚気られてただけだわ』


芹沢のこの言葉も、夢じゃない。

あ、あんなことってなに……!?
惚気ってなに!

好きじゃんって!何聞いてそう思ったんだよ芹沢!!


あーーっ、もう!まじで俺なに喋っちゃったわけ!?
飲みすぎて覚えてない!!


『アホかよ。おまえが、木内のをだよ』


しかもよりにもよって相手は"あいつ"?
澄ました顔でいつも憎まれ口を叩いてくるあの男?

俺があいつを好き?ねぇ芹沢、まじで言ってる?


「いやいや……ないない。ないだろ。バカみてー」


シャワー浴びよう。この暑さのせいで変なこと考えちゃうんだきっと。

ベッドから起き上がって、部屋から出る。
浴室に向かおうとしたら、ダイニングを挟んだ向かいの部屋の扉がタイミング良くがちゃりと開いた。


「あっ、」


びっくりして思わず声が漏れる。
ばちっと目が合った男は、なぜか一瞬目を見開いてから鬱陶しそうにため息を吐いた。


「いたのかよ……」


癖のない黒髪と、涼しげな目元。透明感のある白い肌とスラリと伸びた手足。
綺麗な男って、たぶんこいつみたいなことをいうんだと思う。

ルームメイトでもある、この木内悠親(はるちか)のことを。


「っはぁ?いちゃ悪いかよ。ここ俺の家なんですけど」


木内とは高校からの付き合いで、学部は違うけど同じ大学に通ってる。
顔が良くて?クールで?ミステリアスで?昔から女子にちやほやされてきてたけど、俺からすればただのプライドが高いだけのいけ好かない奴。

あーもう、なんでこんな奴とルームシェアなんかしちゃったんだろ、俺。


「俺の家でもあるから。なに、トイレ?」
「ちっげーよ。シャワー!」
「うわ、おまえ昨日風呂入らずに寝たんだろ。きたねー」


ほらな?一々むかつくだろ。

俺たちはどうでもいいことで歪みあって、あいつにだけは負けたくないってお互いに思ってんだよ。
こーいうのなんて言うの?犬猿の仲ってやつ?


「ついでにシャンプー詰め替えとけよ」
「んなこと言われなくてもわかってるって……つーかついてくんなよ」
「顔洗いたいんだよ」


はぁぁ……?てことはなに、おまえ洗面台使うの?


この家の洗面所は、手前から洗面台、その後ろに洗濯機、そんで奥に浴室がある。


つまり、俺はおまえの前で服脱いで入らないといけないってこと?

いや、こんなシチュ今まで数えきれないくらいあったけど、なんか今日はちょっと嫌……なんですけど。


「突っ立ってなにしてんの?入るんなら早くして」


「寝汗かいたから俺も入りたいんだよ」なんて言いながら、濡らした顔をタオルで拭く木内。


……別にね?意識してるとか恥ずかしいとかそういうことは全くなくて。
決して今朝見た変な夢(?)のことを気にしているわけではなくて。うん。ちげーからね。


なにも言わないまま洗面所の前に突っ立っている俺に、木内の整った眉がぐっと寄る。


「……まさかとは思うけど、今更裸見られたくないとか言うなよ」
「ばっ、ばかじゃねぇの!そんなんじゃねーし!」


こいつの前で服脱ぐのは嫌だけど、だからって先にシャワーを譲るのも気に食わない。

……はん。やってやろーじゃん。脱いでみせようじゃん。
こんなの今までもよくあったことだし、どうってことない。


さっきから無性に心臓がざわざわしてんのは何かのバグだ。
大丈夫ですよー。怖くも痛くもないですよー。

そんなことを心の中で呟きながらTシャツに手をかける。



「───待って、」
「っわ……!?」


木内に突然左肩を壁に押し付けられたのは、あいつの後ろを通ろうとした時。
もうびっくりして、脱いだTシャツを床に落としてしまった。


〜っなに!なになになにっ!!?
お、おまえー!俺がどんな思いで服脱いだと思ってやがる……!

さすがに黙っているわけにもいかない。
文句を言ってやろうと顔をあげたら、その黒い瞳と目が合った。


「昨日、誰といた?」
「……は」


気怠げなのはいつものことだけど、なんかイライラしてる……?

ひやり冷たい木内の指が、肩から首に触れる。


「これ誰の香水の匂い?おまえのじゃない」


俺のことなんかお構いなしに首に顔を近づけてくるから、息が止まりそうだ。

きゅ、急になんなんだよ……!誰といたって、そんな風に聞いてきたことなかったじゃん!


「せ、芹沢だよ……おまえも知ってんだろ」
「あいつ、こんな匂いだった?違くない?」
「知らねーよそんなの……!」


いつもより断然近い距離に木内がいる。
こんなこと初めてで、どうすればいいのかわからない。

ドッ、ドッ、て、俺の心臓もえぐい音鳴らしてる。

なぁこの音、もしかして木内にも聞こえてんじゃねぇの?俺、服着てねーもん。しかも数十センチ先の距離だぜ?


思わずどんっ、とあいつの胸をぐーで叩いた。
おいてめぇ。おまえが離れろ!


「なにそれ。隠し事でもしてんの」
「なんでそうなる!ちげーよ!」


俺が芹沢の香水事情なんか知るか……あ。


「……買い物だ」
「なに?」


昨日、芹沢と飲みに行く前。あいつが新しい香水が欲しいって言うから買い物に付き合ったのを忘れてた。

あいつ、上機嫌ですぐに香水つけてたし、帰り道は俺のこと支えながら途中まで帰ってくれたんだろうし。

きっとその時に匂いが移ったんだ。


「…………あそう」


俺の言葉に、木内は時間をたっぷりかけてからぽつり呟いた。

木内は感情がわかりづらいってよく言われてるけど、高校からの付き合いだから俺にはわかる。
これは、気まずいって顔。


「……おまえね、なにをどう勘違いしてこんなことしてんだよ」
「べつに」
「じゃねーだろ。つーか俺が誰といようがおまえには関係ないじゃん」


間違ったことは言ってない。
はずなのに、なぜか睨まれた。理不尽すぎる。


「んなことはわかってんだよっ」
「いっっ!?てぇなぁ、もう!」


てめぇ木内!つねるな!
しかも二の腕のやらかいとこを!!

やり返そうとした時にはもうあいつは俺から離れていて。まじでむかつく。


「……とにかく、それはやく落として」
「はぁ?」
「その匂いだよ」
「なんで」
「……」


ドアに手をかけながら、あいつは言った。


「むかつくから」


ぴしゃり、一人になった洗面所で、俺はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

あいつの瞳、ちょっと揺れてた。
ぶっきらぼうな言い方と、力んだ声と、眉間の皺。

俺は、知っている。
あれは、拗ねている時の顔だ。


「なんで拗ねてんだ、あいつ……」


芹沢の香水のせい?
嫌いな匂いだったとか?


床に落ちたTシャツを拾い上げて、なんとなく鏡に視線を移す。

うわ、なにこの締まりきってない顔……。
え……なんかほっぺ赤くね?

くそ、腹立つなー。全部木内のせいだ。あいつがいきなり近づいてくるからこんな───


「……いや、おかしい」


高校の時からくだらないことで取っ組み合いしてたじゃん。あんな距離感、普通だった。

ドキドキして、顔赤くしてる俺のほうがおかしいんだ。



『おまえ、あいつのことめっちゃ好きじゃん』



洗面台に両手をつく。

ど……どうすんの、これ……。
俺、マジであいつのこと好きじゃん……!!


やばくね?この世の終わりじゃね?
こんなの自覚してどうすればいいわけ!?

え、告白?付き合う?
いやいやバカかよ、あいつも俺も男じゃん!

ただでさえあいつは女にモテるのに!


それに、高校の時から俺たちはケンカばっかりなんだぜ。あいつが俺のこと好きになるわけ……



『───昨日、誰といた?』
『これ誰の香水のにおい?』


いや、ちょっと待てよ。


『俺が誰といようがおまえには関係ないじゃん』
『んなことはわかってんだよっ』


あいつ……俺のこと好きじゃね?
さっき拗ねてたのは、俺が知らない奴のにおいをさせてたからじゃね?

気に食わなかったんじゃねーの?
俺のことが、好きだから。


……なんて。浮かれた考えにため息を吐く。
笑える。わかりやすく期待してやんの。そうと決まったわけじゃないのに。

……でも、あの反応だろ。
すげー嫌われてるわけじゃないんじゃねーの?


つーか、そもそも木内相手に俺から引くなんてむかつくわ。


「負けたくねー……」


どうしてだか木内相手だと闘争心がメラメラ燃える。これは昔からずっと。


あいつにだけは負けたくない。俺だけ好きとかありえない。
じゃあもうこうしようぜ。


俺のこと意識させてやる。もっと好きにさせてやる。
そんで木内、おまえから俺に告白してこい。

好きだって言ってきたおまえに、ざまぁみろって笑ってやる。