恵美子のマンションは、二人で住んでいた家とは違う方角だけれど、駅近で静かな場所にあった。こだわりはキッチンがあるかどうかなんだそうだ。たしかにここは1Kなのだけど、アイランドキッチンになっているのが珍しい。
「なんかわかんないけど、海外から帰ってくると、そこの料理が作りたくなるんだよね、いつも」
「和食じゃないのが不思議だよね〜」
「和食は行く前にたくさん食べていくから」
「お茶漬けよく食べてたよね。ここ座っていい?」
「あ、もちろん。そっちのMOGUでもいいよー」
恵美子がフライパンを片手に、三角のビーズクッションを指差した。彩の家にはないので、遠慮なく使わせてもらうことにする。
座ってふと目をやると、壁にジョージ・ネルソンの時計がかかっていた。
「わ、使っててくれてるんだ! 時計」
「まーねー。彩ちゃんとの思い出つきだしね」
一緒に住んでいた頃、彩が気に入って買ったものだ。ルームシェアを解消する時、「もらっていい?」と言われたので、恵美子にあげた。彩は今の家でも同じデザイナーの時計を使っている。
この3年、ほとんど会わなかったけど、恵美子は何も変わってないなと嬉しさをかみしめた。
「で、今日は何料理なの?」
「モンゴル」
「え? モンゴルってあのモンゴル?」
「そう。って、ほかにモンゴルあるっけ」
「あれ、オーストラリアは?」
恵美子はネイリストのインストラクター試験に通ってから、ワーキングホリデーを利用してオーストラリアに行っていたはずだ。
「行った行った。めっちゃネイリストとして頑張って働いたよ。オーストラリアってさ、施術にもスピーディーさが求められるのね。だから、S&Lの技術が役にたった気がする」
S&Lというのは恵美子が以前勤めていたネイルサロン「Speedy&Luxury」の略称だ。施術時間が区切られていて、その中からデザインを選べる。
「そういうもんなんだ。でも、そこでは開業とか考えなかったの?」
「んー、なんかさ、あ、圭介覚えてる?」
「もちろん」
圭介くんというのは、恵美子の大学の同級生で、たしかサークルが一緒だったはずだ。目白に住んでいた頃も、飲み友達としてちょこちょこ会っていて、彩も何度か同席させてもらったことがある。好奇心が旺盛でやりたいことがあったら、その目的に向かって突き進むというところが恵美子によく似ていた。
「たまたまこっち帰ってきたときに会って飲んだの。ほら、圭介って今旅行関係の仕事じゃない? 『これからなんかやるならアジアだよ』っていうから。私、アイツのそういう勘みたいのだけは信用してるんだよね」
「アジアかー。で、どういうとこ見にいったの?」
「ネパールとかカンボジアとか」
「今回のモンゴルとか?」
「そうそう。働くまではいかないけど、日本人でサロンやってる人とかに会いにいったよ。開業するとこ決めたくて」
「すごいな、恵美子は」
「でも保留」
「え。どうして?」
すると、恵美子が火加減を見ながら答えた。
「うん…ちょっと、想像と違っててね」
いつも自信満々の恵美子にしては、声にハリがない。
「そっか。でもさ、恵美子なら絶対うまくいくって。相変わらず行動力もあるし、センスもあるし」
「そう思う?」
「思うよ。だって、昔からそうじゃん」
彩が言うと、恵美子は鍋のフタを見つめたまま言った。
「昔から、か……」
「え?」
「ううん、なんでもない、ありがとう」
一瞬、空気がふっと止まった気がした。彩たちの間に流れた沈黙はいつものそれとは少しだけ違っていた気がする。
昔から……。
恵美子が反芻した言葉について考える。
考えたら、私、今の恵美子のこと、あんまり知らない……。
あの頃のすごい恵美子像を作り上げて、そのままだと信じていた。数年であっても、人は何かしら変化を遂げるはずだ。自分はここでも過去にぶらさがったままなのかと彩は思う。
「ま、私の場合は、食も大切だからね〜。はい、できたよー」
重い空気を破るように、餃子みたいなもの載せた大皿を運んできた。彩も立ち上がって、お小皿運びなどを手伝う。空気が動くと、ほわほわとした温かな匂いが漂ってくる。
お腹がまたキュルルと鳴り、幸太の存在をちょっとだけ思い出した。
「なんかわかんないけど、海外から帰ってくると、そこの料理が作りたくなるんだよね、いつも」
「和食じゃないのが不思議だよね〜」
「和食は行く前にたくさん食べていくから」
「お茶漬けよく食べてたよね。ここ座っていい?」
「あ、もちろん。そっちのMOGUでもいいよー」
恵美子がフライパンを片手に、三角のビーズクッションを指差した。彩の家にはないので、遠慮なく使わせてもらうことにする。
座ってふと目をやると、壁にジョージ・ネルソンの時計がかかっていた。
「わ、使っててくれてるんだ! 時計」
「まーねー。彩ちゃんとの思い出つきだしね」
一緒に住んでいた頃、彩が気に入って買ったものだ。ルームシェアを解消する時、「もらっていい?」と言われたので、恵美子にあげた。彩は今の家でも同じデザイナーの時計を使っている。
この3年、ほとんど会わなかったけど、恵美子は何も変わってないなと嬉しさをかみしめた。
「で、今日は何料理なの?」
「モンゴル」
「え? モンゴルってあのモンゴル?」
「そう。って、ほかにモンゴルあるっけ」
「あれ、オーストラリアは?」
恵美子はネイリストのインストラクター試験に通ってから、ワーキングホリデーを利用してオーストラリアに行っていたはずだ。
「行った行った。めっちゃネイリストとして頑張って働いたよ。オーストラリアってさ、施術にもスピーディーさが求められるのね。だから、S&Lの技術が役にたった気がする」
S&Lというのは恵美子が以前勤めていたネイルサロン「Speedy&Luxury」の略称だ。施術時間が区切られていて、その中からデザインを選べる。
「そういうもんなんだ。でも、そこでは開業とか考えなかったの?」
「んー、なんかさ、あ、圭介覚えてる?」
「もちろん」
圭介くんというのは、恵美子の大学の同級生で、たしかサークルが一緒だったはずだ。目白に住んでいた頃も、飲み友達としてちょこちょこ会っていて、彩も何度か同席させてもらったことがある。好奇心が旺盛でやりたいことがあったら、その目的に向かって突き進むというところが恵美子によく似ていた。
「たまたまこっち帰ってきたときに会って飲んだの。ほら、圭介って今旅行関係の仕事じゃない? 『これからなんかやるならアジアだよ』っていうから。私、アイツのそういう勘みたいのだけは信用してるんだよね」
「アジアかー。で、どういうとこ見にいったの?」
「ネパールとかカンボジアとか」
「今回のモンゴルとか?」
「そうそう。働くまではいかないけど、日本人でサロンやってる人とかに会いにいったよ。開業するとこ決めたくて」
「すごいな、恵美子は」
「でも保留」
「え。どうして?」
すると、恵美子が火加減を見ながら答えた。
「うん…ちょっと、想像と違っててね」
いつも自信満々の恵美子にしては、声にハリがない。
「そっか。でもさ、恵美子なら絶対うまくいくって。相変わらず行動力もあるし、センスもあるし」
「そう思う?」
「思うよ。だって、昔からそうじゃん」
彩が言うと、恵美子は鍋のフタを見つめたまま言った。
「昔から、か……」
「え?」
「ううん、なんでもない、ありがとう」
一瞬、空気がふっと止まった気がした。彩たちの間に流れた沈黙はいつものそれとは少しだけ違っていた気がする。
昔から……。
恵美子が反芻した言葉について考える。
考えたら、私、今の恵美子のこと、あんまり知らない……。
あの頃のすごい恵美子像を作り上げて、そのままだと信じていた。数年であっても、人は何かしら変化を遂げるはずだ。自分はここでも過去にぶらさがったままなのかと彩は思う。
「ま、私の場合は、食も大切だからね〜。はい、できたよー」
重い空気を破るように、餃子みたいなもの載せた大皿を運んできた。彩も立ち上がって、お小皿運びなどを手伝う。空気が動くと、ほわほわとした温かな匂いが漂ってくる。
お腹がまたキュルルと鳴り、幸太の存在をちょっとだけ思い出した。

