約3年前。
 30歳の誕生日を迎えたばかりの頃、とつぜん婚活に目覚めた。
 玩具メーカーに勤めていた彩は、20代後半で念願の商品開発部の企画課になったものの、まったく鳴かず飛ばずの生活を送っていた。
 ずっと、少子化の進む日本の一筋の光となるような商品を作る! と意気込んではいたけれど、企画が通るのはトップダウンで指令を受けたリバイバルものの開発が中心だった。いつのまにか、良い商品を作るのではなく、いかに企画を通すかという方が目的となってしまい、正直、何のために働いているのかわからなくなった。
 周りはどんどん結婚したり出産したり、はたまた転職したりしていて、気づいたら彩は心身ともに疲れ切ってしまった。
 ならば家族を大切にして、プライベートを充実させる将来を考えた方が利口なんじゃないか――そう思って、社会人になってからほとんど出たことのなかった合コンに積極的に参加するようにしたのだ。
 そこで出会ったのが、商社マンの緒方幸太だった。
 彼だけは商社マンといっても、みんなが抱くイメージのようなバリバリの感じはなく、話し方も穏やかで親しみやすかった。何回か2人で会ううちに、食事の趣味とか休日の過ごし方などが合うことがわかり、一緒にいると自然体でいられた。
 季節が冬から春に変わる頃、つきあい始めた。それから2年半、特に揉めることもなく、うまくやってきたつもりだったのに……。

 やらかした。
 いつもなら池袋駅は人、人、人であふれていて乗り換え路線までたどり着くのがやっとなのに。
 気づいたら目白駅で降りてしまっていた。
 ここは彩が会社の元同期・矢野恵美子と一緒に、3年前までルームシェアをしていた街だ。職場が池袋ということもあって、お互いに引っ越してから、全然来る機会がなかった。
 恋人と過ごすはずだった金曜の夜が、ぽっかり空白になったそのすき間を埋めるように、昔住んでいたこの街が恋しくなったのかもしれない。
 コーヒー飲んで帰ろうかな。お腹もすいたし。
 駅からすぐのところに、お気に入りの老舗喫茶店がある。
 ここのマスターにコーヒーのおいしい淹れ方を教わったことで、紅茶党だった彩がコーヒーにハマるくらいおいしかった。
 駅前の交差点を渡ろうとした時、背後からガラガラガラガラとスーツケースを転がす音が迫ってくるのがわかった。
あの音、懐かしいな。
 矢野恵美子と住んでいた時、彼女が海外旅行から帰ってきた「音」を聞くのが楽しみだった。自由で芯があって……「一度きりの人生、楽しく生きなきゃ損するよ!」がモットーだから、お金が貯まるとすぐに海外にいって、語学の勉強や芸術体験をしてくる。そして帰ってくると、盛りだくさんの旅行の話を聞かせてくれるのだ。そういうことがなかなかできない彩にとっては、羨ましくて仕方がなかった。
 後ろの人も海外帰りなんだろうか、それとも出張かなにかの帰りか……信号を待ちながらそっと振り返る。
 そうそう、いつも恵美子もあんなふうに大きいキャスター付きの…ん? 
 恵美子?
 茶色がかったさらさらのロングヘアー。卵型の輪郭に、奥二重の涼やかな目元、シンプルなロンTにデニム――昔のままの恵美子がステップを踏むかのようにこちらに歩いてきていた。
「恵美子!」
 声をかけると、その人は一瞬きょろきょろしてから、こちらに焦点を合わせた。
「うっそ、彩ちゃん? どうしたの?」
「どうしたのって……恵美子は? 海外帰り?」
 なんとなく気まずくて質問で返す。
「イエース。さすが元ルームメイト。っていうか、駅で会うなんて初めてじゃない? 住んでる時は会ったことなかったよね」
 たしかにそうだった。
 それぞれの職場が山手線の目白を起点に反対方向にあったし、生活時間も少しずつ違っていたというのもあるかもしれない。
「家よってく?」
「家、近いの?」
 たしか、ルームシェアを解消した時は職場に近いからと中野かどこかに居を構えたはず……。
「そうそう。なんか結局、居心地よくってさー。戻ってきちゃった。彩ちゃんとの思い出の地〜」
 この瞬間だけは、時間が巻き戻ったような気がした。
「なにそれ。けど、今日帰ってきたんだよね? いいの?」
「もちろん。私も長旅から帰ってきて人恋しくもあるしさ。久しぶりに腕ふるっちゃうよー! 語ろうよ、女ふたり金曜の夜ってやつを!」
 そうなのだ。
 恵美子は海外生活から帰ってくると、必ず現地の料理だったり、ちょっとアレンジしたものだったりを作ってくれた。ガサツそうに見えて、実は料理も得意で、繊細な味付けをしてくれる。
 それを思い出したら、お腹がぎゅるるとなった。そうだ、今日は夜のごはんを食べ損ねていたんだった!
 彩の顔を見てわかったのか、「行く」という返事をする前に恵美子は「レッツゴー!」と言いながら歩き出していた。