「なぁ、俺ってセフレなん?」
 内山彩の目の前にいる彼氏の緒方幸太が、ビールで軽く乾杯した後、唐突に言った。
 まるで、「この小鉢、食べていい?」というくらい普通に。
 恵比寿駅の東口から徒歩7分くらいの定食屋さん。
 野菜にこだわっていて、季節には自然薯などを出してくれるお店だ。上品で味わい深い料理を出してくれるのはもちろんのこと、実家にいるような雰囲気があってとても落ち着く。お客さんもジャケットを脱いで、皆くつろいでいるように見える。
 以前ランチではきたことがあるけれど、ディナー時間にくるのは初めてだ。
 料理に合わせてまろやかな日本酒が飲みたくなるような、そんな素敵なところなのに、幸太は周りの目を気にすることもなく、セフレなどという似つかわしくない言葉を放ったのだ。
「は?」
 言葉にならない声が、思わず口をついて出た。
 一瞬、聞き間違いかと思った。
 けれど、彼は平然とビールを口に運びながら続ける。
「だってそやろ……」
 もともと下がっている目尻をさらに下げるのに反して、幸太が口をとがらせる。
「なんで? 思わないでしょ、普通」
 幸太が何か言いかけたのをバッサリ切った。
 ていうか、なんで関西弁? あなたは神奈川出身でしょうに。
 それに、どうして、つきあって2年半になる彼氏からそんなこと言われなきゃいけないのだ。
「うーん、でも……彩って、なんか距離あるっていうか…いつも一歩ひいてる感じしない?」
 当の本人はビールを片手に「そう思うんだけどな〜」とブツブツつぶやいている。ちょっと背中を丸めるその姿を見ていたら、彩の高揚した気分もビールの泡とともにシュワシュワっとなくなっていくような気がした。
 はっきり言葉にはできなかったけれど、何かがずれているのは彩も感じていた。
 付き合って2年半。ケンカはほとんどしない。休日に出かければそれなりに楽しくて、別に不満があるわけじゃなかった。
 でも。
 この関係は、これ以上進むことあるのかな?
 そんな疑問が最近になって、心の片隅に残るようになっていた。
 なのに、口にするのが怖くて黙っていた。平穏な日々を壊したくない。それが大人の選択だと思っていたから。
「ごめん……帰るわ」
「え? なんで」
「仕事思い出した」
 彩は幸太の顔を見ることなく、ジャケットとバッグを手にして、席を立った。
ここのお店のごはんを食べられないのは惜しいけど、食欲もなくなったし、なにより幸太と一緒にいるだけで悶々としてしまう。

 外に出ると、夕方の冷たい風が肌にしみた。
 ずっと暑いと思っていたけれど、やっぱり季節は移り変わっている。最近、肌の乾燥も実は感じるようになっていた。
 もう秋だ。
 この時期になるとなんとなく心がそわそわする。
 幸太と会ったのも、こんな時期だった。元ラガーマンで明るくて大らかで、一緒にいたら楽しいだろうなと思った。実際、楽しかったし。
 ジャケットを着ようとしてなんとなくお店の方を見やる。
 けど、彼は追いかけてもこない。
 やっぱりそろそろ潮時なのかもな。
 季節の変わり目……それはきっと彩たちの関係にも同じことが言えるのかもしれない。
 ちゃんと好きだし、ちゃんと付き合ってるつもりだった。
 でも、どこかで「都合のいい優しさ」でつながっていたのかもしれない、とも思う。
 必要以上に踏み込まず、傷付かず、波風を立てず。
 大人どうしの程よい距離。
 でも、それってほんとうの意味で恋人といえるのだろうか。
 そんなことを考えていたら、心までカサついてきた気がする。
 今日はたっぷり自分を癒してあげよう。
 そう思いながら、恵比寿駅へと向かった。
 電車に乗ろうとした時、ショルダーバッグのポケットからラインの着信音が鳴るのが聞こえた。
 幸太?
 スマホを取り出すと、既読をつけないように幸太からのメッセージを見た。
「ごはんきたよ。めっちゃウマそう。食べちゃうよ」の文字と、泣いているクマのスタンプ。
 ダメだこりゃ。なんだかこっちが泣きたい気分になった。
「バカだなぁ」
 ぽつりとつぶやいた言葉に、自分でも驚いた。
 優しさと諦めの混じったその響きが、今の彩たち二人の距離感をそのまま移している気がして、そのままメッセージ画面を閉じた。