六月の朝、潮風が運んできたのは、どこか懐かしい匂いだった。

 僕──水島翔太(みずしましょうた)は、家族とともに東京からこの海辺の町へ引っ越してきたばかりだった。父の転勤に伴っての転校。都会の喧騒から解放されることにほっとする反面、これから始まる新しい生活に、どうしても心が晴れないまま玄関を出た。

 町は静かだった。小さな商店が並ぶ駅前を過ぎると、視界は一気に開け、水平線が見えた。キラキラと朝日を浴びて波が踊っている。潮の香りが鼻をくすぐり、遠くでカモメの声が響いた。

「うわ……ホントに海が近いんだな」

 制服のネクタイを締め直しながら、僕は独り言のように呟いた。手には地図アプリ、心には不安。新しい学校、新しいクラス、新しい人間関係。そんなもの、誰がうまくやれるっていうんだ。

 歩くこと十五分ほどで、丘の上に建つ学校が見えてきた。県立渚ヶ丘高校。名前通り、海の近くにある高校だ。

 校門をくぐったとき、ふいに視線を感じた。

 グラウンドの向こう。藤棚の下で本を読んでいた一人の女子生徒が、こちらを見ていた。

 黒髪が風に揺れている。日差しの中で、どこか人形のように見えるその少女は、じっと僕の方を見つめていた。

 あのとき、目が合った――それが、すべての始まりだった。

 

 

 転校初日は、やっぱりぎこちなかった。

 クラスの自己紹介では軽く笑いをとろうとしたが、イマイチ受けが悪く、昼休みも一人で弁当を食べる羽目になった。周囲はすでにグループができあがっていて、そこに割り込むのは気が引ける。

 屋上に上がろうとしてドアが閉まっていたため、仕方なく中庭のベンチに向かった。その途中、また彼女を見つけた。今度はベンチに座って、空を見上げていた。

 僕は、声をかけた。

「えっと、綾瀬(あやせ)さん、だよね?」

 彼女は小さくうなずいた。そう、朝に目が合ったときから、すでに名前は聞いていた。出席番号も僕の前だ。

「さっき、藤棚の下にいたよね。読んでたの、何の本?」

「……海の民話集。漁師と海神の話が、載ってるの」

 淡々とした声だった。でも、嫌がっている感じはしない。むしろ、驚くほど自然に受け入れてくれている気がした。

「海の話、好きなんだ?」

 そう尋ねると、彼女は小さくうなずき、空を見上げたまま言った。

「うん……。海って、たくさんのものを呑み込むけど、同時に……何かを返してくれる。そんな気がして」

 その言葉が、妙に胸に残った。

 たった数分の会話。けれど、その日から僕は、彼女が気になるようになった。

 


 それから、僕は少しずつ彼女と話すようになった。

 朝の登校中、偶然を装って一緒になる。図書室で顔を合わせる。放課後、校門を出たあと、彼女が向かう方向へついていくと、そこには海があった。

 防波堤に腰かけ、澪は波の音に耳を澄ませるようにしていた。

「ここ、よく来るの?」

「うん。小さいころから、海が一番落ち着く場所だった」

 その横顔は、やっぱり少しだけ寂しそうだった。

 僕は思わず訊いてしまった。

「東京から来たばかりだけど……この町、悪くないと思うよ。人も優しいし、景色もいいし」

「そう……だね。翔太くんは、ちゃんと“こっち側”の人だもの」

「……こっち側?」

 その言葉の意味を、僕はそのとき理解できなかった。ただ、彼女の声にかすかな哀しみが混じっていることだけは、はっきりと感じた。

 

 梅雨が終わり、夏が始まろうとしていたある日。

 夢を見た。

 水の中。青く冷たい海の底を、僕は漂っていた。遠くから何かが近づいてくる。光の尾を引きながら、ゆらゆらと揺れるその影。

 ──それは、人のようで、人でなかった。

 長い髪と、魚の尾。

 声が聞こえた。

 「秘密に触れてはいけない」

 目が覚めたとき、額には汗が滲んでいた。

 (みお)と出会ってから、海が身近になってから、何かが少しずつ変わり始めている。そんな予感が、確かにあった。