音楽室の方から聞こえてくる吹奏楽部の金管楽器の音。
体育館の方から聞こえてくるボールの跳ねる音。
グラウンドから聞こえてくる掛け声。
放課後のこの時間の、様々な音が少しずつ混ざり合って、けれどそのどれもが自分とほんの少し隔たりがあって干渉してこないという安心感が好きだ。
時折、自分も足元からキュッキュッという上履きと廊下が擦れる音を出す。
自分もここの一員だと、ささやかに主張するみたいに。
キュっと最後にもう一度音を鳴らし、目的の保健室の前で立ち止まると、「不在」と書かれた札が出ている。
想定していたし、もう慣れているので鍵の掛かっていないその部屋の扉を開けるとガラガラとさっきまでの調和を乱すような大きな音が出た。
「播磨……?」
「あれ、青柳じゃん」
無人だと思っていた保健室の中には、先客がいた。
播磨洋。三年生になったこの四月から同じクラスになった長身のクラスメイトは、少しだけ目立つ存在で、自分とは違う世界の人間のような気がしていた。
ほとんど話したことのない彼の口から、すんなりと自分の名前が出たことに先客がいたこと以上に驚く。
「青柳も怪我?」
想定外の状況に思わず入口で固まってしまった自分に向かって、播磨が穏やかな口調で問い掛けてくる。
“も”ということは、彼は怪我をしているのだろう。
見ると、左手をぶらぶらとさせながら保険医不在の室内を所在なさげに見回している。
「俺はアイシング用の氷もらいに……播磨、怪我?」
我に返り、手に持ったアイシングバッグを見せると播磨は合点がいったのか「あぁ」と声をもらす。
「突き指、だと思うんだけど、先生いなくてさ」
「手当、しようか」
「え?できんの?」
「簡単になら……」
後ろ手に保健室の扉を閉めながら室内に足を進めると、さっきまで聞こえていた様々な音たちが少し遠くなり、薄い膜が張ったようになる。
そこ座ってて、と丸椅子を指差しながら迷いなく冷蔵庫まで向かう。
視界の端に播磨が指示通りに椅子に座りながら、不思議そうにこちらを見ている気配を感じる。
この曜日のこの時間、職員会議に出ているから保険医が不在なことは知っていた。
勝手知ったる保健室。
しゃがんで一番下の冷凍庫の扉を開けると、中に入っていた氷を手に持っていたアイシングバッグにパンパンに詰めた。
蓋を閉じたそれを持って立ち上がると、不思議そうな顔をのままの座っている播磨に差し出す。
「とりあえずこれで冷やしてて」
「あ、りがと……何か、慣れてんね?」
「しょっちゅう氷もらいに来てるし、去年保健委員だったから」
冷たいアイシングバッグを受け取りながら、播磨は「なるほど」と呟いた。
渡しながらちらりと見た左手の中指は僅かに赤く腫れている。
「播磨、バスケ部だっけ。指、骨は大丈夫そうなの」
「多分。軽くなら動かせるし」
保険医の机のそばのキャビネットから救急箱を取り出して、播磨の前にもう一脚丸椅子を持ってきて自分も腰を掛ける。
救急箱を開けると、ツンとした消毒のにおいが鼻を突いた。
「手、出して」
「ん――」
直前までアイシングしていた彼の左手はひんやりと冷たかった。
「青柳は、陸上部だよな。練習はもう終わり?」
「……俺が陸上部って知ってんだ」
「いやお前有名人じゃん。インハイ出場者。校門のところにでっかく名前まで書かれてる」
「あれ、恥ずかしいからやめてほしい。……テーピングするから指触る」
了承の返事を聞く前に中指に触れると、痛かったのかびくりと播磨の手に力が籠ったが構わず触れ続ける。
指のテーピングはほとんどしたことがないが、足にするのとさほど変わらないだろう。
「名前は知ってても、俺だって一致してるやつ少ないだろ。地味だし」
つい自虐っぽくなってしまったが事実。
陸上長距離という競技も、自分自身の見た目も地味で、華やかさとは程遠い。
チヤホヤされるのは大会で結果を残してからせいぜい二日間だ。
「同じクラスなんだからさすがに知ってるって。それに青柳、別に地味じゃなくね?青柳伊吹。名前もかっけぇ」
「なんだそれ……」
フルネームまで把握されていたことに驚き、手元の視線を上げると思っていたよりも近くに播磨の顔があって心臓がはねた。
背が高く、切れ長の目と鼻筋の通った顔の造りは、男から見てもかっこいい。
加えてバスケ部でスポーツ万能。
とにかく目立つが人当たりもよく、女子からの人気も高いことは社交的ではない伊吹でも把握していた。
こうやって話したことのないただのクラスメイトのフルネームまで覚え、嫌味なく褒めてくる感じも、きっと人から好かれる一因なのだと一層腑に落ちる。
慌てて目を逸らしてテーピングを再開させるが、はねた心臓が手元を狂わせて緩くなる。
ばれないように少し剥がしてやり直す。
遠くからテニス部の硬球がネットにかかった音がする。
「足速いとモテるよなー」
「んなの小学生までだろ。そもそも俺、長距離メインだから、短距離のタイムは普通だし」
「そうかー?つか、上手いねテーピング」
「足にはしょっちゅうやってるから」
ふうんと言いながら、播磨の視線が足元に落ちるのを感じた。
今はしていないテーピングをまじまじと見られているようで居心地が悪く、思わず脚を引いて隠す。
「はい。終わり。これからもっと腫れるようならちゃんと病院行けよ」
「おーすげぇ。ありがとう。助かった!」
播磨はテーピングを終えた手を挙げ、キラキラとした目でそれを眺めた。
少し不格好だが、ひとまずは凌げるだろう。
どこかの部活がクールダウンのストレッチを始めた声がする。
もうそんな時間か、と頭の隅で思いながら救急箱をキャビネットにしまっている間も、播磨は左手をくるくる裏表しながら眺めている。
「違和感ある?きつかったらすぐ取っていいから」
声をかけると勢いよく顔を上げ、目を細めて笑いかけられる。
笑うと切れ長の目の端にしわが寄ることを、初めて知った。
「いや、逆。すげえなぁと思って!あ、これアイシング返す」
テーピングを巻いたのとは反対の手で差し出された青色のアイシングバッグを、こちらも右手を挙げて制する。
「いいよ。貸しとく。明日返してよ」
「けど青柳、アイシングに使うだろ?」
「いいんだ。俺のはもう、ほとんど惰性でやってるから」
「……じゃあお言葉に甘えて。ありがと」
二人で保健室を出ると、下校時間を知らせるチャイムが鳴った。
荷物は部室だ。
陸上部のほかの部員はもう挨拶を終えただろうか。
部室に戻る前に、一度グラウンドに行こう。
「んじゃ、俺一回グラウンド行くから」
グラウンドとバスケ部が練習している体育館は反対側だ。
播磨に背を向けて、じゃあなと言って数歩進むと「なあ!」とこの距離にしては大きな声で呼び止められ、一瞬自分に向けられた声なのかと不安になりながら振り向く。
後ろには半身をオレンジ色の日差しに染められた播磨だけが立っていた。
「いろいろありがと。――あと、伊吹、って呼んでいい?」
「……?どうぞ」
「伊吹、また明日な」
そう言って挙げた彼の右手のテーピングがやはり少し不格好で、もう少しうまくできればよかったのにと思った。
「また明日」
同じように右手を挙げながら言うと、播磨はにこりと笑って反対側に向かって駆け出した。
先生に見つかったら廊下を走るなと注意されるだろう。
伊吹はその背中が、角を曲がって見えなくなるまで目を離せなかった。
遠くなった足音を聞きながら今度こそ自分もグラウンドに向かおうと振り返ろうとし、窓に映った自分の顔が夕日のせいにしては赤く染まっていることに気づく。
(……アイシングバッグ、やっぱり返してもらえばよかった)
パタパタと気休めにしかならない手で顔に風を送りながらグラウンドまで向かう。
足元のキュッキュッという音が、心なしか高くなっている気がした。
体育館の方から聞こえてくるボールの跳ねる音。
グラウンドから聞こえてくる掛け声。
放課後のこの時間の、様々な音が少しずつ混ざり合って、けれどそのどれもが自分とほんの少し隔たりがあって干渉してこないという安心感が好きだ。
時折、自分も足元からキュッキュッという上履きと廊下が擦れる音を出す。
自分もここの一員だと、ささやかに主張するみたいに。
キュっと最後にもう一度音を鳴らし、目的の保健室の前で立ち止まると、「不在」と書かれた札が出ている。
想定していたし、もう慣れているので鍵の掛かっていないその部屋の扉を開けるとガラガラとさっきまでの調和を乱すような大きな音が出た。
「播磨……?」
「あれ、青柳じゃん」
無人だと思っていた保健室の中には、先客がいた。
播磨洋。三年生になったこの四月から同じクラスになった長身のクラスメイトは、少しだけ目立つ存在で、自分とは違う世界の人間のような気がしていた。
ほとんど話したことのない彼の口から、すんなりと自分の名前が出たことに先客がいたこと以上に驚く。
「青柳も怪我?」
想定外の状況に思わず入口で固まってしまった自分に向かって、播磨が穏やかな口調で問い掛けてくる。
“も”ということは、彼は怪我をしているのだろう。
見ると、左手をぶらぶらとさせながら保険医不在の室内を所在なさげに見回している。
「俺はアイシング用の氷もらいに……播磨、怪我?」
我に返り、手に持ったアイシングバッグを見せると播磨は合点がいったのか「あぁ」と声をもらす。
「突き指、だと思うんだけど、先生いなくてさ」
「手当、しようか」
「え?できんの?」
「簡単になら……」
後ろ手に保健室の扉を閉めながら室内に足を進めると、さっきまで聞こえていた様々な音たちが少し遠くなり、薄い膜が張ったようになる。
そこ座ってて、と丸椅子を指差しながら迷いなく冷蔵庫まで向かう。
視界の端に播磨が指示通りに椅子に座りながら、不思議そうにこちらを見ている気配を感じる。
この曜日のこの時間、職員会議に出ているから保険医が不在なことは知っていた。
勝手知ったる保健室。
しゃがんで一番下の冷凍庫の扉を開けると、中に入っていた氷を手に持っていたアイシングバッグにパンパンに詰めた。
蓋を閉じたそれを持って立ち上がると、不思議そうな顔をのままの座っている播磨に差し出す。
「とりあえずこれで冷やしてて」
「あ、りがと……何か、慣れてんね?」
「しょっちゅう氷もらいに来てるし、去年保健委員だったから」
冷たいアイシングバッグを受け取りながら、播磨は「なるほど」と呟いた。
渡しながらちらりと見た左手の中指は僅かに赤く腫れている。
「播磨、バスケ部だっけ。指、骨は大丈夫そうなの」
「多分。軽くなら動かせるし」
保険医の机のそばのキャビネットから救急箱を取り出して、播磨の前にもう一脚丸椅子を持ってきて自分も腰を掛ける。
救急箱を開けると、ツンとした消毒のにおいが鼻を突いた。
「手、出して」
「ん――」
直前までアイシングしていた彼の左手はひんやりと冷たかった。
「青柳は、陸上部だよな。練習はもう終わり?」
「……俺が陸上部って知ってんだ」
「いやお前有名人じゃん。インハイ出場者。校門のところにでっかく名前まで書かれてる」
「あれ、恥ずかしいからやめてほしい。……テーピングするから指触る」
了承の返事を聞く前に中指に触れると、痛かったのかびくりと播磨の手に力が籠ったが構わず触れ続ける。
指のテーピングはほとんどしたことがないが、足にするのとさほど変わらないだろう。
「名前は知ってても、俺だって一致してるやつ少ないだろ。地味だし」
つい自虐っぽくなってしまったが事実。
陸上長距離という競技も、自分自身の見た目も地味で、華やかさとは程遠い。
チヤホヤされるのは大会で結果を残してからせいぜい二日間だ。
「同じクラスなんだからさすがに知ってるって。それに青柳、別に地味じゃなくね?青柳伊吹。名前もかっけぇ」
「なんだそれ……」
フルネームまで把握されていたことに驚き、手元の視線を上げると思っていたよりも近くに播磨の顔があって心臓がはねた。
背が高く、切れ長の目と鼻筋の通った顔の造りは、男から見てもかっこいい。
加えてバスケ部でスポーツ万能。
とにかく目立つが人当たりもよく、女子からの人気も高いことは社交的ではない伊吹でも把握していた。
こうやって話したことのないただのクラスメイトのフルネームまで覚え、嫌味なく褒めてくる感じも、きっと人から好かれる一因なのだと一層腑に落ちる。
慌てて目を逸らしてテーピングを再開させるが、はねた心臓が手元を狂わせて緩くなる。
ばれないように少し剥がしてやり直す。
遠くからテニス部の硬球がネットにかかった音がする。
「足速いとモテるよなー」
「んなの小学生までだろ。そもそも俺、長距離メインだから、短距離のタイムは普通だし」
「そうかー?つか、上手いねテーピング」
「足にはしょっちゅうやってるから」
ふうんと言いながら、播磨の視線が足元に落ちるのを感じた。
今はしていないテーピングをまじまじと見られているようで居心地が悪く、思わず脚を引いて隠す。
「はい。終わり。これからもっと腫れるようならちゃんと病院行けよ」
「おーすげぇ。ありがとう。助かった!」
播磨はテーピングを終えた手を挙げ、キラキラとした目でそれを眺めた。
少し不格好だが、ひとまずは凌げるだろう。
どこかの部活がクールダウンのストレッチを始めた声がする。
もうそんな時間か、と頭の隅で思いながら救急箱をキャビネットにしまっている間も、播磨は左手をくるくる裏表しながら眺めている。
「違和感ある?きつかったらすぐ取っていいから」
声をかけると勢いよく顔を上げ、目を細めて笑いかけられる。
笑うと切れ長の目の端にしわが寄ることを、初めて知った。
「いや、逆。すげえなぁと思って!あ、これアイシング返す」
テーピングを巻いたのとは反対の手で差し出された青色のアイシングバッグを、こちらも右手を挙げて制する。
「いいよ。貸しとく。明日返してよ」
「けど青柳、アイシングに使うだろ?」
「いいんだ。俺のはもう、ほとんど惰性でやってるから」
「……じゃあお言葉に甘えて。ありがと」
二人で保健室を出ると、下校時間を知らせるチャイムが鳴った。
荷物は部室だ。
陸上部のほかの部員はもう挨拶を終えただろうか。
部室に戻る前に、一度グラウンドに行こう。
「んじゃ、俺一回グラウンド行くから」
グラウンドとバスケ部が練習している体育館は反対側だ。
播磨に背を向けて、じゃあなと言って数歩進むと「なあ!」とこの距離にしては大きな声で呼び止められ、一瞬自分に向けられた声なのかと不安になりながら振り向く。
後ろには半身をオレンジ色の日差しに染められた播磨だけが立っていた。
「いろいろありがと。――あと、伊吹、って呼んでいい?」
「……?どうぞ」
「伊吹、また明日な」
そう言って挙げた彼の右手のテーピングがやはり少し不格好で、もう少しうまくできればよかったのにと思った。
「また明日」
同じように右手を挙げながら言うと、播磨はにこりと笑って反対側に向かって駆け出した。
先生に見つかったら廊下を走るなと注意されるだろう。
伊吹はその背中が、角を曲がって見えなくなるまで目を離せなかった。
遠くなった足音を聞きながら今度こそ自分もグラウンドに向かおうと振り返ろうとし、窓に映った自分の顔が夕日のせいにしては赤く染まっていることに気づく。
(……アイシングバッグ、やっぱり返してもらえばよかった)
パタパタと気休めにしかならない手で顔に風を送りながらグラウンドまで向かう。
足元のキュッキュッという音が、心なしか高くなっている気がした。
