実家で散々怠惰を貪った反動は大きく、久しぶりのバイトは体にこたえた。おまけに急なシフトの問題で、二週間くらい残っていた休みの大半は出勤することになってしまった。そのせいで凜とは一度も会うことなく、喫茶店に行くこともなく、ひたすら働いた。バイト先の人間以外との交流と言えば、帰宅中偶然日向と会ったくらいだった。

 そしてとうとう新学期を迎えた日、崩れきった生活リズムのおかげで、僕はあまり眠れないまま朝を迎えた。初日から欠席するわけにはいかないので、重たい体で大学に向かった。

 睡魔と激闘を繰り広げ、なんとか一日を終えて帰宅した僕は、夕方だということもお構いなしにさっさと眠ろうとした。すると凜から電話がきて僕は出た。

「はい、もしもし」

「おつかれさーん、ね、どの講義とるか教えて」

 僕は同じように自分が選択する予定の講義を伝えると「私もなるべく同じのとるから一緒にうけよーね」と言われ、用件は済んだし、今日は疲れているからと一方的に電話を切られた。なんて自由な奴だと思った。

 当初は学校の再開を恨めしく思っていても、すぐに体も心も自然とリズムを取り戻していくものらしい。一週間が経つ頃には、当たり前の様に講義を受け、帰宅し、バイトに行き、たまに携帯で凛とやり取りをして眠るという夏休み前からのライフスタイルに戻っていた。バイトがない日は、隙間に喫茶店に行って、あとは同じだった。

 ところがある日、凛がついに講義をサボった。午後からだったので寝坊するとも思えないし、早くも飽きたのかと、僕は呆れた。

 抗議の一つでもしてやろうかと帰宅してすぐ僕はソファに腰掛け、凛に電話をした。彼女の方も僕に何を言われるのか察しがついていそうなものだけど、意外にもすぐに出た。

「やあ樹、どしたの」

「・・・・・・それは僕のセリフだよ」 

 あはは、と凛の笑い声が聞こえてきた。

「やーごめんごめん。ちょっと寝不足でさ」

「寝不足?」

「うん」

「何だ、ゲームでもしてたの」

「うーん。そういうんじゃないけど・・・・・・」

 どうにも歯切れが悪い。

「何かあったの?」

「あー・・・・・・白木灯里さんって、知ってる?」

 僕は少し戸惑ったけど、すぐにその名前にピンときた。

「あ、うん。知ってるけど、どうして君が」

「・・・・・・昨日、話しかけられたの」

「へー、そうなの。それはまたなんで?」

「・・・・・・やっぱなんでもない」

「・・・・・・は?」

 突然、電話は切れた。僕は全く理解できず、しばらく携帯の画面を見つめたまま固まっていた。


 白木灯里と僕は一年の時たまたまゼミが同じだった。その中で何となくグループワークなどで同じ班になることが多かったこともあり、多少親しくなった。今でもすれ違えば近況を話したり、学食で偶然に会えば一緒に食事をとったりする、いわばただの知人だった。

「こんな時間に、ごめんね樹君」

 つまり、夜の10時に電話で話すような間柄ではなかった、はずなんだけど。

「いや、僕は構わないけど・・・・・・」

 昼間の凛のことについて考えていると、白木さんからまさかの着信があった。ひとまず無視はいけないかと出てみたけれど、これで良かったんだろうか。

「単刀直入に聞くけど・・・・・・樹君って、鈴野さんと仲良いよね?」

 案の定始まった話に僕は少しだけ緊張してしまう。

「うん。まあ、それなりに」

「そっかー! いいなあ!」

 急に大きな声を出すものだから僕は驚いて電話を耳から少し離した。

「白木さん?」

「彼女、なーんか気になるんだよね。仲良くなりたいなあ」

 色々合点がいき、そして一瞬にして僕の白木さんに対するイメージが変わった。

「気になる?」

「うん。フィーリングなんだけどね」

 踏み込んでも理解できそうにない気がしたので僕はやめておいた。

「仲良く、してみたら?」

 僕は的外れなことを言った。先を促せれば何でも良かった。

「そう思って今日、思い切って話しかけてみたんだけどドン引きされた」

 激しい後悔に襲われているのか、電話の向こうで白木さんは悶えているみたいだった。

「ドン引きって、白木さん何したの」

「うーん、私としてはただ話しかけただけのつもりだったんだよ?」

「なんて言ったの?」

 白木さんからその時のことを聞くと、どうも会話というより、ほぼ白木さんが一方的に話しかけるばかりで、凛は曖昧に頷いたり、最低限の返答しかしなかったらしい。

 その光景を想像するのは非常に簡単だった。

「なんか失礼なこと言ったかなって不安になってさー、樹君、ずばり鈴野さんとどうやって仲良くなったの!」

「どう・・・・・・」

 言葉に詰まる。この状況で、僕の場合は向こうからの申し出だったなんて言ったら面倒なことになりそうだ。僕は眠気を訴える頭を無理やりに働かせる。

「まあ成り行きかな」

 弾き出された答えはあまりにも酷かった。

「ええ、なにそれ」

「ごめん、うまく言えない」

「ふーん。ね、もしかして付き合ってるの?」

 男女が二人、親しくしていれば交際を疑われるというのは世の常だと思うけど、少しだけうんざりしてしまう。世の中には決して外からでは分かり得ない関係性が存在する。それに、本人であっても関係性が分からないものさえあるのだ。

「いや、友達だよ。僕たちは」

「そっか! 長いの?」

 変にいじってきたりすることもなく白木さんはすんなり信じてくれたようだった。

「いや、今年の5月に会ったばかり」

「へー、そっかそっか」

「でも四ヶ月程度と考えると、僕も彼女と仲が良いのか疑問に思えてくるね」

「知り合ってからの長さなんて何も関係ないと思うよ? 最初にきっぱり仲が良いと言い切れたんだから、それが事実だよ」

 笑い飛ばすみたいにに白木さんは言った。きっと根っからのいい人なのだろうなと思った。

「・・・・・・そうだよね、ありがとう。ってこれじゃどちらが相談しているのか分からないね」

 僕が言うと白木さんは笑った。

「あれ、ごめん。まず相談で合ってるのかな、この電話は」

「そうだよ!」

「まあなんだろう。とにかく白木さんは失礼なことは言ってないと思うから・・・・・・あとは気合い?」

 白木さんとは違い、どこかずれてしまっている僕はろくな返答を持ち合わせていなかった。

「気合いか、そうだね。とにかくもう一度話してみるよ」

 それでも白木さんは受け止めてくれた。なんだか申し訳ない。

「頑張って。応援してるよ」

 せめてもの気持ちでそう言った。

「うん! ありがとう!」

 それで白木さんとの電話は終了した。


 凛の性格やこれまでの言動を鑑みれば、白木さんを応援したのはいささか無責任だったかもしれない。自意識過剰でもなんでもなく、凛は僕だけを目的にやってきた。困った親友の願いを叶えるために。だからきっと僕以外との交友関係を持つつもりは本当にないのだろう。

 それについて、以前までの僕なら別に何も思わなかったかもしれない。でも、今の本心としては、白木さんと凛が仲良くするのを見てみたい自分がいた。僕らしからぬ老婆心が半分と、後は純粋な興味だった。

 初めはただ鬱陶しい奴だと思ったけれど、いつの間にか僕は当たり前に凛を心配したり、言動に興味を持っている。

「まるで・・・・・・」

 その続きが言葉として出てくることはなかった。僕は考えを振り払い、眠ることにした。


 凛はまる一週間サボったようだった。全部同じ講義を選択しているわけではないから、あくまで僕の知る限りだけど。

 その間、僕はいつも通りに生活していた。凛にも白木さんにも会うことはなかった。凛に対しては僕から何かしら連絡を取るべきかと迷ったけれど、特にかける言葉が思いつかなかった。仲の良い友人でも一週間程度会わないことなんてどうということはないだろうし、白木さんとのことでもこれ以上僕の入る余地はないだろうと思った。

 明日はいい加減に来るだろうか。僕は夜、昔から何度も繰り返し読みセリフまで覚えている小説を、また初めから読んでいた。数ページ読み進めたところで、傍に置いていた携帯が震えた。僕は集中していたので驚いて、体が少しはねた。

 手にとって画面を見ると、凛からだった。

「はい、もしもし」

「やあ、久しぶり」

 相変わらずの気の抜けた挨拶に、なぜだか僕は安堵を覚えた。

「ほんとにね。明日は来るの?」

「うん。流石に樹に悪いしね」

「へえ、君にもそういう気持ちはあるんだ」

「まーね」

 いつもなら嫌味に応戦してきそうなものだったけれど、予想外に受け流された。

「私、とんでもないことに気がついたんだけど」

 凛は少し低い声でそう言った。僕の心臓が大きく鳴った。

「何だよ急に」

 別に僕の話でもないだろうに変に緊張する。

「そのことに気がついて、樹に謝らなくちゃって」

 まさかの僕も関係者だったようだ。

「もったいぶるなよ、怖いな」

「樹さ・・・・・・白木さんと付き合ってるでしょ」

 僕は固まった。何を言ってるんだ君は。

「いや、付き合ってないけど」

「え?」

 間抜けな声がした。

「何をどう見て考えてそう思ったの?」

「・・・・・・え、いやだってさ白木さん樹のこと知ってたし、私が樹といるのをみて声かけてきたんだよ? 話題も樹のことが多いし」

 確証はないけれど、凛の口ぶりからして、白木さんは僕に電話で相談したことを言ってはいないのだろうと思った。

「あのねえ、そりゃ共通の話題なんだから、僕の話は出るさ」

「でもでも樹のこと凄く褒めてたよ? 優しいとか、面白いとか」

 悪い気はしないけれど、それはそれで白木さんの目が心配になる。僕は彼女が想像しているような人間ではない。おかしな運命に翻弄されるがままの、おかしな人間なのだ。

「あの人は悪口を言うような人じゃないよ」

 凛はそこで押し黙った。

「ましてこれから仲良くしたいと思っている相手の、友人と思しき人間を悪く言うわけもない」

「・・・・・・あれ? 樹、なんで知ってるの?」

「え?」

「白木さんが私と仲良くしたがってるって。私言ったっけ?」

 しまったとすぐに自分の迂闊さを呪った。別に正直に話したところで問題もなさそうだけど、白木さんが自分で話すのを待つかと思っていた矢先の失態に、少しへこむ。

「あーそれは・・・・・・」

 僕は観念して白木さんのことを伝えた。

「ふーん。樹、隠してたんだ」

 露骨に不機嫌そうな声がする。

「隠してたって・・・・・・べつにそういうつもりじゃ」

 凛は黙ったまま何も言わない。僕は電話を切られたのかと慌てて画面を確認する。繋がったままだ。

「・・・・・・悪かったよ。ただ、どうした良いか僕も迷ったんだ。白木さんにも君にも、余計な口出しはするべきじゃないと思って、大人しくしようと」

「・・・・・・別に謝って欲しいわけじゃないよ。ただ、知ってたなら樹の考えとか聞きたかったって、思っただけ」

 今度は僕が黙った。今まで仲の良い友人と口にしたり、心で思ったりすることはあった。でもそれは僕の一方的な気持ちかもしれないという考えを拭いきれなかった。

 けれど今こうして、凛からの信頼ととれる言葉によって僕は間違っていなかったと知った。

 そしてその事実を、僕はとても喜んでいた。

「ごめん。それで・・・・・・どうすることにしたの? 白木さんとは」

「今日連絡先交換したよ。今度また一緒に講義受けようって約束も」

「そっか」

 良かった。と、僕は心の中でつぶやいた。なんでかわからないけど、とても嬉しかった。

 凛とは少しだけ他愛のない話をして電話を終えると、今度は白木さんから連絡があった。内容は全く同じだったので、祝福しておいた。

 読書の続きに戻った時、ふと冷静になってみるとただ友達になろうというだけでなぜこんな騒ぎになったのだろうかとおかしくなった。

 凛にも原因があるとはいえ、白木さんの行動も僕には到底理解できないものだった。いくら知人の知人とはいえ、雰囲気に惹かれたとはいえ、声をかけるだろうか。

「声をかける・・・・・・」

 気がつくと声に出していた。

 なんだか聞いたことのある話だった。

 けれど、いつのことだったろう。

 いや。何を言ってるんだ。凛と僕の出会いがそうだった。

 もしかしてそれも。

 僕は急に眩暈に襲われて、本を閉じた。黒いノートを取り出して抱えたままベッドに倒れ込んだ。頭が考えるのを拒否しているようにとても重かった。


 黒いノートの中の少女が僕を見つめている。

 わかっているさ。  

 深い暗闇へと意識が落ちていく前に、僕はそうつぶやいた気がする。





 大学生なんてあっという間だと、高校時代、担任の先生が言っていた。確かにその通りで、気が付けば大学二年も半分が過ぎていた。ちらほらと就活に関する話題が増え、意識の高そうな奴らが企業のことを話したりするのが聞こえてきて、気が滅入った。そんな僕を見て、凜は「良かった。私一年で」と、のんきに言っていたので、先輩らしく担任の言葉をそのまま送ってやることにした。

 その一方で、例年10月中旬に3日間開催される学園祭ムードが大学のあちこちに漂っていた。本当に久しぶりに会った知人や、凛との一件以来なんとなく話す機会が増えた白木さんが、今年は若者に大人気のバンドが来るだとか、出し物や出店について教えてくれた。けれど、僕は参加する気持ちが微塵もなかったので、ただ情報として頭に入れておくだけだった。

 学園祭まであと数日と迫っても、興味関心および関係の全く無い僕は、講義を終えるなり、活気づく大学をさっさと後にして喫茶店へと向かった。

「そろそろ学園祭でしょ?」

 サンドウィッチとコーヒーを持ってきてくれた理恵子さんが言った。

「そうなんですよー、なのに樹、全然行くつもりなくって」

 先に入店していた凛は、ナポリタンを巻きとりながら、理恵子さんに答える。

「いいだろ、僕の勝手だ」

「そういえば君は、去年も学園祭の日にうちに来てたよね」

「はあ、そうでしたかね」

 全く記憶になかった。

「今年はほらこんな美少女がいるんだし、一緒に行こうよ。みんなに自慢できるよ?」

 凛は得意げな顔で言った。

「あのさ、僕達仲良くなって時間経つよね。僕がそんなこと望むと?」

 凜はへたくそに笑った後、思い出したように拗ねた態度をとり、ナポリタンをずるずる食べた。巻くのが面倒になったらしい。

「まあまあ、連れて行ってあげたら? 思い出になるよ」

 理恵子さんは煙草に火をつけた。

「いやあ、さすがに。人ごみも苦手ですし」

「ま、うちはガラガラだからね」

「いえ、そういうつもりで言ったんじゃ」

「冗談、わかってるって」

 僕と理恵子さんが笑い合っている間、凜は何か考えているようだった。理恵子さんがキッチンへと戻って行ったタイミングで、僕はその腹の内を覗いてみることにした。

「で、何をたくらんでるの?」

「たくらむ?」

「君も、僕と同じだと思っていたんだけどね。人ごみとか嫌いでしょ」

「全然平気だよ。むしろ行きたい」

「本当に?」

「・・・・・・ほんと」

 嘘つけと僕は心の中で頷く。

「全く気が乗らない」

「でも、友達イベントだよ。文化祭には」

「一人で行ってきなよ。帰ってきたら感想聞くよ」

「それは意味わからないじゃん」

「まあ、うん」

「じゃあ一緒に」

「ああ、もう面倒くさい。白木さんと行きなよ」

 あれから凛と白木さんの距離は少しずつ縮まっているのだと白木さんが言っていた。

「だめだよ、白木さん忙しいらしいもん」

 まだ距離があるような言い方に聞こえたけど、指摘はやめておこう。

「ねー、頼むよー。私はとにかく君と行きたいの」

「フォーク向けんな。はあ、我がままだな」

 押し問答を繰り返すうち、僕はだんだんと、どうせ行くしかないんだろうなと思い始めた。ただただ億劫で、ポジティブなものは何もなかったけれど、友人付き合いとは得てしてこういうものであると自分に言い聞かせた。





 僕は一度うやむやにしたけれど、後日、凜の誘いをちゃんと承諾した。彼女は驚いて、それから笑って、執拗にその結論に至った経緯を聞いてきたけれど、面倒だったのでなんとなくだと答えると納得したようだった。

 それから僕は白木さんに会うことがあって、凛と二人で学園祭に行くと伝えた。彼女はとても羨ましそうに、来年こそは自分が凛と一緒に行くのだと、決意を固くしていた。ぜひ連れ出してもらえるとありがたいと思った。

 三日間の学園祭の内、僕たちは最終日に行くことにした。初日は僕がバイトを入れていたこと、二日目は芸能人のイベントがあったりと一番人が多そうだったので避けたかった。なので、消去法で最終日を選んだ。

 学園祭前日ともなると、講義の前、最中、終わってから、いつでもどこからかその話題が聞こえてきて、期待度の高さが伝わってきた。去年こんなに盛り上がっていただろうかと白木さんに聞くと、やはり今年のゲストの大人気バンドによるところが大きいんじゃないかとのことだった。それを抜きにしても、毎年それなりに立派なものではあるらしいけれど、正直どうでもよかった。誘った張本人である凜も、全く楽しみにしている様子はなく、僕達は平常交わすようなくだらない会話をするだけだった。

 そんなわけで、学園祭初日も僕はいつも通りだった。予定通りバイトに行き、問題なく仕事をこなした。

 二日目、家でゆっくりと過ごそうとした僕だったけれど、散歩がしたいと凜に連れ出された。だらだらと気がつけば三十分も歩いた僕達は、あまり知らない場所まで来てしまった。とりあえず疲れたので休憩をしようと、近くにあった公園のベンチに座った。

「僕達は一体、何をしているんだろうね」

「どういう意味?」

「いや、意味はまったく思いついていないんだけど」

「なにそれ」

 凛は宙に浮かせた足を、横にふらふらとさせていた。

「あ、ところでさ」

 彼女はリュックから講義で使用しているノートを取り出した。

「え、まさか勉強しようっていうの」

「ちょっとだけだって。ここ、よくわからなくて、教えてよ」

「今日は学園祭の日だよ?」

「いや、樹がそれを使う資格ないでしょ」

 僕は口をつぐんだ。全くその通りだったからだ。

「はい、私の勝ちね」

「なんでこういう時に限ってやる気出すの」

「まあまあ、深い理由はまったくないよ」

 不本意だけれど僕は凜に付き合ってあげた。熱心に講義をしてあげていたのに、途中で飽きてしまったのか、凛の足がまた落ち着きなくふらふらし始めた。

「聞いてる?」

「へ、うん」

「嘘つけ」

「ばれたか」

「やろうっていったのはそっちじゃないか、まったく」

「ごめんごめん、気が変わってさ。これがまさに、女心と秋の空ってやつでしょ」

「もしかして、それが言いたいがために?」

「いや、さすがにそれはないでしょ」

「そう思わせる何かが、君にはあるんだよ」

「ふふふ、よくぞ見破ったな。さすがだよ、成瀬君。私が見込んだだけのことはある」

 妙なスイッチを押してしまったことを後悔した。本心なんて、やっぱり滅多に口にするものじゃないなと反省する。

「そんなことよりほら、そろそろ歩こうよ、寒くなってきた」

 歩いて温まった体は、秋風によってどんどん冷えてきていた。

「そうね、じゃあ紅葉狩り兼散歩、再開しようか」

「そのテーマ、初めて聞いたんだけど」

「初めて言ったもんねー」

 どうやら紅葉狩りを勘違いしていたらしい凜は、綺麗な葉を見るたびに木からちぎろうとしたり、落ち葉を拾おうとしていた。最初は冗談だと思ったけれど、どうも本気でやっているように見えてきたので、思い切って注意すると、衝撃のあまり開いた口がふさがらないようだった。

「紛らわしい名前、つけないでほしいね!」

「まあ、うん、その気持ちはわからないでもない」

 憤慨する彼女となおも紅葉狩りをしていると、公園を出てから五分と経たず、小腹がすいたと言い出した。食欲の秋とのたまう彼女は、もう食べ物のことしか頭にないらしく、しきりにあたりを見回していた。

「うーん、なんかない?」

「知らないよ。一人でこんなところまでこないし」

「うーん」

「ネットで調べたら?」

「あ、その方法があったけど。店に行くほどじゃないなあ。ね、じゃんけん」

 ぽん、に合わせて僕はグーを出した。彼女はパーだった。とりあえず、負けたのだと理解した。

「なんのじゃんけん?」

「肉まんとお茶ね? はい」

 手際よく小銭を取り出して僕に無理やり握らせてきた。ひんやりとした手が触れあう。

「何の真似?」

「マネーだけに?」

「いやあ秋の風って、こんなに冷たかったかな」

「ひどいね。ほら、あそこ。コンビにあるでしょ」

 凛が指差した先には確かにコンビニがあった。

「行けと」

「負けたからね、それに私、買い食いってしてみたかったんだ」

 そんな貴重な体験でもないだろうにという言葉は飲み込んだ。彼女は世間知らずだということを、既に僕は知っている。

「しかたない」

「なんだかんだで、樹は行ってくれるよね」

「行かない方が面倒だからね」

「ほんと、一言多いけど」

「君に言われたくはない」

 寒さもあったので、僕は足早にコンビニに向かった。託されたお金はあまりにも多すぎたので、あとでいくら返そうかと考えながら、所望された品を買って寒空の下に出た。

「ほら、買ってきたよ」

「ありがと、じゃあ公園に戻ろう」

「・・・・・・なんて非効率的なんだ」


 僕たちは本当に公園に戻ってさっきと全く同じベンチに腰掛けた。

「あれ? 樹の分は? いつもの缶コーヒーしかないじゃん」

「買ってないよ。別にいいかなって」

「もーダメだよ。こういうのは一緒に食べないと」

「それも友達イベント? あ、そうだ、はいお釣り」

「ああ、ありがと・・・・・・って、誤魔化さない!」

 凛は不満そうにほんのりと赤く染まった頬を膨らませる。

「あ・・・・・・ふっふっふ。いい事考えた」

 凛は肉まんを持ち、真ん中から二つに割った。そして片方を僕に差し出してきた。

「いや、いいよ」

「だめ。食べないと」

 食欲は本当になかったんだけど、凛の変なこだわりに付き合うのはだんだんと僕の使命みたいになってきているので、仕方なく僕は従うことにする。

「はいはい。ありがとう」  

「うんうん。じゃ、いただきまーす」

 一口齧ってみると思いの外美味しくて、寒い日の肉まんの凄さを改めて知った。凛も満足そうに白い息を吐きながら肉まんを食べていた。少しまったりして、凛が食べ終わるのを待っていると携帯が僕を呼んでいた。日向からだった。

「ちょっと後輩から電話きた」

「うん」

 凛に断ってから僕は電話に出た。

「もしもし」

「あ、先輩お疲れさまっす! 今、先輩のとこの学園祭来てるんすけど!」

 そういえば友達がいるから一緒に行くんだと言っていたのを思い出す。

「そっか、なんか後ろから音聞こえるわ」

「すげー盛り上がってますからね! 樹先輩来てないんすか?」

「ああ、うん。散歩してた」

 日向は笑った。

「先輩らしいっすね! 学園祭だろうがなんだろうが関係ないってのはさすがっす!」

「だろ」

 どう返したらわからなかったからとりあえず乗っておいた。

「はい! あ、でも一個残念すね。来てたら一緒に写真撮りたかっすけど」

「写真? あー、まあいつでも撮れるじゃん」

「いやあ、せっかくなら文化祭の雰囲気込みでいきたかったんすけど、ま、仕方ないっす!」

「悪いな。残りも楽しんでよ」

「はい! そしたらまた! 失礼します!」

「じゃあね」

 電話は切れた。

「前にカラオケ行ってたっていう後輩?」

「そう。よく覚えてるね。いい奴なんだ」

「行ってあげなくていいの?」

「うん。僕は・・・・・・」

「僕は?」

「・・・・・・僕はこっちの方が良いし」

 言ってから少し恥ずかしくなった。紛れもない本心だったから、余計に。

「そっか・・・・・・ね、樹」

「・・・・・・ん?」

「いつも、ありがと」

「・・・・・・どういたしまして」

 僕たちは一度眼を合わせなかった。しばらくお互い何も言わず座っていた。

 とても心地良い時間だった。

 あの隠れ家で過ごしている時のように、心が満ち足りていた。

 ・・・・・・ごめんね。

 そんな言葉は、どこにもなかった。





 学園祭三日目を迎えた日、特に目的もなく、参加さえできればいい僕達は、朝11時に大学前に集合した。周辺はやはり学生たちが行き交っていて、最終日を楽しもうとしているようだった。

「なんか、きんちょうする」

 正門を前にして、凜が立ち止まった。片言だった。

「なんで?」

「いやあ、こういうの、不慣れで」

「一年だからね。さ、行こう」

 的外れなことをわざと言って、僕は先に歩き出す。

「あーちょっと、先行かないでよお」

 正門をくぐると異世界に迷い込んだように、異様な熱気に体が押しつぶされそうになった。あちこちに模擬店が展開されていて、食欲を駆り立てる匂いや、学生たちの楽しそうな声に満ちていた。

「人、食べ物、人、食べ物」

 凜は呟きながら、きょろきょろしていた。完全に不審者だけど、周囲の学生たちはいちいち気にかけない。誰も彼も自由に、目の前のあらゆる娯楽に夢中のようだった。

「ふう。ほんと、すごいね」

 建物内に入ると、各サークルの催し物なんかが教室で行われているようだった。時折コスプレをした学生が走り回ったり叫んだりしていた。外とはまた違った異質さがあった。凜はコスプレ学生たちに怯えながら、足を進めていた。

「大丈夫?」

 かくいう僕も大丈夫ではない。すぐにでも帰りたい。

「とりあえず一周しよう」

 凛は青い顔で全身から振り絞るように声を出した。

「・・・・・・ま、そうだね」

 半ば意地の様に、とにかく目につくところを回るだけ回ってみた。当初はとてつもない数だと思っていたけれど、意外にもあっけなく大体のものを見終えた。

 拍子抜けというか、どうすればいいかわからくなった僕達は顔を見合わせて、どちらからともなく大学の外へと足を向けていた。門をくぐると、目の前の道路を走る車が現実への帰還を知らせてくれた。背後は相変わらず熱狂していた。

「いやあ凄かったね。樹、少しふけたんじゃない」

 たった三十分だったけれど一応満足したのか、顔色の良くなった凜はけらけら笑って僕の肩を叩いた。

「そうだね。ピエロが走ってきた時は、寿命が縮まったよ」

「あれはおどろいたね」

 僕達の身にふりそそいだ災いは、そのくらいだった。異世界に迷い込んだ割には無事で済んだ方だろう。

「これからどうしよう」

 僕は言った。

「うーん、散歩?」

「またかよ。いいけど。でも、先に腹ごしらえをしよう」

 となれば当然、僕達は理恵子さんのところへと向かった。お昼時だけど、客は僕達以外には誰もいなかった。理恵子さんはいろいろと察してくれたのか、苦笑いで、けれど優しく僕達を出迎えてくれた。すっかり食べ慣れた、けれど飽きることのない料理に舌鼓を打って、お礼を言って店を出た。

 それからはあてもなくふらふらと歩いた。

「あ、日向だ」

 どうやら昨日たっぷりと学園祭を楽しんだらしい日向から、携帯に写真が届いた。映っていたのは、日向と友達らしき男子たちと、僕でも知っているような大人気バンドのボーカルだった。『超ラッキーでした!』と日向の興奮が文面からも伝わってきた。

「どうしたの?」

 凜にその写真を見せた。

「日向・・・・・・あの例の僕の後輩から」

「昨日のね。ん、この真ん中の人は?」

「それは昨日来てたバンドの」

「ふーん。こっちが日向君。うん。爽やかだねえ」

「そう思う」

「写真、か」

 凜が小さく言ったのを、僕は聞き逃さなかった。

「・・・・・・僕達も、撮る?」

「え?」

「いや、折角だし」

 驚いた凜を見て僕は途端に恥ずかしくなった。自分から写真を撮ろうなんて、僕はもちろん言ったことがない。受け入れられても、断られても、気まずい。

「うん、撮ろうか」

 賛同してくれてとりあえずホッとする。

「あ、うん、じゃあ。でもここは邪魔になるか」

 僕達は道の脇に寄って、周囲に人がいないタイミングを見計らって、写真を一枚撮った。初めてだったけれど、ちゃんと映っていた。撮った写真を二人で見ていると、僕はおかしさがこみ上げてきた。

「どうしたの?」

 凜は首を傾げた。

「いや写真撮るタイミングおかしいなって。どうせなら、学園祭で撮るべきだったような」

「ああ、そういうものかもねー」

「・・・・・・まあ、でも」

「でも?」

 ――僕達らしいか。

「いや、なんでもない」 




 
 夜、僕は黒いノートにの隣に携帯を置き、凛と一緒に取った一枚を眺めていた。

 へたくそに笑う僕たちと、背後には太陽が昇っている。昼間は上手に取れたと思ったけれど、こうして見ると、光で僕たちの顔が少しぼやけてしまっている。まあそれも僕たちらしいだろうかと、口元がほころんでしまう。

 僕は適当にページを捲った。

 五月の連休明けから、すべては始まったんだっけ。

 水を一滴、垂らすように。僕は自分の胸にそっと始まりの記憶を置く。

 ゆっくり瞬きをして、表紙を、指でさする。

 気が付けば、僕は彼女との世界の中に浸っていた。