五月の連休明けには何かが起こる。それも、大概良くないことが。

 例えば五歳の時には高い所から落ちて足を骨折した。十二歳の時には大切にしていたゲームのカセットをなくした。十五歳の時には高熱に襲われた。

 そういう経験から僕は連休明けをとても恐れるようになった。

 高校二年の連休明け初日。その日も僕は例年通り災難に見舞われるのだろうかと、一日中気を張り詰めていた。例えば僕の通っていた高校は隣町にあったので、バス通学の途中に事故が起きるとか、バスがジャックされるとか、そんな突拍子もないような想像をした。とにかくあれこれと考えすぎてしまったこともあって、放課後にはくたくたになっていた。

 だから僕はその日の帰りに英気を養おうと、隠れ家へと向かっていた。僕は子供の頃から歩くことが好きだった。高校に入学してからも煩わしい人付き合いや勉強で溜まるフラストレーションの解消にと、たびたび1人で散歩をしていた。隠れ家はその最中に発見したものだった。

 町外れの高台にある、あまり使われていないらしい市営のグラウンドへと続く長い坂を登る途中、横幅が一人分くらいしかない石段があった。両脇に草木がひしめきあっていて、不気味な様相を呈している。石段の数は正確に数えたことはなかったけれど、とにかく結構な高さへと導かれる。

 石段を上りきると、展望台とも公園とも言えなくもないような、ただ、どちらにしても今ひとつ足りない、小さな空間が現れる。木々に囲まれた隙間にポッカリできたようなその空間の中央には、二本大きな木があって、根のところにベンチが一つだけ置いてあった。こんなところにどういうつもりでベンチを置いたのか理解できなかった。景色といったって、大して広くもない町並みの一部が見られるくらいで、目新しいものもない。そんな全く持って中途半端な空間が、僕の隠れ家だった。

 僕はベンチに座った。大きく息を吐き、背もたれに体を預ける。ぎしぎしと不吉な音がした。

 僕を預かるこのベンチは、大きさからみておそらく三人まで座ることができる。初め見た時、三人というのはナンセンスである気がした。一人はわかるし、ニ人もわかる。でも三人というのが、まったくわからなかった。この場所にどういう動機があって三人で訪れるというんだろう。

 それは全員男か、はたまた女か、小学生か、中学生か。どの場合においても、この場所に三人で来る理由が僕には皆目見当がつかなかった。

 ただ何度か訪れるうち、もしかするとベンチは二人用なのかもしれないと思うようになった。三人まで座れるけれど、そもそもベンチとはすべて二人用で、真ん中の空間があって初めてベンチと名乗れるのではないか。そこに至って、僕はこれまで想像が及ばなかったことを恥じ入る気持ちになった。しかし落ち着いて考えてみると、そもそもどうでもよいことのような気がしてきて、自分自身が不思議になり、同時に呆れた。

 僕はリュックから校内の自動販売機で買った缶のバナナオレを取り出した。入学してからというもの、このバナナオレ以外の飲み物を購入した記憶はなかった。驚くほどおいしいかというとそうでもない。むしろ至って平凡などこにでもある味だと思う。悪くいえば中途半端な味だった。

 だというのに、何気なくこのバナナオレを買ってからというもの、どうしてか僕は毎日のように買っていた。はたから見れば、僕はこの飲み物のファンということになるだろう。なぜ、特別おいしいわけでもないのに買い続けるのか。それはやはり自分でもよくわからなかった。

 連休明けに災難に襲われたり、中途半端な場所や飲み物を好んだり、ベンチを考察してみたり、僕は自分自身でもどうしてそうするのかよくわからない一面があった。同級生にも『お前は変わっている』とよく言われた。

 特に何かをするわけでもなくできるような場所でもないので、僕はただ座ってバナナオレを淡々と飲んだ。みんなが部活になり勉学なりに励んだり、交流を深めているのであろう放課後に、僕はただ一人変な場所でバナナオレを飲んでいる。高校生らしさなんて何もない。けれど胸の内には充足感があった。僕はやはり、変なのだろう。
  
 柔らかな風と夕陽にあてられている内、疲れていたこともあって僕はいつの間にか眠ってしまっていた。やがてしばらくして目を覚ました僕は時間を確認するため、隣に置いていたリュックから携帯を取り出そうと体を少しひねった。

 そして、連休明けのジンクスが今年もまた僕を襲った。

「やあ、こんにちは」

 僕の口から声にならない声が漏れ身体が震えた。無理もないことだと思う。見覚えのない少女がにこにこしながら隣に座っていたのだから。

「え、え?」

「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだけどね」

 少女は楽しそうにそう言った。

「だ、誰?」

 辛うじて、僕は聞いた。

「1組の、橘風香です」

 間違ってはいない。僕の問いに正確に答えてくれてはいるのだけど、しかし、何か間違っている。

「そ、そう」

「君は?」

「ぼく? あ、えっと、成瀬です」

 早くなった鼓動を落ち着けようと、胸に手を当てながら答えた。そこでようやく、彼女が同じ学校の制服を着ていることに気がつき1組にこんな生徒がいただろうかと考える。

「下の名前は?」

「え、えっと、樹」

 僕はあまり好きではない自分の名前を告げた。好きでない理由はなんとなくだ。

「樹ね、うんうん。なるほど、だからだね」

 橘風香は二度頷いた。

「さしつかえなければ、何がなるほどか、教えてもらえないかな」

「ここにいる理由だよ。君は、自然を愛しているんだね」

 人差し指を立て彼女は言った。何をどう考えてそんな結論にいたったのかまるで理解できなかった。

「いや、違う、けど」

「あら、そう。ではどうして君はこんなところに?」

 彼女は淡々とありとあらゆる疑問をかなぐり捨てるように、というより、そもそもそういう過程に興味がないとでもいうように会話を続けた。僕は彼女に聞きたいこと、聞くべきであろうことはたくさんあったし、突然のことに少し恐怖を感じていた。けれど僕は彼女の作り出した流れに身を任せることを選び、ひとまず彼女の質問に答えることにした。

「自分でもわからない。特別景色がいいってわけでもないのに、なぜか気に入って」

「ふうん、変わってる」

 言われ慣れている言葉だ。どうやら彼女にも一般的な感性が備わっているらしいというのは失礼だろうか。

「そう、かな」

 僕は空っぽのバナナオレを飲むふりをした。

「それ、おいしい?」

「え? ああ」

 僕は意味もなく缶を傾けてみた。

「そうでもないかな」

「え?」

「可もなく不可もなく」

「ふーん。じゃあ明日は大当たりの飲み物を買えるといいね」

「・・・・・・多分、僕は明日もバナナオレを買うと思う」

「どうして? すごくおいしいわけでもないのに百何円勿体ないように思えるけど。あ、もしかして思い出の味とか?」

 彼女はコロコロと表情を変えながら、最後は笑ってそう聞いた。

「別にそういうわけでもないんだけど。気が付くと、いつも手の中に」

「君、本当に変わってる」

 彼女はクスクス笑った。不思議なことに、とても魅力的な笑顔だと思った。

「君もね」

 これが橘風香との出会いだった。


 風香は、突然僕の前に現れてあれこれと好きに語り、聞き、帰って行った。取り残された僕は、月が見えるまで呆然とベンチに座ったまま、夢か現かと会話を何度も思い返した。自分の頬をつねってみたりしたけれど現実のようだった。そうこうしている内に帰宅が遅くなって両親に叱られた。やっぱり連休明けには不幸が待っているようだった。

 全く不思議な出会いだった。全ての過程を取り除いて距離を詰めてくる彼女と、それをなんとなく受け入れた僕。奇妙な関係が出来上がった。はたから見れば、僕達はとてもありきたりな関係に見えたかもしれない。けれど実際はとても不思議で複雑で、自分たちでさえ言い表すことのできない関係性だった。 

 奇妙さを表すこととして、例えば僕達は隠れ家以外で会話を交わすことはなかった。知り合った後、学校で偶然にすれ違った時、僕は挨拶くらいしておこうと思ったのだけど、彼女は僕と目を合わせようともしなかった。社会的にはとても無礼な振る舞いに違いないはずなのに、僕はなんとなくその態度に納得し黙って受け入れた。後から彼女に理由を問うことも一切しなかった。

 そうして、出会いの日から僕たちはまるで世界から外れたように、二人きりで言葉を交わし続けた。

 橘風香が、この世界から消えてしまうまで。





 はっと我に返った僕を、手にしていた黒いノートが睨みつけているような気がした。

 頭を軽く振ると、コーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐった。黒いノートを閉じてテーブルの上に置く。その表紙を見ると、自然にため息が漏れた。僕はカップを掴み、コーヒーを1口飲んだ。

 また、風香のことを考えていた。

 再び自然と洩れ出たため息が、まだわずかに立ち上る湯気を揺らした。僕は何口かに分けてコーヒーを飲み干し、頭をリセットする。今度は意識的に深く息を吐いて、ノートの表紙に目を落とす。

 講義前の空いた時間なんかに、僕は家の近くにあるこの喫茶店に通っていた。去年大学に入学したばかりということもあり、慣れない環境に疲れとても自炊をする気にもなれなかったので、外食をしようと近くを散策しているうちに見つけた店だった。

 一見さんお断りだとか、すごく高級な店だったらどうしようかと不安もあったけれど、まずお店とは思えない隠れ家的な外観に惹かれたのと、空腹の限界だったことにより思い切って入ってみた。結果としてその選択は大正解だった。

「やあ文学青年、相変わらずだね」

 ふらりと現れて僕にそう言ったのは、唯一の店員で店長の奥さんの理恵子さんだった。理恵子さんはエプロンを外しながら、向かいの席に座った。

「相変わらず?」

「コーヒーを飲みながら読書・・・・・・優雅だなと思ってさ」

 別に小説を読んでいたわけでもないので、読書と言われると違和感を禁じ得ないけれど、わざわざ指摘はしなかった。

「まあ、他にすることもないですから」

「そっか。ふー、どっこいしょ」

 理恵子さんは僕の前に座った。

「いいんですか。さぼってて」

「人聞き悪いなあ。見てみなよ、お客さんもいないし、今は休憩中」

 理恵子さんはポケットから煙草とライターを取り出して火をつけた。今時珍しくこの店は禁煙じゃない。僕はたばこを吸わないけれど、たばこの香りは結構好きだったから全く気にならない。

「・・・・・・僕は?」

「常連君?」

 吐き出した煙で理恵子さんの顔が一瞬見えなくなった。

「・・・・・・それ客じゃないんですか?」

 僕が理恵子さんと会話していると、今度は店長の真さんがやってきて理恵子さんに説教を始めた。微笑ましい夫婦喧嘩をしばらく見学し、時折どちらが正しいかと意見を求められて自分なりに答えたりした。客の前でたばこを吸うことに関して僕が言及すると、君は客じゃないと今度ははっきり言われた。

 そのうち、講義の時刻が近づいてきたので僕は店を出ることにした。

「それにしても、なーんかじめじめしてるよね」

 レジを素早く打ちながら理恵子さんは言った。

「時期ですかね。今も軽く降ってますし」

「嫌になるなあ。やっぱりさ、晴れの方がいいよ。気分的にも、客足的にも。雨の日にわざわざ来るのなんて、君くらいのものだよ」

「そうですかね」

「あれ? そういえばさ、君が初めてここにきたのって去年の今頃じゃなかった?」

 今日は五月の連休明け初日だった。理恵子さんの言う通り、僕がここに初めて来たのは、去年の連休明け初日だった。

「そうですね」

「だよね、もう一年も経つんだ」

「よく覚えてましたね」

「君がしてくれた話のおかげでね。ほら、五月の連休明けには何かが起こるってやつ」

「ああ、そういえば話しましたっけ」

「うん。面白かったから。はい、おつり」

「ありがとうございます。ごちそうさまでした」

「はいはーい、また来てねー」

 理恵子さんに軽く手を振って、僕は店を出た。外は小雨が降り続いていた。僕はリュックに入れていた折り畳み傘を取り出して開き、足を一歩踏み出す。水の弾ける音がした。

「やあ、こんにちは」

 背後からの声に僕は驚き反射的に振り向く。するとやけに肌の白い女と目が合った。その顔に見覚えがなかったので人違いだろうと思ったけれど、女は僕から目を逸らそうとせず、値踏みでもするみたいにじっと見つめてきた。

「は、はい・・・・・・?」

 僕は突然の出来事にただうろたえるしかなかった。

「うん、やっぱりそうだ」

 彼女は妙に明るい声でそう言った。僕は動揺で喉の奥が詰まった。

「あの・・・・・・な、なにか?」

 必死に絞り出した僕の質問に答えず、彼女はなおも僕を見つめている。

「もしかして、同じ大学の人、だったり?」

 精一杯笑顔を作って僕は聞いた。もし頭のおかしい人間ならば、下手に刺激するのは危険だろう。

「うん、同じ大学だよ。でも私一年なんだ。君は二年でしょ。あ、でも年は君と一緒だよ。だからタメ口も許してね」

 沈黙から一転して、にこにこと笑いながら早口で彼女は言った。

「・・・・・・すみません。大変失礼なんですけど記憶になくて、あの、どなたでしたっけ?」

 一番言いたかったことを努めて冷静に僕は口にする。彼女は目を瞑って唇を結び、何か考えているようだった。

「そうだね。それを言ってなかった。私は、鈴野凛」

 傘を叩く雨音をそっと押しのけるように僕の下へと彼女の名前が届いた。

「鈴野、さん」

 名前を聞き、これだけ彼女の顔を見ていて何も思い出せない。僕の乏しい人付き合いなら、忘れるということはなさそうなんだけど、さっぱりだった。

「そう。聞いたことない?」

「・・・・・・いえ」

 首を振って否定した後で、僕は急に鈴野凛という名前を以前にも聞いたことがあるような気がした。けれど、そのわずかな心当たりは打ち明けないことにした。直感が訴えていた。

「あれ? 言ってたんじゃなかったの、風香」

 鈴野と名乗る女は目線を上の方へと向け、困ったような口調で、確かに、そう言った。

 風香。

 僕は思いがけない名前に、言葉を失った。

 全身の感覚を失った。

 どこか深いところへと落ちていくような錯覚に陥った。

 自分の耳を疑った。

 それから自分が本当に正気かを疑った。

 世界を、疑った。

「はーやれやれ。もしかして君が・・・・・・的な展開を期待してたのにさあ」

「・・・・・・いや、ちょっと」

「まあとにかく、いろいろとよろしくね。まずは」

 僕のことなどお構いなしに、鈴野は間断なく話し続ける。彼女の妙に軽薄な態度への苛立ちが、深淵に引き込まれていた僕の意識を呼び起こした。

「待った!」

 ほとんど悲鳴みたいに叫んでいた。通りすがりの通行人の視線なんて、少しも気にならなかった。

「はい?」

 彼女はきょとんとした顔で首を傾げている。

「・・・・・・僕の聞き間違いじゃなければ、今、君は」

 心臓は痛いくらいに鼓動を刻んでいる。あらゆる感覚はまたどこかへと消えていまだに戻ってこない。

「・・・・・・風香って、言った?」

 風香の名前を口にするのはきっと、彼女がこの世界から消える前、僕たちの隠れ家で最後に話した時以来だろうか。

「うん、言ったよ?」

 何をいまさらとでも言いたげに、鈴野はあっけらかんとして頷いた。僕は沸々と燃え上がるような何かを体の内に感じた。

「風香って、その」

「橘風香。知ってるでしょ。君、仲良しだったみたいだし」

「仲良し・・・・・・?」

 よぎった否定をすぐに飲み込む。今はとにかく、状況を把握するべきだと思った。

「・・・・・・君は、風香とどういう?」

「友達だよ。君以上にとーっても仲良しの友達」

 どこかから切り取って張り付けたような得意げな表情でそう言った。単純に不快だったけれど、それも我慢する。如何な苦難が待ち受けていても、僕は知らなければならない。橘風香のことを。

「友達・・・・・・そう。それで」

 順を追って、次にどんな質問をしようかと僕は思案する。その時、すぐそばでクラクションが鳴った。僕と鈴野は同時に音のしたほうを見る。その音で僕は我に返って、道端で会話をしていたということを思い出した。

「それで?」

 鈴野にそれを気にする素振りはなかった。間違いなく波長の合わない人間だと思う。

「・・・・・・場所、変えよう」

 講義が迫っていたことはわかっていたけれど、とてもそれどころではなかった。

 やっぱり五月の連休明け、僕の身には何かが起こるようだった。