廊下にパーテーションが並んでいる。
そこには絵が掛けられており、作業する美術部員の手によって一つまた一つと増えていく。
「もうちょっと高く……うん、それくらい」
その中には東雲さんの姿もあり、展示作業をする他の部員に指示を送っている。
そんな光景を眺めつつ俺は一番端にあるパーテーションに両面テープでボードを張り付けた。
ボードには『○○高等学校美術部 作品展』と記されている。
「学内で一定期間展示をしよう」
部活の際、顧問の在原先生が皆を集めてそう提案した。
その意図は、一年の集大成として多くの人に作品を見てもらうのが一つ。そしてもう一つが東雲さんに展示の機会をつくるというものだ。
反対する者はおらず、早速学校側に提案。三学期の中途半端な時期であり、更に大学受験真っ只中なこともあって少々渋られたようだが、在原先生の尽力の甲斐あって無事に実現することとなった。
場所は二つの校舎を繋ぐ二階と三階の渡り廊下。そこに各々が制作した作品を展示する。
基本は部活中に描いたデッサンや絵画が中心であるが、自宅で描いたと言うイラスト等も展示されており、ジャンルは様々だ。
並んでいる作品を順々に眺めていき、やがて一つの油彩画に目を止めた。
青空の中に咲くひまわりの絵。
夏らしい入道雲の浮かぶ一面の青空の中に葉を付けた太い茎が伸び、その先に大きな黄色い花が開いている。
「どうかな? 私の絵」
振り向くと、いつの間にか隣に来ていた東雲さんが俺を見上げていた。俺は改めて彼女の絵を見る。
ひまわりの黄色が空の青と共鳴し、鮮やかに映える。それはまさにサンフラワーの名に相応しい太陽のような輝きを感じた。
「……良い絵ですね」
「ホント⁉ やった‼」
嬉しそうに笑う彼女を横目に絵を眺め続ける。
脳裏に浮かぶのはこの絵を彼女が描く光景。あの頃は夏だった。今の様に車椅子ではなく自分の足で歩いていた。
文化祭で展示するはずがそれは叶わず、ずっと日の目を見ることがなかった。それが長い月日を経て今漸く日の目を見た。
大分季節外れではあるが、それでも咲いている。それが嬉しかった。
「良い絵ですね」
再度呟いた声は小さいものだったが、しっかり届いたようで彼女は「ふふっ」と小さく笑った。
無事に展示作業が終わり、皆が拍手する。
記念撮影をしようということになり、車椅子に乗った東雲さんを中心に皆が並び撮影をした。撮影者は俺だ。スマホと部の備品である一眼レフで何枚も撮っていく。
あらかた撮り終えると、部員の女子が喜々とした声を上げた。
「じゃあ最後は玲愛と空先生のツーショット!」
「……はい?」
呆けて断る間もなく女子部員数人がかりで腕を引かれ背中を押され、先に絵の前にいた東雲さんの隣に並ばされる。
すると東雲さんが躊躇いなく俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。
驚き目を向けると、彼女も見上げてくる。
少し照れた様子でにへっと笑う彼女に何も言えなくなってしまった。
「いいねいいねー!」と囃し立てるようにシャッターがきられていく。
そこら中で鳴るシャッター音に初め苦い表情を浮かべていた俺だったが、嬉しそうに表情を崩している東雲さんを見ているうちに自然と苦笑が漏れた。
「お! 空先生も良い表情だよー!」
森川さん達が喜々として囃し立てる中、俺達は写真を撮っていく。
東雲さんが笑えているならそれでいい。
嬉しそうに笑う彼女を見ながらそう感じた。
「空くん、ありがとうね」
いつもより早めに部活動を終え、展示作業の後片付けをしていたところ不意に声がかかった。片付けの手を止め振り返る。
西日によって黄金色に染まる美術室の中、同じく黄金色に染まった東雲さんが真っ直ぐにこちらを見ていた。
もうすでに他の部員は帰ってしまっており、室内には俺達二人しかいない。
「何のことですか?」
再び片づけを始める。展示の際に余ったボードを机で揃えるトントンという音が静かな室内に響く。
「今回の展示、空くんが提案してくれたんでしょ?」
トンッと音を立てて手を止めた。
「何でそう思ったんですか?」
「聞いたから」
「誰から?」
「在原先生」
あの野郎……
思わず顔を顰める。
あの日、在原先生に電話すると、今回の展示のことを相談した。
これまでこういうことを自発的に行わなかった俺が発案したこと、そしてその動機に心打たれたとかで喜々として話に乗ってくれた。その際、俺の発案であることは伏せるように念を押したのだが、あっさり破ってくれたようだ。
「やっぱり空くんなんだね」
けれどそう言って微笑む彼女を見て、そこで漸くしてやられたことに気付いた。より苦々しく顔を顰めるも笑みで返され、照れと居心地の悪さから顔を逸らした。
「私がああ言ったから?」
先日の帰り道での会話が思い出される。
「……これくらいが限度です。流石にもう一回文化祭はできないですからね。ならせめて展示くらいはと思ったんです。それだけならまだ現実的ですから。これ以上となると僕にはどうしようもありません。申し訳ないです」
俺の立場でできることなんてたかが知れている。だからできることの中で実現可能なことは何かを考えただけだ。それにしたって結局最後は在原先生頼みになってしまった訳で、俺は殆ど何もしていない。
「そんなことないよ」
けれど東雲さんはふるふると首を振り、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。
「私の望み、叶えてくれた……」
その目は少し潤んで見える。
「嬉しい!」
そしてパアッと笑みを浮かべた。
俺は目を見開き息を呑む。
窓から差し込む西日の逆光に照らされながら瞳を潤ませ微笑む東雲さんはどこか幻想的な輝きと透明感を帯びていて、きっとこういうのを『美しい』と言うのだろうと、俺は感じた。
そんな彼女を直視するのがはばかられ、再度目を逸らすとわざとらしく音を立てて展示備品を片付けていく。
そんな俺を揶揄うように視界の外で「ふふっ」という彼女の息遣いを感じた。
俺は一つ咳払いをする。
「ついでです。今ならもう一つくらいなら望みを叶えてあげてもいいですよ」
殆ど照れ隠しであるがその言葉に嘘はない。何かしてあげたいとそう感じている。
東雲さんは少し驚いたような表情を浮かべると、俯き何やら考え始めた。
「……本当に?」
そしておずおずと伺ってくる。
「ええ……まぁ、僕にできることに限りますけどね」
俺にできることなんてそう多くはないが、無理難題でない限り多少の我儘も聞くつもりだ。
東雲さんは僅かな間黙り込んでいたが
「じゃあ……」
やがて意を決したように口を開いた。
「今度、私とデートして?」
驚き振り向くと、目の前に彼女の顔があり重ねて驚いた。慌てて少し身を引く。
「だから……そういうことはそんな軽々と———」
そう言いかけてやめる。彼女の顔はとても冗談を言っているようには見えなかった。
「夏休みのときのデート、私のせいでダメになっちゃったじゃない? だからさ、あのときのやり直し。今度こそデートしよ?」
「いや……しかし……」
あのときは確かに一緒に出掛けようとした。一時はそれを許した。しかしあのときと今とでは状況が明らかに違う。
いくら慣れてきたとはいえ、車椅子で都内まで行くのはまだ早いのではないだろうか?
何より、彼女の両親がそれを許さないだろう。付き添いが身内でもない人間、それも俺では。
俺は未だあの事故の責任の一端は俺にあると思っている。彼女が否定し嫌がるため口にこそ出さないが、俺は自分自身のことを許してはいない。
「悪かったのは信号無視した相手と注意が足りなかった私自身。空くんは何も悪くない」
まるでこちらの心を読んだかのように彼女が言う。
反論しようとするも、そこで彼女の人差し指がこちらの唇に当てられそれを許さなかった。驚きに肩がビクッと揺れる。
「空くんは自分を許して」
ぷうっと頬を膨らませながら真っ直ぐに見つめてくる彼女を戸惑いながら見つめ返していると、やがて彼女はゆっくり唇から指を放した。
「今回の事もあまり重く考えないでよ。都内までがだめなら近場でもいいんだ。空くんと二人で出掛けられるなら」
最早『画材購入のための引率』という大義はなくなってしまった。もっとも彼女は初めから『デート』と明言していた訳だけれど。
「だめ……かな?」
真剣な目で見つめてくる東雲さん。その表情には期待と不安両方の色が見て取れた。
彼女のことを考えれば断るのが賢明だ。それが彼女のためであり、自分のためでもある。頭ではそうハッキリと理解している。それなのに即答できないのは何故だろうか?
頭の中に『正気になれ。冷静に考えろ』という声が響く。けれどその一方でそれと相反する声も聞こえる。
俺は暫し黙ってその頭の中の声を聞いていたが、やがて大きく息を吐くと彼女へと目を向けた。
「分かりました」
「え……」
「いいですよ」
「本当⁉」
「ええ」
「や、やった———」
「ただし!」
喜びかける彼女を制す。
「親御さんに正直に話して許可を得ること。それができなかったら素直に諦めること。それが条件です」
以前のもそうだが、幾ら年が近かろうが未成年の女子と出掛けようと言うのだから当然だ。それに加え今回は彼女の身体のこともある。彼女の両親の意見は絶対だ。
「分かった。パパとママにちゃんと言う」
彼女は真面目な顔で素直に頷いた。
「あー! 空くんとのデート、楽しみだなぁ!」
しかし次の瞬間その顔にニマニマと笑みを浮かべた。
「……話聞いていました? 許可が貰えたらですよ?」
寧ろだめな確率の方が高い。
「分かってるよ。でも、絶対に説得してみせるから!」
けれど彼女の表情は明るい。その瞳はあの強気な色を帯びている。
「知ってるでしょ? 私、すっごく諦めが悪いの!」
そうどこか不敵な笑みを浮かべる彼女に俺は
「ええ……そうでしたね」
諦めたように苦笑を漏らした。
その後、東雲さんは本当に親御さんの説得をしてみせた。
その旨をVサインで報告してきたときの彼女は実に良い顔をしていたと思う。
出掛けるにあたって出された条件は三つ。
・近場であること。
・どこにいるか、逐一報告すること。
・十九時までには必ず帰宅すること。
当然だろう。寧ろ甘いくらいだ。正直親同伴くらい普通に有り得るだろうとすら思っていた。そのことを彼女に言うと「そんなのデートじゃない!」と大変ご立腹だった。
話し合いの結果、日取りは学年末テストが終わった後の休日に決まった。
予定が一つ決まっただけで何か変化があった訳ではないため、日々を普通に過ごす。テスト期間中部活動はないのだが、雑用で俺は変わらず出勤だ。
東雲さん達は勉強会をするとかで美術室に集まってテスト勉強をしていたのだが、彼女だけソワソワと明らかに落ち着かない様子だった。そして時折ニヤニヤと笑みを浮かべる。
「玲愛、何か良いことでもあったの?」と友人達に訊ねられても「えー? ヒミツー」と含みを持たせつつも答えることはなかった。
すると皆すぐに俺のことを見て「空先生、何したのー?」とニヤニヤと笑みを浮かべながら囃し立てた。
解せない。何故俺が関係あると思うのか?
「僕は何もしていませんよ」
勿論とぼけた。
誰も信じてくれなかった。
解せない。
東雲さんが嬉しそうにカウントダウンしながら過ごす日々は落ち着きなく、騒がしく、そして少し長く感じた。やがてカレンダーを見るのが癖になっている自分に気付き、どうやら楽しみにしているのは東雲さんだけではないことを理解し戸惑った。そしてそれを否定しようにもしきれない自分にも。
ただその一方で迷いも勿論あった。今からでも取りやめた方がいいのではないかと何度も考え、悩んだ。けれど楽しみにしている彼女を見ていると、どうしてもそれを口にすることはできなかった。
一日、また一日とゆっくりと日々は過ぎていき、学年末テストを迎え、そしてそれが終わるとついに俺達が待ち望んだ日がやってきた。

