窓の外、西の空は一面赤く染まっている。
 連なるようにして浮かぶ雲や住宅、工場群は逆光によって皆シルエットになり、その鮮明な赤と無機質な陰影の光景に哀愁と不安を感じた。
 まるで世界の終末のようだ。
 そう感じるのはどこかで見た終末世界のイメージに似ていたからなのか、それとも今の俺の心情の表れなのか。
 じきに日が完全に沈み今日も夜がやってくる。それに抗うように街にポツリポツリと明かりが灯り始めた。
 工場群に、家々に、グラウンドに明かりが灯っていく。そしてそれはこの美術室にも。
 そこでカランと乾いた音が微かにした。
 振り向くと床に木炭が一本転がっており、その持ち主が手を伸ばしている。
 俺はそれを拾い上げるとそのままその持ち主へと手渡した。

「ありがと」

 受け取った彼女、東雲さんは礼を言うと苦笑いした。

「大きな画面で描くの久しぶりだから大変」

 そう言う彼女の視線の先には木炭で描かれた静物デッサン。

「形は取れましたか?」
「うん。取れたよ」
「じゃあ離して見てみましょう」

 彼女が画面から離れようとするのを手で制し、彼女の絵を持ち上げるとモチーフの組まれている台に立て掛けた。

「ありがと」

 そう微笑む東雲さんは車椅子に乗っている。



 あの日、東雲さんは事故にあった。
 青信号の横断歩道を渡っていたところを信号無視の自動車に撥ねられた。
 彼女の友人から連絡をもらい病院に駆けつけたとき、彼女は手術の真っ最中だった。
 彼女のご両親、友人たちが揃っており、その重苦しい空気から大事であることを改めて理解した。
 俺は彼女の両親に歩み寄り深く頭を下げた。当然の謝罪だ。俺と出掛けようとなんてしなければ彼女はこんなことにはならなかったかもしれないのだから。
 けれど彼女の両親は俺を責めなかった。寧ろ感謝されてしまった。

「娘に良くしてくれてありがとうございます」

 そうして微かに笑う彼女の母親に対し俺は呆然としてしまう。感謝なんてしてもらう資格は俺にはない。にもかかわらず俺なんかに気を遣わせてしまったことが申し訳なく、そして悔しかった。
 誰もが何も言わず、時に啜り泣きながら永遠とも感じる時を、どこか現実味が持てず、けれど確かに現実なのだということに戸惑いながら、ひたすらに彼女が助かることを願い続けた。

 彼女は一命をとりとめた。
 後日面会が許可され、彼女の元を訪れる。

「空くん……」

 ベッドに横になった痛々しい姿の彼女は俺に気付くと微かに笑う。そして

「ごめんね……待ち合わせ行けなくて」

 そう俺に謝罪した。
 胸に鋭い痛みを感じ、そして唖然とする。
 何故、彼女が謝っているのだろう? 彼女は何も悪くないではないか。寧ろ謝るのは俺の方だろう? 何彼女に謝らせているのだ?

「すみません……本当にすみませんでした」

 俺は両手で彼女の手を握りしめた。小さい手だ。彼女の手はこんなにも小さい。
 その手が俺の手を握り返してくる。
 弱々しくも確かに握り返してくるその手に彼女が今ここにいること、生きているのだということ、そして彼女を失ってしまった未来があったかもしれないということを漸く現実味をもって理解した。
 安堵と恐怖に身体が震える。
 そこできゅっと微かに握る強さが増したのに顔を上げると、彼女と目が合った。心配そうに俺のことを見つめてくる。
 何でもないと微笑むと、彼女もやわらかく微笑んだ。


 最悪の事態を免れたことで一時は安堵したものの、しかし何故か嫌な予感をずっと拭えずにいた。そして数日後、こういう時の嫌な予感というのは往々にして当たるものなのだということを知る。

「空くん…………私、歩けなくなっちゃった」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

「どうしよ……」

 困った様な表情を浮かべる東雲さんの声が随分と遠くに感じた。

 事故の際、彼女は胸部脊髄を損傷し、両脚の運動、感覚機能を失ってしまっていた。
 脊髄損傷は現状完治は不可能とされている。それはつまりこの先彼女は二度と自力で歩くことができないことを意味していた。
「冗談だろ?」そう思うも、彼女の表情がそれを否定していた。
 俺は何も言えず、ただ彼女の手を握ってやることしかできなかった。身体の震えは暫く収まることはなかった。

 命が助かっただけ良かった。
 それは分かっている。ただ、何事もないならその方が良いに決まっている。
 何故彼女がこんな目に合わなければいけないのか。
 未来に向かって希望を持って前向きに歩んでいこうとしている彼女の足が何故奪われなければいけないのか。その理不尽さに憤りを感じる。
 そしてそれは自分自身にも。俺のせいで彼女はこんなことになった。
 俺とあの日出掛けようとしなければ
 俺と関わらなければ
 俺と出会わなければ
 俺が、絵を描かなければ
 俺が描いた絵がまた人を不幸にした。その事実が俺に重くのしかかる。やはり俺は絵なんて描くべきではなかった。そう強く感じた。
 ただ、それを彼女には言わなかった。彼女がそれを否定することは分かっていたから。
 その後も俺は何度も彼女の元を訪れ、その度に彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。
 話をするときも、見舞いのお菓子を食べるときも彼女の表情は明るい。
 けれど、ふとした瞬間に彼女はどこか遠い目で黙り込むことが多々あり、それが気掛かりだった。何度か訊ねてみたこともあったが「大丈夫」と笑うだけで何も語ることはなかった。

 大丈夫な訳がない。

 突然事故にあって、挙句歩くこともできなくなってしまって大丈夫な訳がない。
 五体満足な者ですら人生は不安だらけなのに、彼女は歩くことのできない足でこれから歩んでいかなければいけないのだ。その不安と絶望はいったいどれ程のものだろう。彼女の立場にない俺には想像することしかできない。それがもどかしかった。


 治療と軽いリハビリを続け、やがて安定してくると本格的なリハビリが始まった。
 完治の期待できない脊髄損傷においてリハビリをする意味は、残っている身体の機能を最大限に使い、日常生活をその人に合った形でより効率的に過ごせるようにすることにある。
 両脚を動かせない東雲さんの場合、上半身の力で自分の身体を安定させ、持ち上げられるようにならなければならない。
 そのためストレッチや筋トレ初め、足を伸ばして座る、寝返る、起き上がる、手でおしりを浮かせるといった動作の練習が主なリハビリの内容となる。
 普段行う何気ない動作だが、下半身の力に頼れないだけで途端に困難になるらしい。それをスムーズに行えるようにならなければ日常生活を過ごすことはできない。
 自分にできることを見つめ、伸ばし、日々を生きるために訓練していくのだ。

 ある日リハビリ室を訪れると、東雲さんが丁度リハビリをしていた。
 リハビリ台の上、足を伸ばした姿勢で腕を使って身体を移動させ、台の端に足を下ろして座る。その一連の動作を真剣な表情で行う彼女の姿が印象的で、俺は暫し黙ってそれを見つめていた。

「順調らしいですね」

 休憩時間にリハビリの進捗について話すと彼女は「そうみたいだね」と頷き水を飲んだ。

「先生も頑張ってるって褒めてくれたんだ」

 そして嬉しそうに笑みを浮かべた。その笑みは純粋に明るいものだ。彼女の心の状態が気になっていただけにそれは少しだけ俺を安心させた。

「焦らずゆっくりやってください」

 無理をして逆に身体を壊してはいけない。そう思っての言葉だったのだが

「ううん。急ぐよ。私」

 その彼女の言葉に俺は口を噤んだ。そこに何か強い意志を感じたのだ。

「早くリハビリして、日常生活を送れるようになって、学校に復帰したい」

 ペットボトルを両手で弄びながらどこか遠くを見据える。

「また皆と一緒に勉強して、絵を描いて、それで……ちゃんと受験したい」

 俺は驚き目を見開いた。

「今はまだ受験のことは……」

 考えるべきではない。そう言いかけた言葉は

「受けるよ! 私は!」

 彼女の意志の籠った言葉によって掻き消された。

「約束したんだもん!」

 脳裏に浮かぶのはあの日の光景。夜空に咲く光の花とその下で交わした約束。
 こんな状態になってまで無理して守らなくていい。ましてや俺なんかのために。そう言おうとするも、しかし目の前の彼女の強い眼差しに再度言葉を飲み込んだ。

「空くん、見てて」

 彼女はそう言ってスタッフさんに目配せする。スタッフさんは頷くと車椅子をリハビリ台の横に付けブレーキを掛けた。
 すると彼女はリハビリ台の手すりと車椅子の肘置きをそれぞれ掴むとひとつ深呼吸する。そして意を決してグッと前かがみにお尻を浮かせると、そのままスライドさせるように身体を移動させ車椅子に腰を下ろした。
「おお……」思わず感嘆の声が漏れる。間近で車椅子の移乗を見たのは初めてだ。

「上手いでしょ?」

 東雲さんが得意げな顔で見上げてくる。

「ええ、上手いものです。すごいじゃないですか」

 軽く拍手してしまった。素直に感心した。とても上手くスムーズだ。
 俺の反応に彼女は「えへへ、えへへ」と、あのいつもの嬉しそうな笑みを浮かべた。

「こんなこと初めはできなかった。何人ものスタッフさんに抱えてもらってやっとだった。それから助けてもらいながら少しずつ練習して、苦しくて怖かったけど諦めずに練習して、だんだんひとりでもできるようになっていって、それで、今ではこの通り!」

 車椅子に座ったまま両手を広げる東雲さん。その姿はとても誇らしげだ。
 その言葉通り努力したのだ、彼女は。不安と恐怖の中苦しみながらもそれでも諦めずに。それは誇るべきことだ。

「私ね、嬉しいんだ」

 彼女は自らの足を優しくさする。

「事故にあって、両脚が動かなくなって、何もできなくなっちゃって……起き上がることも、寝返りをうつことも、座ることだってひとりじゃできなくなった。このまま私はもう何もできないんじゃないかってそう思ってたんだ……でも」

 伏せていた顔を上げるとこちらへと振り向いた。

「今じゃ色んなことがひとりでできる。勿論まだ満足にじゃないし、助けてもらわないといけないこともたくさんあるけど、それでもできるようになっていってる。できなかったことができるようになって、それが少しずつ増えていく」

 彼女がはにかむ。心から漏れたような笑み。

「それが嬉しいんだ」

 何故彼女は笑えるのだろう。
 絶望したっておかしくない状況で、何故こんな風に笑うことができるのだろう。

「私はまだできる。できないことは確かにあるけど、それでもできることもまだまだたくさんある。だからそれができることなら諦めたくない!」

 眩しい。彼女は眩しい。直視するのがはばかられる程に。
 未だ未来を見据え歩みを止めない。諦めない彼女に尊敬と羨望を抱く。
 そんな彼女に俺が言ってやれることはきっとあまりない。どんな言葉も陳腐なものに感じてしまうだろうから。だから俺に言えるのはこれだけだ。

「応援します。ただ、無理だけは絶対にしないでください」

 東雲さんは強い眼差しで頷いた。



 それから東雲さんは懸命にリハビリを続けた。
 月日は流れ、季節は移り変わり、あっという間に年末に。そして年が明けて少しした頃、彼女は退院した。
 それから自宅と外来でのリハビリを経て一月の末、彼女はついに復学した。
 戻ってきた彼女のことを多くの者が温かく迎え入れ、祝い、そして労わった。それは美術部も同様で、みんな彼女と抱き合い、涙を流した。
 その光景を眩しく思いながら眺めていると、不意に東雲さんと目が合う。やわらかく微笑む彼女にこちらも自然と口元が緩んだ。

 東雲さんが事故にあった日からおよそ半年近くが経っていた。



「ここの形の狂い、分かりますか?」

 モチーフと見比べながら彼女の絵を丸く指で示す。

「あ……うん、分かるよ」
「まずはここの修正をしましょう。大きな形や明暗、パースをよく見てください」
「うん……分かってるんだけどね」
「この画面サイズだと至近距離では気付かないものです。だからこそ離れて……」

 そこでハッとする。今の彼女にそれはなかなか難しいということに。

「……すみません。それは君も十分に分かっていることですよね」

 絵を彼女のイーゼルに戻す。

「ううん、私の問題だし。それに怠ったのは確かだよ」

 彼女は自嘲気味に笑った。
 車椅子で頻繁に離れて画面を確認することは難しい。不可能ではないもののなかなか手間だ。ただ、それでもそれを避けることはできない。

「いつでもどこでも手助けがあるとは限りません。今後仮に予備校に通ったとして、受験本番を迎えたとして、そこでどこまで配慮されるかは分からないです。自分で何とかしなければならない場面は必ずあるでしょう。それに慣れておくのは大事です。ただ、その一方で頼れるものは頼るのも大事です。ここには僕がいます。君の手伝いはいくらでもしますよ。だから遠慮せずに頼ってください」
「空くん……」
「応援するって言いましたからね」
「……ありがとう」

 彼女の礼に俺は頷いた。


 普段の学校生活はクラスメイトが手助けしているらしい。
 例えばこの学校には昇降機等はないため階段は長身のバレー部女子が彼女をおぶり、他の者が車椅子を運んでいる。そして放課後はその役目を俺が担っている。
 初め、男である俺がおぶるのはどうかと反対したのだが、東雲さんたっての希望とのことで押し切られた。

「おっぱい当たって嬉しい?」
「バカなこと言わないでください」
「あははは!」

 部活動が終わり、東雲さんをおぶって階段を下りる。
 大袈裟ではなくまさに彼女の命を預かっているため細心の注意払いながら、そしてその他のことを極力意識しないようにしながら階段を下りると、あらかじめ降ろしておいた車椅子に彼女を座らせた。
 そして彼女の車椅子を押して来客用玄関に向かおうとしたところで

「アイツ調子乗ってない?」

 不意にそんな女子の声が聞こえた。

「そう! それ思った」

 複数の女子の声。どうやら近くのトイレかららしい。

「何でも周りにやらせてさ。 女王様きどりかって感じ」
「周りの迷惑も考えろってね。車椅子も邪魔だし」
「自分のこともできないなら学校来るなよ」

 思わず舌打ちする。そのままその声の方へ向かおうとしたところで不意にコートが引っ張られた。見ると東雲さんが俺のコートの袖を掴んでおり、ふるふると首を振った。

「……行こ?」

 彼女が笑みを浮かべる。どこか寂しそうな笑みだ。
 暴言を見逃すことを不服に思いながらも、彼女の気持ちを尊重し再び車椅子を押そうとして

「つーかさ、きっと罰が当たったんだよ」

 そこで再び足を止めた。

「ちょっと顔が良くて胸がデカイからってチヤホヤされて調子乗ってさ」
「なんか明るく愛想良くしてるけど、内心では周りのこと見下してるでしょアレ。透けて見えんだよ」
「そうそう。それに男子に色目つかってるじゃん」
「それそれ、それで本気になったらバッサリでしょ。きっと楽しんでるんだよ。ホント性格悪っ!」
「そういうやつホント無理」
「だからざまぁって感じ」
「ぷっ! 確かに」
「でも、まあ? あんな身体なんだし? 周りに面倒見てもらうくらいは許してあげてもいいんじゃない? それが慈悲ってもんでしょ」
「じゃあアンタ面倒見てやんなよ」
「えぇ? 私が? 絶対イヤ~」

 響く下品な笑い声。
 奥歯がギリリィと鳴り、車椅子のグリップを痛いくらいに握りしめる。
 俺は再度振り返ろうとし、けれどそこで再び彼女にコートを掴まれた。やはり彼女はふるふると首を振る。

「放してください。僕は———」
「ダメ!」

 彼女の言葉に足が止まった。

「ダメ……」

 なおも首を振る彼女。その表情は必死で、顔にはうっすらと汗も浮かんでいる。踏ん張りのきかない身体で俺を止めようとコートを引っ張る。
 そんな彼女の姿に俺は顔を歪めた。
 奥歯を噛みしめ、目を瞑ると上を扇ぎ二度、三度と深呼吸する。ゆっくりと息を吐き出すと目を開いた。

「……帰りましょう」

 そう微笑んだ俺に彼女は安堵の表情を浮かべた。
 車椅子のグリップを握り直すと足早にその場を去る。
 廊下には未だ下品な笑い声が響いていた。



 人間とは様々だ。
 皆それぞれの価値観を持っており、一つとして同じものはない。
 それにより仲良くできる者がいる一方、どうしたって受け入れられない者はいる。
 そんな人間達が一つの社会の中で生きていこうというのだからそこかしこで悪感情が生まれるのは当然だ。
『みんな仲良く』などといった幻想は早々に捨て、そういうものとして割り切り上手く生きていくしかない。
 たとえどれだけ胸糞悪かろうと。

「空くん、顔こわい」

 東雲さんがこちらに振り向いた。
 薄暗い帰路を彼女が乗った車椅子を押しながら歩いていく。

「そんなに気にしないでよ。私も気にしないから」
「そういう訳にもいかないですよ」

 車椅子の進む先を見据えながら俺は顔を顰めた。先程の女子たちの声が頭から離れない。何度も反響する下品な笑い声。

「あの子達が私のことを良く思っていないのは前から知っていたし、ああいうのも初めてじゃないから私は気にしないよ?」

 そう笑おうとする彼女だが、そのどこか空回りした明るさが寧ろ彼女の今の心情を表しているようで、俺は余計に顔を顰めた。

「だからって許していいことではないでしょう? あんなのただの嫉妬や僻みではないですか」

 人間だれしも嫉妬する。たとえどんな善人であってもだ。こんな俺でも例外ではない。
 嫉妬するだけならそれは必ずしも悪とは言えないだろう。それを力にし努力したことで大きな結果を残す人間もいることから、時に人生において必要な感情になることもあるだろう。決して必要悪などと認めるつもりはないが、消せない感情に意味を求めるならそういう見方もできる。
 内心に留めているなら少なくとも他人にとって害にはならないのだから。
 けれどそれを表に出し、人に向けるのであれば話は別だ。

「ましてや事実無根の言い掛かりじゃないですか」

 それは最早侮辱だ。ただただ人を傷付ける行為に他ならない。

「事実は関係ないんだよ。私がどういうつもりかじゃなくて、相手がどう感じたか……どう感じたいかなんだよ」

 それは真理だ。どれだけ正しさや高い志、善意があってもそれを受け取る側がそう感じ取れなければ意味がない。
 そしていかようにも捻じ曲げられる。

「私は……自分で言うのもなんだけど、まぁ、結構モテるんだよ」
「まぁ、そうでしょうね」
「そういうのを気に入らないって子はやっぱりいてね。陰で色々言われているのは分かってた」

 彼女は俺から見ても容姿が良く、性格も明るく前向きだ。分かりやすい魅力があり、それ故に周りから人気なのも頷ける。その一方で嫉妬や僻みの対象になるのも分かる。人気者はその人気の裏で悪感情に晒されるものだ。

「それを気にしてって訳じゃないけど、これでも上手くやろうとしてたんだよ。必要以上に目立たないようにしたり、あまり男子に思わせ振りな態度を取らないように気を付けたりね」
「男子の告白を断り続けているのもそういうことですか?」
「それはただその男子に興味がなかっただけ。付き合いたいと思えない相手とは付き合えないもん」
「まぁ賢明ですね」

 そこで彼女がこちらに振り返りジッと俺のことを見つめてきた。
「ん?」と目で問うと「何でもなーい」と前を向いてしまった。そして話に戻る。

「でも、そういうのも私のことを良く思っていない子達からしたら気に入らないみたい。さっき話していたみたいにね。一度嫌いになったらきっともう事柄は関係ないんだよ。『私』なんだ。『何が』ではなく『私』の全てが嫌なんだと思う」

 悪印象を与えるのは一瞬だ。信用というものはすぐに地に落ちる。そして一度目を付けられたら最後、どう振舞おうがどれだけ正しかろうが、その者達の都合で捻じ曲げられ嫌悪の対象となる。嫌悪は新たな嫌悪を生み、次第に増幅していく。
 終わることはない。人の負の感情に際限はない。
 それを人間らしいと言えばその通りだが、許せるものにも限度がある。
 東雲さんの境遇は笑い話ではない。労わりはあっても嘲りがあってはならない。それを利用して自らを肯定しようというのなら尚更だ。
 罰が当たった?
 慈悲?
 何様だ。
 己の勝手な感情で事実を捻じ曲げ、あたかもみんなの総意であるかのように嘯き、徒党を組んで陰でコソコソ侮辱するあの連中は醜い。
 それで自分達の格が上がる訳でもないのに。

「たとえそれが人間で、そうして社会が回っているのだとしても僕はそれを許すことはできません」

 顔を歪め奥歯を噛みしめる。胸の中に溜まっていくものをどこに吐き出せばいいか分からず、ただただ虚空を睨みつけていた。
 すると突然

「ふふっ……」

 東雲さんが小さく笑った。

「……何笑っているんです?」
「いや、そんなに怒るなんて珍しいなぁって思ってさ」
「……僕だって怒ることくらいあります」
「あはは、そりゃそうなんだけどね。それでもやっぱり珍しいし、それに……嬉しい」
「嬉しい?」

 意味が分からず益々顔が歪む。

「うん。嬉しい。だってそれだけ私のこと信用してくれてるんだなぁって思うから」
「それはそうですよ。君のことですからね」
「ええ~? 本当の私は空くんが思っているような人間じゃないかもしれないよ? それこそあの子達が言っていたような人間かもしれないよ?」

 振り返り下から見上げてくる東雲さん。こちらを試すような表情だ。

「確かにそれは有り得ますね」
「でしょ? それなのに私を信じてくれるの?」
「ええ、信じます」

 迷わず答えた俺に東雲さんは驚いたように目を見開いた。

「確かに君のことをほとんど知りません。人の心を読むこともできませんし、君にもし本性というものがあったとしてもそれは僕には分からないでしょうね」
「……じゃあ、何で信じてくれるの?」

 俺は暫く黙って彼女の車椅子を押した。下から彼女の視線を感じる。そして前を向いたまま答えた。

「君なら信じてみてもいい……そう、感じただけです」

 彼女は何も言わず、前へと向き直った。
 東雲さんは黙って車椅子の背もたれに身体を預け、俺は黙って彼女が座る車椅子を押す。
 ぼんやりと光る街灯に照らされる。進むにつれてその光が徐々に弱まっていき、やがて次の街灯の光が強まっていく中で

「……そっか」

 彼女が小さく呟いた。
 それきり俺たち二人は黙ってただ歩いた。

 半年前に比べて日は短くなり、太陽はもうすっかりと街の向こうへと沈みその残り香も感じられない。
 日の光から引き継ぐかのように夜空にはポツリポツリと星の光が瞬き始め、街灯やコンビニの人工の過剰な光が闇に沈む街を浮かび上がらせる。俺達を追い越す自動車のテールランプがまるで流れ星の様に流れては消えていった。
 気温はぐっと下がり、以前まで半袖シャツだったのが今や長袖に厚手のコートを羽織るようになっている。
 身の回りの変化に否応なく時の経過を感じさせられる。
 そして変わったのは俺達二人も。
 下校する生徒達が俺達を避け次々と追い越して行く。彼女の友人らしき生徒が手を振って去って行くのに彼女も手を振って応えた。
 俺達の歩みは随分とゆっくりになった。
 バラバラだった歩幅は今や自然と同じだ。
 ただそれでも彼女が前を行き、俺がその後ろに続くのは変わらない。境遇やその在り方は大きく変わってしまったが、それでも自分達の立ち位置は変わらない。
 共にいることは変わらない。
 行く先、横断歩道の信号が点滅し始めた。彼女は以前の様に駆け出すことはなく俺の歩幅でそれを眺めている。やがて信号が赤になり俺達は立ち止まった。止まっていた自動車が走り出し、俺は一歩分彼女の車椅子を後ろに引いた。
 目の前を右へ左へと自動車が横切っていくのを眺めていると

「私……負けないよ」

 東雲さんが小さく呟いた。

「あんな声になんて負けない。陰口なんて前からあったんだし今更だよ。そのレパートリーが増えただけ。私は私としてしか生きていけないもん。陰口を気にして無理に自分を変えることなんてない。本当に悪いところは勿論直さないとだけど、そうでないならこれまで通りでいい。自分でできることはちゃんと自分でやって、どうしても無理なところは……まぁ、ちょっと迷惑かけちゃうかもだけど……。それでもちゃんとみんなに感謝しながら私の人生を生きていく!」

 力強く語る彼女は堂々としていて、それはまるで宣言のようだ。

「それに私まだまだやりたいことたくさんあるもん。今いる友達ともっと一緒に過ごしたいし、今の学校で勉強して、受験もして、それでちゃんと卒業したい。それに……空くんともっと絵が描きたい!」

 心臓が大きく脈打つ。身体が微かに震えた。

「たとえこんな身体でも、私は……何も諦めない!」

 強いな……本当に。

 理不尽な目に合い、心が折れてしまってもおかしくない境遇でありながらも、彼女は何も諦めない。時に俯くことはあってもしっかりと前を見て、ゆっくりでも確実に先へと進んで行こうとしている。
 改めて感じる。彼女は強い。俺なんかよりずっと。
 同じ歩幅で歩いている?
 いや、違うだろ。
 自分の人生において立ち止まったままの俺と、歩みを止めない彼女とではまるで違う。
 今に始まったことではなく、振り返ってみれば前からそうであった。前を行く彼女は俺のずっと先を歩いていた。
 時折振り返っては手を振り手招きし俺のことを呼んでいた。時には俺の手を取り引っ張りさえしていた。そして今その差はどんどんひらいていっている。ずっと先で立ち止まり俺が来るのを待っている。
 俺が彼女に合わせているんじゃない。彼女が俺に合わせている。

 私が連れていくから

 まるであの言葉を守るように。

 何やっているんだ……俺。

 自分の不甲斐なさに俯き歯噛みする。
 それ程差がある訳でなくとも年下の女の子に頼りきりではないか。
 車椅子のグリップを強く握り、けれどすぐにふぅ……と細く長く息を吐いた。それに伴い手の力は緩んでいく。

「なら……」

 俺は顔を上げた。

「応援しますよ」

 彼女がまた振り向いた気配を感じる。けれど俺は真っ直ぐ前を見据えた。
 負の感情を向けるのは不甲斐ない自分自身にだけでいい。彼女に向けるのは労わりと敬意、そして彼女の未来に対する期待、それだけでいい。

「うん! 期待しててね!」

 彼女がにっと歯を覗かせて笑った。
 信号が青になる。
 未だ自分が歩き出せているとは思わない。けれどいつまでもこのままではいられないのは分かっている。
 彼女に置いていかれ見失ってしまったら応援してやることもできないのだから。
 俺は左右の安全を確認すると、グリップをしっかりと握り直した。そして車椅子を押しながら歩き出す。
 横断歩道の先で笑顔の東雲さんが手を振っている気がした。



 駅の改札まで来ると、彼女を待たせて窓口へ向かった。名を告げると勝手知っている駅員さんがすぐにそれを認めた。
 車椅子で電車を利用する際、乗車下車に介助が必要になる。そのため事前に駅に話を通しておくのだ。過去に駅のホームで実際にその場面を目にしたことがあったが、連れがとは言え自分がその立場になるとは思わなかった。
 列車が遅れていることを聞き、彼女の元へと戻った。

「列車遅れているみたいですね」
「うん。そうみたい」

 彼女の目の先、電光掲示板には『遅延』の文字が表示されている。

「ホームで待ちますか?」
「ううん、ここで待ちたい…………空くん、まだ時間大丈夫?」
「付き合いますよ」

 改札前のコンビニで飲み物を買い彼女に手渡した。

「ココアでいいんですよね?」
「うん! ありがと」

 彼女は礼を言いながら受け取り、財布を出そうとしたため、俺はそれを手で制した。
「何で?」という表情をする彼女。

「ご馳走してあげます」
「でも……悪いし」
「いいですから」

 無糖のコーヒーのプルタブを開け一口飲んだ。
 東雲さんは遠慮気味であったが、俺の気持ちが変わらないのを認めると「ありがと」と再度礼を言い、プルタブを開けると口を付けた。
 ほう……と吐き出された白い息にココアの温かさを感じる。
 帰宅ラッシュの時間帯のため改札前に人は多く、加えて遅延によりそれが滞留している。その雑多な空気に少し辟易した。

「車椅子だと通学も大変ですね」
「あはは、まぁね。でも少し慣れてきたよ」

 彼女は苦笑しながら車椅子を撫でた。

「親御さん、自動車で送り迎えしてくれるって言っているのでしょう?」
「うん。でも迷惑かけちゃうし。もうたくさん迷惑かけちゃってるからさ」

 そうして自嘲気味な笑みを浮かべる。
 彼女の家での様子を俺は詳しくは知らないが、以前と同じようにいかないことは多いだろう。手を借りなければいけないことはきっと多い。彼女の親御さんはそこら辺のことを気にしなさそうだが、彼女自身はその限りではないようだ。

「せめて自分でできることはしたいんだ」
「良い心がけですね」
「でしょ? もっと褒めてくれてもいいんだよ?」
「調子に乗るのはよくないですね」
「むうぅ……!」

 むくれる様がおかしくて、その頭をわしゃわしゃと撫でると、彼女は「ひゃああ!」と可笑しそうにはしゃいだ声を上げた。
「えへへ、えへへ」とニマニマしながら乱れた髪を直す彼女を横目に見ながらコーヒーを飲み、ふと気になっていたことを訊ねる。

「やりたいことがたくさんあるって言っていましたけど……他にどんなことがあるのですか?」

「うん……とねぇ……」と暫し考える彼女だったが「たくさんあり過ぎてまとめられないや」と笑った。

「羨ましい限りですね」

 それなら少なくとも退屈はしなさそうだ。

「あー……けど、あれはやりたいかな」
「あれ?」
「文化祭」

 文化祭は昨年夏休み明けに開催されたのだが、そのとき彼女は丁度入院していた。
 後になって当日に撮影した写真や動画を見ていた際、少し寂しそうな表情を浮かべていたのを覚えている。

「クラスの出し物に参加したかったし、友達がやっているバンドのステージも観たかった。それと美術部の作品展示も参加したかったな。みんなでお揃いのシャツ着て、きっと楽しかっただろうなって。そのために絵も描いていたし……発表できなかったのは残念。…………あと」

 東雲さんがこちらを見上げた。

「空くんと文化祭回りたかった」

 ピクリと肩が揺れた。何か言おうとするも妙な恥ずかしさ、そして彼女が浮かべる少し寂しそうな表情に言葉に詰まり口を噤んだ。
 そのままジッと見つめてくる彼女だったが、やがて「なんてね!」とお道化た調子で破顔した。

「流石に時間は戻せないよね」

 そう言う彼女の横顔はその笑みに反してやはり少し寂しそうで、俺の心をざわつかせた。

「だから来年まで我慢!」

 自分を納得させるように言うとまたココアに口を付け、コクリと喉が動く。ほあ……と吐いた白い息はすぐに霧散し消えてしまった。
 そこで駅員さんがやってきた。遅れていた列車がそろそろ到着するらしい。

「じゃあ、空くん、私もう行くね。話付き合ってくれてありがとう!」
「はい。気を付けて帰ってくださいね」
「うん! またね空くん」

 彼女は自ら車椅子を操り、窓口前から改札を通ると駅員さんを伴いホームの方へと向かっていく。が、そこで立ち止まると振り返り、いつものようにこちらに大きく手を振った。
 俺が手を振り返すと満足そうに微笑み、今度こそ行き交う人々の中へと消えていった。
 彼女が見えなくなると、俺はグイッとコーヒーを飲み干し、ゴミ箱に空き缶を捨てる。そして帰宅者で混雑する構内を自宅へと向かって歩き出した。



 風呂から上がりバスタオルで髪を拭きながらベッドに腰かける。水のペットボトルの蓋を開け喉に流し込むとベッドに倒れ込んだ。
 頭に浮かぶのはやはり東雲さんのこと。
 理不尽な目に合いながらも、心折れず、諦めず、前向きに進んで行こうとしている彼女。
 そんな彼女を改めてすごいと感じる。
 自分にはそれができなかった。
 画材が仕舞ってあるクローゼットに目をやり、すぐに逸らす。
 諦め心が折れると同時に筆を折った。それで新たな人生に踏み出すかと思えばそんなこともなく、そして未だに一歩も進めていない。
 自分にできないことをできる彼女を眩しく感じる。
 そんな彼女に対して俺は何がしてやれるだろう? 自分がなんて烏滸がましいことかもしれないが、それでも何かしてやれることはないだろうか? 義務感などではなく、ただただ俺が彼女に何かしてやりたいのだ。
 あの笑顔をもっと見たい。見ていたい。

 あー……けど、あれはやりたいかな

 文化祭

 不意に彼女の言葉が浮かんだ。反響する言葉を聞きながら天井を見つめ僅かに思案する。やがてベッドから起き上がると机の上のスマホを取った。
 彼女のために俺がしてやれるかもしれないこと。
 俺はスマホを操作すると耳に当てた。