昔から共感ができなかった。
 小学生当時、俺は周りに比べて大分無感動な子供で、同級生が当たり前に関心を持つものに共感できず、常に冷めていた。
 更に他人というものにも興味がなく、こちらから話しかけることはせず、話しかけられても一言二言話す程度でまともに取り合うことはなかった。
 必要最低限にしか人と接していなかった。
 だって仕方ないではないか。楽しくないのだから。共感できないのだから。
 俺は人と付き合うことを拒んでいた。
 その様は周りにはさぞ感じ悪く映っただろう。実際、みんな俺を敬遠していた。
 それにより嫌がらせを受けたことも一度や二度ではない。それが余計に俺に周りを拒絶させた。
 そのため俺はいつもひとりだった。けれど苦は全くなかった。それは他でもない俺自身が望んだことなのだから。
 不自由せず、寂しくも悲しくもなく、ひとりなりに楽しく過ごしていた。

 そんな人付き合いのみならず、あらゆることに関心がなかった俺が数少ない興味を持つことの一つが絵を描くことだった。
 絵の中だけは何にも邪魔されず全てが自由で、ひとりで何でも決められて、そして単純に楽しかったのだ。
 初めは身の回りの物や家族等を、それから徐々により広い風景や空想の世界を描くようになっていった。
 休日は勿論、学校の休み時間も同級生が外で遊ぶ中、ひとり教室で絵を描いていた。
 そしてもう一つの興味のあることが空を眺めることだった。
 空を眺めながら空想等をしていると心が落ち着き、日々の煩わしいことを忘れられたからだ。
 ひとり絵を描き、空をぼんやりと眺め、また絵を描く。小学生の俺はそんな子供だった。
 そうして絵を描き続けているうちに段々とその絵を褒められるようになっていった。
 その際の俺は相変わらず笑顔はなかっただろうし、言葉も少なかったが、少なくとも無視はしなかった。人と接するのは嫌だったが、自分の描いた絵を評価してもらえるのは嬉しかったのだ。
 褒められれば褒められる程、俺は密かに得意になり絵を描くことに没頭していった。

 中学高校と進むにつれて多少は人付き合いもできるようになっていった。
 相変わらず共感なんてできないし、関わりたくないのが本音であったが、大人になるにつれてそうも言っていられなくなる。『上手く』やることを覚えていった。
 そしてこの頃には誰と話すにも敬語を使うようになっていた。年下から年上まで当たり障りなく、そして自分を守るのに都合が良かったからだ。
 結果として周りとの軋轢はぐっと少なくなったと思う。ただその一方でそんな自分を冷ややかに見つめる自分は常にいた。
 そうして自分自身が多少でも変わっていくのに対して、絵を描くことと空への興味だけは変わらなかった。その時だけは俺は自由でいられている気になれた。
 絵はずっと描いていたこともあり、その頃には大分上手くなっていた。学校の美術の成績は良かったし、何度も入選していた。市の広報誌に絵が掲載されたこともある。
 絵を描くことは俺の存在意義となっていた。そのため美術の道に進みたいと思うのは極々自然なことだった。

 夢を見て受験のために美術予備校へと通い始め、そして俺は愕然とする。
 皆が上手い。浪人生は勿論、同じ年の高校生が皆上手い。
 しっかりとした美術教育を受けた者とそうでない者。あって当然の差に当時の俺は戸惑った。
 世の中には絵の上手いやつなんて幾らでもいるということ、そして自分が全然大したことないということを実感をもって理解した。俺の安っぽいプライドはあっさりと砕け散った。
 ショックは受けつつもけれど挫折することはなく予備校に通い続け、必死に勉強して、何度も心を折られそうになりながらも、どうにか一浪で私立の美大へと進学することができた。

 大学での俺は空の絵ばかり描いていた。課題で明確にモチーフの指定があるもの以外は全て空の絵だ。
 朝陽が昇る明け方の空、雲が多く流れる風が強い日の空、全てがシルエットとなる夕暮れの空、月が淡く輝く夜空、そして突き抜けるような透明な青空。
 様々な空をモチーフに大小多くの絵を描いていた。
 アトリエの俺の制作スペースにはいつも普段撮り溜めている空の写真が幾つも貼り付けられ、その数多の空に囲まれながら俺は自分の世界に入り込んでいた。
 そんな俺のことを同期は『空の人』と呼んでいたらしい。
 大学生になっても俺の孤独体質は相変わらずだった。
 大学は小中学校等とは異なりひとりで過ごしやすい環境だ。友人同士で固まっている者がいる一方、ひとりで行動している者も当たり前にいる。俺もそのうちの一人だ。
 群れることを強制されない生活は俺にとって快適なものだった。
 同期の多くがそんな俺のことを尊重してくれていたが、一方で快く思っていない連中というのはやはりいた。
 愛想が悪い、付き合いが悪い、というのが彼らの弁だ。
 これまでに散々言われてきたため大して響きもしない。そもそも愛想がなく、付き合わないのが何故『悪い』になるのかがさっぱり理解できない。
 分かり合えるとも、分かり合いたいとも思わなかったため無視していると、それが余計に彼らの癇に障ったようで、事あるごとにネチネチと絡んできた。煩わしかったが、関わるだけ時間の無駄だと思いやはり無視を貫いていた。

 そうしてひとり我が道を歩んでいた俺だったのだが、一人だけよく話をする相手ができた。

「よぉ! 今日も描いてるな」

 俺が描いていると決まって声をかけてくる。名は佐久間。同じ科の同期で二つ年上の男だ。ある日突然絡んできた。
 空の絵ばかり描いているのが余程印象的だったのか、それとも誰ともつるもうとしないのが特異に見えたのか、それは分からないが何故か気に入られ、毎日顔を合せる度に話しかけてくるようになった。
 やたらフレンドリーに接してくる彼に当初は鬱陶しさしか感じず適当にあしらっていたのだが、彼は変わらず俺に話しかけ続けた。そして初めこそ関りを拒んでいた俺も徐々に彼に応じるようになっていった。
 彼に少し興味が沸いたのだ。ここまで俺と関わることを諦めない者は家族以外では初めてだったから。
 初めはお互いの作品の話、そこから徐々にプライベートの事も話すようになっていった。
 同じアトリエで制作し、共に食堂で食事をし、授業が同じ時は隣に座り、俺が成人を迎えてからは飲みに行ったこともあった。
 初めてだった。そのように特定の誰かと長く共に過ごすのは。
 これまで他人と過ごすのは苦痛でしかなかった。共感できず、楽しさを見いだせず、ただただ疲れるだけだった。年を取るにしたがって多少は共感できることも増えてはいったものの、それでも価値観の異なる他人との関りは苦痛であることが勝った。
 彼も価値観が異なる点ではこれまでに出会ってきた者と何も変わらない。けれど彼と共に過ごすのは不思議と苦痛ではなかった。
それが何故なのか当時の俺には分からなかったが、今なら何となく分かる。それはきっと価値観の相違を気にさせない程に彼が大人だったからなのだろう。人によっては嫌な奴に映るだろう俺の事を理解し、許し、受け止めてくれたから俺達は上手く付き合えたのだと思う。そこは頭が上がらない。
初めてだった。家族以外の他人といて『楽しい』と思えたのは。
 そして

「よぉ、友よ! メシ食ったか? 食堂行こうぜ!」

 初めてだった。俺の事を『友』と呼び、そしてそれを嫌に感じない人に出会うのは。



 月日が流れ周りの人間が徐々に大学に顔を出さなくなってくる中、俺と佐久間の二人はアトリエで制作に没頭する。
 佐久間は所謂写実表現を得意としていた。ものすごく簡単に言うと本物そっくりなリアルな絵のことだ。
 彼の絵を見たとき俺は言葉を失った。圧倒されたのだ。そのリアリティーに。
 よく写実表現に対して誉め言葉として「写真みたい」と言うが、その言葉は適切ではない。洗練された写実表現は体感できるのだ。
 そこには手で触れられそうな量感と質感があり、空気を纏っており、光があり、音があり、匂いがあり、そして時間が流れている。
 彼の絵はまさにそういう絵だった。
 そう感じる者は俺だけではなかったようで、周りの人間も彼の絵を称賛し、時には他学部の人間までもが彼の絵を見に訪れるくらいだった。
『天才』などという者も少なくはなくなかったように思う。そういうとき彼は決まって「俺は天才なんかじゃないですよ」と苦笑いしていた。
 才能の有無、ましてや『天才』かどうかなんて俺には分からないが、少なくともあの絵は彼の努力の賜物だと思っている。彼が努力しているのを俺は間近で見ていたからだ。それを『天才』の一言で片づける連中を浅はかに感じたものだ。
 周囲の声などに惑わされず彼には彼の表現を貫いてほしいと、制作に集中する彼を見ながら思った。

 一方の俺は相変わらず空の絵を描いていた。
 ハッキリ言って俺の絵は全く評価されてはいなかった。
 佐久間の絵を見に来る者達は俺の絵には見向きもしない。たまに声を掛けられてもそれは佐久間のついででしかなかった。
 空というモチーフは絵としてはあまりにありふれていたのだろう。加えて写実的な表現であったため、佐久間の絵と比べた時どうしても見劣りしてしまうのも一要因だったのだと思う。
 特別珍しいテーマや表現ではなく、突出した技術や表現力がある訳でもない。そんな俺の絵はまさに空気だった。
 悔しかった。
 佐久間は勿論、周りの人間が各々評価を得ている中、俺だけが誰の心も動かせないことが。普段必死で作品作りしている俺よりも、遊んでいるだけに見える連中の方が評価されていることが。俺の絵があってもなくても同じものになってしまっていることが、悔しかった。
 俺は人付き合いが嫌いだ。
 誰とも関わりたくないし、ひとりでいたい。そのためなら俺のことなんていないものとして扱ってくれたって構わない。

 ただ、絵は。

 俺の絵だけは見てもらいたい。

 人に共感できず、散々周囲を拒絶してきたくせに共感を得たいだなんて虫のいい話だ。けれどそれでもそれが俺の紛れもない望みだった。

 俺はいいから、絵だけは。

 これまでの俺の人生の中で最も承認欲求に塗れていた時期だっただろう。常に満たされず、劣等感とやり場のない苛立ちを抱えながら描き続ける日々。
 苦しかった。
 それでも空を描くことをやめられなかったのはそれが俺の描きたかったものだからだ。誰に言われるでも決められるでもなく、自らが心から望んだもの。
 俺は俺の見る空で人の心を動かしたかった。
 称賛される佐久間を横目に、俺はひとり黙々と空の絵を描いていた。
 この頃の俺が描いていたのはもっぱら青空だ。
 高く広く透明で、どこまでも続いていて果てのないような青い空。

『この空の先に何かあるのだろうか? あったとしてそれは何だろうか?』

 そんな想いを馳せながら何度も見上げた青空。
 こうして描き続け求め続ければいつかその『何か』を見つけることができるのではないだろうか? そんな荒唐無稽な、人によっては無駄と捉えられることを信じ、俺は筆を振るった。
 所詮は自己満足。されど自己満足。この生きづらい世界を自らの意志をもって生きていくための、俺の指針であり目的地だ。
 空の果てを見据え、負の感情に纏わりつかれながら、想像の翼を大きく広げこの広大な青い空を藻掻き、羽ばたき、求め続けていた。

 大学二年目になると周りの生徒は更に減る。
 何らかの事情で大学をやめたり、必修の単位が取れず留年してしまったりとその中身は様々だが、大抵はただサボっているだけな気がする。
 そのくせ作品の講評のときだけは顔を出し、当たり障りのないそこそこの作品を提出して必要な単位だけは取っていくのだから要領が良いというか何と言うか。上手い生き方にも感じるが、高い学費に見合っているかは疑問だ。
 共有のアトリエはガラガラで俺と佐久間の二人だけなんて日もざらになっていった。
 この頃の佐久間は公募に作品を出品するようになっており、幾つかの公募で入選を果たしていた。本気で作家を目指している彼にとっては大事なことだろう。その実績は信用となり、新たな人との繋がり、そしてチャンスになるのだから。
 会場で見る彼の油彩画はやはり異彩を放っており一際目を引いた。正直、大賞の作品よりもよっぽど魅力的に感じたくらいだ。
 佐久間も大賞作品を評価しつつも悔しさはあるようで「次こそは大賞を取る」と息巻いていたが、毎度入選止まりだった。彼ほど上手い者でも容易に入賞できない。必ずしも上手い下手で決まらないところが絵の面白さであり、難しさだ。
 そしてまさに彼はその後者に悩んでいたようで、制作中彼の顔が辛そうに歪むのを何度も見た。
 絵を描くことは楽しいことだ。けれどそこに何らかの結果を求めると必ずしも楽しいことばかりではなくなる。他者の存在が不可欠になり、それが増えれば増える程喜びは増すが、同時に辛さも増してくる。楽しく自由に……では済まされなくなる。自己完結は許されない。
 そうして見るときっと俺は作家には向かないだろう。
 他人に興味がなく、繋がりを求めない。描く絵は自分が求めるもので、そこに他人の想いは一切反映させない。
 良く言えば自己表現、悪く言えば観賞者を置き去りにした独り善がりな表現。
 そんな人間が作家としてやっていけるとは思えない。
 将来について考えなければいけない。漠然とではあるがそう感じていた。


「なぁ、空も公募に出そうぜ」
 ある日、アトリエに来るなり佐久間はそう言ってパンフレットを見せてきた。
 それはとある一般企業が主催している公募の募集要項だった。平面作品の公募としてはかなり大きなもので全国から多くの作品が集まる。大賞は勿論、入選するだけで箔がつくと言われており、若手の内に一度は受賞しておきたいもの、らしい。
 俺ですらその存在を知るくらいに有名なものだ。
 俺は勿論断った。自信がなかったからだ。俺が出品したところで結果は目に見えている。
 けれどそれに佐久間は食い下がった。

「お前なら必ず良いところまでいけるからさ! 一緒に挑戦しようぜ」
「嫌ですよ。無駄です」
「何でだよ?」
「普段全く評価されていない僕が参加したところで仕方がないでしょう?」
「はぁ? 何言ってんだよ」

 佐久間は首を傾げた。

「評価はこれからつくものだろ? これから出品するんだから」
「それは……」
「それに、自分の作品、自分自身が評価してやらないで誰が評価してくれるんだよ」

 俺は言葉を失った。色々言いたいことはあったはずなのに何も口にできなくなってしまった。

「それに、俺は空の絵、良いと思ってるよ」

 そう言って笑みを見せた彼の顔は今でも忘れられない。
 その後、大分悩んだ末、俺は公募に出品することに決めた。
 自信がないのは変わらない。俺が選ばれる程甘くなんてないはずで、期待などまるでしてはいなかった。ただ

「自分が評価してやらないで……か」

 佐久間のその言葉は俺の心に残った。
 ただそれだけだ。

 俺は出品に向け新作に取り組んだ。
 大きな青空の絵だ。
 制作中、公募のこと等余計なことは極力考えないようにし、ただ自分が描きたいもの、美しいと感じるものを意識し、そして自分が探している『何か』を求め筆を振るった。
 作品が完成したのは搬入日ギリギリ。自分でも納得のできるものを描き上げた。

「久しぶりに楽しかったな……」

 アトリエの壁に立て掛けた絵を眺めながら満足感に笑みが漏れた。

 無事に出品が終わり、それから時が経ったある日の昼過ぎ、大学の食堂でひとり食事をしているとスマホに着信が入った。知らない番号だ。怪しく思いながらも電話に出る。そして

「……え」

 電話の相手の話を聞き、俺は呆けた声を漏らした。





 広くて清潔な白い空間。周囲の壁と柱には数多の絵が掛かっており、作品を邪魔しない程度の照明が当たっている。
 そのうちの一枚、部屋の中央付近の柱に掛かる絵。
 大きな青空の絵。
 添えられたキャプションには作品のタイトルと俺の名が記されており、そのすぐ横にもう一枚添えられたキャプションには『審査員賞』と記されていた。

 あの公募で俺は受賞した。
『大賞』こそ逃したがその次点の賞だ。箔という意味では十分と言える。
 入選でさえ難しいと思っていたところ、まさか入賞するとは完全に予想外だった。そのため初め連絡をもらったときは詐欺を疑ったのだが、後に発表された受賞者リストに自分の名があったため信じるに至った。
 佐久間の名はなかった。
 後日、都内の美術館でレセプションが行われ、そのまま一定期間展示された。『審査員賞』なだけあって随分良い場所に展示してもらえたと思う。
 賞を取ったことも普段と異なる場で大仰に作品を公開されることもどこか現実味がなく、戸惑いは大きかったが、来場者が俺の絵の前で立ち止まり感嘆の声を上げたり、逆に言葉を失う姿を見るのは単純に嬉しかった。それはそれだけ心に響いたということなのだから。
 大学に入ってからずっと苦しみの中にいた俺であったが、このとき漸く報われたように感じた。
 受賞したことは各美術雑誌で取り上げられ、大学の広報誌にも掲載された。
 佐久間は「俺の言った通りだったろー」と俺の背をバシバシ叩きながら祝ってくれたし、他の同期も各々絵の感想や祝いの言葉をくれた。ただ、その一方で俺の事を快く思っていなかった連中は面白くなかったようで、絵を酷評していた。
 ワザと俺に聞こえるように貶す連中を煩わしく思っていたが、そういうとき決まって佐久間が庇ってくれた。
「気にするな。メシ行こうぜ」そう言って肩を組む彼に親しみを感じ、俺はますます彼に心を許していった。

 それからも毎日絵を描き続けた。
 あの絵を描き上げてから随分と心が軽くなった気がする。
 評価も何も気にせず、ただ心の向くままに描いたあの絵。
 浮かぶのは青いイメージの断片。それらは寄せ集まりやがて自らの背に翼を生やす。
 見据える先は空の彼方。
 想像の翼は筆へと宿り、世界を生み出す震えを手に感じながら、真っ白なキャンバスに未知へと至る青空を描き出す。
 想像は錯覚へ、やがて現実に。
 光を浴び、風を切り、全身が青に染まり、そして全てが透明になっていく。
 楽しかった。ただ、楽しかった。
 絵を描くのは楽しい、そんな当たり前のことを俺は忘れていた。
 人が感動する以上に自分自身が感動したくて描いていたような気がする。そして結果的にそれに皆が感動してくれた。
 自分が感動し、それを同じように感動してくれる人がいたとしたらそれは共感と言えるのではないか?

 そうか……共感してもらえるって嬉しいことなんだな……。

 自信と気付きを得た俺にもう迷いはなかった。
 これからも描いていこう。
 この空の先にきっと俺の求めるものはある。
 俺がそう前向きに考えられるようになるきっかけをくれたのはやはり佐久間だろう。彼のような人生の先輩が俺を良い方向へと導いてくれた。もしひとりだったら俺はとっくに潰れてしまっていたかもしれない。
 他人を拒んでいた俺に人付き合いも悪くないと感じさせてくれた初めての友人。
 これからも良い関係を続けていけたらいいと、そう素直に思った。
 そうして充実した大学生活を送っている中、ある事件が起こった。





「ひでぇな……」

 そんな声を聞きながら俺は目の前の惨状を呆然と眺めた。
 アトリエの一角、俺の制作スペース。囲むように貼られていた写真は破られ床に撒かれており、筆や絵の具のチューブも散乱している。そして壁に立て掛けられている大きな絵は無惨に切り裂かれてしまっていた。
 午前中の講義を受け、食堂で昼食を取り、アトリエに来てみるとこの有様だった。
 昨晩アトリエを最後に出たのは俺だったが、その時は勿論こんなことにはなっていなかった。昨晩から今日の昼までの間に何者かが荒らしたことになる。
 アトリエの扉は施錠されているが、解除する番号は同期グループ全員が共有しているため、その内の誰でも犯行が可能だ。

「誰がこんなことしたんだよ……」

 切り裂かれた絵を見ながら佐久間が苦々しく漏らした。
 犯人の目星はついていた。俺のことを目の敵にしている連中だ。
 アトリエを見る限り被害にあったのは俺の絵と私物だけだ。アトリエ全体ではなく俺がピンポイントに狙われたのは俺に悪感情のある者の犯行である可能性が高い。惨状を見てニヤニヤしていたのも見逃さなかった。
 とは言え証拠がない以上は確信は持てない。

「因果応報ってやつですかね……」
「は? 何がだよ?」
「これまで上手く人付き合いをしてこなかったツケが回って来たってことなのかもしれません」
「何言ってんだよ! お前は悪くないだろうが!」
「でも、事実として絵は傷付けられたんです」

 切り裂かれた絵をそっと撫でる。
 新作の青空の絵。ここ最近ずっと描いていたものでもうすぐ完成だった。
 汚れくらいならまだしもこうなってしまってはもうどうしようもない。

「絵は何も悪くないんですけどね……」

 絵から目を離すことができず、その日俺は日が沈み夜になるまでその裂けた絵を眺めていた。


 この件は油画研究室に報告し、後日研究室よりアトリエの施錠と貴重品管理を徹底するように呼び掛けがあった。
 犯人は分からず終いで、現段階では外部の人間の仕業ということで片付いた。証拠がないためむやみに疑うことができないのも頷ける。それに身内に犯人がいるとは思いたくなかったのだろう。
 納得いかないことは多々あったが、これまで以上に私物の管理とアトリエの施錠に気を配るよう努めた。
 けれどほどなくして再び俺の私物が荒らされた。
 今度はクロッキー帳だ。作品のエスキースやドローイング、メモ等が描き込まれたものが剥がされ破られ、更に墨まで撒かれていた。
 やはり他の者に被害がなかったことから同一犯だろう。しかしやはり証拠も目撃情報もない。

「おい! 何笑ってんだよ!」

 近くにいた男子達がニヤニヤ笑みを浮かべていたことに腹を立てた佐久間が声を上げるが、彼らは全く取り合おうとしなかった。
「俺らじゃねーよ」「証拠あるんですかー?」そればかりを繰り返していた。



「犯人捕まえようぜ」

 そう提案してきたのは佐久間だ。

「それで油研に突き出すんだ」

 俺はその話に乗った。流石に俺も腹に据えかねるものがあったのだ。
 午前中の一コマ目と二コマ目。本来二回生は座学の講義を受けている時間に俺と佐久間はアトリエのベランダに張り込んだ。
 視線の先には真っ白なキャンバス。その周りには俺が撮った空の写真が貼りつけられている。
 犯人が行動を起こしたタイミングで出て行って捕らえるという作戦だ。証拠にするためにスマホの録画も用意してある。
 そうして俺達はおよそ三時間張り込んだ。が、犯人は現れなかった。それから日を改めてもう二回同じことを行ったが結果は同じだった。
 被害が出ないのはいいことであるが、何も解決していないのは気持ちが悪かった。
 その後も作品や私物が荒らされることはなく、同期は皆、あの佐久間でさえも徐々に警戒を解いていく中、けれど俺だけは胸のモヤモヤを拭いきれずにいた。

 ある日、制作を中断した俺は佐久間と一緒にアトリエを出た。その日はそれぞれ五コマ目の講義があり、外へ出るとそこで別れた。
 そして俺は講義を受ける建物に向かう、と見せかけて急いでアトリエへと戻った。
 アトリエに誰もいないことを確認すると、そのままベランダへと出て身を隠す。
 もう一度だけ張り込んでみようと思った。自分の絵を傷付けた犯人を捕まえる。
 絵はまた新たに描き直すことはできるだろう。けれど全く同じ絵を生み出すことはもうできない。同じ世界は二度と生まれない。その唯一無二を台無しにしたやつを俺は許すことができない。
 だから、これが最後だ。
 五コマ目の講義開始のチャイムが鳴り響く。
 日はすっかり西へと傾き、辺りは闇の色を濃くしていく。春に近づき日は長くなってきたが、やはりまだ暗くなるのが早い。気温も低く、建物の影に沈んだここ一帯は一段と肌寒く感じた。
 身体が微かに震えるが、きっと寒さだけのせいではないだろう。
 窓に掛かった大きなカーテンの隙間に俺の描きかけの絵が見える。鼓動が速くなっていくのを感じた。
 俺は落ち着かない心をいさめながら、ぐっと息を潜めアトリエの様子に注視していた。
 十分程経った頃だろうか、不意に物音がした。
 心臓が大きく痛みを伴って脈打つ。
 扉の施錠が解かれた音だ。続いて扉が開き誰かが入って来る気配がする。
 鼓動はより速く、息遣いは荒くなっていく。俺は手で口を覆い、身を潜め目を凝らした。
 やがてカーテンの隙間に人影が見え、俺は目を見開いた。
 男だ。手にはバケツを下げている。
 その男は壁に掛けられた俺の絵の前に立つと、手に持っていたバケツを両手で持ち直す。そしてそのまま勢いをつけるように後ろに引いたところで
 俺はベランダから跳び出した。
 男は全身をビクッと震わせ動きを止める。勢いのついたバケツの中身が零れ、ボタタタっとコンクリートの床に黒いシミをつくった。

「何で……」

 声が震える。相手に問うというより思わず声が漏れ出た。

「何で……あなたが」

 俺の視線の先、鈍い陰に沈むように無表情の佐久間が立っていた。

「全部あなたがやったんですか?」

 彼は何も答えない。ただ黙ってこちらを見つめ返してくる。その目はゾッとする程に虚ろだ。

「写真やクロッキー帳を破いたのも、絵を切り裂いたのも全部あなたなんですか?」

 やはり彼は何も答えない。表情には全くと言っていい程感情がなく得体が知れない。それに戸惑うも同時に苛立ちを感じる。
奥歯がギリッと擦れた。

「答えろよっ‼」

 声がアトリエ内に響きすぐに消える。
 答えろよ。否定してくれ。俺じゃないってそう言ってくれ。
 たとえこの状況でどれほど言い逃れるのが難しくても、自分ではないと否定してほしい。彼は無関係であってほしい。
 そう願った。
 だが

「そうだよ」

 彼は表情を変えずに言った。

「全部俺がやったんだ」

 心臓に鋭い痛みが走る。口から「あ……」と息が抜けたような声が出た。
 手に持っていたスマホがするりと床へと落ち、乾いた音を響かせた。

「どうして……」

 漏れた声は震えている。何故彼がこんなことをしたのか分からない。

「どうして……って?」

 彼が手に提げていたバケツを放す。床に垂直に落ちたそれは音を立てながらまた少し中身を跳ねさせた。
 無表情だった彼の顔が歪む。まるで嘲笑うかのように。

「そんなのお前が気に入らないからに決まってるだろ?」
「気に入らない……?」

 佐久間は「ああ」と頷くと近くにあった箱椅子を引き寄せ腰を下ろした。

「ずっと気に入らなかった。愛想がなく、協調性もなく、ひとり孤高の存在ぶってるお前の態度がずっと鼻についていた。まるで自分が一番正しいかのような態度が」
「違います! 自分が一番正しいなんてそんなことは」
「いいや違わないね。お前は自分以外は全員馬鹿だと思っている。周りを見下しているんだ」
「そんなつもりはありません! 僕はただ———」
「その敬語も鼻につくんだよ!」

 突然の彼の怒号に俺は口を噤んだ。

「敬いなんてまるで感じられない嫌味ったらしい敬語使いやがって! そういうところも見下してるってんだよ!」

 そんなつもりはない。これは自分自身を守るためのものだ。見下したりなんかしていない。ただ、そこに必ずしも敬いがあるかと言われると、彼の言葉を否定しきれない。

「……そう感じさせてしまったのなら謝ります。すみませんでした。……けれどならどうして僕と一緒にいたんですか? 嫌なら僕なんて相手にしなければ良かったでしょう?」

 人望があり、他に幾らでも友人がいる彼ならそれができたはずだ。わざわざ嫌いな奴と一緒にいる必要なんてない。

「にもかかわらずあなたは僕に構い続けた……それは何故ですか?」

 彼は暫し黙っていたが、やがて笑みを浮かべた。

「俺の株が上がるからだよ」
「は?」
「お前に優しくしてると俺の株が上がるんだよ。『あんなやつとも分け隔てなく付き合えるやつ』てことでね。それに一緒にいれば作品も比べられる。お前の作品と比べられることで俺の作品がより輝く。それも都合が良かった」

 全身の感覚が遠くなる。上手く頭が回らず、声も出ず、自分に向けられる言葉をまるで他人事のように聞くことしかできない。

「ポジを引き立てるにはネガが必要だ。白は黒があることで際立ち、光は陰が濃ければよりその強さを増す。美大生なら言ってることの意味は分かるだろ? まぁようするに俺の引き立て役だ、お前は」

 鼓動が速い。ドッ、ドッと痛い程に脈打っている。

「俺が主役の人生においてお前はすごく都合が良かったよ。俺をしっかりと輝かせてくれていたからな。これからも変わらず自分の役割をこなしていれば良かったんだ……なのに」

 そこで彼は笑みを消し、俺を睨みつけた。

「何受賞とかしちゃってる訳? だめだろ引き立て役が主役より目立っちゃ。なぁ? 俺より目立ってんじゃねぇよ。引き立て役はそれらしく役に徹しろよ! 陰は後ろに引っ込んでろよ!」

 アトリエ内に響く声。
 唾を飛ばして俺を睨む彼は目をギョロっと見開き全身を震わせる。いつもの明朗な彼からは想像もできないその姿に俺は気圧され言葉を失っていた。

「それで? 受賞までしていて何? 賞を取ることは目的じゃない? 勝ち負けに興味はない? 楽しく描きたい? 何だよそれ……嫌味かよ⁉」

 彼は立ち上がり近くにあった箱椅子を思いっきり蹴り飛ばした。椅子はイーゼルに当たり激しい音をたてる。
 彼は鼻息荒く俺を睨み続けていたが、そこで壁に掛かった俺の絵に目を向けた。
 逆光に照らされた雲の浮かぶ青空の絵。

「何がこの空の先にある何かだよ……!」

 彼が床に置かれていたバケツを掴む。そして助走をつけながら両手で掴んだそれを大きく振りかぶった。

「やめ」

 俺の声を振り切り、彼は勢いをつけ踏み込みながらバケツの中身を俺の絵に思い切り叩きつけた。
 青空に黒い液体が大きく広がる。大小幾つもの黒い筋が絵の表面を流れ、縁から床へと滴り落ちる。
 それはまるで雨の様に。涙の様に。
 その光景を俺はたた呆然と眺めていた。
 ガラン
 アトリエ内に鈍い金属の音が響いた。バケツが床に転がり、どこか脱力した佐久間が立ち尽くしている。俺の事を見るその顔は元の無表情だ。
 やがて彼は何も言うことなくふらふらと歩き出しアトリエを出ていった。扉の閉まるガチャンという音が静かなアトリエ内にいやに大きく響いた。
 後に残されたのは俺と黒い液体の滴る絵。
 日は落ち、東向きのアトリエはより暗くなる。
 闇に沈んでいく中、それに紛れることなく濃く広がり流れる液体。ポタリポタリと床に落ち、溜まりシミになっていく。
 それをどうすることもできず、俺は黒く汚れた絵を見つめながら、ひとり闇に飲まれていくアトリエに立ち尽くしていた。



 そのときのことを俺は油研に話さなかった。起こった事が信じられず頭の整理がつかなかったのだ。もう一度佐久間と話さなければいけない、そう思った。
 けれど翌日彼は大学に来なかった。その翌日もそのまた翌日も来ず、連絡をしても繋がらない。他の者に連絡を頼んだところ安否は確認できたものの、それでも不安は拭えなかった。
 彼の部屋を直接訪問することも考えたがそれは叶わなかった。話さなければいけないことは分かっていたものの、どうしても踏ん切りがつかなかった。
 怖かったのだ。彼に会うことが。
 もやもやとした思いを抱えながらけれど何もできず時間だけが過ぎていった。
 そして一週間後、助手さんから佐久間が大学を辞めたことを聞かされた。
 彼は全てを自白したらしい。
 俺に対する嫉妬、その逆恨みだったこと、作家としてあるまじきことをしてしまったと言っていたそうだ。
 このことは俺と油研の一部の人間だけの秘密ということになった。俺はこれ以上彼を糾弾する気はなく、油研もそれに納得した。
 けれどこういったことはどこかから漏れるものだ。この件は噂として油絵科の中で囁かれるようになる。話には尾ひれがつき、事実と逸脱し誇張された話が面白可笑しく語られた。そういった話が耳に入る度に俺は苛立ちを覚えた。
 俺に対して同情的である者がいる一方批判する者もいた。主に俺のことを快く思っていなかった連中だ。俺が彼に嫌がらせをしていただの、才能に嫉妬した俺が彼を追いつめただの勝手なことを言っていた。
 きっと理由など何でもよかったのだろう。俺を非難するのにその件が丁度良かっただけだ。
 反論したが当然聞き入れられなかった。寧ろより非難は過熱したように思う。
 そして中でも一番しんどかったのは

「あんたのせいだ!」

 とある同期の女子の反応だった。
 彼女は以前より佐久間に好意を寄せていたらしく、彼が大学を去った元凶として俺を目の敵にした。顔を合せる度にヒステリーを起こし、周りが慌てて止めに入ることが何度もあった。
 度の過ぎた非難を油研も問題視し、当人達に対して厳重注意を行い表面上は落ち着いたものの、その裏では変わらず悪感情が燻っていた。



 俺は何か間違っていただろうか?
 俺はただ自分の望む絵を描きたかっただけだ。楽しく描き続けたかっただけだ。それの何がいけなかったというのだろうか?
 ただ、事実として多くの人間に嫌われ、佐久間も大学をやめてしまった。俺が原因で才能ある彼の人生を台無しにしてしまった。それが現実だ。
 俺と俺の絵が人の人生を狂わせた。
 俺はこのままここにいていいのだろうか? 絵を描いていていいのだろうか? そう自問自答するも答えは出ず、ひとり悩みながら時間だけが過ぎていった。
 そんな中、俺は唐突に絵が描けなくなった。
 何も思い浮かばない。あんなにも沸き上がり溢れるようだった青空のイメージは、まるで夜の闇に閉ざされた様に黒一色に塗りつぶされてしまっている。
 筆を持っても一向に手をつけられず、画面は真っ白なまま。来る日も来る日も大学に来ては何も描けずに帰るだけ。真っ白な画面を見つめ続けるだけの日々。戸惑いと焦りが募っていく。

 楽しくない。

 心ここにあらずで注意散漫になり、バイトでも普段しないようなミスをし、周りに迷惑をかける。

 楽しくない。

 必死に貯めた金で学費を払い、けれどその大学でまともに絵も描けず時間を浪費ことに意味などあるのだろうか? そんな思いが何度も浮かぶ。けれどその一方で『自分には絵しかない』『諦めたくない』という思いもあり、相反する思いの板挟みで動けなくなっていた。
 相談しようにもそんな相手はおらず『ああ、自分は本当にひとりなんだ』といことを改めて実感する。
あんなに親しいと思っていた佐久間ですら内心俺を嫌悪していた。それを思うともう誰も信用できなかったのだ。
 自問し、葛藤し、嫌悪する。筆を握るも何も変わらず、焦りが募る。
 目の前には大きなキャンバス。真っ白な画面。
 何のイメージも沸かず、頭を抱え、歯軋りする。筆を持つ手は震え動かない。
 描かなければいけない。求めるものがある。俺にはこれしかないんだ。
 手を無理やり動かす。描くというより叩きつけるよう、殴りつけるよう。荒々しく筆を動かしていく。
 何を描いているのかも分からない。きっとこれではいけない。それでも止めることはできなかった。
 俺は描かなくてはいけない。その思いが強迫観念となり止まることを許さない。

 楽しくない。
 楽しくない。
 楽しくない。

 息を切らし、汗を流し、歯を食いしばって俺はがむしゃらに絵を描いた。



 ふと気づくと目の前には闇があった。
 生っぽい艶のある黒がぬらぬらと光っている。遅れてそれがキャンバスの画面だと気付いた。
 黒一色に塗りつぶされたキャンバスの大きな画面。
 俺は呆然としながら数歩後退り、そこで何かを踏みよろける。見ると辺り一面に筆や刷毛が転がっている。そのどれも黒い色がついており、散乱するペーパーパレットにはどれも黒い絵の具が広がっていた。

 これ……俺が?

 信じられず、身を硬くし

「いっ……⁉」

 鋭い痛みに自らの手を見た。握り込んだそれは中程より折れた筆。
 ささくれが手のひらに突き刺さっており、滲み出た血が手の甲を伝いポタポタと床へと流れ落ちている。
 しばしそれを他人事のように見つめ、やがて

「……はは」

 乾いた声が漏れた。再び絵に目を向ける。
 壁に掛かった真っ黒な絵。
 光のない、何もかもを吸い込んでしまう夜の闇のような絵。
 まるで今の俺の心のようだ。
 手から抜け落ちた折れた筆がカランと乾いた音を響かせ床に転がる。

 その日、俺の空から光が消えた。



 大学を辞めよう。
 そう思い至るのに迷うことはなかった。
 油研にその旨を伝えたところ教授と助手さん達に大慌てで止められることになる。そして散々話し合った結果、休学という形で落ち着いた。
 大学を去り、部屋を引き払い、地元へと帰ってきた。
 事情を聞いて何も反対することなく迎え入れてくれた両親には感謝しかなかった。そして申し訳なさも。俺のことを応援してくれていただけにその期待に応えられなかったのが悔しかった。
 絵は数枚を残し処分。画材等の道具は部屋のクローゼットの奥へと押し込んだ。あの日から一度もクローゼットは開けていない。



 昔から他人に共感ができなかった。
 愛想がなく、社交性もなく、友人もなく、特別な才もない。
 そして今や存在意義もない。
 ないないづくしの人生。
 残ったのはこの青空だけ。
 見上げる空は青く、高く、広く、透明で、果てなどなさそうにどこまでも続いている。変わることなくこの頭上に広がっている。
 けれど俺の中の空はあの日からずっと闇に包まれたままだ。
 光ひとつない、全てを飲み込み消し去ってしまうような暗闇。行先どころか自分が今どこにいるのかさえも分からない。
 見上げる青空を一羽の鳥が飛んでいる。
 大きな翼を羽ばたかせ、行先を見据え、風を切り、自由に飛ぶ鳥。その像が太陽に重なり、その眩しさに目が眩んだ。
 鳥は夜目がきかないため暗闇を飛ぶことはできないらしい。
 未だ日の昇らないあの想像の空を俺が再び飛ぶことは叶わない。夜の闇の中、翼が折れ、向かう先も見失い、冷たい地面でただひとり蹲るだけ。
 この空の先にあるかもしれない『何か』を知ることは今の俺にはもうできない。
 あの青空は遠く。日の昇る気配のない空は今も暗闇の中だ。