「ありがとうございました」

 客を見送る。それと同時に新たな客が来たため「こんにちは」と迎え入れた。
 ノートに氏名を記入するとその来客は辺りを見回す。
 立ち並ぶ複数のパーテーション、そこには絵画やイラスト等作品が展示されており、訪れた人々が各々その前に立ち眺めている。
 新たな客がパーテーションに沿って歩き出すのを見届けながら俺はイーゼルに乗ったボードに目を移す。
『○○画材店 作品展示会』
 色とりどりのマーカーで書かれたその文字は素人感満載に異彩を放っていた。


 八月二十日。花火大会当日。
 街には花火の見物客が続々と集まりつつある。
 花火の開始時刻は十九時であるため、昼過ぎである今からはまだ少し間がある。にもかかわらず花火見物の場所取りのためか、すでに開店し始めている屋台目当てか、はたまたはやる気持ちを抑えきれないのか既に人は平時よりも確実に多い。
 日曜日であるため親子連れが多く、学生らしき若者もいる。様々な娯楽に溢れている現代においても老若男女問わず魅了する花火はやはりすごい。
 そんな人々が花火大会に浮かれている中、俺は仕事の真っ最中だ。
 展示会のスタッフ。それが今日の俺の役割である。
 贔屓にしていた画材店が主催しているもので、店の客から参加者を募り作品展示を行っている。場所は駅に隣接するビルのイベントスペースだ。
 定年を迎えたおじ様が描いた水彩画や学生の少女が描いたイラスト等幅広い作品が展示されている。
基本素人の作品ではあるものの場所が場所だけに来客はそれなりに多い。浴衣姿のカップルらしき人もいることから花火見物のついでに来ている人もやはりいるようだ。
 来客が落ち着いたため俺は受付のパイプ椅子に腰を下ろした。

「今日はありがとうね空君」

 そこで隣に座っていた男性が話しかけてきた。画材店の店員さんでもう一人の会場スタッフだ。中学の頃からの付き合いで今でもよくしてもらっている。

「基本出品者がシフトを組んでスタッフをするんだけど、みんな花火に行きたがって誰も今日のシフトに入ってくれなかったんだよね。だから助かったよ」
「構わないですよ。丁度暇だったので」
「そんなこと言って本当は予定あったんじゃないの? ほら、彼女と花火見に行くとかさ」

 彼が目を向けた先に手を繋ぐカップルがいる。時折笑い合う姿は仲睦まじさを感じる。

「彼女なんていませんよ」
「そうなの? まぁ彼女とでなくてもさ花火行きたかったんじゃない?」
「ないです。花火自体そんなに興味ないので」

 少なくとも人ごみに揉まれてまで見たいとは思わない。

「相変わらずドライだねぇ」
「そうですか?」
「自覚なしか。ま、予定がないならこちらとしては助かるんだけどね」

 彼はそれ以上追及も言及もせずパイプ椅子に身体を預けた。

「ええ、何の予定もありませんよ」

 言ったその瞬間、胸にチクリと痛みが走った。


 空くん!


 脳裏に浮かぶのは馴染の少女の顔。眩しい笑顔で俺を見上げてくる。
 俺は首を振ってそれを振り払った。
 何を考えているのだろうか? 俺は。この感情は何だろうか? 彼女の誘いを断ったことへの罪悪感だろうか? それとも後悔だろうか? だとして何故後悔などしている?
 俺はもう一度首を振る。

 何を今更。

 これは自分のためそして彼女のために選んだことだ。俺は何も間違っていない。
 そう自分を納得させようとするも胸の痛みはなかなか消えてくれない。

「何も予定がないならこの後飲みに行こうか?」

 普段は断るところだが、今日に限ってはやぶさかではなく俺は頷いた。
 何かで気を紛らせたかったのかもしれない。

「あの、すみません」

 そこで客の一人が声をかけてきた。

「あ、はい。どうされましたか?」

 席を立ちその人の下へと向かう。今は仕事に集中しよう。そうすれば気も紛れる。
 そう思うも結局その後も胸の痛みはずっと消えてはくれなかった。



 夕刻になり他のスタッフさんが来てくれたことで俺の当番は終わりとなった。
 展示会が終わったらまた待ち合わせる約束をし、一度外へと出た。
 日は傾き辺りは暗くなってきている。そして明らかに人が増えていた。日中もそこそこの人はいたが、その比ではない。出店の数も朝に比べて増えている。
 花火は駅を挟んで反対側、河原の方で行われる。こちらでこの人だかりなら、あちら側の混雑はきっと凄まじいものだろう。
 待ち合わせまでどう時間を潰そうか考えながら駅ビルの中へ。書店やカフェにでも行こうと考えながら駅へと向かった。
 駅の中央広場は思った通りの混雑ぶりで、改札を出た人が同じ方角、花火会場の方へと流れていく。
 その様に慄きながら書店へ向かっていると、不意に一人の少女が目に留まった。
 青い浴衣姿のその少女は人の流れに逆らって歩いている。そしてその顔は俺の良く知る人のものだった。

 東雲さん?

 浴衣姿ではあるが間違いないはずだ。これだけの人がいてまさか本当に鉢合わせるとは。有り得なくはないもののすごい偶然だ。
 誘いを断った手前見つかるのも気まずく、俺は彼女に気付かれないようにその場を離れようとし、けれどそこで足を止めた。
 一人で歩く彼女の様子が何となく、本当に何となく気になった。

「東雲さん!」

 彼女を呼ぶ。しかし彼女はこちらに気付くことなく歩いていってしまう。この混雑で声が掻き消されてしまっている。
 俺は駆け出すと彼女に近づき、その腕を取った。
 その瞬間、彼女は身体を大きくビクリと震わせ振り向いた。
 俺は僅かに息を飲む。
 彼女の顔がまるで恐怖するように歪んでいたからだ。
 けれどそれも一瞬のこと、こちらを認めると彼女の顔が僅かに緩んだ。

「…………空、くん?」

 声に安堵の色が滲み、それは表情にも広がっていく。

「東雲さん、どうしたんですか? こんなところで一人で……他のみん」

 言いかけたところで唐突に彼女が俺の胸にしがみついた。
 今度は俺の身体が大きく震える。上げた両手の行き先に困るも、そのまま彼女の肩へと添えた。

「東雲さん……何を」

 戸惑いながらも彼女の様子を伺うが、何も答えることはない。
 顔を俺の胸に押し当て、シャツを握りしめる。そしてその肩は微かに震えている。
 俺は肩に置いた手に僅かに力を込めた。

「空くん……空くん……!」

 駅の改札前、大勢の人が行き来する中、彼女はそれから暫くまるで縋りつくように俺の胸の中で俺の名を呼んでいた。





「少しは落ち着きましたか?」

 隣の東雲さんへ目を向ける。
 彼女は俯きながらも小さく頷いた。手にはペットボトルのココアが握られている。
 あの後、彼女を放っておけないと思った俺は彼女を連れて駅ビルの中へ。ベンチに座らせるとココアを買って飲ませ、彼女が落ち着くのを待った。
 彼女はやはり何も語らない。顔色が悪く、一方で目元が僅かに赤くなっておりそれが痛々しかった。
 俺は急かすことはせず、話を促すこともせず、ただ黙って彼女に寄り添い続けた。

「ごめんね……空くん」

 漸く彼女が口を開いたのはおよそ十五分程経った頃だった。

「いっぱい迷惑かけちゃった……」

 落ち込んだように再び俯く。いつも元気で明るい彼女なだけにこういう姿はどうも落ち着かず、余計に心配になる。

「迷惑なんかじゃないですよ。気にしないでください」
「でも……」
「大丈夫です」

 彼女が言いかけたのに言葉を被せる。

「東雲さんは自分のことだけ考えてください」

 彼女は申し訳なさそうにしていたが、俺が微かに笑いかけると、やがて小さく頷いた。
 普段は人の往来が多いこの場所であるが、今はあまり人がいない。花火の開始時刻が迫っているため、皆そちらへ行っているのだろう。俺達にとっては都合がいい。
 近くのテナントから流れてくるBGMを聴き流しながらまた暫く隣り合って座っていると、やがて

「もう大丈夫。ありがと」

 彼女は鼻をぐずつかせながら微かに笑みを浮かべた。そして手に持ったペットボトルに目を落としながら口を開く。

「空くん、聞いてくれる?」

 俺が何も言わずただ頷くと、彼女はもう一度微笑み、そしてゆっくりと話し始めた。


 友達と一緒に花火を見るために集合場所へ行くと、友達とは別にクラスの男子達もおり一緒に回ることになった。その中にはあの茶髪男子もいたらしい。

「正直ちょっと嫌だったけど、友達もいるし大丈夫かなって思ったんだ。それに一人だけ断るのもどうなんだろうって……」

 所謂、同調圧力というやつだろう。こういうところでやはり人付き合いは面倒だと感じる。

「今、面倒そうって思ったでしょ?」
「よく分かりましたね」
「こういう時の空くんって分かりやすいよね」

 彼女は僅かに笑うがすぐにそれを引っ込めた。
 内心嫌々ながらも一緒に出店を巡っていると、いつの間にかあの茶髪男子と二人きりになっていた。少し休もうと彼に言われ近くにあった公園へと入り、友達に連絡しようとしていたところで、彼が唐突に俺のことを訊ねてきたらしい。

「空くんはあくまで講師だって言った。進路相談にのってもらったりで一緒にいることが多いんだって。本当のことだし。後のことは適当に流そうと思っていたんだよ。……けど」
 そこで東雲さんの顔が歪んだ。

「あの人、空くんのこと悪く言い始めたんだ……」

『アイツは信用できない』『東雲はアイツに騙されているだけ』『アイツとはもう関わらない方がいい』そのような意味合いのことを言われたらしい。前に一度絡まれたこともあり、その様子は容易に想像できた。

「私、悔しくて……。空くんはすごい人なのに。空くんのこと何も知らない人が空くんを悪く言うのが許せなかった。もうその場に、彼といたくなくて友達を探しに行こうとしたんだ。そしたら」

 東雲さんの身体がぶるりと震える。

「急に肩を掴まれて……そのまま柱に押し付けられた…………それで」

 彼女は自分の腕を抱くとギュッと強く力を込めた。

「キス……されそうに、なった」

 心臓を握られた様に感じた。一瞬、意識と身体が切り離されたように錯覚し、それに抗うように手足に力を込める。喉で「ん……」と小さく音がした。

「あ……してないよ? してないからね⁉ されそうになっただけ!」

 そう必死に言い聞かせようとする彼女に、俺は「ああ……」と僅かに頷いた。自身を落ち着かせようと一つ深呼吸するが、上手くできている気がしない。

「『やめて!』て抵抗して思いっきり頬を叩いちゃった。彼もそこでハッとしたみたいで慌てて謝ってきたけど、私……怖くて。その場から逃げ出したんだ。たくさん人がいて、何度もぶつかって睨まれて。それでも謝りながら必死に逃げた。気付いたら駅にいて……そこで、空くんと会ったの」

 話し終えた彼女は再び俯いた。
 周りに人はいなくなっており、テナントのBGMもどこか虚しく響いている。彼女の手の中のペットボトルのペココ……という音がイヤに大きく聞こえた。

「大変でしたね」

 言いながら自分自身に呆れる。こんな言葉しかかけてあげられないのかと、憤りを感じた。けれどそんな俺を他所に彼女は「うん……」と一つ頷く。

「大変だった」

 鼻を啜り顔を歪める。

「怖かったですね」
「怖かった」

 声が震える。

「無事で良かったです」
「……っ」

 俯く彼女の背をぽんぽんと優しく叩く。触れることに躊躇いはなかった。これで糾弾されるならきっと世界の方がおかしい。
 東雲さんは微かに身体を震わせながら小さく、けれど確かに頷いた。
 いつも明朗な彼女だが、時には恐怖するし傷つくこともある。そんな当たり前のことを改めて実感した。
 スマホを取り出し時刻を確認するとあと十五分程で花火が始まる頃合いだった。

「少し待っていてください」

 彼女にそう断ると俺はベンチから立ち上がり、少し離れた所へ。スマホを操作し電話を掛ける。

「……はい……それで……はい…………はい、すみません……」

 話を終え、彼女の下へと戻る。

「何の電話したの?」

 彼女が首を傾げる。

「先約、キャンセルしました」
「え……」
「それどころじゃないですからね」
「そんな⁉……私のせいで」

 彼女が立ち上がり顔を歪ませる。
 今日はこんな顔ばかりだ。

「いいんですよ。ほら、行きましょう」

 俺は再度彼女の背を優しく叩くと歩き出す。数歩歩いて振り返ると、彼女は未だ浮かない表情のままだが、それでもゆっくりとついて来た。それに微笑み、俺は改めて彼女を連れて歩き出した。



 階段を上がり扉を開くと温い風を感じた。
 目の前にはフェンスで囲まれたコンクリートの地面、そして夜空が広がっている。
 街の中心部である駅から歩くこと少し、メイン通りから外れた路地裏にこのビルは佇む。贔屓にしている画材店。ここはその屋上だ。
 店のオーナーに頼み上げさせてもらった。その際一緒にいた東雲さんを見て「空君にもついに彼女が……」と呟いていたが無視した。
 十畳ほどの広さの屋上には木製のテーブルが一つ置かれ、周りにはパイプ椅子やビールケースが並んでいる。濡れた雑巾でパイプ椅子を綺麗に拭くと東雲さんへと目を向けた。

「座ってください」

 彼女は少し戸惑った様子だったが、やがて「ありがと……」とパイプ椅子に座った。
 丁度そのタイミングで夜空に一筋の光が昇っていくのが見えた。光は空高く昇っていき、やがてパッと大きく広がった。
 色とりどりの光の花。

 ドンッッッ

 腹の底まで響くような大きく重い音が空気を震わせた。

「始まったみたいですね」

 スマホで見た時刻は十九時を少し回っていた。僅かに開始が遅れたらしいが、俺達にとっては丁度良かった。
 光が夜空に散り消えると、また新たな光の筋が昇っていき花開く。その度に屋上も俺達もその色に染まり、空気が震える。
 初めこそ浮かない表情であった東雲さんも数発花火が上がったあたりで僅かだが笑みを浮かべ始めた。
 その様子に少しだけ安堵する。先程よりも顔色も良いと思いかけたが、花火に染まっているのだと気付き、自嘲めいた笑みが漏れた。
 まだまだショックは拭えないだろうが、それでも花火を楽しめるだけの余裕が出てきたのであれば何よりだ。
 花火は一発一発上がっていく。有名な花火大会の様に大きな花火を連発するようなことはないため、比較的地味に感じてしまうかもしれない。
 それでも花火は花火。道行く人や俺達同様に隣のビルの屋上から見物している人達は皆、花火が開く度に歓声を上げる。
 ここから離れたメイン会場でもさぞ盛り上がっているだろう。
 派手でなくともその中にはきっと良さがある。

「東雲さん、これを」
「え……」

 袋から取り出した青い瓶を差し出すと、彼女はキョトンとした顔でそれを受け取った。

「ラムネ……」
「嫌いじゃないですか?」
「うん、平気」
「それなら良かった。他の物も良かったらどうぞ」

 俺は別の袋から焼きそばやフランクフルトといった食べ物のパックを出しテーブルに並べていく。

「どうしたの? これ」
「買ってきました」

 ここに来て屋上に上がるまでの僅かな間にそっと外へ出て購入した。メイン会場から離れているもののこの近辺にも意外と屋台は多い。

「お金払う!」

 彼女が慌てて財布を取り出そうとするのを手で制す。

「いいですよ。ご馳走します」
「ダメだよ、そんなの!……ただでさえ迷惑かけているのに」

 彼女が唇を噛む。

 まただ。またそんな顔をする。

 彼女が辛そうな顔をする度に胸の中がもやもやするのだ。そんな顔をしてほしくないと、そう思ってしまう。

「迷惑だなんて思ってないですよ。冗談抜きでね。人に気を遣うことは悪いことではありませんが、今の君は気を遣い過ぎです。もっと自分勝手でいいんですよ。いつもみたいに」
「いつも……私そんなにいつも勝手してるかな⁉」
「僕は散々振り回されていますよ?」
「う……すみませんねっ! 反省してます!」

「むぅ……」と頬を膨らます彼女に少し口元が緩んだ。

「そんな君なんですから今更変に気なんて遣わなくていいんですよ。というか今こそでしょ? 自分勝手するのは」

 高校生。大人と子供の間である微妙な年頃。大人としての責任と自覚を求められ始めるけれど、それでも子供だ。こんな時くらい存分に甘えればいい。

「ほら、折角の花火です。こんなことで揉めていたら勿体ないでしょ? 食べて飲んで、花火見て、楽しい時間にしましょう。たとえ一時でも怖かったことなんて覆い隠してしまう程にね」

 俺はラムネのフィルムを剥がすと指でビー玉を押し込んだ。カシュンという音に続き炭酸のシュワシュワという音が心地良く漏れる。その音を感じながら一口飲んだラムネは程良い炭酸の爽快感とどこか懐かしい味がした。

「空くん……」

 東雲さんは暫し逡巡していたが、やがて俺と同様にラムネのフィルムを剥がすとビー玉を押し込む。そしてラムネに口を付け傾けた。コクリと白い喉が音を鳴らす。

「美味し……」

 ふっとやわらかく微笑む彼女を横目に俺ももう一度ラムネを傾けた。


 それからふたりで花火を見た。
 座る所なんて幾らでもあるのにわざわざ隣に座るのには思うところがあったものの、夏の夜風に吹かれながら、屋台で買った食べ物を分け合い、花火色に反射するラムネを飲みながら見るその夏の象徴は思いの他悪くなかった。
 花火が一発上がる度、隣りの彼女は歓声を上げる。その顔には先程までの陰はない。花火の光が今この時だけは不安も痛みも影と共に背後へと追いやってくれている。
 その時、大きな花火が上がり「わあっ!」と歓声を上げながら東雲さんがこちらに振り向いた。

「空くん! 見た? すごかったよ!」

 興奮気味にはしゃぐ彼女を眺めながら俺は改めて感じた。
 やはり彼女には笑顔が似合うな、と。





「空くん、ありがとうね」

 花火も半ばを過ぎた頃、東雲さんがこちらへと振り向いた。

「私のこと気にしてくれて、優しくしてくれて、すごく申し訳ないけど、それでも……嬉しかった」

 浮かべた笑みは自嘲気味だ。夜の闇の中花火に照らされる姿がどこか儚く感じる。

「私、もっと強いと思ってたんだ、自分のこと。何かあっても平気だって。けど……いざ迫られたら思っていた以上に相手の力が強くて……何だか怖くなっちゃった」

 彼女が自身の腕を抱くとギュッと握る。
 男子の方が力が強い。そんな当たり前のことも普段は忘れてしまっている。それがふとした瞬間に垣間見える。それは時に恐ろしいものだ。自分の身に降りかかることならなおさら。そしてこれはあらゆることに言えることだろう。

「取り乱して、引っ叩いて、逃げ出して……そのあげく空くんにも迷惑かけて……私、全然ダメだなぁ……って思うんだ」
「そんなことないでしょ?」

 俺はラムネの瓶をテーブルに置く。中にあるビー玉がカランと音を立てた。

「男子に乱暴されかけて取り乱さない方がおかしい。東雲さんの反応は寧ろ当然のものですよ。自分を責める必要も恥じる必要も全くありません」

 被害者はあくまで被害者だ。猛省すべきは加害者であるあの男子であって彼女ではない。自責の念にかられるなどおかしい。

「それでも」

 しかし彼女は頭を振った。

「私はもっと強くなりたい。どんなことがあっても負けないくらい強く」

 彼女の声には力が宿っている。その顔に陰はなく、目には強い光をたたえている。先程まで感じていた儚さはもう既にそこにはない。

「私、彼ともう一度話してみる。叩いちゃったことはしっかり謝って、それで、ちゃんと私の想いを伝える」

 俺に聞かせると同時に、自らの意志を確認するような、そして自らに言い聞かせ、宣言するようなそんな言葉に感じた。

 何故……君はそんなにも。

 花火が広がり、光に照らされた彼女はその花火以上に輝いて見えた。

「君は強いですよ」

 言葉は口をついて出ていた。
 自らを省みるのは恐ろしいことだ。自らの非を認めそれを改めるのは時に勇気がいる。それができない人間が世の中には溢れかえっている。
 けれど彼女は反省を躊躇わない。
 今回の件、彼女には何の非もないと俺は思っている。
 けれど彼女は自らを振り返り、そのなかにある非を認め、反省し、そして歩み寄ろうとしている。もう二度と関わりたくないと思っても不思議ではない相手と向き合おうとしている。
 彼女は、逃げない。諦めない。
 それは優しさであり、そして強さだ。

「そんなこと……」
「いえ、君は強いです」

 どれだけ辛いことがあろうとも彼女は歩みを止めない。たとえ落ち込むことがあっても、再び顔を上げ、前を見据えて歩き始める。

「君は強い………………僕なんかよりもずっと」

 花火の音が響く。その音は空気を震わせ、この身を震わせ、そして心の中に波紋を広げる。

「君は諦めない。でも、僕は諦めてしまった……」

 花火は上がり続け、心の中に広がる波紋もより大きくなっていく。
 俺が彼女に振り向くと、同じくこちらを見ていた彼女と目が合った。そのまま互いに見つめ合う。

「知りたがっていましたよね? 僕が何故絵を描くことをやめたのか」

 彼女は目を見開き、やがて小さく頷いた。
 心の奥底に眠っていた記憶は、花火の光に照らし出されるように浮かび上がり、空気を震わすドンッッッという音によって、今その目を覚ました。