彼女と出会ったのは今年の三月。春休み中のことだ。
とある理由で大学を休学し、フリーター生活をしていた。目標もなくただ無気力にバイトをする日々。
その際偶然会った高校時代の美術教師に誘われ、美術部の手伝いをすることになった。
その美術部にいたのが彼女、東雲玲愛だった。
初めに持った印象は『目立つ子』だった。
次に持った印象は『物怖じしない子』だった。
更に次に持った印象は『真面目な子』だった。
さらさらのミディアムの黒髪が艶を放っており、それに負けない輝きをもった瞳でこちらをジッと見つめてくる。
それほど部員の数が多い訳ではなかったが、それでも飛び抜けて目立っていた。
そして自己紹介の一環で自身の作品のポートフォリオを見せた途端、その瞳の輝きが増し、そこから質問攻めにあった。その明るくグイグイくる様に流石に俺も面食らい、途中見かねた顧問が制止したくらいだ。
先が思いやられると早々に感じたのを覚えている。
そんな彼女だが、いざ制作となると直前までの態度が嘘のように制作に集中し出した。
他の生徒が会話をしながら制作するのに対し、黙々と己の作品に向き合っていたのが意外で強く印象に残っている。
そして制作が終わると再び口数の多い明るい彼女へと戻る。後片付けをしながら周りの生徒と笑い合っていた。
部活動が終わり皆が下校していく中、彼女が目の前にやって来る。
「これからよろしくお願いします! 空先生!」
そしてパタパタと手を振ると他の生徒と一緒に帰っていった。俺はそれをポカンとした顔で見送った。
これが俺と東雲さんの出会い。
四月。新年度になり正式に美術部での仕事が始まった。
勤務は週三~四日。平日の放課後と休日の午後。仕事内容は主に生徒の指導、そして雑務等の顧問の手伝いだ。
顧問はかなりの放任で部活中あまり出て来ないため、自然と自分が生徒と接する機会が多くなる。素人に丸投げして大丈夫なのかと心配になるが受けたからにはやるしかない。
指導などしたことがなかったため初めは少々戸惑ったが、まずは生徒の顔と名を覚えるところから始め、自分の受験のときを思い出しながら指導していった。その甲斐あってか初めこそぎこちなかった指導にも多少は慣れたように思う。
慣れたのは生徒達も同様で徐々に自然と話しかけてくるようになった。
とはいえ所詮は仕事の付き合い。どうでもいいとまでは言わないまでも生徒たちに思い入れはなかったし、必要以上に仲良くなるつもりはなかった。
しかしそんな思いとは裏腹に東雲さんは俺にグイグイ絡んできた。
初めは描いている絵についての話題だったが、次第に学校や家での事、最近の流行等プライベートな話題が多くなっていった。
呼び方も初めこそ『空先生』だったが、すぐに『空くん』になり、それが周りにも伝染し、今や先生と呼ぶ子の方が少ない。それに伴い東雲さんの俺に対する接し方もより砕けていった。まるで友達感覚だ。
それに一々目くじらを立てる気はないが、彼女の距離の近さには戸惑い……いや、正直若干の不快感を抱いた。彼女に限らず誰だろうと近い距離にはいてほしくない。そのため何度か距離の近さを指摘したことがあったのだが、彼女は全く言うことを聞かず、それどころか余計に距離を詰めてきた。
そうしている内に言っても無駄だと諦めた。彼女と共にいる時間はより多くなり、そして今や共に下校するまでになっている。
不本意だが、そういうことになっている。
そんな東雲さんだが、絵に向き合う姿勢には好感がもてた。
モチーフへの興味、指導を聞く態度、作品への向き合い方、そのどれにも真面目さ、真摯さを感じたのだ。
それは彼女の作品にも顕著に表れていた。同年代の中でもかなり上手い方だ。勿論受験生にはまだ及ばないだろうが、それでもかなり良い。講評の際にそれを伝えると嬉しそうに笑みを浮かべた。
その素直さと笑顔はきっと彼女の魅力なのだろう。それは人を惹きつける。だから彼女の周りには人が多いのだ。
人付き合いが嫌な俺が諦観や慣れがあるとはいえ、彼女が近くにいることを許しているのもそれが理由かもしれない。
「空くん!」
今日も東雲さんが俺を見上げ笑みを浮かべる。
彼女と出会っておよそ三か月。
俺は未だ彼女に翻弄されている。
事務窓口で手続きを済ますと入校証を首から下げ校舎に入った。
今日も部活動がある。俺もいつも通り出勤だ。
授業、ホームルームはすでに終わっているようで、下校する生徒や部活等に向かう生徒がチラホラと見え始めている。たった今もスポーツバッグを提げた生徒とすれ違った。
階段を上がり美術室に着くと扉を開く。途端に絵の具の匂いが漏れ出してきた。
照明を点け、窓を全て開いた。籠っていた空気が外に逃げていき、代わりに心地良い空気が入り込んでくる。最近暑い日が続くようになってきたが今日は比較的過ごし易い。
天気も良く空は青い。グラウンドの向こう、田畑と住宅地の先にある工場群。そこから天に突き出したような煙突から白い煙が立ち上るのがよく見える。
その様を暫くぼんやりと眺めていたが、喉の渇きを感じたため、机に荷物を下ろすと財布を手に美術室を出た。
校内の自動販売機で飲み物を買い、美術室へと戻る途中の廊下で見知った顔を見つけた。
東雲さんが数人の女子生徒と共に向かいから歩いてくる。会話する姿は親し気で仲が良いのが見て取れた。
そこで彼女の目が俺を捉えた。
お互い徐々に近づいていき、そしてそのまますれ違う。話しかけられるのではと身構えていたため正直安堵した。
そこで何気なく振り返ると、同じようにこちらに振り返っていた彼女と目が合う。彼女は笑みを浮かべパタパタと小さく手を振る。そして僅かに口元が動いた。
お は よ
彼女はもう一度イタズラな笑みを浮かべると、前に向き直り何事もなかったように他の生徒と話しながら去って行った。
それを見送り、俺はふっと一つ息を吐くと再び美術室へと歩き出した。
静かな美術室に鉛筆の音が微かに響く。
本日、部活動に顔を出しているのは十人。そのほとんどは一、二年生だ。
生徒達は各々イーゼルに乗った作品に手を入れており、その視線の先にはブルータスの石膏像が置かれている。今日の課題は石膏デッサンだ。
石膏像はデッサン力向上に有効なモチーフだ。観察、構図や形の取り方、明暗の捉え方と立体感の出し方等デッサンする上で必要なことを学べる。
ただ一方でデッサン力の有無が如実に表れるため苦手意識を持つ者も少なくない。そしてそれはこの部の生徒も同様だ。
ある者は形が狂い、またある者は構図が良くない。比較的描けている者も色や描き込みが単調で立体感がなくなってしまっている。皆必死に石膏像に向き合おうとしているが苦戦しているのが見て取れた。
そしてここにも例に漏れず苦戦する者がひとり。
「画面の入り方は良いですが、像全体の大きさのバランスが悪いですね。頭部が微妙に大きい……分かりますか?」
俺に指摘され東雲さんは石膏像と自分の画面を見比べる。
「うー……ん、何となく?」
「何となくでも感じるだけいいですよ」
経験が浅いと微妙な狂いには気付きにくいものだ。昔は俺もそうだったから分かる。
「パッと見て分からないようなら測ってみてください」
俺が鉛筆と指で測って見せると彼女も同様に石膏像と自分の絵それぞれを測る。そして「あ……」と小さく声を漏らした。
「数字では僅かなズレですが、それが案外大きな違和感となるものですよ」
そしてそれはクオリティーが上がれば上がるほどシビヤになっていく。
「それを踏まえて修正しましょう」
「はぁい」
彼女は言われた事をクロッキー帳に書き込むと再び画面へと向き直った。
俺はその他の生徒も順に見ていき、やがて一つの絵に目を留めると「へぇ……」と声を漏らした。
「なかなか良いのではないですか?」
言われて振り向いたのはこの部の部長である女子だ。今日いる中で唯一の三年生である。
「全体のバランス、形、量感、明暗表現……全てがバランス良くまとまっています」
「ありがとうございます」
そこで東雲さんはじめ他の生徒達も彼女の絵を見に集まってきた。皆口々に感嘆の声を上げる。それに対して部長はどこか照れ臭そうだ。いつもキリッとした印象の生徒だが、やはり褒められるのは嬉しいらしい。
「ただ……」
けれどそこで彼女は表情を変えた。
「予備校通いの受験生に比べたらまだまだですよね?」
「ま、そうですね」
俺は取り繕うことなく頷く。きっと彼女自身よく理解していることだ。予備校に通っている芸大美大受験生の絵がどういうものか。
「予備校行くのと行かないのでそんなに違うんですか?」
一年生の女子がおずおずと手を上げる。
「ええ、全然違いますよ」
俺は本棚から予備校のパンフレットを一部抜き取るとページを開き「これが受験生の石膏デッサンです」と差し出した。
「は⁉ うまっ!」
受け取った生徒は周りの生徒と一緒に驚きの表情を浮かべる。その姿に過去の自分が重なり少し口元を歪めた。
「予備校通いとそうでないのではまるで違います。別次元……と言うと大袈裟かもしれませんが、そう言いたくなるくらいに違う。彼ら彼女らは毎日何時間も本格的な指導の下で製作しています。上手い人が多いのは当然ですね」
そしてそういう者たちが集まるのが芸大美大受験だ。
「芸大美大受験において予備校に通うのはほぼ大前提です。学校の美術の授業や部活動で描いている程度では話にならない」
「絶対に合格は無理なんですか?」
「絶対とは言いませんけどね。大学や学科を選ばなければ可能かもしれません。けれど有名どころとなるとほぼ不可能ですね。合格できるとしても極々稀な話です」
そして自分がその稀なケースになれるなんて思ってはいけない。そんな甘くはない。そして受験はギャンブルではない。
「高校の美術コースの学生だって予備校に通うんです。芸大美大受験を考えているなら早めに通い始めた方がいい」
一朝一夕でどうにかなることではないのだから。
「話を戻しましょう」と俺は部長の絵に目を戻した。
「この絵は上手い受験生の絵には及びません。そこはハッキリ言っておきます。ただ、決して悪いとは言いません。寧ろ予備校も通わずこれだけ描けるなら立派なものです。これからが楽しみですね」
発展途上であることはいいことだ。本人次第でまだまだ先があるということなのだから。苦しさもあるが成長する喜びもある。それはその立場の特権だ。
「それに確か進路は———」
「はい。受験はしないつもりです」
その部長の言葉に「え⁉」と一年生が声を上げる。
「何驚いてるのよ? 受験する気なら今ここにはいないわよ」
そう言って苦笑する部長。確か専門学校に行くと聞いていた。
「絵はあくまで趣味でいいかなって」
「それも一つの選択ですよ。あくまで本人が決めることです。そして趣味だと言うなら何をどう描こうが自由です。上手いも下手も関係ない。楽しむだけですね」
「はい。そうするつもりです」
そう言った彼女の表情は明るい。自らの選択に迷いはないようだ。それなら俺に言うことはない。ただ彼女の意志を尊重するだけだ。
「何か勿体ないなぁ」「上手いのに」と口々に言う生徒達を部長が適当にあしらっている中、不意に東雲さんがむすっとした表情でこちらを見ているのに気付いた。
「どうしました? 東雲さん」
「別にィ? どうもしないけど?」
彼女はジト目で頬を膨らませながらプイッと顔を逸らした。
「玲愛、あれでしょ? 部長ばかり褒められてるのが面白くないんでしょ?」
周りの彼女の友達がクスクスと笑いながら彼女をつつく。
「違うよ」
「あ『空くんに』が抜けてたね」
「違うったら」
「そんな顔で言っても説得力ないよ~?」
なおも揶揄われ彼女は「むぅ……」と唸る。そして唐突にこちらに身を乗り出した。
「空くん! 私も褒めて!」
「良い絵が描けたら褒めますよ」
「むぅぅぅ~~~!」
悔しそうに頬を膨らませる彼女に室内は笑いに包まれた。
片付けが終わり一息つく。
窓の外はもう大分暗く、西の空に僅かな赤みが残っているばかりだ。時計を見上げると下校時刻はとうに過ぎていた。
俺は立ち上がると部屋の奥へと向かった。室内は静かで蛍光灯の明かりに無機質に照らされている。先程までいた生徒は下校しもういない。
「そろそろ終わりにしませんか?」
一人を除いて。
「もう少し」
部屋の奥、制作スペースでは未だ東雲さんが石膏像と睨み合っていた。
「熱心なのは結構ですが無理は良くないですよ」
「無理なんてしてないよ」
彼女は先程と同じブルータスの石膏像のクロッキーをしている。大きなクロッキー帳を広げ全体の大きな形を線で捉えていく。
「明日も学校なんですから身体を休めないと」
「ちゃんと休んでるよ。しっかり寝てるし」
「それにあまり遅くなると親御さんも心配するでしょう?」
「遅くなるって言ってあるし、少しくらいなら大丈夫」
「僕、帰りたいんですよね」
「……それが本音な気がする。でも、うん、分かった」
名残惜しそうにしながらも彼女は頷くとクロッキー帳を閉じ、流しで手を洗い始める。
その間、俺は彼女が閉じたばかりのクロッキー帳をパラパラと捲った。木炭の線によってブルータスが様々な角度から捉えられている。
「あー! 勝手に見ないでよー!」
手を洗い終えた彼女が戻ってきた。
「すみません」と謝るもそのままもう数ページパラパラと捲った。
「何か焦っている感じですね」
クロッキー帳を閉じながら見ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。今の彼女は一見熱心で好印象を持つが、その一方で落ち着きのなさを感じる。
「褒められなかったのがそんなに悔しかったんですか?」
「う……それもあるけど、それだけじゃないよ」
彼女は少し頬を膨らませながら近くにあった椅子にストンと腰を下ろした。それに合わせて俺も近くにあった椅子に腰を下ろす。彼女はしばし俯いていたがやがて顔を上げた。
「私、芸大美大受験したいんだよ」
「知っています」
前から何度も聞いている。
「でも、まだまだ全然描けない」
自分のクロッキー帳を見るその表情はいつもの彼女らしくなく陰を帯びていた。
「全然ってことはないでしょう? 僕の目から見ても東雲さんはかなり上手い方ですよ。デッサンも油彩もね」
これは正直な気持ちだ。お世辞などではない。俺が彼女くらいのときはもっとずっと描けなかった。当時の俺が彼女と同級生だったらきっと打ちひしがれていただろう。それくらいに彼女は上手い。ただ
「けど、それって予備校に通っていない人の中での事だよね?」
「……否定はしません」
予備校に行けば彼女より上手い者はたくさんいる。それも確かだ。
「前に空くんに予備校のパンフレット見せてもらって受験生が皆上手いって知ってた。ただ、何だろ、いまいち実感がなかったんだ。その人は身近にいないし、実際に作品を見た訳ではなかったからかな。けれど今日、部長のデッサン見て、自分より遥かに上手くて正直焦った」
東雲さんが俯き、少し唇を噛んだ。
部長はデッサン力が高い方だ。中学から美術部だったようで経験が長く、普段から静物や石膏等モチーフをしっかり見て描くことを重視している。対して東雲さんが絵を描き始めたのは高校に入ってからだ。それ故の差だ。時間の長さが必ずしも能力に比例するとは限らないが、その傾向があるのもまた事実だろう。
「なのに、その部長でも届かないなんて……それじゃあ私なんて全然じゃん」
彼女は悔しそうに顔を歪めた。
「先程も言いましたが、受験生、特に浪人生は毎日多くの時間を制作にあてているんです。時間も熱量も現役生とは訳が違う。落ちた経験がある分尻に火が着いてどこか追い詰められたようなところもある。そんな人達だから上手くて当たり前なんです。東雲さん達現役生がそう簡単に勝てる相手じゃない」
少なくとも技術の差は明らかだ。寧ろそうでなかったら浪人生としての立場がない。
「それに君はまだ二年生です。試験本番までまだ一年以上ある。その中でしっかり技術を磨いていけばいいんです」
「けど……」
「向上心があるのは良いことですが、焦っても上手くはいきませんよ?……僕の経験上ね」
彼女のクロッキー帳を捲り、すぐに閉じた。
それだけで言わんとしていることは理解したようで彼女は口を噤んだ。
描き手の心情は作品に表れる。それはプロも学生も変わらない。
「落ち着いていきましょう」
何だかんだ落ち着いて一歩一歩確実に行うのが一番早いのだ。絵も、それ以外の事も。
「けれど、そこまで進路を決めているなら予備校通い始めたらどうです?」
それは話を聞きながら疑問に思っていたことだ。そこまで理解していて何故予備校に通わないのか。
「寧ろその方がいいでしょ?」
早めに始めておくに越したことはない。早い者は中学の頃から通っている。
「それで不安も全部とまではいかなくとも多少は解消されるんじゃないですか?」
「うーん……そうなんだけどね」
けれど東雲さんはどうも歯切れが悪い。
「何か予備校に行きたくない理由でもあるのですか?」
「行きたくないなんてことないよ。早めに始めた方がいいのは分かっているし、私もできればそうしたい」
「では、どうして?」
彼女は「そんな特別珍しい理由ではないんだけどね」と前置きし眉を下げた。
「ウチ、親が美術系に進むの反対しているんだよね」
ああ、なるほど。
彼女の言葉に容易に納得できた。
「将来への不安……とかそういう感じですか?」
「うん。絵で食べていくなんて無理だって。仮に就職するにしても美大卒でどういうところに行くんだ、てね」
彼女は大きく溜息をつく。
その言い分が分からないではない。美大=作家になるという印象は確かにある。それで将来生活していくなんて現実的ではないという考えが先行するのは理解できるし、実際間違ってはいない。この社会においては苦労することになる。
それを考えると自分の子供には一般大学を受けさせたいというのは一つの親心なのだろう。
俺は言葉に詰まった。
親でもなく、社会人でもない。それどころか大学生にもかかわらずその大学に通うことすらできていない俺に何か言えることはあるのだろうか? 今の自分が何を言ったところでどこか白々しいのではないか。
どうしたものかと頭を悩ませていると
「おーい、何やってんの? 下校時刻とっくに過ぎているよ?」
どこか間延びした声で言いながら一人の男性が顔を覗かせた。
「先生」
「お疲れ様です」
俺達ふたりの姿を認めその男性、美術部顧問の在原先生は「やっぱり君達か」と腕を組み小さく溜息を吐いた。
「美術室は逢引きの場じゃあないんだよ」
「そんなことしてませんよ」
恐ろしいことを言わないでほしい。
「周りからはそう見えるってことだよ。異常に仲良いからねぇ君たち」
彼は顎で俺達を指し示す。
「異常って……それは言い過ぎでしょ」
「仲良いのは認めるんだ?」
「……悪くはないと思います」
少なくとも相談に乗ったり、一緒に下校するくらいには悪くないはずだ。
「いつもイチャついてるもんねぇ」
「だからそんなことしてませんよ」
「だから周りからはそう見えるってことだよ」
みんな口を揃えてそう言うがまったくもって不本意だ。そんな事実ないし、俺にその気はない。受け取る側の問題だ。
「東雲さんも何とか言ってください」
そう彼女を振り返ると
「イチャついてるなんてぇ、そんなぁ……」
頬に手をあて身をくねくねと捩る姿が目に入った。ものすごいにやけ面だ。
「東雲さんは満更でもなさそうだよ?」
「……あれは違います。気にしないでください」
「やめてよぉ? 何か問題起こすの。そういうの世間は厳しいんだから」
「だから違いますって!」
俺が否定すると在原先生は「うえっへへ」と癖のある笑い声を上げた。
不本意だ。
「ちょっと彼女の進路相談に乗っていただけですよ」
彼女に了承を得た上で先程の話をする。先生は黙って聞き、話が終わると「なるほどね」と頷いた。
「ま、美術系の進路においてはあることだね。親の同意を得られない。過去にもいたよ。そういう悩みをもってる子」
周りにはいなかったが話は聞いたことがある。やはり将来への不安が理由だった。
「先に就職の話しとくけど、まぁ普通に就職先はあるよ。学んだことを直接活かすとなるとデザイン系の方が多いけど、ファインアート系でも働き口はある。あとは僕みたいに教職に進むとかね。ちゃんと就職する気があるなら就職はできるよ。就職する気があるならね」
「すごい強調するね」
東雲さんが苦笑いする。
「美大、特にファインアート系に身をおくとね、就職する気がなくなるんだよ」
「は?」
「卒業後は作家活動して生きていこうと漠然と考える人は多くてね、就職しないんだ。勿論真面目に就職する人もいるけどその限りじゃない。そんなんだからどこか『就活しなくてもいい』って空気が学部内に漂っていて就活しなくなるんだよ。そこは所謂一般大学と大きく異なるところかな」
大学卒業後は就職する、それが一般的だ。それが当たり前の人達からしたらきっと美大のその状況は異常だろう。
「それって生活とかはどうするんですか?」
「んー人それぞれじゃない? 売れる人は自分の作品を売って生計を立てるだろうし、それができない人はバイトが一般的だね。あとは無職で親の脛齧り倒すとか」
「ひどい」
確かに酷い。仮に実家住まいでも働いて生活費の一部だけでも家に入れるべきだ。
「そんな感じだけどね、周りの空気にあてられずしっかり就活すれば就職先はあるよ。そこは安心して。各大学ごとに卒業後どういった企業に就職しているか開示されているはずだから調べてみるといいよ」
「分かりました」
東雲さんは素直に頷いた。
「うん。ちなみに東雲さんは将来どうしたいのかな?」
「えっと、絵を描いていきたいなって」
「それは作家活動したいってことかな?」
「まだちゃんとは決まっていないけど、そうですね」
この時期に具体的な将来を思い描けている人の方がきっと少ないだろう。美術という方向だけでも決まっているだけまだ早い。
「実際絵だけで生活していくのってどうなんですか?」
俺は先生に訊ねた。正直興味があるところだ。今の俺はともかく、あの頃大学で絵を描いていた俺が通るかもしれなかった道だ。
「すっっごく難しい」
その淀みのない言葉に俺と東雲さんは僅かに表情を硬くした。
「作品作りだけで生活していけるのはほんの一摘まみだ」
一握りですらないのか。厳しいだろうとは漠然と思っていたが、どうやら想像以上らしい。
「大抵は他に仕事を持っていて、その合間に自分の作品を作っている。それでたまに展示したりして売れれば利益になるって感じだね。僕もここに含まれるかな」
隣の美術準備室で先生が自分の作品を制作しているのは知っている。これまでに何度か見せてもらった。
「先生も作家だね!」
そう言った彼女の表情には純粋な敬いが見て取れた。
「あはは……ありがとう」
先生は笑みを浮かべる。ただその言葉のわりに表情は憂いを帯びているように感じた。けれどそれも一瞬のことですぐに表情を改める。
「とにかくね、作品作りだけで生活していくのは難しいんだよ。個人差はあるけど細々何とか作家活動している。あとは完全に趣味だね。ま、その境界は周りから見たら分からないかもしれないけど」
「そっか……大変なんだね。けど、やっぱり作品作りは続けてるんだね。進みたかった道だから当然なのかな?」
自らが望み、選び、進むことを決めた道。終始進み続けられればそれが一番いいことなのだろう。
けれど
「いや」
先生はゆっくり首を振る。
「芸大美大卒業者の多くは何年かしたら絵なんて描かなくなるよ」
「え……」
それはきっとものすごく困難なことなのだ。
「日々の生活でいっぱいいっぱいだったり、自らの将来のことを考えたり、単純にものづくりへの熱が冷めてしまったり……理由は様々あるよ。時が経つにつれみんな自分の作品を作ることをやめていく。……僕の同期もほとんどみんな描くことをやめてしまった」
そう言った先生の顔は少し寂しげだった。
誰も彼もが作家として大成できる訳ではない。作ることを仕事にできる訳ではない。その厳しい現実で夢を抱きながら生きていくのはどれほど困難なことなのだろう。
「自分の未来のために夢見た自分の未来を諦めていく」
自分ももう絵は描いていない。進むことを諦めてしまった。
本当に困難な道に進む前に、学生という守られた立場の内から早々に脱落した。
不甲斐ない。
「これからその道を目指そうって子にちょっとネガティブなことばかり言い過ぎたかな?」
今更ながらに気にし出した先生に東雲さんは首を振った。
「ううん。大丈夫。ちょっと悲しいなって思っただけ」
言葉通りに彼女の表情は暗い。
苦労して受験した末がそれではやるせない。皆ほんの一時のために努力している訳ではないのだ。
「フォローって訳じゃないけど、みんながみんなそんなネガティブな理由で描かなくなる訳じゃないよ。他にもっと興味のある事ができたり、結婚して家庭をもったり、美術以上に大事だと思えることができたって人もいる。そこは覚えておいて」
「フォローだろ」という言葉は飲み込んだ。
その後、これ以上は本当に怒られるということで学校を出た。
来客用口を出て校門へ向かっていると、東雲さんとあの茶髪の男子が一緒にいるのが見えた。彼が何やら彼女に話しかけている。恐らく東雲さんを待っていたのだろう。
話をしていた二人だったが、東雲さんは俺に気付くとパッと笑みを浮かべた。
「じゃあ私もう行くね。また明日!」
彼に手を振ると俺の下へと駆けてくる。そしてそのままさも当然のように一緒に歩き出した。
残された彼は「あ、ちょっと!」と戸惑い手を伸ばすも、やがてその手を引っ込め「……また明日」と手を振った。
その姿を振り返りながら隣の彼女へと訊ねる。
「いいんですか? あれ。きっと待ってたんですよ」
「いいんだよ。言ったでしょ? 期待させたくないって」
振り返らず校門を目指す彼女の横顔は少し辛そうに見えた。
大変だな。追う方も追われる方も。
校門を出る前にもう一度振り返ると、彼は変わらずこちらを見続けていた。
「何度も断ってるし。彼には申し訳ないけど、他にもっと大切にしたいことがあるから」
「大切にしたいこと……ああ、受験のことですか?」
「それもあるけどね。他にもだよ」
「他にも? 何ですか?」
そこで彼女はこちらへと振り向き、ジッと見つめてきた。
その目を見つめ返す。
それから暫く見つめ合っていたが、やがて彼女が「むぅ……」と頬を膨らませ、プイッとそっぽを向いた。
「え、何ですか?」
「何でもなーい」
「何でもないってことはないでしょう?」
「教えなーい」
ムスッとして前を歩く彼女を見つめながら俺は小さく溜息を吐いた。
本当に大変だな。追う方も追われる方も。
暫くお互い無言だったが、信号で立ち止まったところで彼女へと振り向いた。
「今日の先生の話はどうでしたか?」
彼女は少しの間、虚空を眺め、やがて口を開いた。
「知らなかったことを知れたのは良かったかな」
きっとそれは嘘ではないだろう。知らなければどうしようもないことというのは人生に多々あることだ。ただその一方で知りたくなかったことというのも多々ある。
先程の先生の話はこれからその道に踏み出そうという者にはなかなか酷なものだった。少なくとも希望は抱きがたい。
俺はそこら辺の事情を詳しく知らずにその道に足を踏み入れた。不安はあったがそこまで現実的に考えていた訳ではない。根拠のない自信、求めるものへの希望ばかりあった気がする。俺はかなり鈍感だった。
「東雲さんはあの話を聞いてもなお美術の道に進みたいと思いますか?」
勇気を持って踏み出せるか? 自分は大丈夫だと信じられるか
「私は……」
東雲さんは言葉を切り、少し俯く。
進行方向とは違う歩道の信号が点滅を始め赤になる。それに伴い車道の信号も青から黄、そして赤になった。
彼女は顔を上げるとこちらへと向く。大きな瞳が俺を真っ直ぐに見つめた。
「進みたい。私は絵を描きたい」
信号がパッと青へと変わる。
彼女が横断歩道を渡り出し、俺もそれに続く。ふたりが渡りきると改めて彼女は俺を見上げた。
「私は芸大美大を受験したい」
迷いのない声、そして目だ。
再び並んで歩き出す。視線の先、遠くに駅の明かりが見えた。隣の車道を走る自動車が次々と俺達を追い越して行く。
「僕が言うのもなんですけど……きっと大変ですよ?」
受験も、大学に入ってからも、その先も。
「分かってるよ。けど……」
彼女は真っ直ぐに前を見据え、その目に光が映り込む。
「仕方ないじゃん。描きたいんだから」
その言葉は俺の身体、そして心に響いた。だから
「いいんじゃないですか。それで」
俺は迷いなくそう頷いた。
「止めたりしないんだね、空くんは」
こちらを見上げる東雲さんは少し意外そうな表情を浮かべている。
「止めてほしかったですか?」
「そうじゃないけど。……そんなのでいいの?」
それを愚かな考えとする者はきっと多くいるだろう。曖昧な動機で選択し、後で馬鹿を見るのは自分自身だと。
現実を見て甘い夢を抱かず、堅実に生きていくことが賢い大人の生き方なのだとする考えは理解できる。きっと本来俺もそちら側の人間だから。リスクなど極力抱えたくはない。
ただ、それを唯一の正しさだとは思っていない。
「何かを選ぶ動機なんてきっと何だっていいんですよ」
興味があるから、楽しそうだから、初めはそんなものでいいのだと思う。仰々しい理由は必要ない。大切なのは選び進んだ道をどう生きるかだ。
それに誰も彼もが現実的で堅実に生きる世界なんてつまらない。
「人は色々言うかもしれませんけどね。けど結局最後に決めるのは自分自身です。当然ですよ。自分の人生なんですから。それを他人の判断に丸々委ねてしまうなんて嫌じゃないですか。大事なことだからこそ自分が納得できるものでなければ。だから自分で決めて自分の生きたいように生きればいい」
リスクを理解した上でそれでも進みたいと言うならもう俺に言えることはない。これは彼女の人生なのだ。一度きりの人生。どうせなら自分勝手に生きた方がいい。
「東雲さんは高校生です。大分大人に近くありますが、それでもまだまだ子供です。なら多少のワガママは許されるんじゃないですか。せめて自分の進路くらいはね」
「空くん、もっと現実的な考え方していると思ってた」
「なるほど。間違ってはいないですよ」
寧ろ彼女の認識は正しい。現実的な考え方はやはり大事だ。もし俺が彼女の立場にあり、より多くの情報があったら、将来のリスクを考え芸大美大受験などしなかったかもしれない。けれど
「それでも現実は美大でファインアートやってた人間ですよ? 僕」
俺はその道を選んだ。堅実を語りながらも実際に進んだのはその真逆の道だ。
「説得力ないでしょ?」
「それもそうだね」
彼女がクスッと笑う。
俺は夢を諦めてしまったがそれは彼女には関係ない。彼女が夢を追うか、現実を見るかで迷っているなら前者を押す。迷いもないのなら尚更だ。
「それに、仮に反対したところで諦めないでしょ?」
彼女の諦めの悪さはよく知っているのだ。この数ヶ月そこらで思い知らされた。
「うん……うん!」
彼女は自分自身の心を確認するように、納得するように頷いた。
「心が決まっているなら後は迷わず進んでください。まずは親御さんの説得ですね。正規に入会するのが難しいようなら講習会はどうでしょう? 夏休み中どこの予備校も大抵は講習会を開催しています。外部生も受け入れているのでそれに参加したいと打診してみたらいいかもしれませんね」
「講習会……うん、そうだね! そうしてみる」
希望を得たようにパッと笑顔を浮かべ意気込む彼女に俺も頷く。
目指す駅はもう目前だ。
街灯に照らされる薄暗い遊歩道を抜けると視界は開ける。
こうこうと灯る様々な明かりはいつもより余計に眩しく感じ、その光景を少し美しいと感じた。そして
「空くん」
俺の名を呼び見上げてくる彼女の笑顔は
「私、諦めないよ!」
そんな光景すらも霞むほどに眩しかった。

