「空くん!」
名を呼ばれ目を通していたファイルから顔を上げると大きな瞳と目が合った。
画集やファイル等が乗った机に手をつきこちらへと身を乗り出している女子生徒。そのあまりの顔の近さに俺は椅子に座ったまま自然と身を引いた。
すると彼女はそれが不満だったのか僅かにムッとした表情を浮かべ、こちらが引いた分の距離をつめてくる。それに対し俺は再度身を引いた。
「何で距離とるの⁉」
「近いからですよ」
なおも乗り出し身体をプルプルと震わす彼女を手で制し押し返した。
「これくらい普通だよ?」
黒いミディアムの髪を揺らし、制服のワイシャツ、スカートの上にエプロンを着けた彼女は腰に手を当て首を傾げる。
「そうなんですか? それは知らない常識ですね」
「良かったね! ひとつ勉強になったよ」
「……皮肉で言ってるんですよ」
少なくとも俺にとっては普通ではない。そしてそれは彼女も分かっているのだろう。
ニッコリと微笑む彼女に俺は溜め息をついた。
「あー! また溜め息ついてる。知ってる? 溜め息ばかりついていると幸せが逃げるっておばーちゃんが……」
「で? 結局どういう用事だったんですか?」
また脱線しそうになる話を元に戻すと、彼女も「あ、そうそう」と思い出したように改めて俺に向き直った。
「絵の途中経過見てほしいんですけど」
急に敬語になった。今更だが一応はお願いする立場という意識なのだろう。
「なるほど。分かりました」
俺はファイルを閉じると席を立ち、先を歩く彼女の後を追った。
どこか楽しそうにスキップするかのようなその彼女の足取りに「何がそんなに楽しいのか」と疑問に思うも、水を差すのもはばかられたため黙ってその背を追う。
やがて彼女は立ち止まりこちらへと振り返った。
彼女の前に立てられたイーゼルの上に縦向きのキャンバスが置かれている。
その周辺の床には筆や絵の具等の油彩の道具が広げられており、台として使われている椅子には色とりどりの絵の具がいっぱいに混ぜ合わされたペーパーパレットが置かれていた。
そしてキャンバスに描かれているものは色彩豊かな油彩の静物画だ。
少し先の大きな台の上にモチーフとなっている静物が組まれている。
俺はその絵の前に立つと彼女に振り向いた。
「じゃあ中間講評をしますよ。東雲さん」
「お願いします! 空くん」
そう元気に言うと、彼女、東雲玲愛は微笑んだ。
この学校の美術室は校舎の三階にある。
室内は大きく二つのスペースに分けられている。入り口のある手前側を授業で、奥側を美術部の活動でそれぞれ使用しており、その間を背の高い棚で仕切っている。
部活動スペースには画材や備品が溢れる。イーゼルやカルトンが立てかけられ、棚には筆や絵の具といった画材が仕舞われている。壁一面に歴代の部員が描いたデッサンや水彩画が貼られており、乾燥棚にはキャンバスに描かれた油彩画が納められている。
床は絵の具や木炭の汚れが目立ち、油彩の絵の具や溶剤、キャンバスの独特な匂いが立ち込めている。
西向きに作られた部屋であるためこの時間強い西日が射し、窓から差し込む光が床や壁、机を白く染め、そこに窓枠の濃い影が伸びる。棚の上に並ぶ石膏像の明暗は濃く明確になり、金属のやかんが反射し、ラムネの瓶は透き通る。描きかけの絵に新たな彩を加え、白く真っ新なキャンバスは未知を映すスクリーンとなる。
そんな斜陽の美術室で今日も美術部の活動は行われていた。
部屋の中程にある大きな台に大小様々なモチーフが組まれており、それを取り囲むようにイーゼルが並べられ部員たちは皆各々の作品を制作している。
「空間の意識は大分もててきているみたいですね」
そんな中、美術部講師の俺は椅子に座り絵とモチーフを見比べる。
モチーフはストライプの入った布が掛けられた台の中央に紫陽花と水の入った瓶が置かれ、その周囲をラムネの瓶やビー玉、果物等が置かれたものだ。
東雲さんの絵はその紫陽花を主役に描かれている。
「以前は前後の描き込みが単調で空間が弱くなってしまっていましたが、今回は主役を起点にして変化がつけられていますね。手前にある紫陽花をしっかりと描き、そこから奥に行くにしたがって徐々に抜いていく。その流れで奥行きのある空間になっていると思いますよ」
「ホント⁉」
頷きながら彼女を見ると、満更でもなさそうで口元を緩めている。きっと彼女としても手応えがあったのだろう。
「前に指摘されたことがあったからさ、今日はそこに気を付けようと思ったんだ」
以前別の作品で空間の甘さを指摘したことがあったが、それを覚えていたようだ。現に足下に広げられたクロッキー帳にはその時の課題と講評の際に書いたのであろうメモがある。
「しっかり改善されていますね。画面に透明感が出てきています」
素直に褒めると、彼女は「やった!」と笑みをこぼした。
「ただし」
けれど俺の言葉ですぐに笑みを引っ込める。
俺は椅子から立ち上がり後ろに下がると彼女を手招きした。彼女と共に離れた位置から画面を見る。
「何か気付くことはありませんか?」
「え? 気付くことって…………あ」
彼女が声を漏らす。
「瓶の形……」
「その通りです」
紫陽花と水の入った円柱形のガラス瓶、その底の面が実際に見えるよりも僅かに狭くなってしまっている。
「この目の高さで見ているならパース(遠近法・透視図法の意)の関係で瓶の上の面よりも底の面の方が広く見えるはずです。にもかかわらずこの絵の瓶はどっちも同じくらいの幅になってしまっています。これでは瓶が台に自然に置かれているように見えません。今にも倒れそうですよ」
人がものを見ようとしたら必ずパースがかかってくる。それは物も生物も変わらない。
これは何も美術に限ったことではなくこの現実においてはそれが自然なのだ。
そしてその自然を踏まえなければ、当然絵においても自然な空間にはならない。
「下描きの段階ではちゃんと描けていましたよね?」
「うん……しっかり合わせたから」
「絵の具をのせる段階で狂ったんですね。紫陽花や水、布のストライプにも多少惑わされたのかもしれませんね。制作中画面から離れて見ていましたか?」
「えー……っとー」
彼女の目が泳ぐ。
「見てないんですね?」
「あははは……はい」
観念したように苦笑いを浮かべた。
「描くのに一生懸命になるのは良いことですけどね。ただ、それで視野が狭くなってしまうのはいけないですね。パースや大きな形の狂いは画面を近くで見ていても気づきにくいものです。画面が大きいなら尚更。だから画面から離れて全体を見るようにする。そうすると近くでは見えなかった狂いや粗が見えてくるものです。頻繁に席を立って離れて見るように…………ていうのは前にも言いましたよね?」
「はい……」
「覚えているならいいです。今一度気を付けてください。空間を大事にするなら尚更ね」
折角画面に遠近感が出てきたのだ。こういう不自然さで自然な空間を壊してしまっては勿体ない。
「まずは瓶の底面の狂いを直していきましょう」
「直すって……紫陽花の茎や布のストライプも? 全部!?」
瓶はガラスで透明だ。修正するなら底面付近は多少壊れることになる。
「応援しています」
「うわぁーん!」
彼女が嘆きの声を上げた。
彼女の気持ちが分からないでもない。折角描いたところを壊したくはないし、やはり面倒だ。自分がその立場でも同様に嘆くかもしれない。
「巨匠の絵とかでさ、形とか狂っている絵っていっぱいあるじゃない? あんな感じでこれも許されたりしないの?」
彼女の言葉に幾つかの巨匠とその作品が頭に浮かんだ。
「ああ言った作品は自然な空間を表現することに重きを置いていないんですよ」
色を重視していたり、新たな視点に挑戦していたり、次元を超えていたり……美術作品も様々だ。そういう作品は必ずしも自然な空間である必要はない。
「けれど東雲さんの作品は違いますよね?」
彼女の作品は自然な空間を表現しようとしたものだ。そこに何か別の思惑がある様には思えない。
「形やパースを狂わす何らかの意図があるならそれでもいいですけど……あるんですか?」
「えっと……ないかな?」
「ですよね」
分かっていたとばかりに頷く。
「自然な空間の表現だったのだからその一枚に関しては終始そこは守るべきですよ。一度始めたのならブレるべきではない」
そこが曖昧だと絵のバランスは崩れる。作品の世界を壊してしまう。
「この表現を選んだのは君です。この一枚は最後まで責任を持ってください」
「はぁい」
彼女は素直に頷くと、クロッキー帳を拾い上げ何やら書き込んでいく。「表現を統一……最後まで責任を持つ」という呟きが聞こえたことから今言ったことをメモしているらしい。
こういうところは好感がもてる。
「さっきも言いましたが、モチーフ同士の強弱による遠近感は出てきています。瓶のパースと形もしっかり合わせられれば更に空間が出ますよ」
最後に少しのフォローを入れて中間講評の締めとした。
「ありがとうございました」
聞きながらメモを取り終えた彼女が礼を言う。
他の部員の様子を見ようとその場を離れようとしたところで「あ、空くん、ちょっと待って!」と東雲さんに呼び止められた。彼女は鞄を漁るとこちらに振り向く。
「手、出して?」
言われるままに手を出すと、その上に一粒のチョコレートが置かれた。
「お疲れの頭に糖分補給」
彼女がにっと笑う。
「はぁ……ありがとうございます」
俺はそれを摘まみ目の前に掲げる。
「あれ? 空くんチョコレート嫌い?」
「ん……いや、そういう訳ではありませんよ」
「あははは、空くん分かりやすい!」
彼女は気を悪くした訳でもなさそうにケラケラと笑った。
「そんな別に嘘つかなくてもいいんだよ?」
「嘘という訳では……」
「いいからいいから」
「そうですか」
俺はふぅ……と一つ息をつく。
「じゃあ嫌いです」
「いきなり正直すぎない⁉ しかもじゃあって何⁉」
「嘘つかなくてもいいと言うので」
「それは、そうなんだけど」
むぅ……と頬を膨らませる彼女を他所に俺はそのチョコレートを口に入れた。
「あっ!」という彼女の声を聞きながらゆっくり咀嚼する。口の中に独特の纏わりつくような甘さがひろがり俺は僅かに顔を歪めた。
やはり甘いものは苦手だ。
「嫌いならホントに食べなくてもいいのに」
「折角貰ったものなので」
「そんな顔歪めながら言われても嬉しくないよ……はい、飲み物」
彼女が差し出した缶を受け取り、口をつけようとしたところで思いとどまる。そして改めて缶を見た。
ホットココア。
「この状況でココア差し出す人がいますか⁉」
甘いものを甘いもので流す意味が分からない。
「でも美味しいんだよ?」
「そういうこと言ってるんじゃないんですよ」
「ほら、ググーっと!」
「飲みませんよ……しかもこれ飲みかけじゃないですか」
缶のプルタブは開いており、飲み口には明らかに一度飲んだあとがある。
すると彼女はスッと俺に近づき、顔を寄せると耳元で
「関節キスだね」
そう囁いた。そしてすぐに一歩下がると口元に手をあてイタズラな笑みを浮かべる。
俺はそれを苦々しく眺めながら缶を彼女の椅子へと置いた。
「あーーん、飲んでよぉ!」
彼女が冗談めかして泣きついてくるのを溜息まじりに軽くあしらう。
飲める訳がない。いろんな意味で。
「こらー東雲ー、先生とイチャつくなー」
そこで同様に静物を描いていた女子から声が上がった。彼女はこの部の部長だ。
「アンタ空先生にゾッコンなのはいいけど、部活中は真面目にやりなー」
「そんなゾッコンなんてぇ……」
東雲さんは照れたように頬に手をあて身体をくねくねと捩る。
そんな彼女達の様子に他の部員達もクスクスと笑い声を漏らした。そこに含まれるものは揶揄いだ。
険悪さは全くなく、和やかな空気が漂う。部員同士の仲が良い証拠だろう。結構なことだ。
唯一問題なのはその揶揄いの対象に俺も入っていることだ。彼女たちが東雲さんと俺を生温かい目で見てくる。
不本意だ。
「私、空くんにゾッコンなんだって。空くんはどうなのかな?」
東雲さんが上目遣いでこちらを見る。その表情は何かを期待するようだ。
「……口ではなくて手を動かしてください」
「やーん! 空くんのいけずー」
「空くんではなく空先生で」
「はあーい、空せーんせ?」
やはり上目遣いで笑みを向けてくる彼女に再度溜息が漏れた。
そんな彼女だが、椅子に座り直すと目を瞑りひとつ深呼吸する。そして目を開くとモチーフと自身の絵を見比べ、やがて画面に手を入れ始めた。言われた通りパースと形の狂いを修正している。
その様子は直前まで騒いでいた人物とは別人のようで、その横顔、流れるミディアムの黒髪の間に覗く目は真剣な光を湛えている。
やはり真面目ですね……。
普段、明るく、皆のムードメーカーのような彼女であるが、ひとたびスイッチが入るととんでもない集中力を見せる。そこはこの部の中でも一番だろう。
気持ちの切り替えが非常に上手く、集中するときと気を抜くときのメリハリがしっかりしている。その変化の極端さに若干戸惑うこともあるが、望ましいことだ。
そして羨ましくもある。自分はあのように柔軟ではない。もっと張りつめている。張りつめていた。
俺はしばし彼女を眺めていたが、やがて指導をするべく他の部員の下へ向かった。
口の中には未だに甘みが残っていた。
下校時間になり部活動は終了となった。
今日は全体講評は行わないため、皆作品はそのままにし、片付けが済むと各々下校していく。
「うん、パースと形の狂いは修正できたみたいですね」
そんな中俺は個別の講評をしていた。相手は勿論東雲さんだ。彼女はよくこうして個別の講評を頼んでくる。
「あとはより空間に馴染ませてください。修正は大変でしたか?」
振り向き訊ねると、彼女は「大変だったよー」と露骨に疲れた表情で溜め息をついた。
「正しいパースを取るのはいいけど、一度描いたところを描き直すって大変」
「まぁ分かりますよ。手は入れづらいですよね」
折角描いたものを多少、場合によっては完全に潰し新たに描き直すのは手間であるし、勿体なく感じる。時間を掛けていたり、手応えを感じていたのなら尚更だ。
「けれどそれでも直さない訳にはいきません。誤ったものを守ったところでそれ以上は良くなりませんからね。それどころかその誤りによる悪印象によって折角の良い部分が霞んでしまう。確かにあるはずの魅力を正しく感じてもらえなくなってしまう。それは勿体ないでしょう?」
「それは、うん。そうだね」
彼女も大きく頷く。
良いものを邪魔しないために、そしてより輝かせるために、求めるもののため一時的に壊さなければいけないことがある。きっとそれは絵に限らずあらゆることにおいて言えるだろう。
「だから恐れないでくださいね」
「あははは、難しいなぁ……でも、うん! 分かった」
少々困ったような表情を浮かべながらも彼女は元気に頷いた。そんな彼女を他所に俺は今一度彼女の絵を見る。
ああは言ったが、彼女は壊すことに躊躇いがないように感じる。誤りを守らず、壊し、そこから新たにより良いものへと作り変えていく力がある。
足踏みせず、欲しいものを求めて前向きに進んでいく意志。
そのことに素直に感心する。
誰にでもできることではない。大人になれば尚更だ。
「このまま完成までしっかり描いてください」
「うん! ありがとうございました!」
彼女の礼をもって講評を終わらせた。
丁度そのとき出入口に見知らぬ男子が立っているのに気付いた。
「あ」
東雲さんも気付いたようで小さく声を漏らす。
すると男子は笑みを浮かべ「東雲!」と彼女を呼ぶと部屋へと入ってきた。
「東雲も部活終わったのか?」
「あ、うん。終わったよ」
話しかけてきた茶髪の男子に彼女は笑みを浮かべた。
友達だろうか? 彼女達の話を聞きながら俺は片づけを始めた。
「じゃあさ、一緒に帰ろうぜ。送るからさ」
「あーごめん。私まだ片付け終わってないんだよね。だから先に帰って?」
「じゃあ待ってるからさ」
「えー……でも時間掛かるからさ。待たせるの悪いし」
「全然! 待つ待つ!」
「うーん、でもー……」
「な~かに~しくーん!」
「おわぁ⁉」
そこで女子部員の一人がその男子の肩に腕を回した。その他にも二人女子が彼を囲む。
「玲愛はまだ時間掛かるし、忙しいからさ! 私達と帰ろうよ!」
「へ? いや、でも……」
「いーから、いーから」
慌てた様子の男子には取り合わず、そのまま彼を引っ張り部屋を出ていく。
「じゃあね、玲愛! また明日」
彼女達が東雲さんに手を振る。その際パチリとウインクした。
「うん! バイバイ! また明日―」
それを東雲さんは笑顔で手を振り見送った。
「……いいんですか? あれ」
男子の声を微かに響かせながら去っていく彼女達を見送りながら東雲さんに訊ねる。
「うん、いーのいーの」
彼女は笑みを浮かべると、筆の束を持って流しへと向かい石鹸で洗い始めた。
特に追及する必要もないため自分も片付けと残っている仕事へと戻った。
あらかた仕事を片付けようやく一息つく。
ファイルの中身の整理で思った以上に時間が掛かってしまった。時計を見ると十九時を回っている。
「あ、終わった?」
スマホをいじっていた東雲さんが顔を上げる。
「ええ、終わりましたよ…………何でまだいるんですかね?」
早々に片付けを終え、身支度も済ませ、いつでも帰れる状態だったにもかかわらず彼女は未だ美術室に残っていた。途中何度も帰るよう促したのだが「うん。もう少しー」と曖昧に返され今に至る。
「だって空くんひとりじゃ可哀そうじゃん? それに暗い夜道に女子ひとりは危ないもん」
「……僕のことは置いておいて、だったら尚更早く帰った方がよかったのではないですか? それかさっきの彼に送って行ってもらうとか」
待っていると粘っていた男子を思い出す。
「途中コンビニでアイスくらい奢ってもらえましたよ? きっと」
彼が彼女に気があるのは明らかだった。多少のおねだりならホイホイ聞いてくれるだろう。
「えー嫌だよぉ」
「またえらくハッキリ言いましたね」
「だって変に期待させたくないもの」
「なるほど」
どうやらまったく脈はないようだ。
「クラスメイトとして付き合うのはいいけど、それ以外はちょっとね」
彼女は苦笑しながら自身のスマホを弄ぶ。
「そういうものですか」
彼がそれを知らないのは果たして幸せなことかそうでないか、そんなことを無責任に考えながらペットボトルのお茶を飲む。
「あと彼、私のおっぱいチラチラ見てくるし」
コフッと少し咽た。
「本人は気付かれてないと思っているんだろうけど、そういう視線って女子は案外気付いているからね」
そこで自然と東雲さんの胸部に目がいった。
制服のワイシャツを押し上げる膨らみはその確かな大きさをこれでもかと主張している。
すぐに目を逸らそうとし、しかしそこで彼女の目に捕らえられた。
「……えっち」
ジトっとした半眼で彼女は手を交差し胸を隠した。けれどその口元はニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「失礼しました」
そこで今更ながらに目を逸らす。
「空くんも大きなおっぱいに興味あり?」
彼女が胸を抱いたまま上目遣いで見つめてくる。
「興味はありますね」
「わぉ⁉ 意外に正直だね」
余程意外だったらしく彼女は目を丸くした。
「そりゃ女性の個性であり、数多くある魅力の中の一つですからね」
外見に惹かれるのは何も不思議なことではない。俺も例に漏れずだ。
「ただ、今のはそういう話題だったから自然と目が行っただけです。他意はありません」
「本当かなぁ?」
彼女はニヤニヤと笑みを浮かべる。
「本当です。生徒に対してそういった目は向けませんよ」
それが正しい倫理観だろう。そう思っての言葉だったのだが、それに対して彼女は不満気な表情を浮かべた。
「生徒って言うけど、空くんこの学校の先生じゃないじゃん。空くんだって学生じゃん」
頬を膨らませジトっとした目で見つめてくる。
「……ま、そうなんですけどね」
俺はこの学校の教師ではない。美術部の顧問の誘いで部活の時間だけバイトとして手伝いをしているにすぎない。
本業は大学生だ。美術大学で絵を描いている……描いていた。
今は大学には行っていない。そしてもう絵も描いていない。
「同じ学生なら別にいいじゃん」
「かもしれませんね。でも、それでもですよ」
やはり納得いかないとばかりに頬を膨らませる彼女に対し、俺は一つ咳ばらいをした。
「とにかく、そういうことです」
「むー……でも、興味はあるんだよね?」
彼女が再度上目遣いで見つめてくる。その表情は揶揄うようにも、期待するようにも見える。
「それはまあ。それに人体の美は長い美術史における主題の一つですからね」
それこそ何世紀も前からだ。そこにいやらしさはない。
「便利な言葉ー」
「僕もそう思います」
そこでお互い目が合い、そしてふたり揃って笑い出した。
下校時間をとうに過ぎ、照明によって照らされた他に誰もいない静かな美術室。そこにふたり分の笑い声が響く。
健全ではない。意味もない。けれどそんな何気ないことが少し楽しいと感じた。
ひとしきり笑い満足すると「手伝う」と言う彼女も加わり残りの片付けへと戻っていった。
「空くんはおっぱい星人~。空くんも男の子~」
「その変な歌、外では絶対に歌わないでくださいよ?」
校舎の外へ出ると辺りはもうすっかりと暗くなっていた。
西の空にまだうっすらと夕陽の残り香があるが、それもじきに消えてしまうだろう。けれど問題はない。それを引き継ぐように人工の光が灯っている。
点々と建ち並ぶ街灯、校舎一面に開け放たれた窓、長く伸びるトタン屋根の駐輪場、あらゆる場所が光で照らされ闇夜に沈むことを許さない。遠くグラウンドにも大きな照明が灯り、その下を引き上げていく運動部の姿が見えた。
昼間とは異なるその学校の様子は俺にどこか懐かしさを、そして憂いを感じながら帰宅する生徒達と共に校門を出た。
学校を出ると辺りの暗さはぐっと濃くなる。学校の周囲は田畑で、まるで黒い海の様に広がっている。その中を無骨な鉄塔が跨ぐように連なり、彼方の山々へずっと続いている。住宅等建物は少なく車通りもほとんどないため明かりは少なく、頼りになるのは街灯くらいだ。
けれどその分空は広く、そこに浮かぶ月や星の瞬きが良く見えた。月を中心に細切れの雲が光に照らされ広がっていく静謐で透明感のある夜空は青空や夕焼け空とはまた違った美しさがある。
こんな静かな夜はひとり月に照らされながら物思いに耽るのもいいかもしれない。
もっとも
「ふぅっ! 熱くなってきたねー! 帰りにアイス食べよ! アイス」
それは叶わないのだけど。
美術室を出て顧問に施錠を頼むと俺達は帰宅となった。二人で示し合わせた訳ではなく、用事がある訳でもなく、自然と共に歩いている。
「ねぇ空くんアイス……ってどうしたの?」
俺の袖をクイクイと引いていた東雲さんが首を傾げる。
「ん、いや、何だかもう当たり前のように一緒に帰っていると思いましてね」
顔を歪める俺に対し彼女はどこか得意気だ。
「頑張った!」
そして満足そうにニッと笑った。
俺達が一緒に下校するようになったのはここひと月くらいからだ。
初め彼女から誘われた際、俺はそれを断った。たとえ学生バイトだとしても学外で特定の生徒といるのはいかがなものかと思ったからだ。加えて勤務外まで生徒と関わりたくはなかった。
少々ごねながらも諦めたかに見えた彼女だったが、それからも連日誘われ続けた。終いには
「夜道ひとりだと危ないから送って行って」
そんなもっともらしい理由を持ち出し始めた。
「お友達と帰ればいいのではないですか?」
「もうみんな帰っちゃったし」
「いや、まだそこに———」
「じゃーねー玲愛ー」
「うん! またねー」
去って行く友達を手を振って見送ると改めてこちらを見る。
「送っていって?」
そして良い笑顔を浮かべた。
何か明確な作為を感じたものの面倒になり「今日だけ」という条件で一緒に帰った。
俺といても楽しくなんてない。一度言うことを聞けば満足するだろう。そう思っていたのだが翌日以降も彼女は俺と下校した。
部活が終わるとひとり俺を待ち、共に学校を出る。そして駅までの道を共に歩き駅で別れる。そんな下校時間を共にして早ひと月だ。
思うことは多々あったが、そのうち言っても無駄だということを悟り、最近はもう何も言っていない。
「そもそも帰り道そんなに危なくないですよね?」
学校周辺こそ明かりは少ないが、少し歩き大通りに出れば人通りも多くなるし、駅に近づけばより賑やかになる。更に下校路には他の生徒もいるのだ。それほど危険は感じない。
「そんなの分かんないじゃん。危険はどこに潜んでいるか分かんないんだよ?」
「それは否定しませんけどね」
「それに、私は空くんと一緒に帰りたいの!」
「東雲さんの私欲ではないですか……僕はひとりの方が落ち着くんですよ」
「またまたー本当は私と帰れて嬉しいくせにー」
「はっ!」
「うわ……鼻で笑ったよこの人」
むぅ……と頬を膨らませる彼女が可笑しくて微かに笑みが漏れた。
「あ! 笑った? 今笑った!?」
「笑っていませんよ」
「笑った、絶対笑った! 何だよぉ、やっぱり嬉しいんじゃん」
前向きに捉えた彼女がニヨニヨと笑っているのに今度は溜め息が漏れた。
暗い田んぼ道を抜けると住宅地となり、やがて大通りへと出た。車通りの多い道の歩道をふたり並んで歩く。
その間の会話は基本彼女が話題を振りほぼ一方的に喋っている。俺は相槌を打ち時折応えるくらいだ。
俺は人付き合いが下手だ。そしてそれは会話も。こちらから話題を振ることなんてできないし、受け答えだって淡白だ。そのため基本俺との会話は盛り上がらない。これまでずっとそうだった。
にもかかわらず彼女は随分と楽しそうだ。無理している様子もなくきっと素なのだろうと感じる。何が楽しいのか正直疑問だが、退屈していないならそれに越したことはない。
話題は家での事から学校の事へと移り、やがて部活の事へと変わった。
「空くん、今日の私の絵どうだった?」
「……個別講評のときに言いましたよね?」
「そうだけどさ。改めて聞きたいんだよ」
上目遣いでこちらを伺う彼女の目にはどこか期待する色が浮かんでいる。
「良いことばかり言ってもらえるとは限りませんよ」
「分かってるよぉ! でも、やっぱり期待するじゃん」
「否定はしないですよ」
人間やはり自らが望むものが得られることを期待する。そして大抵は落胆し、稀に希望通りにいき心を満たす。そんなものだ。
「ま、単純に上手くなりましたね」
「ホント? やった!」
感じたことを素直に言うと彼女は目を輝かせた。
「主役は目を引きますし、手前から奥への空間も強い、画面全体に透明感があります。良い絵だと思いますよ。少なくとも初めの頃よりずっとね」
俺が見始めた頃の彼女の絵も決して悪くはなかった。何も知らないなりの魅力があったと思う。ただ当然気になる点は多々あった。その頃に比べたら相当な進歩だ。
「えへへ、毎日描いてるからね」
誰でも描き続けてれば多かれ少なかれ上手くはなる。そこに適切な指導が加われば更に進歩する。知らなかったことを知る意味は大きい。その上で描き続ければ何だかんだ上手くなるものだ。
ただそこには個人差がある。
いくら指導を受けて枚数描いてもなかなか成長しない者はいる。一方で少ない枚数で急激に成長する者もいる。
その違いを決定づける理由は様々あるだろうが、その中で俺が大事だと思っているのが素直さだ。
教わったことを素直に受け入れられるか、その上でそれを素直に実践できているか、守るべき事柄を素直に守れているか、それが重要だと俺は思っている。自分の色を出すのはその後だ。
努力は大事だがその中身が正しくなければ報われるのは難しい。
その点彼女は優秀だ。
「東雲さんはこちらの言うことを聞き理解しようとしている。大事なことはちゃんとメモして忘れないようにしている。そして制作の際にはそれを何度も確認して実践しようとしている。その素直な姿勢は好ましいものです。これは誰でもできることですが、案外できないことなのですよ」
その上で製作中は驚く程に集中して、落ち着いてモチーフを観察し自らの絵に向き合っている。そこには真摯さすら感じる。そんな普段の喧しさからは想像できない程の素直さ、そして真面目さが彼女の成長に繋がっているのだろう。
「正しく努力できるのはすごいことです」
それは褒められるべきことだ。自分自身それが満足にできているか怪しい。口では何とでも言えるが実践するのは難しい。
「えへへ、えへへ」
東雲さんは僅かに赤みを帯びた頬に手をあてニマニマと笑みを浮かべている。
「えへへ、空くんに褒めてもらえた」
心底嬉しそうな彼女にこちらはどうも落ち着かなくなる。
「そんな特別なことではありません。僕だって誰かを誉めることくらいあります」
「私にとっては特別なの!」
彼女はそう言ってやはり笑みを浮かべた。
少々大袈裟なのではないかと感じたものの、本人が満足しているところに水を差すのは無粋な気がしそれ以上は触れなかった。
「もう美大合格できるかな?」
「それはまた別の話です」
「ぶー……」
頬を膨らませる彼女に少し口元が緩んだ。
そこでお互い無言になる。
日中は静かな大通りであるが、さすがにこの時間帯になるとそれも一変する。丁度前方の信号が青になると一斉に自動車が動き出だした。ヘッドランプとテールランプが前へ後ろへと筋となって流れていく。
その様をぼんやりと眺めていると
「ねぇ、空くん」
突然東雲さんが前を向いたまま口を開いた。
「空くんは、絵を描かないの?」
自動車が俺たちを追い越して行く。一台、二台、三台と走り去り、赤い光の尾を残すとやがて消えた。遠くで短くクラクションが響き渡った。風はいつもより肌寒く感じる。
「今は、描くつもりはないですね」
「……そっか」
ほんの僅かな無言の時。
けれどそこで彼女は唐突に走り出した。前方の信号が点滅を始める。彼女は左右をササっと確認すると信号が点滅する中横断歩道を渡っていく。そして信号が赤になると同時に渡りきるとこちらへと振り返った。
「じゃあ! 今は私の相手をしてね!」
横断歩道越しに彼女が口に両手をあてて叫ぶ。
「ご指導ご鞭撻よろしくお願いします、空せんせー‼」
左右に自動車が走り抜けていく中にピシッとわざとらしく敬礼をする東雲さんが見える。その表情はやはり笑顔だ。
信号が再び青になり横断歩道を歩いて渡ると、待っていた彼女の前で立ち止まる。
どこか得意気にこちらを試すかのような笑みを浮かべて見上げてくる彼女。
「まぁ……」
俺はそのまま歩き出す。
「それが今の僕の仕事ですからね」
せめて給料分はしっかり働こう。
そんなどこか捻くれた答えに対し彼女は別に文句を言うこともなく
「うん!」
寧ろ嬉しそうに俺の隣りに並んだ。
駅に着くとここからは別の帰路となる。
「じゃあねー空くん! また明日ー!」
そう言って手を振ると彼女は改札を通りホームへと向かう。が、途中でこちらへと振り返ると再度大きく手を振った。
それに対して小さく手を上げると、彼女は満足そうに微笑み、人の流れの中に消えていった。
彼女が見えなくなると踵を返し自らも帰路へとつく。
辺りは一段と暗くなっており、西の空にあった夕陽の残り香も消え、本格的な夜となっていく。
夜空に浮かぶ月、微かに瞬く星々を眺めながら、僅かばかりの人工の光を道標としひとり歩く静かな夜道は少し、ほんの少しだけ寂しさに似たものを感じた。そして次の瞬間、そのらしくない感情に戸惑う。
理由を探し、そしてやめた。
「いやいや、ないない」
俺は自嘲するような笑みでその浮かんだ考えを振り払うと、家路を急いだ。
微かに遠くで列車の汽笛が響いた気がした。

