日の出前って意外と明るいんだ。
薄明るい空を眺めながら今更ながらに感じた。
目の前に広がるのは見渡す限りの群青色の海。彼方の水平線までずっと続いている。
波はそれ程高くなく、静かな波音が聞こえ、それが僅かに眠気を誘った。
視界に収まりきらない程に広い海。そしてそのすべてを包み込むように広がる海以上に広く、高く、果てがない空。
やはり空とは壮大なのだと改めて感じた。
夜明け前。
朝陽が昇るのを見たくなり早起きした。
未だ眠りに落ちている群青色の町。微睡みと肌を微かに震わす静謐な空気に満ちている。
静まり返り、人の気配のない町には、やはり早起きな鳥たちのさえずりと車椅子の車輪が地面を踏む音、そして寄せては返す静かな波の音だけが響く。
まだ日の出には間があるようで水平線に朝陽の気配は感じない。
急に思い立ってこうして海に来れるのは海の近くに自宅がある者の特権だろう。私の様に移動手段が限られているのなら尚更だ。そういう点では私は恵まれているのだろう。
私は海を眺めながら海岸沿いの遊歩道を車椅子でゆっくりと進んだ。
春先ではあるが、明け方はやはりコートを着ていても僅かに肌寒い。
ハアと吐いた息は一瞬空気を白く染めすぐに消えた。
ずっと続く砂浜に人の姿はない。こんな時間であるため不思議ではないが、やはり寂しいものだ。
季節外れなため日中でもそれほど人はいないらしいが、それでも地元の学生やデートする恋人、犬を散歩する人等はいるらしい。
少し進むと砂浜へと下りる階段があった。当然下りることはできない。下りたところで車椅子である自分は砂には入れない。
以前は夏休みになるとここの海でよく家族と遊んだものだ。一昨年の夏にも来た。その楽しかった記憶は私にとって大切な思い出だ。
今の私はもうあの頃のように過ごすことはできないのだから。そのことを寂しく思うが仕方のないことだ。過ぎたものを大切にするしかない。
僕泳げないんですよね
じゃあ私が教えてあげるよ!
「ふふっ」
不意に昨年の夏にしたやり取りを思い出し自然と笑みが漏れた。
再び車輪を回し遊歩道を進み始める。
何をしていても彼のことを考えてしまう。
彼と別れてから一週間が経った。
新しい場所での生活が始まった私であるが、ふと気付くと彼のことばかり考えている。
これまで彼と共に過ごした時間が、その光景が、彼の声が私の中に溢れてくる。
苦しい。心が痛い。
楽しく幸せな記憶にもかかわらず……いや、楽しく幸せな記憶であるからこそ、それらは私の心を大きく抉る。より大きなより戻しとなる。
失ってしまったから。もう二度とあの時は戻らないと分かっているから。
自分の中から大事な部分がごっそりと欠落してしまったかの様な喪失感。それによる耐え難い心の痛みに息苦しくなる。
けれど、この痛みは手放したくない。
この痛みは彼と共に過ごした時間、そこで育まれた彼への想いの証なのだから。それを手放すことなんて私にはできない。私はずっとこの痛みを抱えていく。
冷たい微かな風が私の髪を揺らし、小さな雫をさらって消えた。
私は目元を拭い、なびく髪を手で押さえると車椅子を進めようとして、その手を止めた。
道の先に人が立っている。
肩に大きな板状のバッグを提げており、真っ直ぐにこちらを見ている。
その瞬間、心臓が大きく痛い程に脈打った。
目を見開く。
私は車椅子の向きを変え、今来た道を慌てて戻り始めた。手で素早く思い切り車輪を回し、白い息を吐きながら必死にその人のいる方と逆に走る。
ダメ!
今あの人に触れられたらダメ!
車輪を回す。息は荒くなり、ハッ、ハッと白い息が途切れ途切れに吐き出される。
そこで
「あ⁉」
不意に車輪が何かに乗り上げた。視界は傾き、車椅子そして自身のバランスが崩れていく。
倒れる!
思わず目をつぶった。
一瞬の浮遊感。
しかし
身体に来るはずの衝撃は来ず、代わりに再び世界が傾く。
そして車輪から身体へと僅かな振動が伝わった。
目をゆっくりと開ける。
世界の傾きは戻り、両の車輪を地にしっかりと着けた車椅子に変わらず自分は座っている。
背後には荒い息遣い。ハッ、ハッと乱れた呼吸。
「…………何で?」
目に涙が溜まっていく。
「何で来ちゃったの?」
声は震え、同様に身体も震える。
ゆっくりと振り返る。
涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちた。
目の前に、車椅子のグリップを握り、乱れた白い息を吐く空くんが立っていた。
振り返った東雲さんは泣いていた。
久しぶり会って最初に見た顔が泣き顔とは……あまり気分の良いものではない。しかも逃げられるし。加えて転倒しそうになるのだからまるで油断ならない。流石にヒヤッとした。また俺のせいで怪我などされたら今度こそ申し訳が立たないところだった。
笑って再会とまではいかなくてももっと穏便なものを想像していたのに、つくづく現実はどうなるか分からない。
「ねぇ……何で来ちゃったの?」
彼女が涙声で再度訊ねてくる。その目には涙と共にどこか咎めるような色が浮かんでおり、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。
それを受け俺は一度目を瞑り、しかしすぐに開くとこちらも真っ直ぐに彼女のことを見つめ返した。
「太陽」
「え……」
「太陽に会うためです」
一瞬眉を顰めた彼女であったが、すぐにその意味に気付いたようで目を見開いた。そして顔を歪ませるとそのまま前に向き直り俯いてしまう。
いつまでも昇らない太陽。
待てども、待てども昇らず、それどころか遠ざかっていこうとするから。だから俺は自ら会いに来たんだ。
日が昇らないならこっちから会いに行っちゃおうよ
あの夏の日に彼女が言ったように。
「絵を見ました」
「そうなんだ」
「クロッキー帳の文も、読みました」
「……そうなんだ」
「君の気持ちは分かったつもりです」
「じゃあ……帰って」
彼女は背を向け俯いたまま呟いた。その肩は微かに震え、握られた拳は真っ白になっている。
「……それは、できません」
「帰って‼」
そこで彼女は叫びに近い声を上げた。
「分かったなら帰って! ダメだよ! こんなところに来たら」
初めてだ。彼女に声を荒げられるのは。このような感情を向けられるのは。この一年近く共に過ごした中で一度も目にしたことのなかった彼女の様子に、俺は少なからずたじろいだ。
「空くんは私となんていたらダメ!」
そんな俺を他所に彼女は声を荒げ続ける。
「私と一緒にいたら、空くんまた嫌な思いをする。本来しなくていい苦労をたっっくさんして辛い思いをする。そんなの私は嫌! 私のせいで空くんが不幸になるなんてそんなの絶対に嫌! 私はもう空くんに迷惑かけたくない!」
彼女は身体を震わせ、心の中の想いを吐き出すように声を上げる。
彼女の想いはクロッキー帳にあった文を読んで知っていた。まるで心臓を握り潰されたかの様な衝撃と痛みに息が苦しくなった。
けれどそれでもまだ甘い方だったみたいだ。
こうして改めて目の前で、彼女の声で直接その想いと感情をぶつけられる衝撃、その痛みに比べたらずっと。
「私は空くんの重荷になりたくない! 空くんを縛りたくない! 空くんの……夢の邪魔になりたくない……」
そしてこんなに痛い程に響くのは、きっと彼女の言葉その想いが嘘偽りのない本心だからだ。
苦労は、きっとするだろう。
ここ二ヶ月弱の間だけでも幾つもの苦労があったのだ。これから先の長い人生を考えたら何もない方がおかしい。辛く、嫌な思いをするかもしれないということは否定できない。それが分からない程想像力に乏しいつもりはないのだ。
彼女と居続けることによって起こる何らかの苦労、それを他人に、特に親しい人に負わせたくないという彼女の思いは理解できなくはない。
けれど
「勝手に決めつけないでもらえますか?」
それでは納得できない。彼女がひとり離れていくことを。
東雲さんが振り返るよりも早く俺は彼女の正面へと回り込み、しゃがむと目線を彼女へと合わせる。
驚いた様子の東雲さんはすぐにその表情を憮然としたものに歪めた。目の端には変わらず涙が光っている。
「僕が、いったいいつ迷惑だなんて言いました? 僕が不幸になるだなんてどうして分かるのですか? 勝手なこと言わないでください」
何故迷惑だなんて決めつけるのか?
何故未確定の未来を決めつけるのか?
「わ、分かるもん!」
「いいえ、分かる訳がありません」
自分のことは自分にしか分からない。そして未来のことは誰にも分からない。
「人の心なんて他人には分かりません。未来もどうなるかなんて分からない。想像はできてもそれだけです」
そう、結局生きてみなければ分からない。想像は所詮想像でしかないのだ。答え合わせは現実を生きてみた先でしかできないのだから。
「それなのに……一方的に決めつけ、すべてを諦めてひとり去って行こうというのだから納得なんてできる訳がありません」
前向きで、諦めないのが魅力なのに、そんな理由で諦めようとしていることが許せない。
彼女は何かを言いかけたが、それは言葉にはならない。けれど目だけは逸らさず真っ直ぐに俺を見てくる。
「僕のことが嫌いで、それで離れたいと言うなら、別にいいです。ショックではありますが納得はできます」
もしそうならそれは俺の責任で、文句は言えない。どう振舞おうと彼女の自由だ。
「僕のことは嫌いですか?」
東雲さんの顔が歪む。目の端から涙がこぼれ落ちる。
「ずるい……ずるいよ」
か細い声と共に彼女が俯き、こぼれ落ちた雫がポタポタと彼女の握りしめた手に当たって弾けた。そして身体がふるふる震えたと思った次の瞬間、勢いよく顔を上げた。
「嫌いな訳ないじゃん‼」
感情が爆発したように叫ぶ。その顔には怒りと悲しみの両方があり、目から大粒の涙がボロボロとこぼれる。
「私が、空くんのこと嫌いな訳ないじゃん! 空くんは私に夢をくれた。生きる道を示してくれた。優しくしてくれた。辛いとき支えてくれた。幸せな思い出をたくさんくれた。私にとって一番……一番大切な人。そんな人のことを嫌いな訳ないじゃん‼」
叩きつけられる激情は熱く、大きく、真っ直ぐで、俺の身には余るものだ。けれど口をはさまず、目は逸らさず俺はそれを正面から受ける。たとえ分不相応に感じても、恥ずかしくて居た堪れなくても決して逃げてはいけない。
「そんな大切な人が自分のことを大切に想ってくれる。ねぇ、空くん分かる? それがどれだけ嬉しいか空くん分かる? 私は空くんと一緒にいられて大切にしてもらって、本当に幸せだったんだよ?」
「それなら———」
「でもっ!」
言いかけた俺の言葉は彼女の強い声に搔き消された。
「だからこそ不安になる……」
しかし次いで出た言葉は、一転とても弱々しいもので、表情にも濃い陰が差しているように感じた。
「そんな幸せが終わっちゃったらどうしようって……」
涙はとめどなく流れ続けている。
「空くんは迷惑なんてしていないって言ったよね? 今はいいよ。それが本当だとして今はそれでいいかもしれない。けど、この先は? この先もずっと迷惑じゃないって言える? この先私と一緒にいて、たくさんの大変な目にあって苦労して辛くなって、私のことを迷惑に……邪魔に思う日が絶対に来ないって言える?」
「それは……」
「言えないよね。いいんだ、それは。分かってる。空くんだけじゃなくて誰もそんなこと言えない。だって未来のことは分からないんだもんね。人の心だって変わっていく」
寂しそうな声だ。そこには実感が籠っているように感じた。
親友を謳っていた者同士が僅かなキッカケで疎遠になったり、永遠を誓った恋人同士があっさりと別れてしまったり……人の心というものは日々の移り変わりの中で変化していく。変わらないようでいてもゆっくりと微妙に、けれど確かに変わっていっている。
それは東雲さんや俺自身も例に漏れない。
口では幾らでも不変を語れるけど、そんなものに確証なんてない。だって未来は誰にも分からないのだから。
「仲が良いと思っていたクラスメイトが話しかけて来なくなった。初め私のことを助けてくれていた子も何人か段々素っ気なくなっていった。私にアプローチをかけていた彼も離れていった……」
彼女の脳裏にはこれまで変わっていった人間とその光景が映っているのだろう。その顔には寂しさが滲んでいる。
「みんなではないけど、それでもやっぱりそういう人はいる。恨んでなんかいないよ? 迷惑かけちゃってたし、それは仕方ないんだと思う。ショックだけど……でも仕方ない。離れていくのを引き止める権利なんて私にはないし。我慢するしかないんだと思う…………でも」
彼女が俺のことを真っ直ぐに見る。その瞳にしっかりと俺の顔を映して。
そして次の瞬間、彼女の顔がくしゃりと歪んだ。
「空くんだけは……嫌。空くんだけは離れていってほしくない」
瞳から涙が溢れる。
「私……空くんにだけは嫌われたくない」
溢れた涙が頬を伝い流れ、落ちた雫を風がさらった。
ひんやりとした朝の青い空気の中を波の音が静かに響く。
ザザアァァ……ザザアァァ……
寄せては返す波はまるで身体を揺すり目覚めを促すようだ。
町は未だ微睡みの中で、目覚める様子はまだない。遠く彼方の水平線には朝陽の気配はなく日の出には至っていない。
けれど空は確実に明るくなってきている。
夜の純黒はやがて群青に、そして今や白へとその色を刻一刻と変えている。
未だ朝陽は昇らずとも世界は光に満ち始めている。
太陽は確実に近づいている。
夜は明けていっている。
俯き嗚咽を漏らす東雲さん。そんな彼女を見つめながら俺は口を開いた。
「先のことは……分かりません。絶対に嫌いにならないなんて、そんな保証はできません。そんな言葉は無責任だ。変わらず一緒にいるなんて難しいことなのかもしれない」
人は変わり、世界が変わり、時代も変わっていく。何があるか分からない、絶対はない世の中……人生。
けれど
「それでも、信じてみたいって思ったんです」
東雲さんが顔を上げた。その顔は驚き目を見開いている。
「縛りも義務も遠慮も何もなく、ただ自然と一緒にいたいと思っていたら、結果ずっと一緒にいた……そんな未来だったらいいと思ったんです」
「そんなの……」
「ええ、理想です」
そう、これは理想だ。
それが容易に実現できるほど現実は甘くない。聞く人が聞いたら鼻で笑いそうな、現実味のない子供じみた夢物語かもしれない。
けれど、それでも。
「そんな幸せな未来を信じてみたいって思ったんです」
不安だけれど、怖いけれど、それでもそれが今の俺が求めるものだから手を伸ばしてみたいと思った。諦めたくないと思ったのだ。
俺がそんな風に前向きに思えるようになったのは
「君のお陰だ」
「ぇ……」と彼女が目を見開いたまま声にならない声を漏らす。
「君のお陰でそう思えた。俺ひとりだったら諦めたままだった」
未来は分からないだの、生きてみるしかないだの偉そうに言っていたけれど、それが一番理解できていなかったのは他でもない俺自身だ。リスクを恐れ、傷付くことを恐れ、俺はいつも引いていた。逃げていた。一歩踏み出さず、手を伸ばすことを諦めていた。
そんな俺が多少でも変われたのは東雲さんのお陰だ。
「私なんて……」
「君のお陰だ!」
俺の被せる様な言葉に彼女は再び押し黙る。
明るく前向きで、歩みを止めず、手を伸ばし続ける、諦めない彼女の姿を美しいと思った。彼女になることはできないけれど、ほんの少しでも彼女の様に生きたいとそう思った。
それでも足踏みしがちで前に進めない俺を、彼女が引っ張ってくれた。
俺はずっと彼女に憧れ、その背中を見つめ続けていたのだ。
これからは彼女に引っ張ってもらわなくてもひとりでしっかりと歩けるようになりたい。そして今度は俺が彼女の背を押してやりたい。
「違うよ、空くん」
彼女がゆっくりと首を振る。
「私がいなくても空くんなら大丈夫だった。空くんはすごい人なんだから。夢があって、それを叶えるための翼もある。きっとこれからもっとすごい人になる。私はそう信じている。それでいつの日か空くんが求める『何か』も見つけられる。だから私となんていたらダメだよ。私じゃなくてももっと他に———」
「君だからだ!」
俺の強い声音に彼女の肩がビクッと跳ねる。それに構わず俺は彼女の両肩を掴み、目を真っ直ぐに見ると力いっぱい叫んだ。
「俺は! 東雲玲愛だから一緒にいたいんだ‼」
間近に見る目が大きく開かれる。目の端の涙がひとつポロッとこぼれた。
俺は彼女の肩を放すと、グリップを握り彼女の車椅子の向きを百八十度回転させる。そして少し離れたフェンスに立て掛けてあったバッグを手に取り、ファスナーを開けた。中から取り出した物は緩衝材によって包まれている。
俺は張り付けていた養生テープを剥がし、緩衝材を勢いよく取り払うと、彼女に向けて『それ』を掲げた。
東雲さんの目が大きく開かれる。
俺が掲げたそれは一枚の絵だ。
キャンバスにアクリル絵の具によって描かれた空の絵。
夏の入道雲が浮かぶ、透き通り澄み渡る、どこまでも続いていそうな青い空。
ここ数日間自宅に籠り寝る間も惜しんで描き上げた。
ブランクがあるため上手くはないかもしれない。技術的には大学で描いていた頃の方がきっとずっと上等だろう。
それでも『これが俺の絵だ』と自信をもって言える。彼女に対する想いを込めた、今の俺の全力だから。
「俺はもう諦めない!」
絵を掲げたまま俺は叫ぶ。
「悩んだり迷ったり、立ち止まったりすることはあるかもしれないけれど、前に進むことは諦めない」
俺は人より怖がりだからきっとこれからも必要以上に考え過ぎるだろう。不安に苛まれ、傷付くのを恐れ、動けなくなってしまうこともあるかもしれない。けれど、それでも前を見据えることはやめない。俯いても顔を上げ、振り返っても前を向いて、そして一歩ずつでも前へと足を踏み出して、未来に向かって歩いていきたい。
自らの望む未来を諦めたくない。
「だから……君も諦めないでくれ……」
君は俺の憧れなんだ。君が諦めるところなんて見たくない。
俺はきっと酷いことを言っているだろう。
傷付き、疲れ、それでも大切な人達のことを思い、必死に考えて決断したにもかかわらず、それを否定し、諦めることを許さないと言うのだから。酷で、そして自分勝手だと思う。
それでも、もし、ほんの僅かでも同じように望んでくれるなら、手を伸ばしてほしい。こんな形で諦めてほしくない。
だから、俺は……。
「……ずるいよ」
俯く彼女が言葉を漏らす。その肩は震えており、前髪で隠れた顔からは涙の雫がこぼれ落ちている。
「そんなことされたら……」
彼女がゆっくりと顔を上げた。
「諦めたくないって……思っちゃうじゃん」
彼女は微かに笑みを浮かべていた。
眉は歪み、口はわななき、目からはとめどなく涙がこぼれているけれど、それでも笑っている。
彼女は手で車椅子の車輪を回すとこちらへと近づいてきた。
俺は絵を再びフェンスに立て掛ける。
「私といるの大変だよ?」
彼女が俺を見る。
「分かってる」
俺も彼女を見る。
「この身体のことできっと迷惑かけるよ? かけ続けるよ?」
「かもしれないね」
「いっぱいワガママ言って、空くんを困らせるよ?」
「構わないよ。君のワガママには慣れているんだ」
彼女は俺を通り過ぎ、そして背を向けて立ち止まった。その背中は俺がずっと見続けていた背中だ。
「私の歩みは遅過ぎて、立ち止まって動けなくて、みんなから置いていかれて、私達だけになっちゃうかもしれないよ?」
その肩はやはり震えている。先の見えない道程に対する不安、取り残されたときの焦りと恐怖、そういった負の感情はきっと尽きないだろう。
けれどそれだけではないはずだ。今の俺はそう信じている。それに歩みが遅いのは俺も同じだ。それならきっと同じ歩幅で歩ける。たとえ二人だけになってしまっても、二人でいられるならきっと十分だ。
俺は彼女へと近づき、そして
「望むところだよ」
彼女の両肩に手を置いた。
「ゆっくりでいい。立ち止まってもいい。それでいいんだ。けれど安心して? たとえ立ち止まっても動けなくなっても、振り返ればそこには必ず俺がいる」
彼女の肩に置いた手にグッと力を込めた。『俺はここにちゃんといるぞ』と、そう彼女に伝えるように。少しでも安心させられるように。
「君を決してひとりにはしない」
「空くん……」
東雲さんは俺の左手を取るとそのまま自身の頬へと寄せた。
彼女の頬、こぼれる涙の熱さを感じる。俺は残った右手を彼女の頭に乗せるとゆっくりと撫でてやった。
そのとき、顔の横に眩しさを感じた。
目を向けると、彼方の水平線にゆっくりと浮かび上がる強い光が見えた。
日の出だ。
漸く朝陽が昇り出した。
太陽の光って暖かいんだな。
そんな当たり前のことを改めて感じた。
朝陽はジリジリとゆっくりではあるけれど確実に上昇していき、やがて半円、そして円へと姿を現していく。
それを中心に暖色に染まる空。白、黄、橙とグラデーションをつくり、夜を未来へと追いやりながら広がっていく。
逆光によりシルエットとなった雲は、その輪郭を溶かすように滲ませ漏れた光が溢れ出し、群青色の海は光の乱反射によりキラキラと輝いている。
海が、砂浜が、遊歩道が、町が、そして空が、朝陽に照らされ輝き、その分濃い影を長く伸ばす。まるで己の存在を示すかのように。
それは俺達二人も。
全身に光を浴び、その眩しさに目が眩んだ。遊歩道には俺と車椅子に乗った東雲さん、二人分の影が確かに長く伸びている。
俺達はこの世界に生きている。生きていく。
世界が光に満ちていく。
ああ……やっと夜が明けた。

