その絵を見た瞬間、私は青い空の中にいた。
 偶然立ち寄った美術館の作品展示。絵に特別興味があった訳でもなかったはずの私の心は一瞬にして奪われてしまった。
 絵ってこんなにすごいんだ。そう感じると同時にこんなすごい絵を描く人がいるということに驚いた。

 青乃 空

 その日からその名を忘れたことは一度もない。
 高校で美術部に入り絵を描き始めた。
 初めから上手くは描けなかったけど、絵を描くのは単純に楽しかったし、少しずつ上達していくのが目に見えて感じられて嬉しかった。
 何よりあの人と同じ道を歩んでいるということにドキドキしていた。
 どんな人なんだろう?
 あの人も今絵を描いているのだろうか?
 私の想いは募っていった。


 一年程経ったある日。あの人、空くんは私の前に現れた。
 空くんは絵をやめてしまっていた。
 すごくショックではあったけど、それでもこれまで絵しか知らなかった憧れの人が目の前にいること、ずっと会いたかった人に会えたことが嬉しくて私は彼に積極的に絡んでいった。
 空くんは一見物腰やわらかい、爽やかな男性という印象であったが、どこか冷めていて、人付き合いをせず、周りから距離を取る人だった。
 私が積極的に絡んでいっても一定の距離を取り、壁を張り、その内側に入れてくれない。近づこうとするとスルリと躱されてしまう。
 彼は静かに周りを拒絶していた。
 それでも私は諦めずに彼へと踏み込んでいった。
 その甲斐あってか、共に過ごすうちに徐々にその距離が狭まっていくのを感じた。
 面倒くさそうにしながらも何だかんだ私に付き合ってくれるのが嬉しく、たまに見せてくれる優しさが愛おしい。
 やがて私の中にある空くんに対する憧れとは異なる想いを自覚し、それは日に日に大きくなっていった。


 夏のある日。花火を見ながら空くんは絵をやめてしまった理由を話してくれた。
 酷い目に合ったのは自分なのに、そんな自分自身を責め、辛そうな空くんを見るのは胸が締め付けられ苦しくて堪らなかった。
 けれどその一方で初めて内側に入れてくれたこと、空くんの心に触れられたことが嬉しかった。それはそれだけ私のことを信用してくれているということだろうから。
 そのとき空くんに言ったことは今思い返しても恥ずかしくなる。その日の夜、ひとり自室のベッドで枕に顔を押し付けて悶えたくらいだ。
 空くん相手にあんなこと言うなんてきっと烏滸がましいことなのだろう。私はただの高校生に過ぎないのだから。
 けれど紛れもない私の本心だった。
 これからも空くんとずっと一緒にいたい。そう強く思った。
 そんな矢先、私は事故にあった。


 唐突に動かなくなった自分の両脚。
 今まで当たり前にできていたことができなくなり私は戸惑った。頭では理解できていたはずだが、心がまったく追いついて来なかった。
 不安と恐怖で押し潰されそうになる。
 けれどあまり辛い顔ばかりはしてられなかった。みんなに心配をかけたくなかったから。
 無言で私を抱きしめたパパとママ。
 私の前では明るく振舞い、病室を出た後泣いていた友達みんな。
 自分を責め、謝りながら私の手を握った空くん。
 この人達に、私に良くしてくれる人達にそんな顔させたくない。
 身体の痛み、精神的なショックに耐えながら私は自分の現状を受け入れるよう努めていった。
 身体を治療してもらい、車椅子での生活に向けてリハビリをし、必要な知識を身につけていった。
 そして、笑った。
 少しでも気分が上を向くように、みんなにも笑ってもらえるように。
 自分でできる限り前向きに生きていきたい。私にはまだしたいことがたくさんあるのだ。

 諦めたくない。

 私の新しい生活が始まった。


 時が経ち、車椅子での生活にも慣れ、学校にも復帰した。
 特別支援学校を進められたし、みんなと一緒に進級できないことも伝えられたが、それでも同じ学校にまた通いたいと私が無理を言った。
 多くの苦労をかけてしまうことを理解していたけれど、どうしても諦められなかったのだ。
 みんなとまた一緒に過ごすことを。空くんと一緒に過ごすことを。
 多くの人に助けてもらう生活。
 親やクラスメイト、先生達には感謝してもしきれない。
 みんなのお陰で私はこの身体でも不自由なく生活できた。心苦しく思う場面は多々あったが、きっと必要な感情だ。周りはともかく私自身は助けてもらうのを当たり前だと思ってはいけない。常に感謝の気持ちを忘れないでいようとそう思った。
 そういう気持ちでいるのだが、やはり心ない言葉はよく聞こえてきた。
 多くが好意的な人だということは分かっているが、悪感情というのは僅かなものでも強く印象に残り堪えた。
 すべての人が分かり合えるなんてことは無理だと人は言うし、私もその通りだと思うけれどやはり辛いものは辛い。
 きっとこの先ずっとそうなのだろう。
 何のハンデもない人だって大変なのだから、きっと私はより大変だ。こういうことにも少しずつ慣れていかなければいけない。
 そんなことを考えていたら空くんに心配されてしまった。
 そんな顔させたくない。
 笑ってほしい。
 前向きでいなくては。私は改めてそう感じ、笑い続けた。

 空くんに車椅子を押してもらうのは心地良い。空くんの歩みが私の歩みになって、より一緒に歩いている感じがするから。こういうのも悪くないと少しだけ思える。
 けれど、こうも思う。
 私の歩みに空くんを合させてしまっている、と。
 本当に一緒に歩いていていいのだろうか?
 仮にこの先ずっと一緒にいられたとして、自分の存在が空くんを縛ってしまうのではないか、多くのことを諦めさせてしまうのではないか。今は良くても一年後、五年後、十年後、同じ様にいられるかは分からない。
 私と一緒にいることに疲れて離れたくなるかもしれない。私のことを嫌いになるかもしれない。
 人の気持ちは変わるのだ。私にアプローチをかけてきていた中西君のように。
 空くんは違うと思いたいし、信じたいが、先のことは誰にも分からない。
 私の気持ちだって分からない。
 長年連れ添った末もし別れるようなことになったら、きっとどちらか、もしくはお互いが傷付くことになる。
 そうなるくらいなら今の内に終わりにした方がいいのではないか?

 考えに考え、散々迷った末、私は引っ越しの話を受け入れることにした。
 みんなと離れたくなくて、空くんと離れたくなくてずっと突っぱねていたが、いつまでもワガママでいる訳にもいかない。もう十分迷惑をかけてしまっているのだから。
 私の気持ちを尊重してくれているパパとママも内心では私に受け入れてほしいと思っていることは知っているし、学校のクラスメイトも一部だが私を重荷に思っていることも知っている。
 新しいところへ行けばパパとママへの負担も少しは減らせる。友達に気を遣わせることもなくなる。空くんの、あんな悲しそうな顔を見ることもない。
 それは私の望みでもあることだ。


 空くんには引っ越しのことを黙っていてほしいとみんなに頼み込み、私はひとり絵を描いた。
 先生にお願いして準備室を使わせてもらっての制作。期間限定の私のアトリエだ。
 絵のモチーフは私が前から描きたいと思っていたもの。
 空、そして空くん。
 私の気持ちを直接空くんに伝える勇気はないから、それらすべてを絵に込める。
 絵から始まったこの関係なのだから、絵で締めくくるのがきっと私達には相応しい。
 誰の助けもなくその決して小さくない絵を描くのはなかなか大変だったけど、それでもこれだけは自分だけでやり切りたかったのだ。
 私は諦めなかった。
 時間をかけ、諦めずにその私にしたら大きな絵を描き続けた。
 描いている最中、隣の美術室から空くんの声が聞こえてくる。壁で隔てられていようと聞き間違えることはない。この一年間ずっと隣で聞いてきた声なのだから。
 自然と目に涙が浮かび、溢れた雫が頬を伝う。
 私はそれを袖で拭った。

 この涙を空くんは知らなくていい。
 見返りなんてなくていい。
 私のことを覚えていてくれなくてもいい。
 ただ、ただ、空くんが幸せなら。

 私は空くんへの想いを、願いを乗せて筆を動かした。


 空くんと過ごす最後の一日はいつも通りに過ごしたいと思った。特別なことなどせず、いつも通りで。
 みんなが気を利かせて二人きりにしてくれたのは予想外だったけど嬉しかった。
 私はいつも通りに過ごした。
 空くんと絵を描き
 空くんと話をし
 空くんと歩き
 空くんと

 最後まで私は笑っていられたはずだ。
 別れた後、やはり堪えきれなくて泣いてしまったけど。
 それでも笑顔の私を見てもらえた。
 とても幸せな時間だった。
 だから
 もう十分。


 この先これ程までに想う相手と出会えるか、それは分からない。
 案外誰かと付き合うかもしれないし、結婚だってするかもしれない。
 先のことなんて分からない。
 けれど
 私は空くんのことをずっと忘れないだろう。
 これだけは自信を持って言えるんだ。