雲に遮られた太陽は未だその顔を出していない。
 日差しがなくなり雲の影に覆われただけで、僅かに肌寒さを感じる。やはり太陽の光というのは暖かいのだということを改めて理解した。
 とは言えよく晴れ、青空の広がる日だ。風はそれ程なく雲の流れは遅いものの、そうかからず再び太陽は顔を出すだろう。
 影に沈むのなどほんの一時のことだ。天気も、そして人生も。
 そんな空をフェンスに背を預け見上げながらココアをまた一口飲んだ。大分冷めたとろみのある甘さが口の中に広がり俺はやはり顔を顰めた。
 そこで扉の開く音がしたため慌てて目を向ける。

「お、悪い子だー」

 扉から顔を覗かせたのは在原先生で、俺はホッと安堵する。そんな俺を他所に先生は意地の悪い顔で近づいてきた。

「サボりですか?」
「君がそれを言うかな?」
「僕は休憩中です。もう少ししたら生徒の様子を見に行きますよ」

 今日も昼過ぎから部活動だ。春休みで時間も早く天気もいいので、部員は学校の敷地内に散り風景を描いている。
 在原先生は「ふーん」と気のない返事をすると煙草を咥え火を着けた。

「ここ禁煙なんじゃないですか?」
「さぁ? そもそも立ち入り自体が認められてないし」

 もっとダメじゃん。

 吹き出された煙が青空に漂いすぐに消えた。
 暫く二人無言で空を眺めていたが

「寂しくなっちゃったねぇ……」

 不意に先生はそう呟くと細く長く煙を吐いた。

「毎年この時期は別れが付き物だからね。多くの生徒を送り出してきたけど、やっぱり何人送り出しても慣れないもんだね」

 在原先生は担任になったことはないらしいが、それでも多くの生徒と関わっており、その分だけ別れを経験している。やはり思うところがあるのだろう。

「ま、今回はちょっとイレギュラーだったけどね」

 また吸い煙を吐く。
 煙が散っていく中に見た先生の横顔は俺の知る先生にしてはどこか寂しそうに感じた。

「明るくて元気で、良い意味でみんなを巻き込む子だったから尚更ね……いなくなると寂しいものだ」
「……そうかもしれませんね」
「へぇ……」

 先生が目を細める。

「……何ですか?」
「いや、変わらないと思っていたけど……そうでもないのかなって思っただけだよ。改めてね」
「何のことでしょうか?」

 在原先生は携帯灰皿を開くと吸い殻を揉み消す。そして新たな煙草を咥えると火を着けた。

「空君達がここを卒業したときのこと、覚えてる?」

 数年経っているがそれぐらいのことはまだ覚えている。俺の人生における数少ない卒業の日のことだ。もっとも全てを覚えているかと言えばそれは怪しいが。

「卒業式の後、美術部の卒業生と在校生全員で集まったじゃない? 美術室に。みんなが卒業を喜び祝い祝われながらも別れに涙を流していた。ウチの美術部は基本みんな仲が良いからね」

 大きないざこざはなかったように思う。内心どう感じていたかは知らないが、確かに表向きは仲が良かったかもしれない。喜びや悲しみを共有できる人間が集まっていた。

「そんな中、唯一人君だけは違ったよね。みんなが別れを惜しむのを冷めた顔で眺めていた。涙ひとつ流さずに」
「……ええ、そうでしたね」

 それは良く覚えている。『この人達は何でこんなに泣いているのだろう』と本気で疑問だった。別れを惜しんでのことなのだろうが、それはそんなに泣く程のことなのだろうか? 全く共感できず、正直引いていたくらいだった。
 もし本気で接して時間を重ねた故のその涙なのだとしたら、俺は誰とも本気で接することができなかったということなのだろう。
 けれどそれは当然だ。そもそも本気で接する気などなかったのだから。
 共感できないから関わらない。俺は人と共感することを諦めていた。

「そんな君が今回は随分とシケた顔でいるからさ」

 彼女と出会うまでは。

「……多く関わった生徒がいなくなったんです。僕だって多少寂しくなることだってありますよ」
「多さだけじゃないね。深さ……もでしょ?」
「……そうかもしれませんね」
「おや、素直」
「意地張るところでもないですからね」

 惚けたところできっとこの人には通用しないだろう。それなら素直になった方がいい。自覚があるなら尚更。

「どうだい?」
「え?」

 先生は空に煙を吐く。それはやはり漂う間もなく散って消えた。

「彼女と離れてみて」

 その顔は心底意地の悪いもので、俺は僅かに顔を顰めた。

「いつも君が指導のときに言っていたことでしょ?『離れて見てみろ』て。彼女と離れてみて、近くにいたときには気付けなかったものは見えたかい?」

 俺は小さく舌打ちし、黙って先生を睨みつけた。
 昔からこの人のこういうところは苦手だった。こちらが触れられたくないところ、言い返せないところを的確に突いてくるのが本当に腹立たしい。
 やはり彼の方が大人だと思い知らされる。

「意地悪し過ぎたかな」

 何も言い返せない俺を見て在原先生は「うえっへへ」と癖のある笑い声を上げた。
 それからまた暫くお互い無言でいたが、やがて先生は再び口を開いた。

「引っ越しの話が出たときね、東雲さん随分と抵抗したらしいんだよ」

 振り向くと先生は空を見上げていた。手に持った煙草はもう大分短くなっている。

「今の学校でみんなともっと一緒に過ごしたい。一緒に勉強したい。一緒に卒業したい」

 そこで先生はこちらに振り向くと俺の顔を真っ直ぐに見た。

「空くんと、もっと一緒にいたい……てね」

 心臓が大きく跳ねた。一瞬頭が真っ白になりすぐに彼女の顔が浮かぶ。
 手に持ったココアの缶が僅かにヘコんだ。

「抵抗して抵抗して、頑なに引っ越しを受け入れなかったそうだ。そして彼女なりに頑張ったようだね。親御さんを納得させるために。できることは自分でやるように努力してみたみたいだ」

 彼女が頑張っていたのは俺も知っている。できることをし、できるはずのことをし、できることが増えるとその度に喜んでいた。そのときの笑顔を俺は忘れられない。

「親御さんも彼女の意志は尊重したかったらしい。けれど心配は拭えず、彼女に内緒で引っ越しの話は進めていたみたいだ。そしてここにきて漸く彼女自身も引っ越しに納得した様で本格的に話を進めたらしい」
「彼女は……」
「ん?」
「彼女はどうしてここにきて引っ越すことを受け入れたんでしょうか?」

 それだけ抵抗してここにいることを望んでいた彼女の心を変えた要因とは何だ?

「さあ? そこまでは聞いてないけど」
「……そうですか」
「……空くんさ、彼女が引っ越したのは自分のせい……だなんて思っているんじゃない?」

 ビクリと肩が跳ねた。そしてそれを見逃さなかった先生はハアッと大きく溜息をついた。

「前にも言ったけど、彼女は君のことを全く責めてはいないと思うよ? そういう考えすら浮かんでいないんじゃないかな? あの子の場合。そんなことは君が一番よく分かっているでしょ?」

 分かっている。彼女が俺を責めていないことぐらい分かっているつもりだ。
 好意は持ってもらっていたと思う。そこの自覚はあるし、それが分からない程鈍感でもない。けれど

「分からないですよ……そんなの」

 それでも彼女が内心で何を思っていたかは分からないのだ。想像するだけなら幾らでもできる。自分の都合の良いことでも悪いことでも幾らでも。けれどそれはどこまでいっても想像でしかない。
 彼女の想いを知ることはできない。
 彼女は俺に何も言わずに行ってしまったのだから。

「まぁ……分からないよね」
「分からないならゼロじゃない。彼女が僕に不信感を持っていてもおかしくはないですよ」

 俺は何か間違えたのだろうか? だとして何がいけなかったのだろうか? それがなければ別の未来があったのだろうか?
 多くの疑問に多くの答えがまとまりなく浮かんでは消え、堂々巡りを繰り返す。渦巻く感情は罪悪感と後悔、そして多分の喪失感。
 俺はまた失ってしまった。

「変わったと思っていたけど、そういうところは相変わらずだねぇ……」

 在原先生は呆れたように笑うと、吸い殻を携帯灰皿で揉み消しパチンとフタを閉めた。

「空君、ちょっとおいで」

 そう言うと先生は屋上の出入り口へと歩いていく。

「どこにですか?」
「いいから。ついておいで」

 俺は立ち上がるとココアの残りを一気に飲み干し、先生の後を追って歩き出した。





 美術室には誰もいなかった。
 照明はすべて消えており、加えて日が陰っているため薄暗い。
 先生は準備室の鍵を開けると俺に目配せをし、中へと入っていった。
 彼に続いて俺も中へと入る。
 より薄暗く、少し埃っぽい美術準備室。片付けの途中ではあるが、備品を外に出していることもあり中は意外とスッキリしているようだ。
 先生は窓際で立ち止まりこちらへと向き直ると、顎で部屋の奥を指し示す。
 それに釣られるようにそちらを見て、俺は目を見開いた。
 絵だ。
 イーゼルの上に一枚の油彩画が置かれている。
 そのとき窓から眩い光が差し込み、まるで自然のスポットライトの様に室内を、そして絵を照らし出した。
 俺はふらふらとその絵に近づく。
 青空の絵。
 一面に青空が広がり、夏を思わせる白い雲が浮かんでいる。
 その空の中にはひとりの男性の姿。空を見上げるように佇み、その背には身の丈を遥かに超える大きな翼が生えている。
 写実寄りの空や人物に対してその翼は様々な物体や風景、抽象的な色面がまるでコラージュの様に集まって形作られており、実体はどこか不安定で、具象表現の中において唯一異質に感じた。けれど寧ろそれが俺の心を引き目が離せなくなる。
 誰が描いたかなんて訊くまでもない。この色使い、タッチには見覚えがある。この一年の間、俺が一番見てきた絵だ。

「東雲さんの絵だ。分かっているだろうけどね。ここ一週間この場所でずっと描いていた」

 その言葉に驚く。部活には出ずに帰っていたのではないのか? 全く気が付かなかった。
 皆知らなかったのか? そう思いかけたところで、恐らく知らなかったのはまた自分だけなのだろうと察した。

「……何故こんな隠れるみたいに」
「さあ? その心意までは分からないよ。ただ、彼女に頼まれてね」

 俺が隣の部屋にいる中、俺に気付かれないようにここでこの絵を描いていたのか? 何故そんなことをする必要があるのだろう? 何故俺に隠す?
 疑問と共に目を彷徨わせていると、そこでイーゼルの足下にクロッキー帳があるのに気付いた。拾い上げそれが彼女のものであることを確認する。
 開くとページを一枚一枚捲った。そこにはこれまで彼女が描いた作品のエスキース、そして俺が教えたことが書き込まれている。

「この絵は彼女ひとりで描いた。僕は何もしていない。指導も講評もその他の補助的なことも何もね。それが彼女の希望だったからだ」

『生徒の希望には極力沿わないとねぇ』とは以前からの在原先生の弁で、俺もそれが分からない訳ではない。
 けれどこのサイズの油彩画を今の彼女が何の手助けもなしに描くのは少々酷だと思った。

「必死に描いていたよ。大きな画面に一生懸命手を伸ばして。色を何度も作り直して。車椅子なのに何度も画面から離れて確認して、手を入れてまた確認して。汗をかきながら、涙を流しながら、それでも諦めずに必死に」

 彼女の姿を想像し胸が締め付けられる。

「そのクロッキー帳も何度も見ていた。空君から教わったことを忠実に守ろうとしていた。だからそのクロッキー帳はそんなにも汚れているんだ」

 表紙にも中のページにも生乾きの絵の具が付いており、中にはページ同士が張り付いてしまっている個所もある。それらを剥がしながら一枚一枚捲っていく。
 これまで描いたエスキースとメモ。それを読むに伴いこれまで彼女と過ごした日々、その光景が頭に途切れず淀みなく流れていく。作品の記録はその作品、そして彼女本人の記憶を呼び起こし、彼女と共にいた記憶は今も消えずに俺の中にあるのだと改めて実感した。
 やがて目の前の絵のエスキースが描かれたページになり、それ以降は白紙となった。残りのページをパラララと送っていく。すると

「……ん?」

 不意に通り過ぎたページの中に何か文章の様なものがあったのに気付き、慌ててページを戻した。そして

 空くんへ

 俺は息を呑んだ。












 空くんへ

 ごめんなさい。
 まずは謝らせてください。
 黙って転校してしまったこと本当に申し訳なく思っています。
 どうしても空くんには話せませんでした。
 一つは勇気がなかったから。
 もう一つは空くんにはいつもと変わらず同じ様に接してほしかったからです。
 私が転校することで余計な気を遣ってほしくなかったし、同時に私もこれまで通り空くんと過ごしたかったんです。
 全部私のワガママ。
 ごめんなさい。

 空くんは私にとって特別なんです。
 人に順位なんて付けちゃいけないんだろうけど、それでも空くんは私にとっての一番だって自信をもって言えます。
 空くんと過ごした時間は私にたくさんの気持ちをくれました。
 楽しいもの、嬉しいもの、中には辛いものもたくさんあったけど……それらすべてひっくるめて私にとって掛け替えのないものです。
 空くんにとって私との時間はどうでしたか? 楽しかったですか? それとも大変でしたか? たくさんワガママ言っちゃったし大変だったかもしれませんね。ごめんなさい。
 でも私にとっては本当に大切なものなんです。
 感謝しています。ありがとう。

 でも、だからこそこれ以上空くんに迷惑はかけられません。
 私の身体のことで空くんが大変な思いや辛い思いをするのは耐えられないです。
 私がこう言うときっと空くんは「そんなこと気にするな」と言ってくれるんだと思います。素直じゃなくて、愛想もないけど、それでも優しいから。
 けれど、そのことを他でもない私自身が許せないんです。私を大切にしてくれる人に私が迷惑をかけてしまうことが許せない。
 私と一緒にいたらきっと空くんを縛ってしまいます。
 大空を飛ぶことのできる大きな翼があるのに、その身体を翼を鎖でがんじがらめにして地上に繋ぎ止めてしまう。
 そんなこと絶対にしたくない。
 そんなの空くんには似合わない。
 私と一緒に地に落ちるなんてそんなこと許せない。
 だから私は空くんの前からいなくなります。
 空くんの夢を邪魔したくないから。
 空くんには幸せになってほしいから。

 私のことは忘れてください。
 私は大丈夫だから。
 ひとりでも何とかやっていくから。
 パパやママ、その他たくさんの人達に助けてもらうことになってしまうだろうけど何とかやっていくから。
 だから気にしないでください。
 もっとずっと時が経ってから『そう言えばあんな子いたな』くらいに思い出してもらえたらそれだけで嬉しいです。


 けれど
 最後にもう一つだけワガママを言わせてください。

 私は空くんのことを覚えています。

 私にとって一番大事な人。
 私のことを本当に大切にしてくれた人。
 一年にも満たない、一生からしたらほんの僅かな時間だったけど、大切な時を共に過ごせたこと。
 どうか覚えていさせてください。

 空くんはすごい人だよ。
 空くん自身は否定しそうだけど、私はそう思っている。前に私が連れて行ってあげるなんて言ったけど、そんな必要きっとないんだよ。
 今は少し休んでいるけど、十分休んで力を取り戻したら、またその大きな翼を羽ばたかせて大空を高く遠く自由に飛んでいくのだと信じているよ。
 そんな私の願いを込めて絵を描きます。
 上手く描けているかな(笑)
 大空を飛ぶ空くんをこの同じ空の下で私も見上げたいな。
 いつの日かこの空の向こうにある『何か』を見つけることができますように。


 あなたの教え子  東雲 玲愛












 細く長く息を吐き出す。
 クロッキー帳から顔を離すと改めてページを眺めた。
 ページはその紙のいたる所が不自然に歪んでいる。まるで一度水で濡れそれが乾いたかの様に所々が皺になり、文字も滲んでいる。
 顔を上げれば目の前に東雲さんの絵。
 青い青い大空へと臨む翼の生えた人。

 これは俺だ。

 自惚れなどではなく確かに感じる。この絵は他でもない彼女が描いたのだから。

「良い絵だね」

 それまで黙っていた先生が呟いた。

「絵ってさ、その人の立場によって誰に向けて何のために描くかが異なるんだよ」

 ゆっくりと歩み寄り俺の隣に立つ。

「一番多いのは圧倒的に自分のためかな。描くことによって自分が満たされる。そこから周りの反応を求めるようになると不特定多数の誰かが対象になってくる。楽しんでほしい、感動してほしい、もしくは認めてほしいという思いで描くようになる。仕事になるとクライアントのため、そしてその先にいる客のためだ。それが上手くいけばお金になるし実績にもなる。受験や何かのショーレースなら大学の教授や審査員に向けたものになり、求めるものは合格判定や賞の獲得だ。その人の立場によって描く対象と目的は変わってくる。けれど、過程はどうあれ結局最後に求めることは自分が満たされることだ。描くことによる楽しみ、周りからの評価、進学、就職、名声、金……まぁ色々だね。色々なもので自分を満たす。みんなそれぞれの都合で描いていてそれらはどれも正しい。それら同士を混ぜようとすると色々と軋轢があるかもしれないけど、個々に見れば少なくとも間違ってはいない。みんな多かれ少なかれ自分のために絵を描いている…………けれど」

 先生は東雲さんの絵を見つめ目を細めた。

「この絵は、君に、唯一人君だけのために描かれている。見返りなんて求めていない。自分が何か満たされることなんて考えていない。ただただ君のことだけを想って描かれている。だからなのかな? こんなに胸に響くのは。君の心を震わすのは」
「……大袈裟じゃないですか?」
「そう? でも……じゃあ何で」

 先生が俺を見下ろした。

「君は泣いているの?」
「え……」

 頬に手を当て気付く。指を濡らす温かいものに。それは頬から顎へと伝い、雫となって東雲さんのクロッキー帳のページにパタ、パタパタとシミを作る。

「な、何で……」

 戸惑い手で涙を拭うもそれは止まることなく瞳から溢れ出てくる。まるでせき止められていたものが決壊するかの様に。
 こんなことは初めてだ。俺はそんな簡単に泣いたりしないはずなのに。卒業式でも、皆に敵意を向けられたときも、あの日筆を折ったときですら涙など出なかったのに。何故こんなにも溢れて止まらないんだ。

「良い絵ってたくさんあるよね。上手い絵はもっとたくさんある。多くの人が絵を描いていて、それぞれの上手さや魅力がある。……けれど本当にすごい絵っていうのはそうそうない。それこそ涙を流してしまうような、そんな絵はね。そう、この絵のように」

 絵を見るが涙で霞んでしまい良く見えない。ただただ青い色が入り込んでくる。

「技術はすごく大事だよ。見る者に正しく魅力を伝えるために必要なものだ。その点で言うとこの絵は確かに技術的にはまだ未熟だよ。大分上手くなったけどね。それでもこれ以上に上手い絵は世の中に幾らでもある。上手い下手だけで評価してしまったらきっと数多の作品の中に埋もれてしまうだろうね……けれど」

 言葉を切ると先生は俺の隣にしゃがみ込み、改めて絵を眺めた。

「この絵には技術なんてものよりももっと大事なものが込められている。彼女が抱いた、抱いている、これから抱くかもしれない感情、過ごした時間、願い……それらのものがすべて込められている。そしてそれらがたったひとりの人に向けられている。だからこそこんなにも心が震える。技術なんてものを度返しして()()にくる」

 先生の拳が俺の胸をトントンと叩いた。

「これはそうそう簡単にできることじゃない。技術は誰でも身に着けられるけど、こっちはそうはいかないものだよ。そんな絵を高校生の女の子が描いてしまうのだからすごいものだ。羨ましくあり……悔しくもあるね」

 苦笑いする先生はその言葉通り悔しさが滲み出ているように感じる。いつも飄々としている彼には似つかわしくない意外な表情に僅かに驚いた。
 けれどそんな先生は溜め息を一つつくと一転、表情を緩めた。今度はどこか誇らしげだ。

「すごい絵だよ」

 ああ……その通りだ。

 すごい絵だ。そして彼女はすごい人だ。やはり俺なんかよりずっとすごいじゃないか。絵だけじゃない。きっと彼女は何だってできる。望めば何だってできる。勿論限界はあるだろうけれど、それでも障がい者だろうが関係なく彼女は自分の望むように生きられる。

 なのに

 何、諦めてんだよ?
 地に落ちるって何だよ?
 縛るって何だよ?
 忘れてって何だよ⁉

 クロッキー帳を握りしめる。歯を食いしばる。涙はとめどなく溢れてくる。
 彼女が俺を嫌いになったのなら、別にいい。俺に愛想つかしてもう一緒にいたくないと言うなら別にそれでいい。それなら納得できる。悪いのは全部俺だ。
 けれど、離れる理由がこんなのでは納得できない。
 俺は、どうすればいい?

「東雲さんに頼まれたからこの絵を君に見せた。けど、僕がするのはここまでだ」

 先生は立ち上がり、棚に寄りかかった。

「君はどうしたい?」

 俺がどうしたいか……。

「何もしたくないならしなければいい。絵やクロッキー帳が欲しいならあげるよ。いらないなら置いていけばいい。君が望むなら処分してあげてもいいよ? もしその他何か行動を起こしたいならそうすればいい。君の人生なんだから君のやりたいようにやればいい」
「後悔のないようにってやつですか?」
「いや? そうは言わないよ。何で後悔するかなんて分からないんだから。『やらないで後悔するより、やって後悔する方がいい』なんて言うけど、必ずしもその限りではないでしょ。やった結果とんでもない大後悔をすることだってあるんだろうし。そしてその責任は誰も取ってくれない。君が何か行動を起こすことが必ずしも正しいとは限らない。何を選んでも後悔するかもしれないし。分からないよ、誰にも。僕にもね」

 それはそうかと納得する。そんなのは所詮は傷付いた自分を納得させる後付けの言葉、もしくは行動した結果が少しはマシだった人間の言葉に過ぎない。それですべてが救われる訳ではない。きっとその影で馬鹿を見た人間が大勢いる。

「だからこそもう頼りになるのは自分の気持ちしかない。自分がどうしたいか、だよ」
「……それでもしダメだったら責任取ってくれますか?」
「嫌だよ。言ったでしょ? 責任は誰も取ってくれないって」
「教師として教え子に対するそれはどうなんですか?」
「君は元教え子だからなぁ」

 この野郎。

「うえっへへ」と先生は笑うが、こちらは笑い事じゃない。自分の人生が掛かっているのだから。

「君は失敗しない様に進み過ぎなんだよ」
「それに越したことはないでしょ? 失敗なんて誰もしたくない」
「まあ、それはそうだけどね。けど、失敗せずに生きるなんて無理な話でしょ。……人生を絵に例えるって話あるじゃない? 知ってるかな?」

 俺は頷く。確か過去にどこかで聞いたことがある。

「自分の自由に描いていけばいい、生きていけばいい……みたいにさ、まぁ大抵は前向きな意味合いで取り上げられることが多いんだろうね。けれど、きっとね? 人生を絵に例えたりなんかしたら、その描かれた絵はどいつもこいつもドロッドロだよ」

 先生は歯を覗かせ意地の悪い笑みを浮かべる。

「歪で、濁っていて、雑然としていて……まあ見るに堪えないだろうね。それは何も悪人に限らずだ。どんな善人だって、成功者だって決して綺麗なばかりじゃあない。どれだけ美しいものを求めていてもその過程で様々な雑味が混じっていく。形を崩し、色を濁し、バランスを崩しドロドロになる。拭き取り、削り、叩きつけ、ちょっと冷静になってまた新しく形を取り直し、新しい色を乗せていく。絵の具の層は増していき、その中で僅かばかり綺麗になった形や色に一喜一憂し価値を見出していく。それがきっと人生だ。紙の白を大事にした終始綺麗な透明水彩の様なものじゃない。咽るようで、扱い間違えればドロドロになる油彩の様なものだ」

 油彩の様というのはしっくりきた。人生はきっと一発決めはできない。

「失敗したり、上手くいかないときは不安だ。内心ハラハラしながら描いていくことになる。どれだけ年を取ってもそこは変わらない。不安と戦いながら悩み考え描き進めていくしかない」

 大人になれば悩みなどなく何でもそつなくこなせる様になると、そんな風に思っていた頃がある。けれどそんなことは有り得ないのだと今なら分かる。きっとその年代ごとに悩みはあって、それは一生尽きることはない。

「上手くいかないとき、絵だったら投げ出すこともできるだろう。その絵に見切りをつけてまた次の一枚を描き始めればいい。けれど人生はそうはいかない。用意された人生という支持体は一つだ。その一枚を捨てて次の一枚という訳にはいかない。そのたった一枚を不安と希望を抱きながら信じて描いていくしかない」

「それこそ一生ね」そう言った先生の笑みは正負両方の感情が込められて見えた。

「もっとも、もう一枚描いていいと言われて描くつもりはないけどね。描き始めが一番大変なんだ。それに何だかんだ人生をもう一度やり直すのはしんどい」

 真っ白なキャンバスと対峙し、そこに一手入れるときは多少の緊張感が伴う。ワクワク感もあるが、やはり不安が上回るのではないだろうか。描き進め絵ができ上がってきて漸く少し安心できる。
 きっと人生も一緒だ。
 世の中が未知で溢れていて自分のことすらよく分からなかった頃は、今となっては不安しかない。
 小、中、高と学生時代をもう一度なんて御免だ。その道程がなかなかに険しく面倒くさいことを今の俺は知っているから。同じ顔ぶれの学校生活も、受験も二度としたくない。世の中を一から知り直したくはない。
 それに比べればここまで人生走ってきた今の方が多少マシに感じる。
 相変わらず未知に満ち、後悔の多い人生ではあるが、それでも『自分』という存在は確立できているから。

「そう考えられるのは幸せな事なのだろうね。人生を初めからやり直したいと思うような絶望を味わっていないということなのだから。僕も……君も」

 先生は一瞬苦笑いを浮かべるが、すぐに引っ込めると俺を見据えた。

「君はもう描き出している。一手でも入れてしまえばそれはもう始まってしまっているということだ。それをなかったことにはできない。初めからやり直すことはできない。けれどここからその上に新たに描いていくことは幾らでもできる。まぁ描いたものを潰すのは抵抗があるかもしれないし、下に描いたものの絵肌によってはなかなか新たに描くのはしんどいかもしれないけどね。そして新たに描いたことによる結果は未知数だ。描くか描かないか、それは君の自由だ。けれどもし、その描いた先、進んだ先に何かを求めているのであれば」

 そこで先生はおもむろに懐から何かを取り出しこちらへと差し出した。
 筆だ。
 油彩用の筆。大分使い込まれ、汚れが目立つ。

「ここで筆を折るのは勿体ないんじゃない?」

 受け取り気付く。
 これは俺のものだ。
 卒業の際、美術部の伝統にならい先生に渡した俺の筆。今思い出した。
 そうか……俺も渡していたのか……。
 筆を握る。
 それは久しぶりのもののはずなのに驚く程に手に馴染んだ。たかが絵筆のはずなのに、まるで自分の身体の一部かの様に自然だ。
 東雲さんの絵に目をやる。
 青空の中、男は異形の翼を大きく広げ、遥か彼方を見据えている。

 俺がしたいこと。
 俺が求めるものは。
 俺は

 彼女のクロッキー帳を胸に抱きしめる。
 立ち上がりコートの袖でグイッと涙を拭い、先生へと振り向く。そして

「ありがとうございました」

 俺は深く頭を下げると、走り出した。
 準備室を飛び出す直前「うえっへへ」という癖のある笑い声が聞こえた気がした。



 走る。
 風を切り、景色を人々の目を置き去りにしただ走る。
 頭に浮かぶのは東雲さんのこと。
 これまで彼女と過ごした時、光景、その記憶が頭の中に満ち、溢れていく。
 彼女への意識していた想い、そして無意識の想い。そのすべてが自分の中に溢れ渦を巻く。
 日の昇らない暗闇の中、自分がどこにいるのか分からない。
 けれど
 自分がどこへ行きたいのか、そして何を求めているのかはハッキリと分かる。
 だから走る。
 それを手にするために。
 今度こそ手放さないように。


 家に着くとそのまま自室へと向かった。
 荒く肩で息を吐く俺の前にはクローゼット。
 あの日から一度も開けることのなかった扉に手をかける。
 躊躇ったのはほんの一瞬。
 俺はその扉を思い切り開け放った。