三学期終業式。
午前中に式が行われ、昼には学校は終わりになるらしい。
部活動の有無はその部による。本来美術部も今日は休みの予定だったのだが、東雲さんが今日から部活に復帰したいということで美術室を開けることになり、俺も出勤になった。
昼過ぎに美術室に行き準備していると、森川さん達数人が車椅子を押してやって来た。
「空先生こんにちは」
「はい。こんにちは。早いですね…………東雲さんは?」
入ってきたのは彼女達だけで東雲さんの姿はない。
「玲愛はまだ下にいますよ。だから空先生、迎えに行ってもらえますか? 二階の渡り廊下にいるんで」
「はあ、それはいいですが……」
いつもはバレー部やバスケ部の女子がおぶってくれていたのだが、今日は都合が悪かったのだろうか? 疑問に思いつつも彼女を迎えに行こうとし
「空先生!」
そこで森川さんに呼び止められた。振り返ると皆一様にこちらを見つめている。
「玲愛に優しくしてあげて」
俺は首を傾げた。
「僕なりに優しくしているつもりですが……」
少なくとも邪険にした覚えはない。周りにはそう見えていたのだろうか。
「分かっているけど、もっと。お願いします」
強制する様ではないのに有無を言わさぬ眼差しに俺は押し黙る。圧とは違う。まるで……。
「……まあ、分かりました」
戸惑いつつもそう頷くと俺は美術室を出た。
「お願いね」
去り際、もう一度声が聞こえた。
渡り廊下まで行くと作品の前にパイプ椅子に座った東雲さんの姿が見えた。近づくと彼女もこちらに気付き手を振ってくる。
「空くん久しぶり」
「一週間前にも会ったじゃないですか」
「あは、本当だ。もっと長く会っていなかったような気がしてた」
そうして笑みを浮かべる彼女に特に変わったところはない。俺の知るいつもの東雲さんだ。
彼女が目の前の絵に目をやったため、釣られるように俺も絵を見た。
東雲さんのひまわりの油彩画。
「この絵、空くんのお陰でみんなに見てもらえたんだよね」
どこか懐かしそうに目を細める彼女だが、そう昔のことではない。ただ、この絵が描かれた時期を思うと感慨深いものがあるのかもしれない。
「前にも言いましたが、実現に向けて動いてくれたのは在原先生です。僕は話を振っただけ。感謝するなら在原先生にしてください」
「十分だよ。空くんが提案してくれなきゃそもそもそんな話自体がなかったんだから。全部空くんのお陰!」
他意などなさそうな真っ直ぐな笑みを向けられて俺は顔を逸らした。真正面からの感謝というのは、どうも自分には過ぎたものに感じてしまい素直に受け取れない。あとは、単純に恥ずかしい。
彼女の顔が見れず、居心地悪く彼女の絵を眺め続ける。チラッと横目で彼女を伺うと、未だ俺に笑みを向けていたため再び慌てて目を逸らした。
「空くんって素直じゃないけど分かりやすいよね」
そうクスクス笑う彼女に何も言い返せず、僅かに顔に熱を感じながら俺は背を向けしゃがみ込んだ。
「ほら、美術室に行きますよ。するんでしょ? 部活」
「ふふふ、はぁーい」
彼女は揶揄うように笑いながら俺の首に腕を回した。
しっかりとおぶさったのを確認し、俺は彼女の足を持って立ち上がるとゆっくり歩き始めた。
「お願いします」
耳元に彼女の息がかかり、そのくすぐったさにゾクリとする。
「落ちないようにしっかりと掴まっててください」
彼女を気にしてそう声を掛けると、彼女は腕に少し力を込めより身体を密着させてきた。
「空くんのおんぶ久しぶり」
「確かにそうですね」
「私のおっぱいも久しぶり?」
「……落としますよ?」
「やーん! こわーい!」
ケラケラと可笑しそうに笑う彼女は喧しく、揶揄いは頭を悩ませるが、それが何故か嫌ではない。寧ろ安心感を覚えている自分がいる。そのことに戸惑うも、けれど否定はしたくない。
認めるしかないのだ。
何故ならここ数日心に空いていた穴が埋まっていくのを自覚していたから。
上機嫌ではしゃぎながらもしっかり腕を回す彼女をおぶり、俺は美術室までのその短い道のりを落ち着きながらもいつもより少し上機嫌で歩いた。
東雲さんをおぶって美術室に戻ると誰もいなかった。荷物もないため恐らく帰ってしまったのだろう。
せっかく東雲さんが部活に復帰するというのに少し冷たいのではないか……そんな風に感じなくもないがそこは個人の自由であるため文句は言えない。
そんな若干不服な俺に対して
「あは」
東雲さんは笑みを漏らした。そのどこか嬉しそうな様子に首を傾げる。
「……何で少し嬉しそうなんですか?」
「んーん、何でもないよ」
訊ねるも彼女は答えることはなく含み笑いで首を振るばかりだ。
先程の彼女達の様子から、事前に東雲さん達の間で何か話し合いでもあったのかもしらない。だとしたら何を企んでいるのか……そんな僅かな不安を感じた。
その後も誰も来ることはなく(顧問すら来ないってどういうことなのだろう)時間になったため俺達は二人で部活を始めることにした。
「何をしたいですか?」
描きかけの絵は持ち帰ってしまっており、モチーフも片付けてしまっていたため、そう彼女に訊ねると、彼女は僅かな思案の後「じゃあ……」と俺を見た。
「空くんが描きたい」
「……僕?」
「うん!」と頷く彼女に僅かに戸惑う。他人に描かれるのは得意ではない。写真もそうだ。自分が写ることに抵抗がある。学校行事等で撮る集合写真も昔から嫌いだった。
人に見られたくないのもあるが、きっと俺は自分で自分自身を見たくないのだ。そして見える形で自分が切り取られそれがずっと残ってしまうのが嫌なのだ。
絵も写真も映像もそこに自分の姿はいらない。そう口にしようとして
「……だめ?」
上目づかいで俺を見る東雲さんに言葉が詰まった。本来ならあざとく感じるはずのその仕草がそう感じないのはどういうことだろうか。
まるで懇願するように見上げてくる彼女に気圧され、散々迷った末、俺は溜め息をついた。
「……復帰祝いです」
「いいの?」
「ええ」
「やった!」
頷くと彼女は両手を上げて喜ぶ。
俺なんか描いたところで何も良いことなどないが、彼女が望むなら今日くらいは特別に許しても良いかもしれない、そう思った。
それから俺達は向かい合い絵を描いた。
彼女はスケッチブックを開いて、椅子に座った俺を描いていく。チラッと俺の顔を見ては目を落とし、また俺の顔を見る。
その度お互いの目が合い、それが妙にこそばゆかった。
思えばこうして絵を描く彼女を真正面から見るのは初めてかもしれない。真剣……と言うよりはどこか楽しそうで、その顔には微かに笑みが浮かんでいる。
「楽しそうですね」
「ん……ふふっ、うん! 楽しいよ」
スケッチブックに目を落としながら東雲さんが微笑んだ。
そうやって素直に楽しいと言えることが少し羨ましい。
「モデルが空くんだから尚更ね」
そこは素直に言わないでほしい。恥ずかしげもなく言う彼女に対して、気恥しくなり僅かに顔を歪めると彼女が声を上げて笑った。
「そうやって分かりやすく表情が変わる所もね……あ、顔逸らさないで!」
ぶーっと文句を言う彼女だが、その声はやはり楽しそうだ。
「こっち見て。私のこと見て」
その声に渋々顔を戻すと、彼女の大きな目と目が合い僅かに鼓動が速まった。
俺のことをジッと見つめてくる彼女。
「空くんの顔、見せて」
穏やかな優しい笑みを浮かべている。彼女の笑みは何度も見てきたがこの笑みは初めてだ。そんな気がした。
それに微かな違和感を覚えつつ「すみません」と改めて彼女へと向き直ると、彼女はその優しい笑みのまま手を動かしていった。
夕刻にはまだ間のある午後の美術室。窓から差し込む陽の光はどこか静謐さを帯びていて、東雲さんの頬を、手を動かす度に揺れるミディアムの黒髪を、伏せた目から伸びる長いまつ毛をも透明に輝かせる。
グラウンドの部活動の声は遠く微かで、東雲さんの鉛筆の音だけが静かな室内に響いており、それが心地良い。
優しい透明な光とまるで子守唄のような音に包まれた時間は、微睡みの中の様にゆったりと穏やかで俺を安心させてくれた。
この時がずっと続けばいい……そう感じてしまう程に。
その後、数回休憩を挟みつつおよそ三時間描き続け、絵は完成した。
彼女が自分で希望しただけあってなかなか上手く、それを素直に伝えると彼女は嬉しそうに胸を張った。
「空くんのことはずっと見てきたからね。誰よりも描けるよ」
得意げな彼女に苦笑が漏れる。大きく出たなと思いつつも案外その通りかもしれないとそう感じた。
片付けを終えると、残りの時間は二人で話をして過ごした。彼女がそれを望んだからだ。普段と同じ他愛もない話だったが彼女はいつも以上に楽しそうだった。
日は傾いていき窓から差し込む西日も徐々に弱まっていき、気付けば外は真っ暗に。下校時刻を迎えたところで俺達は帰ることにした。
「東雲さん、行きましょう」
帰り支度を済ませ、彼女に声を掛けた。が、彼女は何も応じず美術室内を眺めている。
何の変哲もないいつも通りの美術室。
それをただただ黙ってジッと見渡している。
「……東雲さん?」
怪訝に思いながら再度声を掛ける。
やはり返事はなく、三度声を掛けようとしたところで漸く彼女は振り返った。
「帰ろっか」
彼女の表情はいつも通りの笑顔だった。
住宅の向こうに微かに西日の気配の残る夜道を二人でいつもよりゆっくりと歩いた。
今日はたくさん話がしたいと東雲さんが望んだからだ。美術室であれだけ話してもまだ足りないらしい。
話をしながらゆっくり、ゆっくり歩く。
今日の東雲さんはいつも以上に口数が多く、よく笑った。まるでこれまで会えなかった時間を埋めるように、そしてこれから先の時間をも満たすように。
俺達の付き合いはきっとこれからもまだ暫くは続いていくし、いくらでも話などできる。だから焦る必要なんてない。
そんな俺の思いを他所に彼女は話し続けた。
やがていつもの横断歩道まで来ると赤信号に立ち止まった。
彼女は無言となり、それに合わせて俺も無言となる。
止まっていた自動車が動き出し、右へ左へと忙しなく流れていく。
「空くん」
やがて東雲さんが前を向いたまま口を開いた。
「絵は描けそう?」
俺は黙って流れていく自動車を眺めるが、当然そこに答えはない。答えはいつだって自分の中だ。
「分かりません」
ゆっくりと首を振った。
「そっか……」
「すみません」
散々背中を押してもらって、いや、手を引いてもらっておいて未だ俺はその答えを出せていない。歩き出せていない。そんな自分が不甲斐なく、何とかしなくてはと思うものの、では実際何か行動できるかと言ったらそれは難しい。
未だ空は深い闇に覆われている。どこに向かえばいいか分からず、俺は一歩も動けていない。
いったいどれ程の時間が経った?
何度同じことを語った?
何も進歩していないじゃないか。
俺はどこまで———
「大丈夫!」
そこで前を向いたまま彼女が声を上げ、俺はビクリと身体を震わせた。
丁度そこで信号が青になり、東雲さんが左右を確認すると自ら車輪を回しひとり走り出したため、急いで手を貸そうとする。が、
「そこにいて!」
彼女の声に俺は伸ばしかけた手を止め、足も止めた。
東雲さんは自身の手で車輪を回し、ひとりで横断歩道を渡っていく。そして渡りきるとこちらに車椅子ごと向き直った。
「私だってひとりで歩ける! だから……空くんだってきっと大丈夫!」
自動車の音にも負けない大声で言う彼女の姿。
遠目だが確かに浮かべた笑みに鼻の奥がツンとなり、身体に微かに震えが走った。
信号が再び点滅を始め、俺は横断歩道を走って渡る。渡りきると目の前の彼女が俺を見上げて「ふふっ」と笑った。
「きっと大丈夫なんだよ」
彼女はいつも俺を信じてくれる。こんな俺なんかを、だ。
何を根拠に……などと思うところもあるが、俺にはそれを口にすることはできない。人は人を無条件に信じることが、信じたいと思うことがある。俺はそれを知っている。他でもない俺が彼女のことを信じているのだから。
そこからはお互い黙って歩いた。
夜空には微かな星の瞬き。周囲には強い街の輝き。様々な光に照らされ見守られながら俺たち二人は歩いた。
やがて道の先に駅の明かりが見えてくる。
遊歩道の脇に立ち並ぶ街路樹が、電柱から電柱へと伸びる電線が、闇をはらい道を照らし出す街灯が俺達二人の道を示し、先を急かしてくるけれど、その中を俺達はいつもよりゆっくり、ゆっくり歩いた。
お互いがここにいることを感じるように。
あと少しだけ話がしたいと言うので、駅の改札前でもう少しだけ話すことになった。
帰りの時間が気になったが、しっかりと許しは得てきたらしく今日は遅くなっても大丈夫だそうだ。
丁度帰宅ラッシュの時間帯だけあり改札前は混雑している。都心に比べればずっとマシなものであるが、俺からすればこれでも十分辟易する。
そのためコンビニの出入り口の脇、人の流れから外れた所に並び話をした。
手にはそれぞれいつものコーヒーとココア。
会話はやはり特別なことなんて何もないただの雑談だ。けれどそれでいい。その何でもないものの積み重ねが、きっと後に振り返ったときに大事なものになるのだろうから。
それから幾つかの電車を見送り、混んでは引く人の波が収まった頃、ふと時計を確認するともう一時間程が経っていた。
「流石にそろそろ帰りましょう」
俺が言うと東雲さんは表情を硬くした。けれどそれも一瞬のことですぐにその表情を崩す。
「残念だけど……仕方ないね」
そう苦笑する彼女にまた僅かな違和感を覚えるも、それが何なのか確信が持てず、俺は次の列車での彼女の乗車介助を駅窓口に頼んだ。
列車が来るまでおよそ十分。それを確認しながら俺は東雲さんの下へと戻り、コーヒーを飲み干した。
「空くん」
そこで不意に東雲さんが俺を呼んだ。
振り向くと彼女がジッと俺のことを見上げている。その目は真っ直ぐに俺の目へと合わさり、顔にはいつもの笑みがない。
ただそれだけのことで心が僅かにざわつく。
そんな俺の心情を知ってか彼女がにへっと笑った。
「空くん、ちょっとしゃがんでくれる?」
「え?」
「いいから。お願い」
訳も分からず言われるままにしゃがみ込み、目を彼女の目の高さに合わせた。
目の前には彼女の顔。目は潤み、頬は微かに上気している。
その様に息を呑んだ。
「ああ、この子はやっぱり可愛いんだな」そんなことを今更ながらに改めて実感していると、不意に彼女の腕がこちらへと伸びる。そしてそれは俺の首に回されたかと思うとそのままグイッと俺の身体を引き寄せた。
思考が停止する。
周りの景色は消え、音は消え、あらゆるものが消え失せ、ただ自分と彼女だけが残った。
上手く頭が回らない中、ゼロ距離に彼女を感じ「ああ……俺は彼女に抱きしめられているらしい」という事に漸く気付いた。その途端に身体が一気に熱を持つ。
「東雲さん、何やって———」
慌てて離れようとするも、彼女はより一層の力で俺に抱き着いてきてそれを許さない。
鼓動が速く大きくなる。ドッ、ドッ、ドッという音が脈動と共に聞こえる。
それが身体を通して彼女に伝わることへの戸惑いと羞恥から再び離れようとしたそのとき
ドッ、ドッ、ドッ
俺のものとは異なる音を感じた。
やはり速く大きな音。それが身体を通して俺に伝わってくる。
「東雲さ———」
俺の首に回された腕にまた僅かに力が籠った。身体は更に密着し彼女の表情を伺うことは叶わない。
異なる音がそれぞれのリズムを刻み、やがて混ざり合いひとつになっていく。
俺の両手は行き場を失い暫く宙を漂っていたが、やがて彼女の背におずおずと伸ばされそっと控えめに添えられた。
どれくらいそうしていただろうか?
随分と長いことそうしていたように感じるが、きっと僅かな時間だ。
やがて東雲さんはゆっくりと俺から身体を離した。
それに伴い周囲の景色が戻り、音が戻り、駅の雑踏が返って来る。
彷徨っていた目の焦点が合うと目の前には彼女の顔。
目を潤ませ、真っ赤な顔で微笑んでいる。
「ふふっ……ドキドキしたね」
恥ずかしそうにはにかむ彼女から目を逸らした。
全身が熱く、鼓動が速い。高鳴る心臓はこの身を弾ませるかのようだ。きっと俺の顔も彼女同様真っ赤だろう。こんな様では言い訳のしようもない。
「何やっているんですか、こんな人の往来のあるところで」
恨めし気に彼女を見るも彼女の方はどこ吹く風だ。
「充電だよ。久しぶりだからたっくさん充電しとかないと。あと空くん成分も」
「その成分まだあったんですね……」
「これでまたこれからも戦えるよ!」
「何と戦っているんですか?」
「うーん……これからの人生とか?」
「何ですかそれ……」
こんな冗談めかしたやり取りもきっと照れ隠しだ。彼女はともかく少なくとも俺は。
速くなった鼓動と、身体の熱は未だ治まりそうにない。
そこで俺達の下に駅員がやって来て、もう間もなく列車が到着する旨を伝えられた。
東雲さんは一瞬寂しそうな顔をするも、すぐに笑みを戻すと俺へと向き直った。
「じゃあ行くね」
真っ直ぐに俺を見る。
「はい。気を付けて帰ってくださいね」
「うん!」
彼女は元気に頷くと右手を胸の高さまで上げパタパタと振った。
「じゃあね。バイバイ空くん」
微笑み手を振る彼女に俺も同様に手を振って返す。
東雲さんは目を細めやわらかな笑みを浮かべると、車椅子の向きを変え改札へと向かった。駅窓口の前より改札を通り、そのままホームの方へと進んで行く。
そして人の流れに乗るとやがて行き交う人々の中へと消えていった。
俺は手を胸の高さに上げたまま彼女を、彼女の姿が見えなくなっても暫く見送っていた。
この胸騒ぎは何なのだろう。
彼女のことで色々あり過ぎて神経過敏にでもなっているのだろうか? もしくはここのところ会わない日が多かったことで、寂しさから無意識に僅かでも離れることを拒んでいるのだろうか?
「ははは……」
思わず笑いが漏れた。
前者はともかく後者に至っては本当に俺らしくない。俺はいつからこんなに人に執着するようになったのか。
いや……違う。
人に対してではなく、彼女、東雲さんだからだ。
初めから良い子だとは思っていた。けれどその一方で鬱陶しくも思っていた。毎度毎度俺に絡んでくるのを煩わしく感じていた。なのに、共に過ごすうちにいつの頃からか嫌に感じなくなり、当たり前となり、あろうことか心地良さを感じるまでになってしまっていた。そして今や俺自身が彼女と共にいることを求めている。
馬鹿げたことだ。
相手は未成年の高校生。俺のような人間がそんな感情を向けるのは不健全というものだ。そう頭では理解しているにもかかわらず、その自分の気持ちを全否定することができない。
初めてだ。誰かに対してこんな感情を抱くのは。
俺は大きく首を振った。
ここのところ自分らしくないことが多過ぎる。その結果多くの人に迷惑や心配をかけてしまっているのだ。これで更に彼女にまで心配をかける訳にはいかない。
しっかりしなければ。
週末、俺は家でゆっくりと休んだ。
考えるのは次の部活動のこと。課題、モチーフはどうするか。どの部員にどう指導するか。
あとは東雲さんのこと。
彼女も三年生になる。受験を本気で考えているならそこも気を配ってやらなければいけない。勿論身体のこともあるし、親御さんとも相談しなければならないが、それら全てをひっくるめてそれでも受験したいと言うなら俺もできる範囲で応援してやりたい。
それと会話の話題をいつも彼女に委ねてしまっているのがずっと気になっていた。口下手な俺ではあるが、たまには頑張ってこちらから話を振ってみてもいいかもしれない。
俺にできることは少ない。ならせめてできることは精一杯やりたい。
俺は未だ立ち止まったままだ。けれど少なくとも立ってはいる。顔は上げている。もう蹲ってはいない。後は歩き出すだけだ。
前を向けているならいつかまた日が昇る日が来るかもしれない。また歩き出せるかもしれない。
また絵を描けるかもしれない。
俺にこう思わせてくれたのは、きっと……。
そんな希望を抱きながら俺は週末を過ごした。
そして週明け、気持ち新たに学校へと行った俺は、在原先生から東雲さんが転校したことを伝えられた。
引っ越しの話は前々からあったらしい。
主な理由は生活環境だ。
彼女の自宅も学校も決してバリアフリーが行き届いているとは言えない。今後長く生活していくことを考えたらやはり不便だし、手助けしてもらうのも限度がある。
彼女の祖父母の家はしっかりとバリアフリーを考えた造りになっているそうで、今後はそこで暮らしながら特別支援学校に通うことになるらしい。
それと、このままこの学校に留まったとしても、彼女は進級できないそうだ。
長い入院生活により授業が受けられておらず、出席日数も足りない彼女を進級させる訳にはいかないらしい。彼女本人にはもう随分と前にそのことは伝えられており、本人も納得していたそうだ。
ルールは守らなければならないし、言い分も分かる。ただ、それでも酷だと感じた。
『みんなと一緒に卒業したい』それが彼女の望みだったから。
彼女はそれらのことを言葉は勿論、表情や態度にも出さなかった。だから俺はこれからも一緒に当たり前に学校生活を送っていくものだと思い込み疑わなかった。まだ暫くは一緒なのだと。
先週末のあの日、彼女の態度に違和感を覚えたのは間違いではなかった。
彼女は最後のつもりだったのだ。
何故何も言ってくれなかったのだろう?
本人も、部員も、在原先生も、誰も、何も。
その答えをくれたのは森川さんを始めとした東雲さんの友人達だった。
「玲愛が、空くんには絶対に言わないでって……」
彼女に懇願されていたのだと泣きながら教えてくれた。
これは、きっと良いことだ。
彼女の今後の人生を考えたら良いことのはずなのだ。
諦めなければいけないことはあったが全てではない。友人と離れ離れになるのは寂しいだろうが、今生の別れという訳ではないし、連絡だって幾らでも取り合える。
将来進みたい道だってこれで閉ざされてしまった訳ではない。本人次第で如何様にもなる。きっと彼女なら叶えられるだろう。そう信じられる。
だから悲しむことではない。寧ろ喜んでやるべきだ。新しいところでの彼女の新たな生活を応援してやるべきだ。
俺にとっても何てないことだ。
また前に戻るだけ。
彼女がいなかった頃に戻るだけ。
だから何てことはない。
この胸の痛みも、きっと何てことはない。

