東雲さんの自宅はいつもの駅より五つ先に行ったところにあった。
駅前にそびえるマンション。その十階にある部屋だ。
「全て私の責任です。申し訳ありませんでした」
俺は深く頭を下げた。
「頭を上げてください。空先生のせいではありません」
優しい声がかかるが俺は頭を下げ続けた。その言葉を受け入れるには事が大き過ぎる。そう簡単に頭は上げられない。
その後何度も頭を上げるように促され、これ以上は逆に迷惑になると思い、ゆっくりと頭を上げた。
ダイニングテーブルを挟んで向かいに東雲さんの両親が座っており、こちらを見つめている。母親はこちらを気遣うように、父親は硬い表情で。
「本当に、申し訳ありません……」
俯き膝の上に置いた手を硬く握りしめた。
東雲さんが病院に運ばれた理由は褥瘡だった。
身体の一部が長時間圧迫されることにより血流が滞り、酸素が十分に行き届かないことによって起こる症状だ。
軽度であれば皮膚に赤みが出る程度で済むが、重度になるにつれ皮膚の損傷は激しくなりやがて壊死してしまう。そこから感染症等にかかり最悪死に至ることもある。
人は身体の同じ部分に力が掛かり続けると痺れや痛みを感じ、体勢を変えることによってそれを解消する。意識せずとも自然に体の一部に負担を掛けないようにしているのだ。
それに対して東雲さんのような脊髄損傷によって身体に麻痺のある者は、その箇所を長時間圧迫されても痺れや痛みを感じることができない。知らぬ間に血流が滞り、その結果褥瘡を引き起こしてしまう。
そうならないために頻繁に体勢を変えたり、身体を浮かせる等して意識的に身体を圧迫しないようにする必要がある。
脊髄損傷の障がい者に一生ついて回るリスクだ。
脊髄損傷のことについて勉強した中で褥瘡についても学んでいたし、それが危険であることも十分理解していた。していたはずだったのに。
「気を付けてあげなければいけない立場だったにもかかわらず、それが十分にできなかった。自分が甘かった。それが全てです」
結果的に東雲さんは褥瘡を引き起こした。
幸い症状は軽いもので、発見も早く適切な処置もできたため大事には至らなかった。けれどだからといって今回のことが許される訳ではない。俺の意識の甘さが彼女を危険にさらした、それは事実だ。
今回はたまたま大事にならなかっただけで、一歩間違えていたら取り返しのつかないことになっていたかもしれないのだ。
許されはしない。誰よりも何よりも俺自身が許せない。自分の不甲斐なさに憤りを感じる。
「本当に、申し訳ありませんでした」
そして謝ることしかできない自分の無力さにも。
唇を噛みしめ、膝には手の爪が食い込む。痛みは感じるが足りない。これくらいの痛みでは自分への罰には程遠い。彼女はきっともっと痛かった。
「君を責めるつもりはない」
そこでそれまでずっと黙っていた彼女の父親が口を開いた。
思わず身体がビクリと震える。彼女の父親と言葉を交わすのは病院以来だ。
「君のことは妻や娘から聞いている」
低く落ち着いた声だ。
「真面目で優しい人だそうだね」
「いえ、そんなことは……」
面と向かって言われても困る。自ら肯定することではないだろう。
「以前から娘の話に頻繁に君が出てくるので私も気になっていたんだ。娘が心配でね。聞くに相手は部活動の大学生講師らしいじゃないか。同級生ならまだしもだ。学生とはいえそんな年上の、しかも先生と言える立場の人間に入れ込んでいるんだ。親としては心配にもなる」
返す言葉もない。ごもっともだ。
「けれどそんな私の心中とは裏腹に娘は君のことを実に楽しそうに話していた。『今日は絵を褒めてもらえた』だとか『今日はこんな面白いことを話した』だとかね。その屈託ない表情から心底君のことを信頼しているのが伝わってきたよ。そうして娘の話を聞いているうちに私も君に興味が沸いてきたんだ。娘にこんな顔をさせる男とはいったいどんな男なのだろうとね。…………そんな矢先、あの事故が起こった。そしてそこで君と初めて出会った」
当時の光景が目蓋の裏に浮かぶ。
病院の白い廊下、灯る赤いランプ。寄り添い合う悲痛な表情の二人。
「私たちの初めての会話も君からの謝罪だったね。まさかあんな形での出会いとなるとは思ってもみなかった」
それは俺も同様だ。出会うにしてももう少し別の形で出会いたかった。にもかかわらず今回もまた謝罪で会うことになるとは。
「あのときは私も余裕がなくてね。君の人となりを観察するなんてことはできなかったんだが、後日、娘を何度も何度も見舞う君の姿を、そして君と話す娘の姿をこの目で見て、きっと良い青年なんだろうと思ったよ。君だから娘はあんなにも惹かれたのだろうとね」
彼の言葉に俺は俯く。そんなの俺には過ぎたものだ。俺は良い青年などではない。
何もできない、今自分がどこにいてどこに向かっているのかも満足には分からない、成人を迎えただけのただのガキだ。
「それで君の全てを信用した訳じゃない。数度しか会ったことのない人間のことを理解できたとは思わないからね。娘の全てを任せられるかと訊かれれば否だ。ただ、君が娘のことをとても大事に思ってくれていることは感謝している。そこは妻や娘と同じ思いだ。そんな君だから今回の事で責めようとは思わない」
隣で話を聞く彼女の母親もその言葉に同意するようにうんうんと頷く。
「娘が前向きに、それこそ障害などないかの様な気持ちで生きられるのもきっと君のお陰なのだろう。日常生活だけでなく、この先の未来においても君はあの子に寄り添ってくれている。それは感謝してもしきれないことだ。本当にありがとう」
彼女の父親が深く頭を下げ、続けて母親も同様に頭を下げた。
俺は驚き息を呑む。
「いえ、そんなこと……頭を上げてください」
幸い二人とも俺のことを思ってかすぐに頭を上げてくれた。人に頭を下げられるのはやはり慣れない。身に余る想いを抱えきれずよろけそうになる。
「娘には自由に生きてほしい。何も諦めることなく、自分の望む人生を精一杯に生きてほしいんだ」
「はい。それは僕も同じ気持ちで———」
「けれど」
そこで俺の言葉は掻き消された。
「それでも、あの子に障害があるのは事実なんだ」
悲痛な声、表情に俺は再び息を呑む。先程の毅然とした、少し怖さすら感じた様はなりを潜め、ただただ悲しみだけが滲み出ている。彼女の母親も顔を歪め、目の端には微かに涙が見えた。
きっと今の俺には二人の悲しみの半分も理解できないのだろう。
人の親でない俺には。
「これから先あの子は様々な苦労を背負って生きていくことになる。望んでも叶えられないことがあり、多くの諦めがある。理不尽がある。その分だけ悲しみがある」
それを目の当たりにしたことはある。ただそれは一部だ。この先数多くある理不尽のほんの一部。
「そしてそれは周りにいる人間も同様だ」
彼女の父親が真っ直ぐに俺を見た。
「多くの苦労を背負うことになる。決して投げ出すことのできない大きな、大きな責任が伴う」
背中を一筋冷たい汗が流れ落ちる。
「それだけはよく覚えておいてほしい」
そこで二人はもう一度深く頭を下げた。
俺はそれに対して何も言えず、ただ呆然と頭を下げる二人を見つめていた。
俺は、甘かった。
娘に会っていってくれと東雲さんの自室に通された。彼女に悪いと遠慮したのだが、是非という申し出を断り切れなかった。
彼女はベッドで眠っていた。思っていたより顔色は良く、小さな寝息を立てている。
呼吸に合わせ布団が上下するのを見て、彼女が今ここに生きていることを実感し心から安堵した。けれどそれと同時に恐怖する。こんな風に会うことが叶わない未来があったかもしれない。
途端に背筋が冷たくなる。同じだ。あの夏の日、彼女が事故にあった時と。
恐怖は当時の記憶その光景を思い起こさせ、当時と今の想いが重なり混ざり合い大きくなっていく。
鼓動が速い。息苦しい。
俺は首を振ってその光景をはらい、それから逃げるように意識を周りへと向けた。
明るい色調の部屋だ。女の子らしい部屋と言うのは適切ではないかもしれないが、少なくとも俺の部屋よりは可愛らしい部屋だと思う。その一方で部屋の隅に立て掛けられたキャンバスがどこか異質に感じた。
部屋を眺めていると、ふと勉強机に置かれた写真立てが目に留まった。
東雲さんと俺のツーショット写真。学内展示の際に撮ったものだ。
彼女は俺の腕を抱いて笑顔を浮かべ、対して俺は苦笑いだ。
そのすぐ隣の卓上カレンダーにはある日付に大きなハートマークが描かれており、その中に『空くんとデート』と書かれていた。
それに気恥ずかしさを、そしてそれ以上に胸を締め付けられる様な痛みを感じる。
あの日俺は彼女の期待に応えられたのだろうか?
彼女を楽しませてあげられたのだろうか?
辛い思いをさせてしまっただけではないのか?
俺は
「空……くん?」
ハッとして振り返るとベッドの中の東雲さんがこちらを見つめていた。
「すみません。起こしてしまいましたか」
ベッドの脇にしゃがむと彼女がこちらに手を伸ばしてくる。
こちらも手を差し出すと、すぐにキュッと握られた。弱々しい、すぐに解けてしまいそうな力だ。
俺も握り返すと彼女は微かに笑った。
「具合いはどうですか?」
そう訊ねるも彼女は何も答えず、虚ろな瞳でぼおっとこちらを見上げてくる。
寝起きでまだ寝ぼけているのだろうか? そう思い再度口を開きかけたところで
「空くん」
先に彼女が口を開いた。
「何ですか?」
「ごめんね」
「え……」
一瞬何を言っているか分からなかった。しかしすぐに理解が及ぶとそこで改めて絶句した。
「ごめんね。空くん。迷惑ばかりかけて……ごめんね……」
繰り返し謝罪する彼女を唖然として見つめ返す。
何故彼女が俺に謝るのだろう?
何故俺は彼女に謝らせているのだろう?
彼女は何も悪くないのに。悪いのは俺なのに。
「謝らないでください。君は何も悪くありません。寧ろ悪いのは僕の方です。本当にすみませんでした」
彼女の手を握ったまま頭を下げる。
悪いのは俺だ。
だからそんな顔しないでくれ。謝らないでくれ。
自分の身体が微かに震えているのが分かった。震えは手から手へ、彼女へと伝わっていく。
そこで彼女の手に僅かに力が籠った。
「違うよ」
頭を上げると、彼女がゆっくりと首を振り微笑む。
「違う」
それから俺は彼女に謝り続けたが、彼女は首を振り微笑むだけでそれを認めなかった。
言うべきこと言いたいことは山程あるのにそれを上手く言葉にできている気がせず、全てが空虚に感じ、もどかしく、悔しかった。
自分が弱いことは分かっていた。けれどここまでだとは思わなかった。俺はこんなにも弱かったのか。
やがて言葉も尽き、ただただ俺は微かに震える手で彼女の手を握り続ける。
彼女はその手を握り返すとやわらかく微笑み、目を閉じるとやがて静かに寝息を立て始めた。
その後も俺は暫くの間、彼女の手を握っていた。
東雲さんの傷は二週間程で治るらしい。ただ、傷の治療とその他もろもろの検査のため暫く学校は休むことになり、復帰後も部活動は少しの間休むそうだ。
彼女の自宅を訪問した日から数日経ったが、未だにあの日のことが繰り返し思い浮かぶ。特に彼女の父親の言葉は俺に重くのしかかった。
分かっているつもりだった。彼女が障がい者だということは。
けれど前向きで、将来に大きな展望を持つ彼女を見ていて、俺はそのことを忘れていた。
だから油断した。
結果がこれだ。
彼女に辛い思いをさせ、ご両親を心配させ悲しませた。
ご両親はあくまで本人の責任だと言っていたし、彼女自身も自らの責任としていたが、それに甘えるのは違う。
周りには周りなりの責任があるのだ。近く深く関わるのなら尚更それは大きくなる。それをまっとうできなかったのだからやはり俺の責任だ。
応援します
俺は彼女に言った。その気持ちに嘘はない。今だってそうだ。
けれど、本当にできるのか? 俺に。
自分自身のこともままならないのに。
「空先生!」
ハッと我に返ると美術部の部員が覗き込んでいた。
「ああ……すみません。ここの色が———」
謝り改めて絵の指導をしていく。
ここのところ仕事に集中できていない。無意識に考え込んでしまうことが増えた。理由は分かっている。それだけ俺にとって大事なことであることも分かっている。
ただ、それはここの生徒には関係ない。
今の俺は美術部の講師だ。そうである限り仕事が疎かであってはならない。
俺は気合を入れ直すと生徒一人一人の指導にあたった。
その際ふと一枚の絵が目に留まる。イーゼルに置かれた描きかけのデッサン。東雲さんのものだ。
今はまだ残してあるが、やがてモチーフを下げれば片付けることになるだろう。
未完で終わってしまう絵など今更珍しくないはずなのに、それを無性に寂しく感じた。
部活が終わりひとり片づけをしていると、美術準備室から在原先生が出てきた。腕に抱えていた大きな段ボール箱を床に下ろすと大きく息をつく。
「片付けですか?」
「んー、まあね」
美術室の一角には準備室にあった備品やモチーフ等が所狭しと積まれている。
「思い立ったときにやらないといつまでもやらないからねぇ」
「それ何度も言っていませんか?」
昨年の夏頃に始めた片づけは未だに終わっていない。少し整理して滞り、結局年を跨いでしまった。ずっと放置したままであったが、ここ最近になってまた急に片づけを始めたようだ。
「手厳しいねぇ」
先生は気を害した様でもなく「うえっへへ」と笑った。
それから二人ともそれぞれ黙って作業していたが、やがて俺は手を止めた。
「先生」
「んー?」
「僕、このままここにいていいんですかね?」
先生は一瞬手を止めたがすぐに作業に戻る。
「別に東雲さんも親御さんも君のことは責めてないと思うよ? 実際そう言われたんでしょ?」
「そんなの分からないじゃないですか」
言葉と本心が必ずしも同じでないのはこの世の常識だ。東雲さんはともかく両親は俺に対して思うところがない訳がないのだ。
「まあ、確かに? 分からないねぇ」
何だよ。同意すんなよ。
自分で言い出したことではあるが。その明確さのない態度に僅かに落胆する。そして先生が自分の欲しい言葉をくれることを僅かでも期待している俺自身にも。
「でも、分からないなら信じてやるべきことをやるしかないんじゃない?」
「分からないからこそ最悪の場合を考えて判断すべきなんじゃないですか?」
他人の心を自分にとって都合よくは考えられない。俺はそんなに前向きにはなれない。
そんな俺に先生はどこか呆れたように溜め息をつく。
「君はそういうとこ昔から変わらないねぇ」
「うえっへへ」と笑いながら先生は段ボール箱の中の資料をまとめ始めた。
「……どういう意味ですか?」
机でトントンと資料を揃えると先生はこちらへと振り向く。
「踏み出すのではなく、そうやって引くところだよ」
そしてニヤリと笑った。
その言葉と笑みに少し鼓動が速まる。
「何かの判断を迫られたとき、君はリスクを恐れて挑戦しないよね。全てとは言わないけど、その方が圧倒的に多い」
「それは……そうでしょう」
リスクなどできれば負いたくない。そのリスクが小さいならまだいい。けれどそれが大きければ大きい程それによる痛みは大きなものとなる。取り返しのつかないことだってきっとある。目先の利益に目が眩んでリスクを冒すなんて愚かだ。
「まぁ間違っているとは言わないよ? それが身を守ることにだってなるからね。それによって角が立たず、危険もなく、平穏無事に過ごせるなら良いことかもね」
「そうですよ。だからリスクなんて取るべきじゃ———」
「けど、それだけだね」
先生の言葉が俺の言葉を掻き消す。
「前に進むことはなく、何も変わらず、本当に欲しいものは手に入らず……。悪いことはないが、良いこともない。『何も事が無い』それは本当に良いことなのかねぇ」
どこか試すような目でこちらを見つめる先生。
「覚えておきな。現状維持に努めても現状維持はできないんだよ?」
窓から入り込んだ強い風がカーテンを大きくはためかせ、机の上の資料を舞い上がらせた。白い紙が美術室にバラバラと音を立てて散っていく。
「そして、それによって本当に大切なものを失ってしまうこともあるんだ」
その顔にどこか寂しそうな色を感じるのは、折角まとめた資料が散らかったからなのか、はたまた別の何かによるものなのか俺には分からない。けれどそれは俺の胸をざわつかせた。
「人生の先輩からのお節介だよ」
先生は散らかった資料を手早く拾い集めると、後ろ手を振って準備室へと消えていった。
およそ二週間が経ち、東雲さんが再び学校に来るようになった。傷も治ったようで元気な姿を見て安心した。
ただ、事前に聞いていた通り部活動は暫く休むらしい。そのため彼女の私物の一部を持ち帰るということで、復帰初日に部のみんなで手分けして彼女の画材や絵を彼女の母親が運転する自動車に運び込んだ。
「また一週間後ね!」
そう笑顔で手を振り彼女は帰っていった。
彼女がいない間も美術部は通常通り活動していく。
時折私語を交えながら制作する部員達。ボヤキながらも片づけをする先生。雑用をこなしながら指導する俺。いつもの部活風景。見慣れた光景。
ただ、東雲さんだけがいない。
それだけのことで心にポッカリと穴が空いてしまった様に錯覚する。自分は寂しいのだと自覚し戸惑うものの、しかし納得するしかなかった。ここで何も感じない程彼女との時間は薄くはない。
けれどその一方でそんな彼女がいない光景に徐々に慣れていくのを感じ、それがまた別の寂しさを感じさせた。
そんな喪失感を抱きながら俺は東雲さんのいない日常を過ごし、そして長い長い一週間が経った。

