その姿は探すまでもなく容易に見つけることができた。
改札を通り中央広場を真っ直ぐに歩いていくと、向こうもこちらに気付いていたらしく笑みを浮かべていた。
車椅子に座り手を振る東雲さんともう一人、大人の女性。小さくお辞儀をされたためこちらもお辞儀を返した。
「おはよ、空くん」
「おはようございます東雲さん……東雲さんのお母さんも、お久しぶりです」
「はい。お久しぶりです」
改めてお辞儀すると、東雲さんの母親もお辞儀し微笑んだ。
「病院以来……でしょうか?」
「……そうだと思います」
彼女とこうして話すのは、東雲さんが入院していたとき以来となる。ほんの二か月ぶり程度だが、妙に久しぶりに感じた。
親子なだけあって顔は東雲さんによく似ている。落ち着いた印象でそこは彼女と真逆に見えるものの、浮かべたやわらかい笑みは彼女を彷彿とさせ、やはり親子なのだと感じた。
「あの……本当にいいのでしょうか?」
そんな彼女に俺は恐る恐る訊ねた。
「?……何がでしょうか?」
彼女は首を傾げる。
「今日、私と東雲さんが共に出掛けることです」
「はい。勿論です。確かに心配はありますが、いつまでも家と学校の往復だけという訳にもいきません。少しずつ行動の範囲を広げていければと思っています」
「いえ……それも勿論そうなのですが」
一瞬だけ目を東雲さんに向けすぐに戻した。
「……私などと二人で出掛けるということです」
成人を迎えた男、それも先の事故のキッカケの一つである俺と出掛けることをどう思っているのかが気になる。不信感を持たれていてもおかしくないのだ。東雲さんからは両親の許しは得ていると聞いているが、改めて本人に確認しておきたかった。
「ああ、そちらに関しては何も心配しておりません」
俺の懸念とは裏腹に彼女はそう言って微笑んだ。
「病院であなたのことをずっと見ていました。何度もこの子のお見舞いに来てくれていましたよね。この子と話すあなたを、そしてあなたと話すこの子を見て、あなたのことをとても誠実で信頼できる方だと思いました」
「……そんなことでいいのですか?」
「はい。あなたと話すときこの子はいつも笑顔でした。本当に楽しそうで嬉しそうな笑顔。それが何よりなことなんです」
「私が彼女を騙しているのかもしれませんよ? 誠実な人間を装っているのかも。悪い人間ほど表情や身なり等外見の印象には気を付けると言いますし、口も上手いでしょうからね」
「もしそうならそういうことを自分から言わないのではないですか?」
「人によっては言うかもしれませんよ」
「ふふ、そうかもしれませんね」
口に手を当てて微笑む。
「あなたのことはこの子からよく聞いています。今日は空くんと何をしたとか、何を話したとか、毎日毎日本当に楽しそうに」
東雲さんに目を向けるとにっと笑いながら顔の横でピースした。
「この子はあなたのことを本当に信頼しています。この子が信じる人なら私達も信じてみようかという気になるんです」
「……恐縮です」
「この子のこと、よろしくお願いします」
「はい。承知しました」
そうして二人揃って頭を下げた。
「二人共硬い! あと話が長い! 空くん! 私のことも構って!」
東雲さんがぷうっと頬を膨らませて俺の袖をグイグイと引く。その様を見て彼女の母親は可笑しそうに笑った。
「ふふふ。では、お邪魔虫はそろそろ退散しましょうか。空先生、娘をよろしくお願いいたします」
そうしてもう一度深く頭を下げた。
東雲さんの母親を見送ると改めて東雲さんを見た。
白のハイネックニットに黒いキャミソールワンピース、足下は白いスニーカーと落ち着いた装いだ。どちらかと言えば快活な印象の彼女であるためその装いは少し新鮮に感じた。
「服、似合っていますね」
途端に彼女の表情がパアッと輝く。
「えへへ……ありがと!」
「花火のときに言うのが遅いと言われたので」
「それ言わなければもっと良かった……」
一転今度はハァ……と溜息をつく彼女だが、すぐに笑顔に戻る。
「時間が勿体ないから早く行こ? 今日は一日目一杯空くんと楽しむんだから!」
目をキラキラと輝かせる彼女にこちらも自然と口元が緩んだ。
「では行きましょう」
彼女の車椅子のグリップを握ると二人でゆっくりと歩き出した。
エレベーターを降りるとすぐに映画館の入り口が見えた。近づくにつれて徐々にキャラメルの香りが強くなってくる。
「この香り、映画館って感じだよね!」
そうウキウキしている彼女に頷き返した。確かに『これぞ映画館』といった香りだ。きっとこの香りに釣られて皆キャラメルポップコーンを買ってしまうのだろう。
俺は買わないけど。ブラックのコーヒーが飲みたい。
そんな甘い香りに誘われるように俺達は映画館の中へと入っていった。
館内は広く薄暗い。天井付近のモニターでは映画の予告映像が流れており、辺りにはより強くキャラメルの香りが漂っている。
土曜日にしては人が少なく静かだ。丁度上映中だからかもしれない。
彼女を待たせ、予約していた席のチケットを購入し、そのまま売店で飲み物を買う。
俺はアイスコーヒー、東雲さんはコーラそしてキャラメルポップコーンだ。
その購入の際、後ろにいた男二人の会話が耳に入った。
「あの子、メッチャ可愛くない?」
「ん?……おお、そうだな」
「すげータイプなんだけど」
横目で彼らの視線を追うと、その先に東雲さんがいた。分かっていたことだがやはり彼女は人の目を集めるらしい。
「けど……アレじゃな」
「な! 車椅子じゃなけりゃな」
「勿体ねー」
彼らは残念そうに漏らすと、何が可笑しいのかケラケラ笑った。
車椅子だったら何なんだよ?
彼らの声を不快に感じながら注文した品を受け取ると足早に東雲さんの下へと戻った。
それから少しして買い物を終えた男二人がこちらへと向く。そして俺と目が合い、ハッと表情を変えた。睨みつけてやると、二人は僅かに気まずそうな様子でそそくさと逃げていった。
「空くん?」
「何でもないです」
軽くはぐらかしそのまま話題を映画のことへと向けた。彼女に聞かせるようなことではない。
二人で話しながら待っていると、やがて開場を知らせるアナウンスが流れたため、俺達は人が集まり始めている入場口へと向かった。
「えっと……ここですね」
部屋の後方ブロック一列目。座席が並ぶ中にポッカリと空いたスペースがある。
車椅子専用席。
車椅子の観客が映画を観賞するための座席だ。座席と言っても座面等はなく、後ろの列とを仕切る手すりがあるくらいのスペースだ。そこに車椅子を止めてそのまま観賞することができる。
東雲さんの乗った車椅子を止め車輪をロックすると、そのすぐ隣の座席に腰を下ろした。
車椅子専用席がなかなか見やすい位置にあって良かった。劇場によっては最前列にあることもあり、人によっては観づらいとか。古いところではそもそも車椅子専用席自体がないらしい。
これまでこういう席があることは知っていたし、利用しているところを見たこともあるが、まさか
「まさか自分が利用することになるとは思わなかったよ」
東雲さんが苦笑いする。
「東雲さんはこの座席を利用したことのある貴重な存在ですね」
場を暗くしたくなくて俺にしては前向きなことを言うものの、直後、不謹慎だっただろうかと心配になった。けれど
「あははは! 選ばれし者だ!」
彼女は可笑しそうに笑うと俺の話に乗っかる。その表情に気分を害した様子はなく内心ホッとした。
「空くんは映画館ってよく来るの?」
「よくは来ないです。たまにですね」
「誰と?」
「誰とでもない。ひとりですね」
「え⁉ ひとりで映画って楽しい?」
「楽しいですよ? 映画観るのにひとりも大勢もないでしょ?」
映画はその内容を楽しむものだ。観る人数は関係ない。寧ろひとりがいい。誰にも邪魔されずひとりで物語に没頭し、観終わった後その余韻に浸りたい。
「うーん……そうかなぁ?」
けれど彼女はどこか納得しかねるようだ。
「そういう東雲さんは友達と来てそうですね」
「あ、うん! 部活のみんなとはよく来てたよ。最近はちょっと来れてなかったけどね」
彼女は静かに足をさする。
「だから今日、空くんと来れて嬉しいんだ―」
そう言って笑うとポップコーンを摘まみ口に入れた。
そういうことを恥ずかしげもなく言えてしまうところに少々の呆れ、そして照れを感じるが水は差さなかった。彼女が楽しめて満足できるならそれでいい。彼女にとって良い一日になればそれで。
やがて場内の照明が落ちていき、映画の予告が始まった。
俺は隣にいる彼女の息遣いを感じながら座席に深く身体を沈めた。
「よかった……よかったよぉ……」
東雲さんが目にハンカチを当てる。
映画館の外、エレベーターへと続く静かな廊下に鼻を啜る音が響く。
「まさか、あんなに泣くとは……」
「だってぇ……」
振り返った彼女の瞳は赤く潤んでいる。けれどそこでハッとして慌てて前に向き直ると再度ハンカチを目に当て鼻を啜った。
映画は青春恋愛ものだった。
上映中から啜り泣くのが聞こえていたが、ラストシーンで決壊したらしく、少々大変だった。その後お手洗いで極々薄めに施されていた化粧を直し、今に至る。少しは落ち着いたようだが彼女の様子を見るに完全に落ち着くにはまだ暫くかかりそうだ。
「寧ろ空くんは何で平気なの?……あんまり面白くなかった?」
鼻をぐずつかせながらチラッとこちらを伺う彼女は少し不安そうだ。
「そんなことありません。面白かったですよ」
恋愛ものに興味がないため正直期待はしていなかったのだが、思いのほか面白かった。良い映画だったと思う。
「でも、全然泣いてないし」
「僕はそうそう涙なんて流さないんですよ。昔からね」
高校を卒業する際、周りの同級生がボロボロ泣いているのに内心引いていたくらいだ。たとえ感情は動いても泣くまでには至らない。それによって誤解されることもあるが、まぁ、どうでもいい。
「東雲さんは……言うまでもないようですね」
再びハンカチを当てる彼女を見て苦笑が漏れた。
彼女が楽しめたのなら何よりだ。
その後エレベーターに乗り、下の階へ向かった。
途中止まった階でエレベーター内が(主に車椅子によって)いっぱいだったため、見送ってくれる人がいた。二人揃って頭を下げると、構わないとばかりに手を振ってくれた。それには感謝しかなかった。
エレベーターを降りると飲食店フロアへ。予定通り昼食にしようと思ったのだが、昼時であるためどの店も大分混雑していた。入ろうと思った店が満席であるためすぐには入れず順番待ちの人が多くいたため、断念せざるをえなかった。
中には明らかにスペースに余裕があるにもかかわらず断られた店もあった。バリアフリー面の不備を理由にしていたが、店内を見る限り体のいい方便に感じる。腹が立ったものの、揉め事を起こしたくなかったため大人しく引き下がった。
「ごめん……空くん」
気落ちした様子の東雲さんがぼそりと呟いた。
「何で東雲さんが謝るんですか? 君は何も悪くないですよ。他を探しましょう」
彼女を励まし店を探す。が、休日なこともありどこも混雑していて入れる店はなかなか見つからない。
俺はともかく東雲さんはこれを『デート』だと思っている。ならばそれに相応しい店に連れていってあげたい。そのためファーストフード等は控える。綺麗な服を着ているためラーメン等の汁が飛びそうな店も控える。そうして候補を絞っていくとますます入れる店はなくなっていった。
そうして店を探しているうちにビルの外に出てしまった。この付近に良い店はあっただろうかと頭を悩ませていると、東雲さんが俺に振り向いた。
「空くん! 私あれが食べたい」
そうして彼女が指差したのはたこ焼きだった。ビルの入り口脇にある小さな店で、辺りにはたこ焼きの良い香りが漂っている。祭りを彷彿とさせる香りだ。
「たこ焼きが食べたいのですか?」
「うん。普段からよく食べるんだ。美味しいよね」
「確かに美味しいし、僕は構わないですけど……」
デートにたこ焼きってどうなのだろう? 正直相応しくはないように思う。高級店である必要はないと思うが、せめて落ち着いて食事できるところに。
「空くん、変な気遣ってるでしょ?」
「え……」
呆ける俺に「ふふっ」とどこか嬉しそうに笑う東雲さん。
「たこ焼きにしよ! ほら早く早く!」
グイグイと引っ張る彼女に負けてたこ焼きを買う。その際店のおじさんに仲良しカップルだと思われ一玉ずつおまけしてもらえた。
東雲さんは「えへへ、えへへ」と終始ニマニマしていた。
天気が良く比較的暖かいため外で食べることにし、話し合った結果、俺達は駅ビルの屋上へと向かった。
駅ビルの屋上は庭園の様になっており、草木や花が植えられ自然の彩りを感じられる空間だ。家族連れやカップルも多く、ゆっくり過ごすのに向いている。
ベンチを見つけて座ると早速たこ焼きを食べ始めた。
「ん~! 美味しい~!」
東雲さんははふはふと美味しそうに頬張った。かなり熱そうだがそれでも美味しそうというのが勝った。
その様を眺めているとそれに気付いた彼女が首を傾げる。
「ん? 何? 空くん」
「いや……美味しそうに食べるなって」
「だって美味しいもん。美味しいものを食べると自然と顔が緩むよ」
「そういうものですか」
自分も一口頬張り、その思っていた以上の熱さに目を見開く。冷ましながら食べるものであることを失念していた。はほはほと苦しむ俺を見て東雲さんがケラケラと笑った。
冷たい水で流し込み、美味しそうに食べる彼女を見てふと思う。
「写真とか撮らなくていいのですか? そういうのSNSとかに上げるのでは?」
話には聞くし、周りにもそういう人間は多くいた。俺は全く興味ないけれど。
「んー……けど冷めちゃうし。やっぱり出来立ての熱々を食べたいじゃん?」
「これならそんなにすぐには冷めないと思いますよ」
口の中を少し火傷した俺の確かな見解だ。
「そっか……じゃあ、空くん撮って?」
スマホを渡される。彼女がたこ焼きを頬張ろうとするところを写真に収めた。
「うわぁ……何か恥ずかしいね」
俺からスマホを受け取り画像を確認しながら彼女が笑った。
「空くんも撮ってあげようか?」
「いや、いいです」
「SNSに上げないの?」
「上げないですよ。SNS自体やっていないです。寧ろすると思います?」
「あははー確かに」
自分のことを世間に発信する必要性を感じないし、他人にも興味はない。繋がりも求めてはいない。
「大体何でSNSに上げるんですか?」
個人情報を何故自ら晒すのか? 実際それによるトラブルも多いと聞く。
「んー……幸せのおすそわけ?」
「疑問形じゃないですか……。何れにせよ興味ないですね。分ける必要もない。そんなもの見ず知らずの他人と共有なんてできないですよ」
「え? できるよ? 共有」
「東雲さんはできるのかもしれませんね。まぁ共有しようとする意志自体は否定しませんよ。ただ、本当に共有できているかは正直怪しいですね」
少なくとも俺にはできない、しようと思えない。誰かと何かを共有なんて。それができる程他人を信用していないから。知らない人間なら尚更だ。
「でも、空く———」
「冷めますよ?」
自分のたこ焼きをつつきながら彼女の物を指差す。
彼女が「わわっ、そうだった」と再びたこ焼きを食べ始めるのを横目に、自分もたこ焼きを口に入れた。
空が青い。
冬の空は空気が澄んでおり、夏場に見るものよりも更に高く、広く感じる。細切れの雲は空気を纏っていて透明感そして存在感があり、そこには確かに空間があるのだという当たり前のことを改めて感じた。
こうして実物の空を眺めていると、透明感や壮大さにおいて自分の絵はまだまだ遠く及ばないのを実感する。
やはり現実には敵わない。
それでも挑む必要はあるのか?
諦めない理由はあるのか?
空に月が浮かぶ。白い、まるで化石のような無感情な月。
まるで俺のようだ。気力を抜かれ、空っぽで、石化したような俺と。
嘲笑い、同時に嘲笑われているようで自嘲気味な笑みが漏れる。
「空青いね」
「青いですね」
「日差しが暖かいね」
「暖かいですね」
「風が気持ちいいね」
「気持ちいいですね」
「ふふ」
「ん?」
不意に微笑んだ彼女に振り向くと目が合った。
彼女は何が嬉しいのか微笑むばかりで何も言うことはなく、やがてその目を空へと向けた。釣られて俺も再度空を見る。
高く広く澄んだ青い空。
冬の空気の中、僅かにこの身を包み込んでくるような日差しの暖かさと、肌を撫で髪を揺らす風の心地良さ。それは確かなものとして俺の感情を撫でていく。
「何だかさ、こうして空を見てるとあまりに大き過ぎて現実感がなくなるんだ。おかしいよね? 現実なのに。何だかさ、敵わないなぁ……って思うんだ」
自分と同じことを言い出す彼女に心臓が大きく跳ねる。
それは挑み続ける彼女には似つかわしくない言葉に感じた。けれどその一方で少しだけ安堵している自分もいる。彼女も自分と同じなのだと。
「でもさ……」
彼女の目は空へと真っ直ぐに向けられている。その目には何が映っているのだろう?
「負けたくないんだ」
膝の上の手をぎゅっと握る。
「負けてほしくないんだ」
俺は目を見開いた。
それはどういう意味なのだろう? 言葉通りなのだろうか、それとも……
彼女に何と言ったらいいか言葉を探していると、やがて彼女の方が先に「私ね」と口を開いた。
「描きたい絵があるんだ」
目を空に向けたまま言葉を紡ぐ。
「もし完成したら……空くん、見てくれる?」
そしてこちらへと振り向く彼女。
吸い込まれそうな大きな瞳。この空に負けない程に透明な瞳。
「ええ、楽しみにしています」
そう答えると、東雲さんは微笑み再び空を見上げた。
不意に彼女のミディアムの黒髪が風になびいた。ふわぁと微かに良い香りがする。
青い空の中、陽の光に照らされ輝く艶やかな黒髪を手で押さえ目を伏せる彼女、その横顔。
「綺麗だ……」
呟いたのは無意識だった。そして次の瞬間その言葉にハッとする。
俺は何を言った?
「……何が?」
こちらに振り向きキョトンと首を傾げる東雲さん。
「そこに植えてある花のことです」
俺は咄嗟に誤魔化し指を差した。陽の光を浴び風に揺れる花は幸いにも本当に綺麗だった。
「本当だ。キレイだね!」
そして微笑む東雲さんが花に向けるどこか慈しむような表情、その眼差しはその花以上に綺麗だった。
その後、周りで遊ぶ子供達のはしゃぎ声を聞きながら、西へと傾き始めた午後の日差しを浴びながら、春へと向かっていくのを感じさせる風に撫でられながら東雲さんと過ごした。
先程の映画のこと、学校の勉強の遅れを取り戻すのが大変であること、父親が過保護で少し鬱陶しいこと等様々な話をした。
取り分け印象的だったのが映画の話だ。
感想の言い合いなんて昔、家族と映画を観たときを除けば初めてのことだったが、意外と悪くないかもしれないと、ほんの少しだけ思った。
そうして話をしながら二人で過ごし、ふと気が付くと随分と時間が経っていたため、そろそろ次へ行くことにした。
「たこ焼き残っていますよ?」
東雲さんの舟に残っているたこ焼きを指差す。
「あ、本当だ」
彼女はその残りの一個にようじを刺し、そのまま食べると思いきや、こちらへと差し出した。
「あーん」
「いや……僕はいいです」
「あーーん」
「だから、遠慮します……」
「あーーーん!」
まるで引かず、ずいっとたこ焼きを差し出す彼女に折れ、少し躊躇いながらもそれを頬張った。幸い殆ど冷めていたため、先程の様に苦しむことはなかった。そして冷めていてもたこ焼きは美味しい。
「美味しい?」
「……美味しいですよ」
「ふふっ……共有できたね!」
どこか得意気な彼女に、俺は目を逸らした。
その後は駅ビルの中を二人でゆっくりと回った。
服は眺めるだけだったが、アクセサリーは身に着け俺に感想を求め、クレープを美味しそうに頬張った。
たとえ歩けなくなろうとも彼女自身は何も変わらない。
お洒落だってしたいし、甘いものだって食べたい。人が普通に求めるものを同様に求めているだけで、そこに障がい者であることは関係ない。
それでいい。
彼女は何一つ諦める必要はない。
「ちょっとお化粧直してくるね!」
多目的トイレに入っていく彼女を見送ると近くにあったベンチへと座った。
何気なく目の前の雑貨店を眺めていると不意に見知った顔の男を見つけた。以前東雲さんに付き纏っていた男子(名は何と言っただろう?)だ。知らない女子と一緒にいる。
彼はへらへらした笑みを浮かべていたが、こちらに気付くとその表情を硬くした。
「ちょっとお化粧直してくるー。そこで待ってて」
「え⁉」と彼が戸惑いの声を上げる間に連れの女子もトイレへ消えていく。残された彼は居心地悪そうにこちらを見ていたが、やがて少し離れたベンチに座った。
「どーも」
声を掛けると彼は無言で会釈する。
彼と話をするのは随分と久しぶりだ。校内で見かけた気もするが定かではない。
「今の、彼女さんですか?」
連れの女子が消えていったトイレの方を眺めながら訊ねると、やはり無言で小さく頷いた。
「東雲さんにご執心のようでしたが……随分とあっさりと乗り換えましたね」
彼がキッとこちらを睨みつけギリリと拳を握った。大分気に障ったらしい。そのまま無言でこちらを睨みつけてきていたが、やがて
「……だったら悪いかよ」
低い声で呟いた。
「いーや? 全然」
俺は軽く首を振る。
「あなたが誰に好意を向けようが、誰と付き合おうがそれはあなたの勝手です。僕がどうこう言うことじゃあない。あなたの自由にしてください」
予想外の言葉だったのか、彼は意外そうな顔をした。
「寧ろ脈のない相手にいつまでもしつこく纏わりついているより余程健全で賢いと言えるのではないでしょうか?」
しかしその後の言葉に一転、再び怒りを露わにした。
「俺はしつこく纏わりついてなんかいない!」
激昂し立ち上がる。
「そうですか? 聞く限りではそんな感じでしたよ?」
「聞くって……東雲から聞いたのかよ?」
「他に誰がいるんですか? 無理やりキスしようとしたんでしょ?」
「お、お前に関係ないだろ!」
彼は顔を真っ赤にして叫んだ。近くにいた人達が何事かとこちらを見る。そんな周りの様子に気を配る余裕もなく彼はふーふーと鼻息を荒くしている。
「そうでもないですよ。彼女は大事な教え子なんでね。無視もできないんですよ」
以前の彼女と出会う前の俺だったら無関係であることを疑わなかったかもしれない。関心を持たず、寧ろ面倒事として避けていただろう。
けれど今の俺には無理だ。無関係無関心を貫くには俺は彼女と関わり過ぎた。
「あなた理解できています?」
「何をだよ⁉」
「無理やり襲おうとしたんだ……あなた犯罪者ですよ?」
「お、俺は襲ってなんかいない! キスしようとしただけだ!」
「十分でしょ? それ。彼女が襲われたと思えばそれは襲ったってことになるんですよ」
彼が口を戦慄かせる。声を発しようにも言葉が出て来ないようだ。
「彼女が大事にしたくないって言うから何も起こっていないだけです。もし彼女の情けがなかったら、あなた……とっくに終わっていますよ?」
「しょ、証拠は⁉ 証拠はないはずだ!」
「ないでしょうね。だから具体的な罪には問われないかもしれない。法的制裁はないかもしれません」
「だったら———」
「ですが!」
俺はピシャリと彼の言葉を封じた。
「きっとあなたの世界は崩壊しますよ?」
彼が東雲さんに付き纏っていたこと、そして無理やりキスを迫ったことは事実だ。前者はともかく後者に関しては多くの者が問題視するだろう。
「クラスメイト、教師や保護者等に知れれば多少なりとも問題となる。更に話が表面化すればきっと多くの無関係な者があなた方のことを話題にするでしょう。僅かな正義感と多くの無責任な興味によって周囲に広まっていく。万が一SNSで拡散されようものなら更に大きな話になっていく。そうなればあなたは罰を受けることになるかもしれませんね。そしてそれ以上の社会的批判に晒されるでしょう」
もっともそうなったところでそれは彼の自業自得なので全く可哀そうだとは思わないが。罰を受けるべき者が罰を受ける、ただそれだけのことだ。
ただ、その一方で心配もある。学校が正しく対応してくれるとは限らないし、保護者がまともな人間かも分からない。話題にする人間の殆どは無責任だ。
被害者である彼女が理不尽に晒されることはあってはならない。あの子にこれ以上の悲しみはいらない。
いつの間にか彼の足は震えていた。自分の行動とその行く末を漸く想像できたのだろう。
「確定されたものではありません。ただ、その可能性はあるということです。これは脅しではありません。警告です。もっと身の程を弁えてください」
彼はこちらを睨みつけてくる。しかしそこには先程までの覇気はない。口を開くも何も発することなく閉じ、そのまま力なくベンチに腰を落とした。
それに合わせるように俺は立ち上がる。
「ま、大人しくしている限りは何もないでしょう。大人しくしている限りは。乗り換えたのも英断ですよ。その具体的な理由は知りませんけどね。ま、彼女さんとよろしくやってください」
そう言い残しその場を後にしようとした。その時
「仕方ないだろ‼」
彼の叫ぶような声が俺の背に当たった。
「東雲、全然俺に見向きもしないし……あんなに色々やってやったのに……クソッ! 恩を仇で返しやがって。この俺をフルとかありえないんだよ!」
振り返りはしない。代わりに大きく溜息をつく。こんなのに関わらないとならないなんて東雲さんも彼女さんも災難に感じる。
これ以上は時間の無駄だと思い、無視して去ろうとし
「それに、あいつ、あんな身体じゃねぇか!」
その言葉に再び足を止めた。そのまま振り返る。
「何だよ歩けないって? 車椅子って? どこに行くにも何をするにもその面倒見なきゃいけないんだろ? じ、冗談じゃねぇよ。何でそんなもの、あいつの人生なんか背負わなきゃいけないんだよ⁉ そんなの、そんなの俺の人生台無しじゃねぇか!」
人目もはばからず喚き散らす彼。溜まり澱んでいたものが一気に溢れ出したようだ。
今、俺はどんな顔をしているだろう?
どんな風に見えるだろう?
「歩けないようになったのだってきっと罰が当たったんだ! 俺のこと蔑ろにしやがったあいつに天罰が下ったんだ! そうに違いない」
喚く彼に向かって俺は無言で歩き出す。
自分の中にいる別の自分が「やめろ!」と叫ぶが、聞き入れられない。止められない。
俺は拳を強く握り、今もなお喚き散らす彼の顔にしっかりと焦点を合わせ、そして
「空くん」
その声にハッとなった。
慌てて振り返ると、そこには困った様な顔をした東雲さんがいた。
「しまった……!」そう悔いるもあまりに遅すぎる。
背後で息を呑むような気配がした。
東雲さんはゆっくりと近づいてくるとそのまま俺を通り過ぎ、彼へと向かっていく。そして彼の目の前で止まった。
「中西君、久しぶり」
「東雲……」
まさか本人がいるとは思わなかったのだろう。立ち尽くす彼の表情は硬く気まずそうだ。
店内BGMが場違いに感じる程にピリッと張りつめた空気の中、二人は暫し無言で見つめ合った。そして
「ごめんなさい」
突然、東雲さんが頭を下げた。
俺は驚き目を見開く。何故彼女が謝罪などしているのか意味が分からない。寧ろ彼女は謝罪される側のはずだ。
それは謝罪された彼も同様のようで「え、あ……」と戸惑いながら彼女を見つめている。
「中西君の期待に応えられなかったこと……本当にごめんなさい。きっと私が期待させる様な態度を取っちゃったんだよね? 私がもっとハッキリと言葉にしていたら迷惑かけることもなかったし、あの日、中西君のことぶったりすることもなかったんだと思う。だから……ごめんなさい」
そうしてまた頭を下げる東雲さんに対し「いや……俺は、そんなつもりじゃ……」としどろもどろに言葉にならない声を漏らしている彼は、先程喚き散らしていたのが嘘のように弱々しい。車椅子に乗る東雲さんよりもずっと身長は高いはずなのに、その姿は随分と小さく見えた。
「でもこれからはもう迷惑かけないから。中西君の人生の負担にはならないように私はちゃんと生きていくから、だから安心して?」
真っ直ぐに彼を見据えている彼女はこちらに背を向けており、その表情は分からない。にもかかわらず何故だろうか? そのとき彼女が微かに笑ったような気がした。そして
「それだけ。今までごめんなさい。あと……ありがとう」
最後にもう一度頭を下げると、彼女は自ら車椅子の向きを変えこちらへと戻って来る。そして俺のもとまで来ると俯いたまま俺の服をキュッと握った。
「……行こ」
囁くような声は微かに震えていた。
すんっと一つ鼻を啜る音がする。
俺は何も言わずに頷き、車椅子のグリップを握ると彼女と共に歩き出した。が、すぐに立ち止まると、背後を振り返る。
視線の先には呆然と立ち尽くす男。
「……最低だな。お前」
そう吐き捨て、再び前へと向き直るともう二度と振り返ることはなく、彼女と共に出入口へ向かって歩いていった。
門限が迫ってきたため、俺達は帰宅の途へついた。
列車は次が終点駅であることもあって空いており、俺達はドア付近に並んで立った。
車窓から見える景色が後ろへと流れていく。
過ぎ去っていく建物の間に西日がチカッチカッと輝き、やがて景色が開けると夕暮れの空が広がった。西日に照らされる街はシルエットとなり、そのノスタルジックな光景が今日という一日が終わりに向かっていることを告げているようだ。
俺の隣の東雲さんも差し込む西日に照らされながら、黙ってその景色を眺めている。
先程から彼女は殆ど喋らない。
それだけあの男との一件は彼女の心を抉ったのだろう。励ましはしたものの、どんな優しい言葉もどこか空虚で、あまり彼女のためになった様には感じなかった。
そうして何も言葉を掛けてやれないまま、列車は減速していき、やがて駅に到着した。
ホームへと降りた俺達は東雲さんの列車乗り換えのために別のホームへと移動する。幸い次の列車まではあまり待たなくて済みそうだ。
連絡路を通りホームへ降りるエレベーターを待っている際、不意に東雲さんが振り返り俺の袖を摘まんだ。
「もうちょっとだけ一緒にいたい……」
驚きも戸惑いもなく、俺は無言で頷くと連絡路を引き返し改札を出た。いつものコンビニで飲み物を買いそれぞれ一口飲むと漸く一息ついた。
「空くん……ごめんね」
ココアの缶を両手で持った東雲さんが俯き目を伏せる。
「何で君が謝るんですか? 君は何も悪くないでしょう?」
「それでもだよ。また迷惑かけちゃった」
その言葉に彼女の心情を知る。
「迷惑だなんて思っていないです」
「空くんは優しいからそう言ってくれるけどさ、でも私がたくさんの人に迷惑かけちゃっているのは確かだよ。友達にも、パパやママにも……空くんにも」
これまで彼女自身が迷惑をかけてしまったと感じたことは、罪の意識として消えずに彼女の中に蓄積されてしまっているのだろう。人のことを気遣える彼女だからこそ軽くは見れない。簡単には忘れられない。
それはきっと大事なことだろう。ただし限度はある。
「それは仕方のないことです。君が気にすることじゃあない」
彼女は悪くない。望んでこうなった訳ではないのだ。
「心ないことを言う人間は、まぁ、います。残念ながら。けれどそんな連中の声を一々真に受ける必要はないです」
差別や侮辱に取り合うことはない。ましてやそれで無理に自分を変えたり、気に病む必要はない。
「人に迷惑かけて踏ん反り返っているなら話は別ですが、君はそういう人ではないのですから。だから堂々としていてください」
未来に向かって歩んでいこうとしている彼女を障がい者というだけで邪魔することは許さない。あの男も、その他の人間も。そんな連中こそ『障害』ではないか。
「空くん……」
その顔を見るに全ては納得できてはいないだろう。けれどそれでも彼女は微笑んだ。陰りのある笑みだ。日中に見せてくれた笑みとは似ても似つかない、不安を抱かせる笑み。
無理して笑わないでくれ。
そう思うもそれを口にすることはできなかった。それが正しいことか分からなかったから。
俺は彼女の肩に手を置くと数回優しく叩いた。
「あの花火の日に君は言っていましたよね。彼と話すと」
花火が上がる中、自分の気持ちを確認するように、自分に言い聞かせるように
「謝って、それで自分の想いをちゃんと話すと」
そして宣言するように彼女は言っていた。
「ちゃんと言った通りにできましたね。」
その瞬間、ふるっと彼女の肩が揺れる。
「辛くて悲しくても、逃げ出さずに、ちゃんと彼に向き合えましたね」
彼女の震えが大きくなる。すんっと鼻を啜る音が雑踏の中に微かに聞こえた。
「よく、頑張りましたね」
「…………うん」
震える微かな声は確かに俺の耳に届いた。
俯き肩を震わす彼女の頭に手を乗せ、優しく撫でる。
俺らしくない行為だ。こんなのは俺のガラじゃない。それを自覚しながらも俺は彼女の頭を撫で続けた。
駅の改札前、大勢の人の目がある中ではあるが今は気にしない。今この時に限って俺は間違っていないと信じているから。
「君はすごい人です」
俯き、肩を震わせながらも彼女は小さく頷いた。
やがて次の列車が到着する時刻になり今日はお開きとなった。
「じゃあ帰るね。空くん。今日はありがとう! 楽しかった!」
笑みを浮かべる東雲さんの顔は目元が若干赤くなっているものの、それでも先程よりはずっと良い顔に感じる。
それにより俺の心もほんの僅かだが軽くなったように感じた。俺も大概単純だ。
「ええ、僕も楽しかったです」
自分にしては素直に言うと、彼女は一瞬驚いたように目を丸くした。
「うん!」
そしてすぐにパアッと笑みを浮かべた。
明るい笑み。
いつもの彼女の笑み。
俺が見たい笑み。
それが嬉しくて自然と口元が緩んだ。
「バイバイ! また明日ねー!」
彼女は手を振ると窓口前から改札を通り、いつもと同様に再度こちらに振り返ると大きく手を振った。窓から差し込む西日が彼女を包み、どこか現実離れしたような幻想的な黄金色に輝かせ、同時に確かにこの世界に実在するのだと証明するように彼女の影を長く伸ばす。
綺麗だな。
そう自然と感じた。
ブンブンと手を振る彼女にこちらも手を振り返す。すると
「またデートしようねー‼」
彼女が人目もはばからずに大きな声を響かせたため思わず咽かえった。
改札周辺の決して少なくない人々が何事かと俺達のことを見る。大多数の怪訝な目の中に僅かに生温かい目を感じ、いたたまれなくなった。
集中する正負両方の奇異の目の居心地の悪さといったらない。
俺が「やめろ、やめろ!」と身振り手振りで伝えると、彼女はしてやったりという笑みを浮かべる。そして西日に照らされ、多くの陰と影が行き来する雑踏の中へ消えていった。
帰宅し、自室のベッドに倒れ込む。
見慣れた天井を見つめながら考えるのは例のごとく東雲さんのこと。
彼女は自分が周囲に迷惑をかけてしまっていると負い目に感じている。
前に学校で聞いた陰口、今日のあの男の暴言、彼女に対する心ない言葉、悪意を目の当たりにした。きっと俺が知らないだけでもっと多くの悪感情に晒されているのだろう。
それらのものが彼女を傷付け、更に彼女の抱える負い目をより大きなものにしてしまっている。
そのような連中は無視してしまえばいいのだが、それが容易でないことは俺も身をもって理解している。
「気にするな」「君は悪くない」その言葉がどれだけ本心からのものであっても、当人はそれを簡単には受け取れない。真面目で誠実な人間なら尚更だ。頭では理解しても心が納得してくれない。そして探す必要のない自らの粗を探し、それを負い目として気に病んでしまう。
一方で言葉を掛ける方もその言葉をどこか空虚に感じてしまう。
実際俺の言葉が彼女のためになっている気がしない。どれだけ言葉を尽くそうともそれが本人に響かなければ意味がないのだ。
では、他に何ができるのかと言えば何もないのが現実だ。
善人がいる一方、確実に悪人がいるこの世界。
そんな世界で生きていくことのなんと難しいことか。無視も住み分けも同じ社会で生きている限り徹底はほぼ不可能だ。
だから心配になる。
彼女はこの先どれだけの心ない言葉、理不尽に晒されていくのだろう?
全てが未確定の未来。まだ見ぬ彼女の苦しみに不安を、そして憤りを感じた。
けれどその一方で彼女なら大丈夫なのではないか、という根拠のない期待もある。
俺なんかよりずっと強い彼女ならどんな悪意も跳ね返し、先を見据えて自らの歩みたい人生を歩んでいけるのではないかと、そんな漠然とした想いがあった。
私……負けないよ
あの日の言葉通りに彼女なら。
そんな不安と期待を行ったり来たりしながら週末を過ごし、そして週明け。
自宅のリビングで朝食のコーヒーを啜っていると、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。その震えの長さからどうやら電話らしいと急ぎ手に取り、画面に表示された相手の名前を確認するとそこで眉を寄せた。すぐに電話に出る。
「もしもし?」
『ああ、空君? おはよう。今大丈夫かな?』
聞こえてくるのは美術部顧問の在原先生の声だ。
「おはようございます。大丈夫ですよ。どうしたんですか?」
先生からの電話など普段ないため不思議に思いながらカップに口を付けようとして
『東雲さんのことなんだけど』
そこでカップを止めた。
『東雲さん、病院に運ばれたらしい』

