体育祭の準備や練習で、日々は慌ただしく過ぎていった。妙によそよそしいクラスと、変わらず仲良くしてくれる奏汰。心のよりどころである生徒会……。
 学校での僕をめぐる環境は極端によくなることもなければ、悪くなることもないまま――ついに体育祭当日がやってきた。
 天気は快晴。穏やかだった春の陽射しはいつの間にか夏のそれに変わっていて、学校指定の白いTシャツが目にまぶしい。朝早くに通学路を歩いていると、後ろから豪快に背中を叩かれた。
「姫委員長じゃん! 元気? 今日よろしくねっ」
 いつもの巻き髪をサイドでまとめた、ギャルの立花。
 彼女はあの写真が出回ってしばらくは様子を見ていたものの、ある日「まぁ、委員長は委員長だよね!」と納得したように言ってから、前みたいに話しかけてくれるようになった。
 クラスの中では、唯一普通に話せる女子だ。僕が出るダンスの種目のリーダーでもあり、練習中もこんな風に明るく声をかけてくれている。
「なんだ、立花かぁ……びっくりした」
「ちょっとぉ、暗いよ!? 緊張してんの?」
「いや、まぁ……。って、朝から元気だね」
「当然よっ! あれだけ練習したわけだし、今年は絶対に1位取ってやるんだからっ」
 歩きながら振りつけの確認をする立花は、相当気合いが入っているらしい。そういえば、去年は2位を取って悔しがっていたっけ。ぼんやりと考えていると、急に近づいてきた立花がこそっと耳元で囁いた。
「……ねぇ。委員長って最近、日枝と仲いいじゃん」
「え? うん……まぁ」
 いきなり聞かれて戸惑ったけれど、間違ってもないので素直にうなずいておく。
「茜がさぁ、委員長に聞きたいことがあるんだって」
「茜って……金原さんが?」
 金原茜といえば、今回のリレーの走者で、奏汰のことが好きなんじゃないかという疑いのある例の彼女だ。話の流れで、立花の後ろを歩いていた彼女がひょっこりと顔を出す。
「ごめんね、姫川……急に相談とかいって」
「ううん、べつに。……どうしたの?」
「いや、大したことじゃないんだけどさぁ」
 そう言うなり、もごもごと口ごもっている。
 大そうなことを聞きたいときの前置きだった。
「日枝って、どっちのデザインが好きだと思う!?」
 彼女が照れながら差し出してきたのは、2つのかわいらしいヘアピンで。ひとつはシルバーの星型のピンで、もうひとつは派手なピンクのハート型。
(いや……待て待て)
 たしかに日枝と仲はいいけど、女子がつけて嬉しい髪留めの種類までは……さすがにわからん。
「えーと、本人には……」
「恥ずかしいから、聞けないんだってー」
 立花がからかうような口調で言う。
 ……そっか。そういうこともあるか、うん。
 事情はわからないでもなかったが、適当なことを言うのも申し訳ないと思った。
「……ごめん。日枝が好んでつけそうなやつならわからなくもないんだけど、どっちが好みとかは、正直わかんないかな……。あとは、本人に似合ってるかどうかじゃない?」
 以前、日枝にトイレでピアスをつけられたとき、「やっぱり似合うわ!」と嬉しそうにしていたのを思い出して言った。
 彼女はその言葉に目をぱちくりさせ、ふたつの髪留めを見比べる。
「似合うかどうか、かぁ……」
「それでいったら、茜はぜっったいハートだよ!」
 そんな立花の言葉に、彼女はさらに顔を赤くして首のあたりをさすっていた。
「そ、そうかな!!?」
 嬉しそうにするその様子が、いかにも恋する女の子って感じで可愛らしい。
「じ、じゃあ、やっぱりハートにしようかな……」
「はーい。決定、決定」
「そうする。……ありがとね、姫川」
「ううん」
『頑張ってね』。
 そうつけ足そうと思ったのに、なぜか言葉に詰まってしまった。
(……なんでだろう)
 リレーの練習で楽しそうにするふたりを見たときと、同じような気持ちだった。
 応援したいけど、応援したくない。
 奏汰のことをひとり占めしないでほしい……。
 僕は腹の底から叫びたくなるような衝動を抑えて、いかにも優等生らしい言葉を選んだ。
「今日は……みんなで頑張ろうね。優勝しよ」
 そんな代わりの言葉に、彼女はこくりとうなずき、立花も「おーっ!」と高々と拳を突き上げていた。
 はしゃぎながらグラウンドに向かうふたり。
 その背中を見つめながら……僕は自分の心にある影が、いったいどんな形をしているのかについて考えてみる。スマホを取り出し、いつものメッセージアプリを開いた。
『明日のリレー、楽しみにしてるね』
 昨晩、僕が奏汰に送ったメッセージだ。
 一緒に帰ったあの日から、さらに1か月ほどが経って……。最近では、こうして毎日メッセージのやりとりをして、たまに通話をするのが当たり前になっていた。
 大した用事なんてない。
 それでも何となく声が聞きたいし、声が聞けないと寂しくなった。独りでいると、奏汰が今何をしているのかとつい考えてしまう。
 奏汰の返信はいつも早いけれど、昨日も3分後と早かった。
『おー。絶対にカッコいいとこ見せてやる』
『今、かなりハードル上がったけど大丈夫そ?』
『余裕でしょ。真紘のダンスも楽しみ』
『踊るの得意じゃないって』
『運動会のときの親みたいに、真紘だけが映った動画撮ってやるから』
 この後、僕が『無理』というスタンプを送って会話は終わっている。
 画面をスクロールしていると、ピコッと通知の音がした。奏汰からのメッセージだ。
『寝坊した』
 その内容に、つい笑ってしまう。
 奏汰の家からだと、急げばギリギリ間に合うくらいの時間だ。にやりと笑った顔のスタンプの後、『頑張ってね』と打ち込み――はたと気づいた。
(同じ『頑張ってね』でも、こういうときはためらわないんだな……)
 さっきの言葉の背景にあった気持ち。
 自分が奏汰の特別でありたい、みたいな……わがままな……。
(……独占、欲……?)
 名前をつけてみるものの、強い確信もなくて首を傾げる。
 僕はもやもやした気持ちを残したまま『待ってる』と打ち込むと、踊る変なクマのスタンプを押して、校舎までの道のりを歩いた。

 朝の誰もいない生徒会室は、不思議な魅力があって好きだった。
 書きかけのホワイトボードに、壁に貼られたたくさんのプリント。行事の運営に必要なものや荷物がごちゃっと置かれていて、誰の姿も見えないのにみんながここで生活してるみたいな雰囲気がある。
 僕はグラウンドに行く前に生徒会室に寄り、最後の準備を整えていた。
「アナウンス表は持った。トーナメント表の模造紙とペンはさっき小木が持って行ってくれたし、あとは……」
「姫川ぁ~っ!!」
 水沢の大声が廊下から響いてきて、思わず「ひっ」と引き攣った声が出た。
(ふか)()会長がぁ、挨拶の原稿を家に忘れたから1部印刷してほしいって!!」
「姫川ぁ!! 本っっ当に申し訳ないっ!!!!!」
 噂の生徒会長がすべり込むように部屋に入ってきて、驚いてまた変な声が出る。
 生徒会役員は変わった人も多いが、基本的にみんな面白くていい人たちだ。
 特に、この会長は本当に面白い。
 情熱的でユーモアもあるのだが、こういうミスが多くいつもあたふたしている。それでも学生からは圧倒的に(した)われていて、この生徒会に色んな意見が集まってくるのは、ひとえに深海会長の人柄なんだろうと思う。
「あ、大丈夫ですよ。印刷して持って行くんで……」
「ありがとう、姫川! 姫川は生徒会執行部の宝だな!! だが、俺はここで待たせてもらおう。なぜなら、もしあの原稿を忘れたことが佐野の耳にでも入ったら俺はっ……!!」
「あ、会長。見つけた」
「佐野だっ……! 佐野が来てしまったっ!」
「いいから、さっさとグラウンドまで来てくださいよ。あと、俺が書いた原稿を家に忘れたこと……今日という今日は許しませんからね」
 厳格な口調で言うのは、会長と同じく3年の佐野(さの)(みなと)副会長だ。会長は長身の副会長にTシャツの襟首をつかまれ、ずるずると引きずられていく。
(ああ……これは、たぶん助からないやつだ)
 一般的には仕事が少ないと言われる副会長だが、うちでは『会長のお世話係』という重要な使命がある。そして、生徒会長が話すたいていの言葉は副会長の原稿だったりもする。
 バランスが取れているのが、うちの執行部のいいところだった。
「助けてくれっ、姫川っ!! 連れて行かれるぅ!」
「あの、えっと……お大事に……?」
「あとよろしくな。姫川」
「はいっ」と元気よく返して、ファイルの印刷ボタンを押した。
(本当に、にぎやかな人たちだな……)
 どんなときでも頼れる仲間、という感じがする。
 僕はさっきまでのもやもやが晴れていくのを感じながら、原稿とアナウンス表をファイルに入れ、誰もいない廊下を走った。
 校舎を出たところで、誰かとぶつかりそうになって足を止める。
「うわっ! びっくりした~って……真紘か」
「奏汰っ」
 お互いに焦っていたようで、まったく気がつかなかった。とっさに謝ると、奏汰は「こっちこそ、ごめん」と笑う。
「ていうか……よかった。間に合ったんだね」
「おー。ウォーミングアップしてきたわ」
 最寄りの駅から全力で走ってきたらしい。
 こめかみからは汗が伝っていた。
 時計を見ると、集合時間ぎりぎりだ。
 本当に、間に合ってよかった。
「そっちは、生徒会の仕事?」
「うん、今日は体育祭の運営で色々と。ごめん、これから書類置きに行くから……」
「おー。じゃ、またあとで」
 片手を上げて挨拶をした奏汰が、何かに気づいたように声をあげた。
「どうしたの?」
「真紘、顔汚れてる。……ペンかな?」
 奏汰が腰をかがめる。顔が近づいてきたと思ったら、頬を手のひらでぐい、と拭われた。
「……取れねぇな」
「さっきトーナメント表にペンで書き足したときかも」
 そう思って右手を見ると、側面がインクで真っ黒に染まっている。
 奏汰は頬を指でこするようにして、汚れを落としてくれていた。顔が近く、無性にドキドキする。
 涼しげな瞳。よく見るとまつ毛が長いんだな、ということがわかる。
「……真紘?」
 奏汰が不思議そうに首を傾げていた。
 つい、じっと見つめてしまっていたらしい。
 恥ずかしい。
「ご、ごめんっ」
 思わず目をつむる。
 顔が見えないならドキドキしないかと思いきや、奏汰に触れられるだけで心臓が高鳴った。
(な、何だ……これ)
 最初はこんな顔の整ったやつにされるなら当然かと思っていたけれど、似たような場面なら今までに何度もあったわけで――急に動揺する理由もない。
 指は頬を何度か往復して、最後に唇にそっと触れてから離れた……ような気がした。
「はい、終わりー」
 奏汰の声で目を開ける。
 奏汰はいつもと変わらない様子で、いたずらっぽく笑っていた。
「……取れた?」
「ばっちり。……どうした? 顔赤いけど」
「な、何でもないっ! ありがとっ!」
 ごまかすように言って、踵を返す。
「……かわいい」
 奏汰のそんな声が聞こえた気がして振り返ったけれど、背中を向けた奏汰がどんな顔をしていたかまではわからなかった。

「あれ、姫川の顔が赤い。……どうした?」
 書類を水沢に届けたときにそう聞かれたけれど、暑さのせいにしてごまかした。グラウンドにはすでに全校生徒が集まっていて、ざわざわと騒がしい。
 開会式が始まることをアナウンスすると、一斉に移動した生徒たちがクラス順に二列に並んだ。
「ただいまより、第35回体育祭を開催いたします!」
 そんな開会宣言があり、プログラムは順調に進んでいく。優勝旗の返還、学校長と生徒会長の挨拶、選手宣誓、競技の注意、準備運動……。
 深海会長の挨拶は真面目だけどたまに笑いも起こるような、すごくいい内容だった。
 立ち振る舞いも堂々としていて、カッコいい。
 副会長にこってりと絞られ、しょぼくれていたのが嘘みたいだった。
(よかったな……)
 月並みな感想を抱きながらマイクを片づけ、僕も準備運動に参加する。
 競技はすぐに始まった。午前の種目は100メートル走、走り幅跳び、二人三脚、ダンス。
 クラスのみんなは競技に出つつ、ひとつの場所に集まって応援をしているようだった。僕はゴールテープ係という重要な役目を仰せつかったので、ひたすらグラウンドでテープを持つ。
 100メートル走が終わり、二人三脚が始まったときだった。
(あっ……)
 今朝、金原さんがやけに奏汰を意識していた理由がわかった気がした。
 二人三脚。ふたりはペアで走るらしい。
 彼女は朝と同じ、幸せそうな顔で奏汰と話していた。
(嫌、だな……)
 バラのトゲでも刺さったみたいに、心がちくちくと痛む。
 変だった。奏汰の隣に誰がいても、こんな風に感じたことはなかったはずなのに……。
(……金原さんと奏汰が、お似合いに見えるから……だろうか?)
 いわゆる陽キャで、顔の整ったふたり。明るく華やかで、たまに周りを巻き込んでは楽しげに喋っている。自分が奏汰のことをよく知らなかったとして、あのふたりがつき合っていると言われても、何の違和感も抱かないだろう。
(悔しい、んだろうか……)
 彼女の気持ちは、本物に見える。
 それなのに、「僕の方が」という気持ちが消えなかった。
 僕の方が奏汰に近いはずなのに。
 僕の方が奏汰をよく知っているはずなのに。
 僕の方が奏汰を……好きなはずなのに。
(好き……?)
 好きで、特別になりたくて、独占したい……。
 でも、それは……はたして友情と呼べるんだろうか?
(今の僕らは、どう考えても友達なのに)
「位置についてー!」
 先生のかけ声で、はっと我に返った。
 ふたりは片足同士を結び、肩を組んで位置についている。
 ピストルが鳴った。
 仮にもリレーの選手同士のペアだ。息も合っていれば足の速さもピカイチで、ふたりは後方のペアを引き離し、誰よりも早くゴールテープを切った。僕はハイタッチするふたりを視界に入れないようにしながら、淡々とゴールテープを持ち直す。
 明らかに嫉妬だ。この黒い気持ちを奏汰に悟られたくない。
「真紘ーっ!」
 足の紐をほどいた奏汰に名前を呼ばれ、振り返った。
「やったぜ」と言わんばかりのガッツポーズ。
(もやもやしてる、僕の気も知らないで……)
 そう思ったけれど、真っ先に僕に報告してくれたことは何よりも嬉しくて……。
「……おめでとっ!」
「おう!」
 僕は複雑な気持ちで笑顔を返し、ふたたびゴールテープの仕事に戻った。