夜、奏汰とビデオ通話をしていると、何気なく来月にある期末試験の話になった。僕は勉強については何も問題がなかったけれど、奏汰は両親が成績に厳しいらしい。
「今回は、ちょっと頑張らないとまずいかも……」
 そう話す奏汰の事情も考えて、家に遊びに行くのは夏休みに入ってからということになった。
「奏汰の苦手な科目って何だっけ」
「英語。でも、勉強しないとヤバそうなのは物理」
「物理は僕もかも。一緒に勉強する?」
「そうしよ。わかんないとこ教えて!」
 初めての恋人ができて浮かれる気持ちもあるけれど、勉強は今後の進路のためにも重要だ。僕も奏汰もクラスではわりと成績がいい方で、ふたりとも大学への進学が希望。
(一緒の大学とか……行けたり、するのかな……)
 キャンパスライフへの淡い期待を胸にしまい、試験に向けて気合いを入れる。
 週明けになり学校が始まると、生徒会もすっかりテスト期間モードになっていた。放課後。生徒会室では水沢が机に教科書を広げながら問題集とにらめっこしていた。
「おっ、姫川。お疲れさま~。勉強はかどってる?」
「水沢……。ここ、自習室だっけ」
「だって、勉強しないとさぁ! いいから、数学の問題だけ教えてくんない?」
(壮行会の準備は、試験の後かぁ……)
 明るく言う彼女にため息をついていると、奥で机に向かっていた会長がよく通る声で言った。
「そうだぞ、姫川っ!! 我々、生徒会メンバーは学生の模範になる必要こそないが、全学生の代表であるからには常にいい成績を維持する必要があって……」
「深海会長。そういうのいいから、英単語覚えてくださいよ。今日はこの単語カードを覚えきるまで帰しませんからね」
 会長は副会長に英語の勉強を見てもらっているらしく、いつもの光景には謎の安心感すらある。
「姫川、助けてくれっ! 佐野が今日も厳しいっ!」
『○○できるまで帰れません』なんて、テレビや動画の企画みたいでちょっと楽しそうな気もするんだけどな……。
 会長をなぐさめつつ水沢の数学を手伝っていると、生徒会室のドアがガラッと開いた。
「お疲れさまでーす」
 小木だ。入って来るなり、長机の上に教科書を広げている。
(あ、物理の教科書……)
 どうやら、彼も同じところでつまずいているらしかった。去年の今頃。小木とはまだ仲良くなったばかりだったけれど、放課後の教室で一緒に勉強していたことを思い出す。
 あれから――話しかければ答えてはくれるものの、よそよそしい態度に変わりはなかった。
(たぶん……ちゃんと説明をするべきだった)
 写真を見たときの「信じられない」という小木の顔。
 中学時代の背景や、今の自分の気持ち……。
 そんなことを話しても変わらないだろうと、最初に諦めてしまったのはきっと僕の方だった。本当に友達だと思っているなら、僕も小木や真田のことを信じて努力すべきだった。
(奏汰が、ずっと僕のことを信じてくれていたみたいに……)
 僕は拳を握りしめ、小木のそばへと歩み寄る。
「小木、あのさ……」
「……何?」
 その目が……一瞬、廊下で噂話をしていた彼女たちと同じ種類のものに見えて――。
 つい、一歩後ずさってしまう。
「……ごめん、何でもない。今度にするよ」
「うん……」
 小木はそう言って、何も聞かなかったかのように教科書に視線を戻した。僕は何となくいたたまれなくなって――適当な理由をつけては、生徒会室をあとにした。

 青い空に、もくもくとした入道雲。
 教室の窓から見える景色はすっかり夏のものになっていて、季節の移り変わりを感じる。
 僕らは無事に試験を乗り越え、1学期の成績表を手にしていた。放課後のチャイムが鳴り、奏汰が僕の席へ来て配布された成績表をのぞきこむ。
「どうだった? 真紘」
「うーん……まぁまぁかな。クラスで上から7番目。奏汰は?」
「お、勝った。俺は上から3番目」
「いや、出来すぎでしょ……」
 奏汰はにっと笑って、手でピースを作っている。
 彼氏が優秀すぎて辛かったけれど、全科目の勉強を真面目に頑張っているのは知っていたから、嫉妬よりも素直に嬉しかった。
「やったね」
「おー」
 両手でハイタッチする。
 その様子を「またやってるわ……」みたいな顔で見ていた宇佐美と葉山が、帰り際に奏汰に声をかけた。
「じゃー、夏休み連絡するからな」
「バックレんなよー」
「りょーかい」と短く返して、ひらひらと手を振る奏汰。
 そういえば、宇佐美たちとも海かどこかに遊びに行くと言っていたっけ。
 夏休みの期間は、ほぼ一か月。
 奏汰とも色んな思い出が作れそうだなーと考えていると、そっと髪を触られた。
「ほら、一緒に帰ろ。真紘」
「うんっ」
 プリントを鞄にしまって席を立つ。
 奏汰と学校を出て、駅までの道を歩きながら夏休みの話になった。
「成績も悪くなかったし、これでしばらくはのんびり遊べそうな気がするな」
 ご機嫌な様子で僕の頭を撫でてくる奏汰。
 僕は犬にでもなった気持ちで、「じゃ、どこ行こうか?」と聞いた。
「真紘とも海、行きたいな。たくさんデートしたい」
「水族館とかは?」
「いいね。採用」
「一緒に買い物とかも行きたいな。あ、でも小遣い足りるかな……」
「ふたりで短期のバイトとかすんのも、面白いかも」
「楽しそうだね、それ」
 夢はどんどん膨らんでいく。
 休みというのは、こうして計画を立てているときがいちばん楽しいまであるかもしれない。
「明日、暇だったら俺の家で計画立てない?」
「お邪魔してもいいの?」
「うん。平日だし両親どっちも仕事でいないから。……俺、試験期間が終わったら、真紘とやりたかったことがあるんだよね」
「えっ、何それ」
「まだ秘密。あ、課題だけ持ってきて? 先に終わらせちゃおう」
 やりたかったことの内容は気になったけれど、課題のこともちゃんと考えているのが奏汰らしかった。
 計画的で要領がいい。そういうところも好きだった。
「わかった。英語と数学とかでいい?」
「いいよ。……うわ。俺、今すげー楽しみ」
「僕もだよ。またあとで、電話してもいい?」
 改札からホームに向かう途中で聞くと、奏汰は「もちろん」と言って笑った。
「じゃ、あとでな」
「うん」
 手を振って別れる。
 長いようで短い――高校2年の夏休みの始まりだった。

 その日の夜。僕は服を収納したスチール棚を前に、海よりも深く悩んでいた。
「何を着て行けばいいんだろう……」
 明日、奏汰の家に遊びに行くための服だ。
 ワードローブをひっくり返し、鏡の前であれでもない、これでもないと着ては脱いでを繰り返す。
 季節は夏だ。下は黒のハーフパンツにスニーカーでいいだろう。
 問題はトップスだった。
 中学のときに買った派手なシャツは違うし、高校に入ってから買ったポロシャツは奏汰のピアスとあまり相性がよくなさそうだった。
(奏汰がうちに遊びに来たときは、おしゃれなカジュアルって感じの服だったもんなぁ……)
 奏汰が着ればカッコいいと思う服も、自分が着ると身長のせいか、顔立ちのせいか、どこか幼く見えてしまう。家にある服を手当たり次第に着て、結局はシンプルな白のTシャツに落ち着いた。
 これにシルバーのネックレスを合わせれば、ちょっとはマシに……。
「いや、なぜか浮いてる感じがする……」
 ファッションって本当に難しい。
 今度は本棚の上のアクセサリーをすべて床に並べ、黒っぽいネックレスを見つけたので、それに決めた。
 スマホが鳴る。奏汰からだった。
「待っ……着替えなきゃ……!」
 せっかくなので、明日着ていく服はまだ秘密にしたい。
 Tシャツを脱ぎ、部屋に戻って通話ボタンを押した。それと同時に、脱ぎかけたハーフパンツに足を引っかけて転ぶ。スマホが吹っ飛び、大きな音がした。
「わっ! 痛っ……」
「おーい。真紘、大丈夫?」
 心配そうな声が聞こえ、思わずカメラをのぞきこむ。『僕は大丈夫』と、伝えたかっただけなんだけど……。
「おおっ……。真紘が脱いでる。え、もしかして今日ってそういう通話?」
 盛大に勘違いしている様子の奏汰に、改めて自分の身なりを確かめた。
 上は何も着ておらず、下はパンツが一枚のみ。
 限りなく裸に近い状態だった。
 恥ずかしさで頭が真っ白になる。
「待っ……ご、ごめんっ! これは、明日の服を考えてただけでっ……!!」
「真紘が積極的なの、何か嬉しいかも。……俺も脱いでいい?」
「ぬ、脱ぐなっ! 脱がなくていいっ。そういうんじゃないんだって!!」
 顔を赤くして慌てる僕の様子に、奏汰がスマホの向こうで爆笑している。
 いったん通話を切ってから繋ぎ直したけれど、奏汰はツボに入ってしまったらしく、しばらくのあいだ目尻から涙を流しながら笑っていた。

 あれから、思いきりからかわれた僕は拗ねてしまい、奏汰に何度も「ごめん」と謝られた。
 終始楽しく話して、いつものようにどちらからともなく寝落ち。
 一夜が明けて、奏汰の家に遊びに行く朝になった。
「よしっ……!」
 昨日決めた服に身を包み、午前中のうちに家を出る。
 奏汰の家は、学校から電車で15分ほどのところだ。駅に着いたとたんにスマホが震えて、階段を下りると奏汰の声がする。
「真紘っ」
 切符売り場のあたりに立っている、今日もカッコいい僕の彼氏と、その腕に抱かれた小さな犬。
「迎えに来てくれたの!?」
「俺の家、ちょっとわかりにくいところにあるし、ちょうどコムギの散歩もしたかったから」
 奏汰は僕の頭からつま先まで眺めて、目を細める。
「……今日の真紘、カッコよくて好き。前に家行ったときも思ったけどさ、真紘って服のセンスいいよな」
「そ、そうかな……」
 褒められるだけでも嬉しいのに、センスの塊みたいな奏汰から言われるならなおさらだった。
 昨日、からかわれることになってまで服を脱ぎ着した甲斐がある。
「ピアスも服に合ってる。……やっぱり、間違ってなかったな」
(『やっぱり』……?)
 尋ねようと思ったところで、腕に濡れたような何かが触れた。
 コムギの鼻だ。
 奏汰の腕から身を乗り出しては、僕の匂いを嗅いでいる。僕は手を近づけて匂いに慣れてもらうと、胸のあたりをそっと撫でた。
「……写真もよかったけどさ。実物もかわいいね」
「だろ? さっきまで歩いてたんだけど、もう抱っこしてほしくなったんだって」
「ふふっ、もしかして面倒くさがり?」
「だよね、コムギ」
 話しかけられた彼(彼女?)はきょとんとした顔で奏汰の方を見ている。
 意味をわかっているのか、わかっていないのか……。
 奏汰はやれやれという顔で笑うと、僕の手を取った。
「うち、こっちだから。行こ」
 連れられて歩き出す。
 駅を出ると、澄んだ空に夏の陽射しがまぶしかった。