奏汰も、今日は家に傘を忘れてきたらしい。
 本格的に降ってきた雨に濡れながら、前庭からグラウンドまでの道に目を凝らした。
「ないなぁ……」
「ないね……」
 濡れた髪をかき上げながら、奏汰が顔を上げた。
「他に心当たりは?」
「うーん……」
 記憶をたどって考える。
 体育祭の日は、基本的に外にいることが多かったから、いちばん可能性がありそうなのはグラウンドだった。
 校内はすでにくまなく探したし……。
 当日の予定をひとつずつ(さかのぼ)って考えていくと、ふと昼休みのことを思い出した。運営本部のテントに行って、そこから副会長に仕事を頼まれた。足りないバトンを探しに行った先は――。
「グラウンドにある体育倉庫……かも!」
「おおっ」
「リレーに使うバトンが足りなくってさ。副会長に頼まれて取りに行ったんだよ」
「あそこの鍵って南京錠だっけ?」
「うん。たぶん職員室にあると思う」
 探し物につき合わせてしまっていることを謝りつつ、僕らはふたりで職員室へと向かう。
 先生はすぐに見つかり、「忘れ物をしたかも」と言ったら(こころよ)く鍵を貸してくれた。
「これで、中に入れるな」
 小走りでグラウンドを抜け、倉庫の前にたどり着く。
 鍵を開けて、中に入った。
 倉庫は前に来たときより暗く、蛍光灯は切れていて半分も点かない。僕らはスマホのライトで辺りを照らしながら、ケースを探すことにした。
 庫内は相変わらず、雑多なものでいっぱいだ。
 ビニールシートを持ち上げたり、三角コーンを持ち上げたりしながら床を中心に調べていく。
「狭いし、ホコリっぽいな……。バトンはどの辺りで見つけたんだ?」
 その言葉に僕はスチール棚のそばまで行き、棚の下を指差した。
「そんなところにあったのか……」
「たぶん、棚から出すときに落ちたんだと思う」
 念のため、バトンがあった棚の下も見てみたが、それらしきものは無さそうだった。
 肩を落として別の場所を探そうとしたとき、制服のベルトだろうか、何かが引っかかってスチールの棚が揺れた。上に積まれた段ボールがぐらりと傾く。
「危ないっ!」
 奏汰の声が響き、手をぐい、と強く引っ張られた。
 段ボールが落ちてきて、中に入っていた卓球のラケットやボールがバラバラとこぼれる。
 体操用マットの上。僕をかばうようにして覆い被さった奏汰の背中を、僕は軽く叩いた。
「ご、ごめん……大丈夫っ!?」
 奏汰がとっさに手を引いてくれなかったら、直撃していたかもしれない。組み敷かれたような形にドキドキしていると、奏汰がぱっと目を輝かせた。手が伸びてくる。
「もしかして、これじゃね!?」
 ケースは僕たちのいる、マットの下に隠れていたらしかった。濃い藍色の、三角の……。
「それだっ!」
 思わず叫んだ。両手で奏汰の手を握る。
「よかったぁ……こんなところにあったんだ!」
「バトン取るときに、落としたとかかな」
「そうかも。ホントによかった……ありがと、奏汰」
 奏汰にも怪我がなかったらしく、ほっとする。
 体操用のマットに腰を据えた彼に向き合い、受け取ったケースを開けた。
 奏汰がひとつ、大げさに咳払いをする。
「それってさ、大切なものなんだっけ」
「うん。……すごく」
「噂では……好きな人からもらったピアスだって聞いてんだけど」
 僕は目を丸くして、照れたように目を逸らす奏汰の顔を見た。
 そうだった。
 さっき、僕が探し物をしていることを『立花から聞いた』って言ってたっけ……。
 そこまで聞いてたのか……と思っていると、奏汰は気まずそうに首のあたりをさすっていた。
 どうやら、僕はとっくの昔に好きバレしていたらしい。
「そうだよ。好きな人からもらったピアス……です」
 小さなリング状のピアスは、最後に見た数日前と変わらず輝いている。
「ふぅん」
「僕につけてよ、奏汰」
 緊張をごまかそうと強気に言うと、奏汰はピアスを受け取って僕の左耳に触れた。
 手が震えている。
 奏汰も緊張しているんだと思ったら、不思議と心が落ち着いた。
「……似合う、かな」
「うん。……すごく」
 面と向かって言われると、余計に恥ずかしかった。
 耳まで赤くなっているような気がしたけれど、僕は自分の気持ちを伝えるべく深呼吸をする。
「僕も……自分の気持ちに気づいたのは、体育祭のときで……。奏汰が立花と金原さんに呼び出されたときに、『行かないでほしい』って思ったんだ。だけど、この気持ちは奏汰にとって迷惑なんじゃないかな、って思った。……奏汰は僕のこと、友達だと思ってて……その、恋愛的な意味で好きなわけじゃないと思ってたから」
 奏汰は真剣な眼差しで僕の方を見つめていて――僕は今ならその資格があるんじゃないか、と思ってその手を取った。
「僕もまだ、自分の気持ちに理解が追いついてないんだけど……。僕も……奏汰が好きだよ。好きだと思う」
「好きだと思う」
 思わず笑ってしまったって感じの奏汰に、僕は頬を膨らませた。
「奏汰だって『好きみたい』だった」
「いや……お互いにまだ確信がないの、面白いなって思って」
「たしかに」
 両手を繋ぎ、僕らは小さく笑い合う。
「……でも、間違ってはいないんじゃないかな、って思うんだ」
「ふーん。根拠は?」
「キス……してみたいと思うから」
「今も?」
「……うん」
 奏汰が何か考えながら、僕の指をそっと撫でていた。
 身体は雨に当たって冷え切っているのに、触れられた指先だけが妙に熱い。
 奏汰はしばらく黙って指をなぞっていたものの――やがて、僕の顔をのぞき込むようにして聞いた。
「じゃ、試してみる? ……この気持ちが本物かどうか」
「うん」という二文字の言葉すら、出てはこなかった。
 喉がやけに乾いていて、胸が焼けるように熱い。
 なんとか小さくうなずくと、奏汰がゆっくりと近づいてきた。
 顔がわずかに傾く。
 唇はそっと触れただけで、離れていった。
 心臓が破裂しそうなほどドキドキしている。
「……どう?」
 奏汰を好きな気持ちは……やっぱり本物だと思った。友情みたいな生易しいものじゃなく、どこまでも底が深い沼みたいな感情。少しでも手に入れたら、最初から欲しかったことに気がついて、もっともっととさらに欲張ってしまう。そんな感じ。
 奏汰の瞳がまだ涼しげに見えて、返事の代わりに繋いだ手をそっと引いた。
 今度は自分から、顔を傾けてキスをする。
 奏汰の目が驚いたみたいに丸くなったと思ったら、腰に手が回って抱き寄せられた。
「……不意打ちは、ズルすぎるって……」
「どうだった?」
 いじわるな顔をして聞くと、奏汰は首筋に顔を埋めたまま諦めたように言った。
「う……やっぱ、大好き……」
 思わず笑ってしまう。
「僕も大好きだよっ。奏汰のこと」
 背中に手を回すと、そのはずみで耳のピアスが揺れた。
 薄暗い倉庫の中。
 僕らはしばらくそうして、お互いの気持ちを確かめるように抱き合っていた。

 倉庫を出て、鍵を返すころには雨もすっかり小降りになっていた。
 学校から駅までの通学路。穏やかな光を放つ街灯の下を、ふたり並んでのんびりと歩く。ピアスを探すのにこれでもかと外を走り回っていたから、もう濡れることは気にならなかった。
 辺りに人はいなくて、「手を繋ぎたいな」と思ったところで奏汰と目が合った。考えていることは同じだったらしく、どちらからともなく手を繋ぐ。
 駅まであと半分というところで、奏汰がうわずった声で聞いた。
「ひとつ、聞いときたいことがあるんだけど」
「……何?」
「俺たちって、その……つき合うんだよな?」
 何度もつっかえながら、言い辛そうに口にする。
 いかにもモテますって感じの奏汰のそんな姿は新鮮で……写真に撮って、スマホの待ち受け画面にでも設定したくなった。
「あ……うん。僕はそうしたいって思ってたけど」
「じゃ、これからよろしくって感じか」
「……奏汰はさ、こういうの、経験あるの?」
「こういうのって?」
「その……誰かとつき合ったりとか」
 好奇心には勝てず、つい聞いてしまう。
 奏汰は照れくさそうに顔を背けて言った。
「中学も高校も、女子から告白されてなんとなくつき合ったことはあるけど……どっちも1か月も続かなかった。しかも、手繋いだだけ」
 意外すぎるエピソードだった。
 奏汰のチャラいイメージって本当に外見だけだったんだな、と再認識する。
 僕が何も言わずに口を半開きにさせていると、奏汰がこっちを見て吹き出した。
「『奏汰ってもっとチャラいやつだと思ってた』って顔してるけど、合ってる?」
「うっ……」
「真紘って、意外と顔に出るとこあるよな」
「そういうところも好きなんだけど」と笑って、繋いだ手をぎこちなく握り直す。
「真紘はどう? 誰かとつき合ったことある?」
「ううん。……恋愛とか、正直よくわかんなくって。こんなに誰かを好きになったのも初めてだから……正直ちょっと戸惑ってはいる」
「そっか……。でも、戸惑うのは俺もわかる。こんなに好きになったのは真紘が初めてだし」
 ぎゅっと手を握られて、焦った。
 奏汰の気持ちが伝わってくるみたいで、ドキドキする。
 しばらく無言でそうしていると、奏汰が「あっ」と小さく声を上げた。
「俺、いいこと思いついちゃった」
「えっ、何? どうしたの」
「無料お試し期間を作るって、どう?」
 無料お試し期間……。
 動画配信とかアプリのサブスクとかにあるあれか、と思いつくまでにしばらく時間がかかった。
 いったい、どういう意味なんだろう。
「ほら、お互い急に自分の気持ちに気づいたって感じで、まだちょっと戸惑ってるとこあるだろ。だから、これから夏休みが終わるまでの約2か月……お試し期間として、恋人っぽいことをしてみるのはどうかなって」
「おおっ……! 何かよさそう。具体的には?」
「デートしたり、色んな話をしたりして、お互いのことをもうちょっとよく知る、とかね。よければ真紘の家にも行ってみたいし、俺の家にも来てほしい。……で、身体の関係は正式につき合ってから」
「有料プランを契約してから?」
「そう。無料プランは機能に制限がつきます」
 冗談っぽく言う奏汰。
 どこかのサービスで聞いた文言すぎて、つい笑いが漏れた。
「そっか……。じゃ、キスはさっきので最後かぁ」
「それは嫌かも」
 いきなり私情が入ってきた。サブスクっぽくない。
 奏汰はしばらく「うーん」と唸った後で、また(ひらめ)いたような顔をした。
「抱きしめたり、キスしたりは……したい。でも、そこから先はつき合ってからって感じでどう?」
 完全に賛成だった。
 せっかく両想いだってわかったのだから、僕もキスやハグくらいはしたい。
「いいと思う。服は脱がないってことね」
「脱ぎたくなったら……つき合お」
「何それ」
 2か月のお試し期間をひっくり返す内容で笑ってしまった。僕はひとしきり笑ってから、目尻の涙を拭う。
「でも、すごくいいと思う。僕ももうちょっと奏汰のこと知りたいし、ゆっくりペースの方がドキドキしすぎなくて、助かる」
「ドキドキさせないとは言ってないけどな。……メッセージとか通話とか、毎日したいし」
「それは……うん。しよ」
 上目遣いに言うと、近寄ってきた奏汰に不意に抱きしめられた。
「かわいい」
 この辺りは住宅街だ。慌てて周りを見回した。
「ちょっ……恥ずかしい」
「誰もいないって。……誰か見てる?」
「……見てない、けど」
 ぎゅっと抱きしめられてから、解放される。
 このままだと、2か月が過ぎるまでに自分の心臓が持つかどうか心配だった。爆発するまでの、カウントダウンの数字が頭に浮かんだ気がする。
 僕らはそんな浮かれたカップルみたいな仕草を繰り返しながら駅まで歩き、反対方向の電車に乗るために別れた。
「じゃあ……また明日な」
「うん。明日」
 頭に軽くぽん、と手を乗せて奏汰が離れていく。
 電車に乗っていると、スマホの通知があった。
 奏汰からのメッセージで、二匹の変なクマがハートを作っているふざけたスタンプ。
「ふっ……くくっ……」
 僕は電車の中で笑いを(こら)えるのに必死だった。
 こんな些細なことですら、嬉しくて、幸せでどうしようもない。
(好きな人ができるって、つき合うって……すごいな)
 僕は奏汰のメッセージにどうやって返そうか、スマホの画面をつけたり消したりしながら、落ち着きなく考えていた。