綱引きは大人の本気を見せた教員チームが1位をかっさらい、次の種目の玉入れが始まった頃だった。
体育館近くのトイレまで行って戻ってくる途中で、また奏汰とはち合わせた。
「……奏汰」
会えて、純粋に嬉しい。
でも、校舎裏でのことに胸が痛むのもあって、少し複雑な気持ちだった。
「おー。2位おめでと、真紘」
口調は相変わらずだったものの……奏汰の様子が変だった。
なんか……怒ってる?
妙に機嫌が悪そうだった。
「う、うん……。ありがと」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、来てくんない?」
強引に腕を引かれる。校舎のひと気のないところまで連れて行かれた。
廊下の壁を背に立っていると、『面白くない』と顔に書いてある奏汰が詰め寄ってくる。
「……さっきのあれ、何なの?」
「あれって?」
「借り人競争。真紘、会長に抱き着かれてただろ。最後」
「あ~……あれか……」
後ずさりするものの、後ろは壁でもう下がれない。
僕は見下ろしてくる不機嫌な奏汰からふい、と目を逸らした。
「何でもないよ。ただのスキンシップ」
「目が合ったから、来てくれるかと思ったのに。……何だったの? お題」
言いたくなかった。
正直に言ってしまったら、どう思われるのかが怖い。
純粋に『人として』好きな人を選んだのだと、思ってくれればそれでいい。でも、最初に目が合った奏汰に、気があると思われてしまわないだろうか。それとも、最終的には会長を選んだから、会長のことが好きなんだと勘違いされてしまうんだろうか……?
しばらく黙っていると、「言ってよ」といつものように髪を触られた。
奏汰のお願いをする口調に、僕はとても弱い。
僕は自分の気持ちを悟られないよう顔を上げ、なるべく明るい口調を心がけて言った。
「……『好きな人』だよ。奏汰とはいつも仲よくしてるし、最初は奏汰に声かけようかなって思ったんだけど、すぐそこに会長がいたからさ。そっちの方が早くゴールできるし、チームのためにもなるかなって。お題が何か伝えたら会長、喜んじゃって……。で、ああやって抱き着かれちゃった」
言い訳じみた言葉を並べて、上目遣いに奏汰の方を見る。
奏汰は、いつもの穏やかな感じも冷ややかな笑いもなく……ただ眉間にしわを作って、険しい顔をしていた。どこか苦しそうにも見える、そんな表情。
(……なんで、奏汰がそんな顔するんだよ)
「もしかして、怒ってる? ……僕、何か変なことした?」
「べつに」
その言葉のわりに、不機嫌そうに顔を歪めたままの奏汰。
「……俺が勝手にイライラしてるだけ」
腰をかがめ、壁に手をついて顔を近づけてくる。
唇が触れそうな距離。
目は閉じられなかった。
「俺……真紘が俺と同じ気持ちでいてくれるんじゃないかって思ってたけど、何か勘違いだったみたいだわ」
失望したように、そう言って離れていく。
胃のあたりがずきりと痛んだ。
このまま行かせてしまったら、何だかもう、友達にも戻れなくなってしまう気がする。
背を向けて歩き出した奏汰に、引き留めるよう声をかけた。
「待って、奏汰……! ……っ!!」
さっきより強く胃の辺りが痛む。
追いかけようと足を踏み出すと、立ちくらみでもしたように視界が揺れた。
平衡感覚を失って、床に倒れ込みそうになる。
「真紘……!?」
とっさに壁に手をついたけど、身体がぐらりと前に傾く。
奏汰が戻って来る気配がしたけれど、意識はそこで途切れてしまった。
気づけば、ベッドの上にいた。
見覚えのある天井に、消毒液のにおい。
外からは温い風が吹き込み、真っ白いカーテンがかすかに揺れている。
(保健室……?)
人の気配を感じて顔を動かすと、隣には小さな丸椅子に座った奏汰の姿があった。
「気がついたか」
「……うん」
身体を起こそうとしたら、奏汰に止められた。
まだ世界がぐるぐると回っている気がする。
「……無理しすぎ。先生呼んでくる」
奏汰が岡田先生を呼んでくれる。
保護者を呼ぶかどうか聞かれたが、たぶん今日は仕事で家にはいないはずだった。
「少し休んでから帰ります」と、そう伝える。
奏汰が戻って来て、ふたたび丸椅子に腰かけた。
「そうだ、体育祭は!? リレーはどうなったの?」
急に具合が悪くなったのは、ちょうど玉入れの種目が始まった頃だった。
(奏汰はリレーに出られたんだろうか……?)
慌てて部屋の掛け時計を見ると、奏汰が呆れたように笑った。
「1位だったよ。今年は俺たちが優勝」
「そっか……。よかった」
「あとで動画でも送るわ」
奏汰は、もう怒ってはいないようだった。
さっきのやりとりで嫌われてしまったんじゃないかと思っていたから、こうしてまた普通に話せることが何よりも嬉しい。
奏汰はふたたび時計に目を遣ると、ゆっくりと立ち上がって言った。
「じゃ、俺もう行くな。……荷物、ここに置いてあるから」
「本当にごめん」
「ううん。ちゃんと休んでから帰れよ」
奏汰はいつものように僕の頭を撫でることはせず、そのまま背を向ける。そのことが寂しくもあり、つい引き留めるように声をかけた。
「奏汰」
「……何?」
「あのさ……僕も聞きたいこと、あって」
勢いで、ついそう言ってしまった。
「……金原さんと、つき合うの……?」
たとえ友達だとしても、これくらいは聞いてもいいんじゃないだろうかと、そう思った。
心臓の音がうるさい。
奏汰は軽く目を見開いたあと――僕の目をじっと見つめながら聞いた。
「それ……真紘に関係ある?」
関係……あるよ。
大ありだ。
奏汰がどう考えているのか気になって仕方ないし、もし彼女とつき合うなら、僕はこの気持ちにどうにかして折り合いをつけなきゃいけない。
でも、それをまっすぐ伝えるわけにもいかなくて……。
何も言わずに黙ってしまった僕を見て、奏汰はふいと顔を背けて踵を返してしまった。
保健室のドアが閉まる。
自分の中にある感情がぐちゃぐちゃになって……思わず涙が出てしまった。
何度拭っても、あふれてきてしまう。
しゃくり上げながら泣いていると、先生にも聞こえてしまったらしく「何があったの!?」と心配された。
そのあと、どうやって家に帰ったかはあまり憶えていない。
奏汰からはリレーの動画とともに『今日はごめん』とメッセージが入っていたけれど、既読もつけないまま、僕は部屋のベッドに倒れ込んだ。
翌日になると熱が出て、僕は週末の大半をベッドの上で過ごした。食べて、寝て、薬を飲んで、たまに出てくる涙を拭って……ずっとその繰り返し。
熱に浮かされているあいだに、夢を見た。
それは高校1年のクラスで、なぜか奏汰の視点の夢だった。
授業中、こんな席順があったか憶えていないけれど、奏汰は僕のひとつ後ろの席から僕の背中を見つめていた。勉強中の僕はたまに左サイドの髪を耳にかけていて、奏汰の場所からは僕のつけていた透明なピアスのキャッチがよく見えた。
ただ、そんな夢。
夢から覚めると熱は下がっていて、僕は水でも飲もうとリビングに顔を出した。リビングの電気が点いていて、それで今が夜なんだとわかる。
僕の母親代わりをしてくれている叔母(僕は久美ちゃんと呼んでいる)が、仕事終わりなのかテレビを観てくつろいでいた。
「起きたの、真紘。……具合はどう?」
「うん、もう大丈夫」
「ならよかった。熱は?」
「下がったよ。……今日はもう仕事終わり?」
「そう。疲れたから、さっさと帰ってきちゃった」
ソファで横になりながら、彼女はひらひらと手を振っている。
僕の父方の叔母――津田川久美は近くの病院で看護師をしているが、夜勤もあり、生活はなかなか不規則だった。
理由はわからないのだけれど、僕の家には昔から母親がいない。父親はあまり子育てには向いていなかったらしく、代わりにこうして叔母さんが僕を引き取って育ててくれていた。中学時代は僕が荒れていたせいであまり上手くいっていなかったけれど、高校に入ってからは関係も良好で、それなりに楽しくやっている。
僕は冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出して飲んだ。
「久美ちゃんもお茶、いる?」
「ありがと。……あ、私はビールがいいかな」
「はーい」
缶を取って渡すと、すぐに炭酸の弾けるいい音がした。何か話したいことがあったらしく、彼女はリモコンを操作してテレビの音量を下げる。
「そういえば、体育祭はどうだったの? 具合が悪くなって帰ってきたとは言ってたけど、途中までは出られたんでしょ?」
「あー……うん。出る予定の種目は全部出られたよ。楽しかった」
嘘は、ついていないつもりだった。
中学時代、僕は日頃の行いのせいで叔母にたくさん迷惑をかけ、最終的に彼女をひどく泣かせてしまったことがある。
それ以来、あまり心配をかけないよう気を遣っていた。近しい間柄でも気遣いは必要だし、これ以上家族を悲しませたくはない。
久美ちゃんも「高校ではしっかりやるから」という僕の言葉を信じてくれ、同時に生徒会に入ったりクラスの委員長を引き受けたりする僕のことを気にかけてくれていた。
「楽しかったなら、よかったけどね。……そのわりに目が腫れてるのは、なんでかな」
「……」
「言いたくないならいいけど。無理しすぎる前に話してよね」
「……うん。ありがと」
「ご飯あるけど、食べる?」
「いや、今はいい」
「アイスクリームは?」
「……食べる」
食欲はあまりなかったけれど、甘いものなら喉を通りそうだった。
叔母は僕の言葉に、声をあげて笑っていた。
「そう言うと思って、好きそうなの買ってきたよ」
冷凍庫を開ける。
そこにはたしかに、僕の好きなバニラ味のアイスがたくさん入っていて……。
僕はひとつ取り出して、封を開けた。
身体がまだ熱っぽいせいか、いつもよりも冷たく感じて美味しい。
「そろそろ、部屋行くね。……あのさ」
「うん? どうしたの」
「……いや、やっぱ何でもない。色々、落ち着いたら話すよ」
彼女は目尻のしわを深くして、「いつでも」と手を振っていた。
体育祭が終わって時間が経ったからか、それともこうして叔母と話せたからなのかはわからなかったが――当日の出来事を、少しは冷静に考えられそうな気がした。
僕はずっと放置していたスマホを手に取り、奏汰のメッセージに既読をつける。ついでに、奏汰が送ってくれていたリレーの動画を見た。
水色のバトンを2位で受け取った奏汰がアンカーとして勢いよく走り出し、1位の走者を抜いてゴールテープを切る。すぐに人が集まってきて、喜ぶチームの仲間たちに揉みくちゃにされていた。
『絶対にカッコいいとこ見せてやる』。
その宣言通り、トラックを走り抜ける奏汰はすごくカッコよかった。
僕のダンスの動画も続けて見る。ズームにしているせいか画質が荒かったけれど、動画の中で、僕はなんとか周りについていこうと必死になって踊っていた。
どちらの動画も、何度も繰り返し見て……これを撮ってくれたときの奏汰の気持ちを考えた。
(他の友達だって、たくさんいるのに……)
僕がどういう反応するか、見たかったんだろうか。
それとも、この動画を撮って一緒に見るつもりだった……?
『俺……真紘が俺と同じ気持ちでいてくれるんじゃないかって思ってたけど、何か勘違いだったみたいだわ』。
そう言ったときの、奏汰のがっかりしたような顔。
(同じ気持ちって、いったいどんな気持ちのことだったんだろう)
奏汰は僕に何を期待して、何に失望したんだろう……。
『今日はごめん』。
ベッドの上に寝転がって、そんな奏汰のメッセージにどう返すのがいいか考える。
『僕もごめんね』。
『リレー1位おめでと。カッコよかったよ』。
本当は電話で話したい気もしたし、言いたいことも聞きたいこともたくさんあったけれど……あえて簡単な言葉で返すことにした。
(本当の気持ちは自分の口で伝えたいし、会ってゆっくり話したい)
もちろん、恋愛的な意味で好きだということを伝えるつもりはなかったけれど……僕のつたない文章でこれ以上の誤解を生むのは避けたかった。
その日はゴールテープを切る奏汰の動画を何度も見返しているうちに、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
体育館近くのトイレまで行って戻ってくる途中で、また奏汰とはち合わせた。
「……奏汰」
会えて、純粋に嬉しい。
でも、校舎裏でのことに胸が痛むのもあって、少し複雑な気持ちだった。
「おー。2位おめでと、真紘」
口調は相変わらずだったものの……奏汰の様子が変だった。
なんか……怒ってる?
妙に機嫌が悪そうだった。
「う、うん……。ありがと」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、来てくんない?」
強引に腕を引かれる。校舎のひと気のないところまで連れて行かれた。
廊下の壁を背に立っていると、『面白くない』と顔に書いてある奏汰が詰め寄ってくる。
「……さっきのあれ、何なの?」
「あれって?」
「借り人競争。真紘、会長に抱き着かれてただろ。最後」
「あ~……あれか……」
後ずさりするものの、後ろは壁でもう下がれない。
僕は見下ろしてくる不機嫌な奏汰からふい、と目を逸らした。
「何でもないよ。ただのスキンシップ」
「目が合ったから、来てくれるかと思ったのに。……何だったの? お題」
言いたくなかった。
正直に言ってしまったら、どう思われるのかが怖い。
純粋に『人として』好きな人を選んだのだと、思ってくれればそれでいい。でも、最初に目が合った奏汰に、気があると思われてしまわないだろうか。それとも、最終的には会長を選んだから、会長のことが好きなんだと勘違いされてしまうんだろうか……?
しばらく黙っていると、「言ってよ」といつものように髪を触られた。
奏汰のお願いをする口調に、僕はとても弱い。
僕は自分の気持ちを悟られないよう顔を上げ、なるべく明るい口調を心がけて言った。
「……『好きな人』だよ。奏汰とはいつも仲よくしてるし、最初は奏汰に声かけようかなって思ったんだけど、すぐそこに会長がいたからさ。そっちの方が早くゴールできるし、チームのためにもなるかなって。お題が何か伝えたら会長、喜んじゃって……。で、ああやって抱き着かれちゃった」
言い訳じみた言葉を並べて、上目遣いに奏汰の方を見る。
奏汰は、いつもの穏やかな感じも冷ややかな笑いもなく……ただ眉間にしわを作って、険しい顔をしていた。どこか苦しそうにも見える、そんな表情。
(……なんで、奏汰がそんな顔するんだよ)
「もしかして、怒ってる? ……僕、何か変なことした?」
「べつに」
その言葉のわりに、不機嫌そうに顔を歪めたままの奏汰。
「……俺が勝手にイライラしてるだけ」
腰をかがめ、壁に手をついて顔を近づけてくる。
唇が触れそうな距離。
目は閉じられなかった。
「俺……真紘が俺と同じ気持ちでいてくれるんじゃないかって思ってたけど、何か勘違いだったみたいだわ」
失望したように、そう言って離れていく。
胃のあたりがずきりと痛んだ。
このまま行かせてしまったら、何だかもう、友達にも戻れなくなってしまう気がする。
背を向けて歩き出した奏汰に、引き留めるよう声をかけた。
「待って、奏汰……! ……っ!!」
さっきより強く胃の辺りが痛む。
追いかけようと足を踏み出すと、立ちくらみでもしたように視界が揺れた。
平衡感覚を失って、床に倒れ込みそうになる。
「真紘……!?」
とっさに壁に手をついたけど、身体がぐらりと前に傾く。
奏汰が戻って来る気配がしたけれど、意識はそこで途切れてしまった。
気づけば、ベッドの上にいた。
見覚えのある天井に、消毒液のにおい。
外からは温い風が吹き込み、真っ白いカーテンがかすかに揺れている。
(保健室……?)
人の気配を感じて顔を動かすと、隣には小さな丸椅子に座った奏汰の姿があった。
「気がついたか」
「……うん」
身体を起こそうとしたら、奏汰に止められた。
まだ世界がぐるぐると回っている気がする。
「……無理しすぎ。先生呼んでくる」
奏汰が岡田先生を呼んでくれる。
保護者を呼ぶかどうか聞かれたが、たぶん今日は仕事で家にはいないはずだった。
「少し休んでから帰ります」と、そう伝える。
奏汰が戻って来て、ふたたび丸椅子に腰かけた。
「そうだ、体育祭は!? リレーはどうなったの?」
急に具合が悪くなったのは、ちょうど玉入れの種目が始まった頃だった。
(奏汰はリレーに出られたんだろうか……?)
慌てて部屋の掛け時計を見ると、奏汰が呆れたように笑った。
「1位だったよ。今年は俺たちが優勝」
「そっか……。よかった」
「あとで動画でも送るわ」
奏汰は、もう怒ってはいないようだった。
さっきのやりとりで嫌われてしまったんじゃないかと思っていたから、こうしてまた普通に話せることが何よりも嬉しい。
奏汰はふたたび時計に目を遣ると、ゆっくりと立ち上がって言った。
「じゃ、俺もう行くな。……荷物、ここに置いてあるから」
「本当にごめん」
「ううん。ちゃんと休んでから帰れよ」
奏汰はいつものように僕の頭を撫でることはせず、そのまま背を向ける。そのことが寂しくもあり、つい引き留めるように声をかけた。
「奏汰」
「……何?」
「あのさ……僕も聞きたいこと、あって」
勢いで、ついそう言ってしまった。
「……金原さんと、つき合うの……?」
たとえ友達だとしても、これくらいは聞いてもいいんじゃないだろうかと、そう思った。
心臓の音がうるさい。
奏汰は軽く目を見開いたあと――僕の目をじっと見つめながら聞いた。
「それ……真紘に関係ある?」
関係……あるよ。
大ありだ。
奏汰がどう考えているのか気になって仕方ないし、もし彼女とつき合うなら、僕はこの気持ちにどうにかして折り合いをつけなきゃいけない。
でも、それをまっすぐ伝えるわけにもいかなくて……。
何も言わずに黙ってしまった僕を見て、奏汰はふいと顔を背けて踵を返してしまった。
保健室のドアが閉まる。
自分の中にある感情がぐちゃぐちゃになって……思わず涙が出てしまった。
何度拭っても、あふれてきてしまう。
しゃくり上げながら泣いていると、先生にも聞こえてしまったらしく「何があったの!?」と心配された。
そのあと、どうやって家に帰ったかはあまり憶えていない。
奏汰からはリレーの動画とともに『今日はごめん』とメッセージが入っていたけれど、既読もつけないまま、僕は部屋のベッドに倒れ込んだ。
翌日になると熱が出て、僕は週末の大半をベッドの上で過ごした。食べて、寝て、薬を飲んで、たまに出てくる涙を拭って……ずっとその繰り返し。
熱に浮かされているあいだに、夢を見た。
それは高校1年のクラスで、なぜか奏汰の視点の夢だった。
授業中、こんな席順があったか憶えていないけれど、奏汰は僕のひとつ後ろの席から僕の背中を見つめていた。勉強中の僕はたまに左サイドの髪を耳にかけていて、奏汰の場所からは僕のつけていた透明なピアスのキャッチがよく見えた。
ただ、そんな夢。
夢から覚めると熱は下がっていて、僕は水でも飲もうとリビングに顔を出した。リビングの電気が点いていて、それで今が夜なんだとわかる。
僕の母親代わりをしてくれている叔母(僕は久美ちゃんと呼んでいる)が、仕事終わりなのかテレビを観てくつろいでいた。
「起きたの、真紘。……具合はどう?」
「うん、もう大丈夫」
「ならよかった。熱は?」
「下がったよ。……今日はもう仕事終わり?」
「そう。疲れたから、さっさと帰ってきちゃった」
ソファで横になりながら、彼女はひらひらと手を振っている。
僕の父方の叔母――津田川久美は近くの病院で看護師をしているが、夜勤もあり、生活はなかなか不規則だった。
理由はわからないのだけれど、僕の家には昔から母親がいない。父親はあまり子育てには向いていなかったらしく、代わりにこうして叔母さんが僕を引き取って育ててくれていた。中学時代は僕が荒れていたせいであまり上手くいっていなかったけれど、高校に入ってからは関係も良好で、それなりに楽しくやっている。
僕は冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出して飲んだ。
「久美ちゃんもお茶、いる?」
「ありがと。……あ、私はビールがいいかな」
「はーい」
缶を取って渡すと、すぐに炭酸の弾けるいい音がした。何か話したいことがあったらしく、彼女はリモコンを操作してテレビの音量を下げる。
「そういえば、体育祭はどうだったの? 具合が悪くなって帰ってきたとは言ってたけど、途中までは出られたんでしょ?」
「あー……うん。出る予定の種目は全部出られたよ。楽しかった」
嘘は、ついていないつもりだった。
中学時代、僕は日頃の行いのせいで叔母にたくさん迷惑をかけ、最終的に彼女をひどく泣かせてしまったことがある。
それ以来、あまり心配をかけないよう気を遣っていた。近しい間柄でも気遣いは必要だし、これ以上家族を悲しませたくはない。
久美ちゃんも「高校ではしっかりやるから」という僕の言葉を信じてくれ、同時に生徒会に入ったりクラスの委員長を引き受けたりする僕のことを気にかけてくれていた。
「楽しかったなら、よかったけどね。……そのわりに目が腫れてるのは、なんでかな」
「……」
「言いたくないならいいけど。無理しすぎる前に話してよね」
「……うん。ありがと」
「ご飯あるけど、食べる?」
「いや、今はいい」
「アイスクリームは?」
「……食べる」
食欲はあまりなかったけれど、甘いものなら喉を通りそうだった。
叔母は僕の言葉に、声をあげて笑っていた。
「そう言うと思って、好きそうなの買ってきたよ」
冷凍庫を開ける。
そこにはたしかに、僕の好きなバニラ味のアイスがたくさん入っていて……。
僕はひとつ取り出して、封を開けた。
身体がまだ熱っぽいせいか、いつもよりも冷たく感じて美味しい。
「そろそろ、部屋行くね。……あのさ」
「うん? どうしたの」
「……いや、やっぱ何でもない。色々、落ち着いたら話すよ」
彼女は目尻のしわを深くして、「いつでも」と手を振っていた。
体育祭が終わって時間が経ったからか、それともこうして叔母と話せたからなのかはわからなかったが――当日の出来事を、少しは冷静に考えられそうな気がした。
僕はずっと放置していたスマホを手に取り、奏汰のメッセージに既読をつける。ついでに、奏汰が送ってくれていたリレーの動画を見た。
水色のバトンを2位で受け取った奏汰がアンカーとして勢いよく走り出し、1位の走者を抜いてゴールテープを切る。すぐに人が集まってきて、喜ぶチームの仲間たちに揉みくちゃにされていた。
『絶対にカッコいいとこ見せてやる』。
その宣言通り、トラックを走り抜ける奏汰はすごくカッコよかった。
僕のダンスの動画も続けて見る。ズームにしているせいか画質が荒かったけれど、動画の中で、僕はなんとか周りについていこうと必死になって踊っていた。
どちらの動画も、何度も繰り返し見て……これを撮ってくれたときの奏汰の気持ちを考えた。
(他の友達だって、たくさんいるのに……)
僕がどういう反応するか、見たかったんだろうか。
それとも、この動画を撮って一緒に見るつもりだった……?
『俺……真紘が俺と同じ気持ちでいてくれるんじゃないかって思ってたけど、何か勘違いだったみたいだわ』。
そう言ったときの、奏汰のがっかりしたような顔。
(同じ気持ちって、いったいどんな気持ちのことだったんだろう)
奏汰は僕に何を期待して、何に失望したんだろう……。
『今日はごめん』。
ベッドの上に寝転がって、そんな奏汰のメッセージにどう返すのがいいか考える。
『僕もごめんね』。
『リレー1位おめでと。カッコよかったよ』。
本当は電話で話したい気もしたし、言いたいことも聞きたいこともたくさんあったけれど……あえて簡単な言葉で返すことにした。
(本当の気持ちは自分の口で伝えたいし、会ってゆっくり話したい)
もちろん、恋愛的な意味で好きだということを伝えるつもりはなかったけれど……僕のつたない文章でこれ以上の誤解を生むのは避けたかった。
その日はゴールテープを切る奏汰の動画を何度も見返しているうちに、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。


