お呼び出しを申し上げます。お客様の中に世界を救ってくださった勇者様はいらっしゃいませんか?

 蜘蛛の糸を払うことに夢中になっていた私は、不意に足を前に動かしてしまいぐらりと身体が傾いだ。

 けれど、安全装置として腰には紐が巻いてあったので、大丈夫……な、はずだった!

 無情にも紐と足場台を繋いでいた金具が外れ、私はこのまま落下する! と目を閉じた。

「……シュゼット。大丈夫?」

 そこに私の身体を抱き止めてくれていたのは、真剣な表情を浮かべたクロードだった。

 わ……助かった。同じ邸の中で働いているものね……偶然私の近くにクロードが居てくれて助かった。

「あ……クロード。ありがとう……助けてくれて」

 もし、彼が居なかったら、私はそこそこの高さから無防備に落ちてしまうところだった。

 どうなっていたかを思えば、背筋がゾッとしてしまう。

「いや……あれは、金具が老朽化していたんだよ。執事にすぐに言って、新品に買い換えて貰った方が良い」

 クロードは真面目な顔でそう言い、抱き止めてくれた私を真っ直ぐ立たせた。そして、足場台を畳んで片付けようとしたので、すぐにどこかに行ってしまいそうだった。

「クロード! その、どうして、ここにいたの?」

 今にも執事へ抗議しに行きそうなクロードに、私はごく自然な質問をしたつもりだった。クロードは何かの用事で、玄関ホールに来ていたことは間違いないのだし。

「ごめん。シュゼットのことが心配で……隠れてずっと見ていた」

「え……?」

 彼の言いようがすぐには理解出来なくて、私は固まってしまった。

 何? 何って言ったの? 私のことを仕事中、ずーっと見て居るってこと?

「こわいわ……クロード」

 素直な気持ちが、口を突いて出て来てしまった。私のことをずっと好きなことも知っているし、私だって初恋の人だった。

 けど、仕事中の姿をずーっと見て居ると思えば、こう思ってしまうことも仕方ない。

「そう思われると思って、今まで言っていなかった。だって、何年も会っていないんだよ! 俺はいくらでも見ていたいよ」

「そうなの? 別に……それは、良いけど……」

 正直、少し怖くなってしまった私を見てここは一旦引くべきかと思ったのか、クロードは足場台を持って去って行った。

 クロード私のこと、仕事中もずっと見て居たってこと……?

 そういえば、任せられた執事見習いの仕事自体は、前に言っていた分身がやっているだろうし……クロードはもし、誰かに見られたとしても不審人物ではなくて、執事見習いが居る程度にしか見られない。

 だから、すぐにここへ職を求めたのね。私の傍に居ようと思ったら、そうするのが一番早いもの。

 私はとりあえず掃除道具を片付けようと、箒を持って外へ出ようとした。

 ここまでしてくれて……嬉しいか嬉しくないかで言えば、とても嬉しい……嬉しいけど、クロードは……。

 また考え事をしていたせいか、私は外に出るために小さな階段を踏み外した。

 そこへ、私の身体を支えてくれた太い腕。

 それが、誰のものかすぐにわかって、私は顔を上げた。

「危ない! シュゼット。何考えてるんだ?」

 足場台を届けて帰って来たクロードは、いつになく怒っているようだった。こんなに短時間で二度もこんな風に危険なことになっていたら、当然のことかもしれないけれど。

「あ……クロードのこと」

 その時、真剣な顔をしていたクロードの顔はみるみる赤くなった。

 わ、私も……思っていたこと、そのまま言ってしまった……恥ずかしい。

「えっ……ごめん。強く言いすぎた」

 顔を片手で覆ったクロードは、また私の持っていた箒を持って、掃除用具置き場へと向かっていた。

 そんな姿を見て思った。ここで……それを何処にしまうべきか、聞かなくてもちゃんとわかっているってことは、私のこと本当に良く見てくれていたんだ……。

 仕事から帰り、狭い部屋の中で二人過ごして居るけれど、私たち二人はどこか不自然なままだった。

 ……理由は、わかっている。私がクロードのことを、意識し過ぎてしまっているだけ。私がぎくしゃくしているので、彼も通常状態でいられる訳もなく……。

 クロードは窓辺に座って何か考え事でもしているのか、憂い顔で街の灯りを見つめていた。

 黙ったままでそうしていると、やけに魅力的に見える。クロードは私のことについては執着し過ぎているとは思うけれど、それ以外は完璧と言える男性だもの。

 ……どうしてそこまで、クロードは私なんだろう。私以外好きにならないでと、幼い頃に約束させたから?

 どうして……。

「いた……」

 椅子から立ち上がろうとした私は、足場台から落ちてしまった時に、右足をくじいてしまったらしく顔をしかめた。

 最初は痛みもそれほどでもなく大丈夫だろうとは思って居たんだけど、違和感は増して今では足を一歩でも踏み出すと痛みが走った。

「……シュゼット。大丈夫? 足をくじいたのか?」

 クロードは心配そうな声を出し、私は苦笑いして頷いた。

 もし、あの時に彼が助けてくれなかったら、足の怪我はこんなものでは済まなかったもの。

「そうなの。けど、クロードが助けてくれたから、大丈夫……私もぼーっとしていたから。明日は休みだから医者に行くことにするわ」

 治療費は高くなってしまうけれど、足が使えないと仕事自体が出来ないのだから、死活問題で必要経費でそれは仕方ない。

「医者なんて要らないよ」

「わ!」

「……え!」

 クロードが何気なく手を動かせば、ナイフとフォークを持った中年男性がその場に現れた。私も彼も声をあげて呆然としていて、落ち着いているのはクロードだけだ。

 だ、誰?

「ベネディクト。食事中呼びだして悪いけど、シュゼットの足を治療してあげて貰える?」

 クロードは無表情のままで突然姿を現した中年男性に向けて、私の痛めた右足を指さした。

 ベネディクトと呼ばれた彼は、持っていたナイフとフォークを慎重に机の上に置いた。

 わ……なんて、曇りない美しい銀食器。それだけで、彼が裕福な貴族であることが明確にわかってしまう。

 銀食器は毎日磨かないとすぐに曇り、こんなにも光を弾いて輝かない。それだけ使用人が雇える余裕ある生活をしているという、まぎれもない証拠だった。

「クロード……せめて、予告が欲しいと何度も言ったと思うんですけどね。私は食事中だったんですが」

 ベネディクトは無意味だとわかりつつも言うしかないと言わんばかりに、大袈裟にため息をついた。

「悪かったよ。こんなに遅い時間に、食事を取っていると思わなくて」

 クロードはしれっとそう言ったけど、ベネディクトがして欲しいのは呼び出す前の予告であって、食事中だからという事ではないと思う。

「……もう良いですよ。こちらのお嬢さんですか?」

「あ! シュゼットです。はじめまして」

 ベネディクトは私に視線を向けたので、慌てて挨拶をした。

 彼は初老で白髪の紳士で、今はゆったりとくつろいだ服を着ていたので、見た目で神官であるとはわからない。

「私はベネディクト・マートン。勇者クロードにこき使われている神官ですよ。一番大変な仕事を任せてしまったので、逆らえなくてね……どれ。痛めた足を見せてくれますか」

「はい……」

 おそるおそる右足を差し出せば、彼は大きな手をくるぶしに押し当てた。ふわっと白い光が放たれて、痛みが驚くほどになくなった。

「どうですか。まだ痛みますか?」

「いっ……いえ。ありがと……え!」

 足の痛みを取り払ってくれたベネディクトにお礼を言おうと思えば、姿を消してしまった。

「どう? ベネディクトの治療」

「クロード! こんなに勝手に呼びだしておいて、こんな風に返すなんて……信じられない。お礼も言えなかったのよ!」

「俺が今度代わりに伝えるよ。それに、ベネディクトは俺の横暴に慣れているから」

 なんでもないことのようにクロードはそう言い、私は言葉を失ってしまった。

 いま目にしたことをそのままを言えば、クロードはベネディクトに対し、とても酷いことをしていると思う。

 けれど……私の知っているクロードは、こんな人ではなかった。

 何かこうなる要因があるのかもしれない。

「あの……クロード。あんなに優しかった貴方が、こんなに横暴なことをしてしまうなんて、何か理由があったの?」

「出来るだけ早く、シュゼットを探しに行きたかったんだ。誰かの気持ちを慮(おもんばか)るという大事さはわかっているつもりだけど、そこに掛ける時間が惜しかったんだ」

「クロード……」

 ……確かに私たちは、ちゃんとしたお別れも出来ずに別れることになってしまった。

「……シュゼットを探すまではそういう理由だったけど、こうして探し当てたから、あれはあまり良くなかったな。ベネディクトを呼び出す時は、予告するようにするよ」

 そうやって反省したように言ったので、私はこれ以上何も言えなくなった。

 彼の前から居なくなった私にも、原因の一端はあると思えたから。

「ふふ。そうして。食事中に呼び出すなんて、可哀想だわ」

「わかった」

 その言葉とは裏腹に、あまりわかって居なさそうな表情のクロードは肩を竦めた。


 私はふと壁に貼っていた一年の暦を見て、そういえばと思い出した。

 あ。クロードの誕生日が、もうすぐだ……けど、本人は何も言わない。

 ……ううん。誕生日のお祝いなんて、本人から言い出すような話ではないものね。

 幼い頃のクロードのこと、学校に行って、その行事で勇者の剣を抜いてしまった。

 それからは冒険の旅に出ることになり、怒濤の毎日の中で、一年前に魔王打倒することが出来た……と。

 となると……自分の誕生日を祝うなんて、気にすることが出来なかったのではないかしら?

 そもそも、彼は誕生日を祝うこと自体忘れていそうだわ……。

 もし……私がお祝いしたら、喜んでくれるかしら?

「シュゼット」

「わ! 何? 何か用?」

 心配そうなクロードに不意に呼びかけられて、私は慌ててしまった。

「いや、そろそろ夕飯を食べないかと思って」

「あ……ごめんなさい。待たせてしまっていたのね」

 夕飯は既にテーブルの上に置かれているので、ただ私を待っていただけのようだった。

 クロードとは、まだギクシャクしている。ただ私が聞きたい事を、彼に聞けていないだけ。

 ただ好きなだという関係では、こんなに遠い場所にまで追い掛けて来るあの彼女の行動は、あまりにもおかしい。

 『私以外絶対好きにならないで』という約束を守り続けていると言っていたから、そんな訳ないって思っているけれど、もしかして、前に付き合っていたとか……?

「……そういえば、ギャビンって、今何処に居るの?」

「呼びましたか?」

 何気なく思った疑問を口にしたら、するりと紫の猫が机の下から頭を出して、私は息が止まるほどにとても驚いた。

 だって、そんな場所に居るなんて、全く思っていなかったもの!

「おい。すり抜けるなって……驚くだろう」

「僕は誇り高き翼猫ですよ。移動方法には口出しされたくありません。そこは、譲りません」

 機嫌が悪そうに眉を寄せたクロードと涼しけな表情を崩さないギャビンは、じっと睨み合っていた。

 関係性的にクロードの方が立場的に上かと思えば、どうやらそうでもないらしい。