お呼び出しを申し上げます。お客様の中に世界を救ってくださった勇者様はいらっしゃいませんか?

 いえいえ。私だってその単語の意味は知っているのだけれど、今ここでそれが出て来る意味が、すぐに理解することが出来なくて。

「ああ。俺の分身だよ。俺ではないけど、俺の役割を果たすんだ。自発的な行動は出来ないけど、先んじて行動を指定しておけば、言葉での簡単な指示なら勝手に動く。本来ならば魔物と戦っている時に囮(デコイ)として使うんだけど、こういう時にだって使えるから」

「そっ……そうなんだ……」

 すごい。勇者って色々なことが出来過ぎて……魔法も使えない私は、もうため息をつくしかなかった。

 それと同時に、この前に翼猫ギャビンが懸命に訴えていたことだって、理解出来るような気がする。

 クロードにはここまでの事が出来るのだから、それは出来れば人助けなどに役立てるべきで、使わずに眠らせておくべきではないと……そう言いたかったのよね。

 私もそう思うわ。クロードにしか出来ないことが、この世界にはたくさんあると思うもの。

「ねえ。シュゼット……これ、全部洗うの?」

 クロードは浸け置きのために、大きな槽に入れた汚れた布を指さした。

 そうだわ。これをやるためにここまで来たのに、ドレイクのせいで忘れてしまっていた。

 そろそろ洗剤で汚れも溶け始めたから、手で揉んで綺麗にしたら、水気を切るために絞って干す準備をしなければ。

「ええ。そうよ。この洗濯紐に干せば、今日の仕事は終わりよ」

 私は洗濯物を干す用に、壁と壁の間に設置された何本かの紐を指さした。時間も遅く日は照っていないけれど気持ちの良い風が吹いているので、明日の朝には乾いているはずだ。

「では、俺が代わりに洗うよ。シュゼットは……はい、これを塗って」

「え? これって、何?」

 彼がどこからか取り出し差し出した小さな箱を開けば、中身は白い軟膏が入っていた。

「手荒れに効くクリーム」

 私は彼の言葉を聞いて、息をのんだ。

 クロード。もしかして、前に手荒れをしていた私の手を、見ていたから……買いに行ってくれたの?

「……いつこれを、買って来たの?」

 だって、これまでに一人で買いものに行く隙なんてなかったはずなのにと驚けば、クロードは軽く肩を竦めた。

「今日の昼休み。これは、俺が気になっていただけだから。シュゼットは俺が洗った物を干していって」

「あ……はい。わかったわ……」

 大きく腕まくりしたクロードは、汚れた布を手際良く次々に洗い絞った。私は強い力ですっかり水気がなくなっている布を干していった。

 ああ……私が手荒れのことを、気にしていると気が付いたから?

 ……そうよ。同じ職場に来たのだって……おそらく、メイドとして働く私のことを心配してよね。

 クロードの優しいところは、幼い頃から変わらない。

 あの頃だって、私のことを一番に考えてくれていた。傷つくようなことなんて、彼には一度も言われたりされたりしたことない。

 クロードは……私の初恋の人で、それは、何があってもずっと変わらない。

 大事にされていると行動で示されて、今だってこうして胸がときめいてしまうのは、あの頃の気持ちが、心の奥底に残っているからなのかもしれない。

 今は……?

 今はどうなのだろう。

 わからない。だって、再会したばっかりで……すぐにクロードの結婚の申し出になんて、頷ける訳がない。

 貴族令嬢だった私だって、そこまで世間知らずでなんて、居られなかった。一人で生きて行くためには……。

 クロードは最後の布を絞り終えると顔を上げて、私が見て居たことに気が付いたのか目を合わせてにっこり笑った。

 ……駄目。

 私は慌てて彼から視線を外して、せっせと布を干し始めた。

 私の好きだったクロードそっくりの可愛い笑顔で……本人であることを、思い出させないで欲しい。

 何年も経って、終わっていた初恋を、また取り戻す覚悟なんて……まだ、出来ていないんだから。

 白くなった布は吹き始めた夜風にはためき、見上げれば、明るい月が雲から顔を出していた。


「はーっ……元の生活に戻って来たのね……」

 私は帰宅した家の窓を開けて、二週間振りに元の生活に戻ったことをようやく実感した。

 久しぶりに復帰した掃除メイドの仕事は、ただ飛空挺に乗り隣国を往復して来る仕事に比べれば、常に時間に追われていて忙しなくて大変だ。

 大変だけれど仕事終わりの爽快な充足感は、この生活でしか得られないものだった。

「……シュゼット。こんばんは」

 不意にふわんっと燐光を放ち窓の外から現れたのは、翼を持つ猫……魔獣ギャビンだった。薄紫色の美しい毛並みは、ほのかに発光しているようだった。

 飛空挺の中では、初めて会った時以来は見て居なかったけれど、ギャビンはずっと私たちの近くに居たのかもしれない。

「あら。ギャビン。驚いたわ……クロードなら、今はここに居ないわよ」

 クロードは私を先に送ってから、分身の様子を見てくるとローレンス侯爵邸へ戻ったのだ。執事見習いの働きは深夜に及び、早朝から始まる。まだ働き出したばかりで要領を得ない頃合いには、階段下で眠っていることだってあるくらいだ。

「ええ。知っています。シュゼット。君はクロードの幼馴染みなんですよね……?」

「そうよ。ねえ……ギャビン。勇者が嘘をつけないって、本当なの?」

 別にクロードの話を疑っていた訳ではないけれど、第三者にこのことを聞いてみたかったのだ。

「本当ですよ。勇者として精霊の加護を得るためには、代償に差し出さねばならぬこともあります」

「そうなんだ……大変なのね」

 やはり、そうなんだ……私が『私以外絶対好きにならないで』という言葉に、了承してしまったから、クロードはそうするしかないのよね。

「シュゼット。君はクロードのことを良く知っていると思いますが、僕は彼にどうしても頼みたい願いがあるんです。どうか、協力していただけませんか」

 ギャビンは可愛い肉球の付いた柔らかそうな手を振って、どうにかならないかと言いたげだ。

「あら。知らなかったかしら。私たちは何年も会っていなかったのよ。この前に、本当に久しぶりに再会したの。クロードがあんな風に素敵に成長しているなんて、思ってもいなくて驚いたわ……」

「そうなのですか……僕から見れば、二人は随分と親しそうに見えたので……」

 ギャビンは私とクロードが、もっと親しい関係なのかと思って居たのかもしれない。

「再会してから、まだ数日しか経っていないのよ。ギャビン。私に手伝えることなら手伝おうと思うけれど、彼に何を頼むつもりなの?」

「いえ。僕は世界救済の時に案内人として選ばれました。それは、名誉なことです。僕は翼猫の中でもっとも優秀だと選ばれた、そういうことですから。そういった権威ある立場で、民を束ねる王より困りごとがあると頼まれれば、聞くしかありません」

「え? ……ええ。そうね」

 芝居がかった仕草のギャビンは、自分がどれほど困っているかを訴えたいようだ。

「クロードには、とある大臣の不正を暴くように、頼みたいのです。彼は勇者として様々な能力を発現させ、精霊だって使役出来ます。クロード・レムシャイトは世界最強の男と言っても過言ではありません。それを、世のため人のために、役立てて欲しいのです……!」

「それは……確かに、そうね」

 勇者として様々な能力を与えられているのだから、それを世の中のために役立てて欲しいというのは、当然のことなのかもしれない。

「シュゼット。僕は今夜もあいつに頼むつもりですけどね……また、何か良い方法があったら、教えて下さい。クロードを後世も伝説に残るような、良き勇者にしたいのです! 僕が彼の案内人になったからには……」

「ええ……何か思いついたら、貴方を呼ぶことにするわ」

 胸に手を当てて使命感いっぱいの目を向けたギャビンに、私は苦笑いするしかない。だって、クロードがやらないと言っているものを、どうにかさせる方法なんて思いつかないもの。

「あ。噂をすれば……ですね。僕はクロードを説得に行って来ます!」

 道にはクロードの姿が見えて、ギャビンは彼に向かって素早く舞い降りて行った。

 とは言っても、ギャビンの必死の訴えを一応は聞く姿勢を見せてはいるものの、うるさげに右手を振るクロードを見れば勝算は少なそうだわ……。

 案の定、ギャビンはしょんぼりして、力なく翼を動かして飛び去って行った。

 持つ者は持たざる者に施しを与えるべきだと、ギャビンが何を言いたいかはわかるけれど、何をするか何をしないかはクロード本人が選ぶことだものね……。

「……え?」

 ギャビンとは入れ替わりに、そこに現れたのは……フードを被った一人の女性。誰かしら?

 ひと目見れば目を引くほどに、とても美しい女性だった。遠慮がちにクロードに何かを話しているけれど、クロードは両腕を組んで仕方なさそうな表情を浮かべていた。

 一体、何の話を、しているんだろう……。

 いいえ……けど、クロード……私以外、好きにならないって言っていたわよね……?

 だから、彼女とそういう話をしている訳ではないって……ちゃんとわかっているけれど……。

 胸がざわざわする……クロードと彼女とは何もないって、頭では理解出来ているはずなのに。



「クロード」

 私は扉を開けて室内へと入って来たクロードを見て、彼の名前を呼んだ。

「ああ……ただいま。シュゼット」

 クロードは道中で何か買い物でもして来たのか、紙袋を机の上に置いた。

「あの……何か、私に……言うことないの?」

 何をどう言えば良いかわからず、私は彼へと尋ねた。クロードは不思議そうな表情を浮かべていた。

「何が? 俺がシュゼットに言いたいことは、仕事辞めて俺と暮らそうってことだけど」

「違う……ほら、何か、変わったこととか……」

「? 別に……何もないけど」

 クロードは私の質問に首を傾げて答えた。そして、私はそれ以上は何も言えずに、浴室へと移動した。