お呼び出しを申し上げます。お客様の中に世界を救ってくださった勇者様はいらっしゃいませんか?

「おい。少し優しくすればつけあがりやがって。俺が言い寄ってやっているんだから、抵抗せずに大人しく従えよ」

 ドレイクは私の手首を掴むと、ぎゅっと握った。

「っ……嫌! 痛い。止めてよ!」

 その瞬間、ドレイクの身体は吹っ飛んだ。

 そうとしか、言いようがない。だって、さっきまで私の腕を掴んでいたはずなのに、今は裏庭の向こう側までドレイクの身体は移動していた。

「シュゼット」

 いつの間にかすぐそこに居たのは、黒髪を上げて白いシャツを腕まくりしたクロードだった。陰り始めた赤い夕日の中に彼の姿があり、やけに良く見えてしまい思わず息をのんだ。

「クロード!」

「なんだよ! ……お前。一体、誰なんだ。俺のことを誰だと思って……」

 いきり立ったドレイクは泥まみれになって立ち上がり、寄り添った私とクロードを見比べていた。そして、クロードが自分をじっと睨みつけていることに気が付き、目を見開いて固まって居た。

「おい。そこのお前……これから、シュゼットに近付くな。嫌がられていると、わからないのか。次に彼女に近付けば、わかっているよな?」

「なっ……お前……今日入った新入りか? シュゼットと知り合いだったのか……」

 ドレイクはクロードに睨み付けられて、どうにか虚勢を張ろうにも声が震えてしまっていた。

 ……それはそうよ。大型魔物だって単体で倒せることの勇者に、戦闘の心得もなさそうな一介の従者が敵うはずなんてないもの。

 私は大きく、息を吐いた。

 さっき彼のしたことは許し難いしドレイクのことは好きではないけれど、勇者の怒りを買って亡くなれば悲しいし、クロードに殺人者になって欲しい訳ではないもの。

「ええ。彼とは実は、故郷が同じで幼馴染みなの……ねえ。ドレイク、そろそろ行った方が良くないかしら?」

 ただの従者ドレイクが浴びるには、勇者クロードが放つ覇気は、あまりにも強烈過ぎたらしい。

 ……というか、隣にいるクロードは殺気立って居て、ただの従者であるドレイクはいつ何があってもおかしくはないほどだった。

 とても恐ろしいことに、クロードは彼がそうしようと思えば、数秒かからずに出来てしまう。

「あっ……ああ。またな。シュゼット」

 クロードを殺人者にしてしまう訳にはいかないと、早くここから去った方が良くないかと助け船を出した私に、本能的に逆らってはいけない人物だと察したのか、顔を真っ青にしたドレイクは慌てて走って行った。

 本当にドレイクは見目と調子は良いけれど、それだけの男性だわ。

 もし、今ならば彼から『付き合おう』と告白されたら、ドレイクの本性を知る私は頷くはずなんてない。邸内でも何人か同時進行していて、修羅場になったことだってあった。

 あの人のために泣く泣く辞めざるをえなくなった女性だって、たくさんいるのだ。

 確かに私は働き始め、何もわからない頃に一度は付き合うことになったけれど、浮気をする男性なんて絶対に嫌だから、私があのドレイクを好きになるはずもない。

 けれど、そうだとしても二人で居るところを見てしまったせいか、クロードは見るからに不機嫌そうだ。

 そんな彼を見て、私の胸はひとりでに高鳴った。

 嬉しかった。そういう反応をするクロードは、私のことが好きなんだと思えて。

 他の男性と一緒に居るところを見られて嫉妬されて喜ぶなんて、それは、いけないことかもしれないけれど……。


「……あの、クロード……|執事見習い(ホールボーイ)の仕事は、忙しいって聞いているけれどここに居て大丈夫なの?」

 使用人として一番大変で下積みの執事見習いは、執事から何かを指示されればすぐに動くしかなく、慣れない働き始めに辞めてしまう人だって多かった。

 逆にそこさえ耐えられれば、もっと楽で簡単な仕事だって任せられると判断されることになるのだ。

 今日、執事見習いとして雇われることになったクロードだって、こんな場所で私とのんびりしていることなんて出来ないはずなのに。

「今は俺の仕事は、分身にやってもらっている。一日の中で邸内では何をすれば良いかはもう理解したから、指示を受ければ適当に仕事するはずだよ。だから、ここに居ても平気。仕事はしているし」

 クロードにさらりとここに居る理由を告げられ、私は驚きで大きく目を見開いた。

 ……分身? クロードの分身?

「え? あの……クロードの分身って、一体どういうことなの?」

 普段あまり使うことのない単語を聞いて、私は戸惑っていた。

 いえいえ。私だってその単語の意味は知っているのだけれど、今ここでそれが出て来る意味が、すぐに理解することが出来なくて。

「ああ。俺の分身だよ。俺ではないけど、俺の役割を果たすんだ。自発的な行動は出来ないけど、先んじて行動を指定しておけば、言葉での簡単な指示なら勝手に動く。本来ならば魔物と戦っている時に囮(デコイ)として使うんだけど、こういう時にだって使えるから」

「そっ……そうなんだ……」

 すごい。勇者って色々なことが出来過ぎて……魔法も使えない私は、もうため息をつくしかなかった。

 それと同時に、この前に翼猫ギャビンが懸命に訴えていたことだって、理解出来るような気がする。

 クロードにはここまでの事が出来るのだから、それは出来れば人助けなどに役立てるべきで、使わずに眠らせておくべきではないと……そう言いたかったのよね。

 私もそう思うわ。クロードにしか出来ないことが、この世界にはたくさんあると思うもの。

「ねえ。シュゼット……これ、全部洗うの?」

 クロードは浸け置きのために、大きな槽に入れた汚れた布を指さした。

 そうだわ。これをやるためにここまで来たのに、ドレイクのせいで忘れてしまっていた。

 そろそろ洗剤で汚れも溶け始めたから、手で揉んで綺麗にしたら、水気を切るために絞って干す準備をしなければ。

「ええ。そうよ。この洗濯紐に干せば、今日の仕事は終わりよ」

 私は洗濯物を干す用に、壁と壁の間に設置された何本かの紐を指さした。時間も遅く日は照っていないけれど気持ちの良い風が吹いているので、明日の朝には乾いているはずだ。

「では、俺が代わりに洗うよ。シュゼットは……はい、これを塗って」

「え? これって、何?」

 彼がどこからか取り出し差し出した小さな箱を開けば、中身は白い軟膏が入っていた。

「手荒れに効くクリーム」

 私は彼の言葉を聞いて、息をのんだ。

 クロード。もしかして、前に手荒れをしていた私の手を、見ていたから……買いに行ってくれたの?

「……いつこれを、買って来たの?」

 だって、これまでに一人で買いものに行く隙なんてなかったはずなのにと驚けば、クロードは軽く肩を竦めた。

「今日の昼休み。これは、俺が気になっていただけだから。シュゼットは俺が洗った物を干していって」

「あ……はい。わかったわ……」

 大きく腕まくりしたクロードは、汚れた布を手際良く次々に洗い絞った。私は強い力ですっかり水気がなくなっている布を干していった。

 ああ……私が手荒れのことを、気にしていると気が付いたから?

 ……そうよ。同じ職場に来たのだって……おそらく、メイドとして働く私のことを心配してよね。

 クロードの優しいところは、幼い頃から変わらない。

 あの頃だって、私のことを一番に考えてくれていた。傷つくようなことなんて、彼には一度も言われたりされたりしたことない。

 クロードは……私の初恋の人で、それは、何があってもずっと変わらない。

 大事にされていると行動で示されて、今だってこうして胸がときめいてしまうのは、あの頃の気持ちが、心の奥底に残っているからなのかもしれない。

 今は……?

 今はどうなのだろう。

 わからない。だって、再会したばっかりで……すぐにクロードの結婚の申し出になんて、頷ける訳がない。

 貴族令嬢だった私だって、そこまで世間知らずでなんて、居られなかった。一人で生きて行くためには……。

 クロードは最後の布を絞り終えると顔を上げて、私が見て居たことに気が付いたのか目を合わせてにっこり笑った。

 ……駄目。

 私は慌てて彼から視線を外して、せっせと布を干し始めた。

 私の好きだったクロードそっくりの可愛い笑顔で……本人であることを、思い出させないで欲しい。

 何年も経って、終わっていた初恋を、また取り戻す覚悟なんて……まだ、出来ていないんだから。

 白くなった布は吹き始めた夜風にはためき、見上げれば、明るい月が雲から顔を出していた。


「はーっ……元の生活に戻って来たのね……」

 私は帰宅した家の窓を開けて、二週間振りに元の生活に戻ったことをようやく実感した。

 久しぶりに復帰した掃除メイドの仕事は、ただ飛空挺に乗り隣国を往復して来る仕事に比べれば、常に時間に追われていて忙しなくて大変だ。

 大変だけれど仕事終わりの爽快な充足感は、この生活でしか得られないものだった。

「……シュゼット。こんばんは」

 不意にふわんっと燐光を放ち窓の外から現れたのは、翼を持つ猫……魔獣ギャビンだった。薄紫色の美しい毛並みは、ほのかに発光しているようだった。

 飛空挺の中では、初めて会った時以来は見て居なかったけれど、ギャビンはずっと私たちの近くに居たのかもしれない。

「あら。ギャビン。驚いたわ……クロードなら、今はここに居ないわよ」

 クロードは私を先に送ってから、分身の様子を見てくるとローレンス侯爵邸へ戻ったのだ。執事見習いの働きは深夜に及び、早朝から始まる。まだ働き出したばかりで要領を得ない頃合いには、階段下で眠っていることだってあるくらいだ。

「ええ。知っています。シュゼット。君はクロードの幼馴染みなんですよね……?」

「そうよ。ねえ……ギャビン。勇者が嘘をつけないって、本当なの?」

 別にクロードの話を疑っていた訳ではないけれど、第三者にこのことを聞いてみたかったのだ。

「本当ですよ。勇者として精霊の加護を得るためには、代償に差し出さねばならぬこともあります」

「そうなんだ……大変なのね」

 やはり、そうなんだ……私が『私以外絶対好きにならないで』という言葉に、了承してしまったから、クロードはそうするしかないのよね。

「シュゼット。君はクロードのことを良く知っていると思いますが、僕は彼にどうしても頼みたい願いがあるんです。どうか、協力していただけませんか」

 ギャビンは可愛い肉球の付いた柔らかそうな手を振って、どうにかならないかと言いたげだ。

「あら。知らなかったかしら。私たちは何年も会っていなかったのよ。この前に、本当に久しぶりに再会したの。クロードがあんな風に素敵に成長しているなんて、思ってもいなくて驚いたわ……」

「そうなのですか……僕から見れば、二人は随分と親しそうに見えたので……」

 ギャビンは私とクロードが、もっと親しい関係なのかと思って居たのかもしれない。

「再会してから、まだ数日しか経っていないのよ。ギャビン。私に手伝えることなら手伝おうと思うけれど、彼に何を頼むつもりなの?」