何故かというと私には今こなしているような特別任務のことがあるので、掃除メイドとしてローレンス侯爵邸に務めている日以外は、別の仕事をしていることになっているのだ。
だから、住まいも別に借りておいた方が良いだろうと、雇い主であるローランス侯爵の口利きで借りてくれていたのだ。
金払いの良いローレンス侯爵の邸は実は人気の職場で、私のように邸外で暮らしている使用人も多く居るので目立たない。
お金を貯めたいので家賃を払いたくないという使用人は、邸内にある何人かで共有する使用人部屋を使っているようだ。
けれど、賃金は良いとは言え使用人の住めるような家賃で借りられる部屋が、誰かに見せたいと思うような部屋であるかというと、それは違っていた。
「自分のお金で借りた、シュゼットの大事なお城だろう? 別に卑下する必要なんてないよ」
「……後悔しても……知らないわよ」
意味ありげに微笑んだクロードは、掃除メイドとしてなんとかお金を稼ぐ今の私と、いかにも世間知らずの貴族令嬢だったあの頃の私を同一視しているのかもしれない。
そんなことがある訳はない。
私は親戚の家を家出してからというもの、それまでいかに自分が守られ甘やかされていた子どもだったのか、今では思い知ってしまっていた。
家出して行く先もなく、どうしようと思って居たところに……今の雇い主ローレンス侯爵に雇って貰えたのは、ただの奇跡だった。
そして、掃除メイドとして働くことになった今ならばわかるけれど、あの時の私は騙されて売られてしまってもおかしくなかった。
そうはならなかった……だから、本当に運が良かった。
考え事をしていた私はカップに手をぶつけて倒し、濡れてしまった手袋を条件反射で外した。
「……シュゼット? 大丈夫?」
「ええ……あ。ごめんなさい。驚いたでしょう」
私は特別任務をこなす時、なるべく手袋を嵌めて、手を見せないようにしていた。それは薄い素材のものだし、食事するにも邪魔にならないようになっている。
礼儀作法(テーブルマナー)では食事中は手袋を外すことになっているけれど、手に傷があり隠したい方などは許されている特例などもあるので、私も人前では付けたままで過ごして居た。
……その理由が、掃除をしていて出来てしまった手の荒れだった。
「ああ……手袋していたから、気が付かなかった」
クロードは私の荒れた手を見て、驚いたようだけど仕方ない。
クロードが良く知っている私は、水仕事なんて一度もしたことのない……育ちの良い貴族令嬢だったもの。
水仕事をしなければならない私は肌が弱く、寒い季節には、皮膚が割れてあかぎれが良く出た。今ではそれが積み重なってしまい、肌はかさかさに荒れて水分が抜けてしまっている。
ハンカチで水分を拭い、手袋を付け直した。
「……ええ。わかるでしょう。ドレスを着た貴族のお嬢様は、手荒れなんてしないもの……隠してたの。でないと、身分を偽って飛空艇に乗る使者なんて務まらないでしょ」
「いや……痛くないの? それが心配なんだけど」
「ええ。これは勲章よ! 私にとっては」
これは、私が自分で一人で生きて来た証拠。誰にも恥ずかしくない。けれど、役目をこなす上で隠して居るだけだ。
「だったら、それで良いよ。元は育ちの良いお嬢様なのに、シュゼットは一人で生きて、頑張っていたんだね……凄いよ。尊敬する」
しみじみとした口調で、クロードは言った。
私が掃除メイドをして手が荒れたことを知った彼は、思ったことそのままを言っただけだ。
……なのに何故か、その時の私の目からは、涙がこぼれ落ちそうになってしまった。
飛空艇から降りて、私の部屋に戻るために馬車を使った。
貴族用のドレスを着用しているのだから、このままで往来を歩くなんておかしい。こういう時に馬車はいつも乗っているのだけれど、いつもと違うのは、隣の席にクロードが居ること。
「……部屋があまりにもみすぼらしくて、驚かないでね」
「それ……ここ二年くらいほぼ野営をしてた俺に言っても響かない、無駄な言葉だから……シュゼットの部屋は屋根あるだけ良いと思うよ。本当」
「冒険中は、野営が多かった……ということ?」
勇者パーティーの冒険譚は、おそらく国民全員好きだろう。
確かに数多くの魔物を倒して進んで行く訳だから、そういう人が住んで居ない場所に居心地の良い宿屋なんて都合良く用意されていない。
「うん。そうそう。この前に会っただろう? 翼猫ギャビン、あいつが案内人だから、あいつが連れて行く決められた道順をたどっていく……街のど真ん中に、魔物や魔王が居る訳ないしさ」
「そうなのね……大変だったわね」
私もお金を稼ぐため自活出来るようになるまで、何も知らない状態から自分は頑張ったとは胸を張れる。
けれど、クロードはそんな時魔王を倒すために、勇者として魔物退治なんかをこなしていたことになる。
私はメイドとして掃除をしていた時に、彼はあの飛空挺で倒したような大型魔物と戦っていたのだ。
世界を守るために。
「いや、楽しいこともたくさんあったよ。世界で一番の魔物使いと気があって仲良くなったり……それまでに見たこともないような美しい景色が見られたりさ。役目をこなすまで拘束されていたことが、本当に嫌だったけど、シュゼットは無事だったし今はまあ……それは、もう良いかなと思っている」
「……クロード」
そういえば、クロードは私を探して居てくれたんだった。
「シュゼット。君が預けられた親戚が住んでいる街タエルイだけど、魔物に攻撃された滅んだことは知っている?」
「え! そうなの? 知らなかったわ」
「ああ……知らなかったんだ。俺は君を探して真っ先に行ったんだ。だが、探し回って辿り付いた親戚の邸で務めていた使用人によると、君は預けられてすぐに家出したらしいと聞いた」
「そうだったのね。あの、叔父様と叔母様は、ご無事だったの?」
クロードはそこで、黙ったままで首を横に振った。よくしてくれた彼らの死を悟り、私は胸に手を置いた。
叔父様と叔母様が、天国で心安らかにいられますように。
彼らのことが、嫌だった訳ではない。私が家出した理由は……両親との確執だった。
どうしても、これ以上、一緒に居たくなかった。
……あんな事を、聞きたくはなかった。
「……なんで、シュゼットは、家出をしようとしたの? ……帰らないの」
そうか……そういえば、クロードは家出の理由を知らないかもしれない。
「……知ってるでしょう。お父様が騙されて家が没落してしまって、私は親戚に預けられたんだけど……そこで、折り合いが悪くて、家出したの」
……ということにしている。本当は、預けられた先の叔父様も叔母様も良い人だったけれど、本当の家出理由は言いたくなかったから。
「そうか……それでは、住みづらかったんだね」
「ええ……」
亡くなってしまった彼らに罪を着せるようで胸が痛むけれど……家出の理由は言いたくない。誰にも。
「それで、シュゼットが家出したという目的からして、タルエイには住まずに、すぐに違う街に出たんだろうと思った。親戚の家や君のご両親のところに行って、家出したシュゼットを探していたけれど、君は見つからなかった……」
「ええ……すぐに、リベルカ王国を出たの。もう家には戻らないと決意していたから」
今思い出してみると、あの時の私の覚悟は、相当なものだった。長距離馬車に飛び乗った。今ならば躊躇するだろうことも、平気でしていたと思う。
何も知らずに、無鉄砲だったのだ。今ならばそれがどれだけ危険なことだったのか、身にしみてわかってしまった。
「そして、俺はシュゼットに似た人が、この飛空挺に乗っていたという情報を得たんだ。乗船名簿にはいくら探しても、君の名はなかった。事情があって偽名で乗っていたなら、それは納得」
「それだけで……飛空挺に乗っていたの? クロード」
私の似た人が居るだけの、不確かで頼りない情報なのに……。
「それだけでも、十分だ。探し当てる可能性が1%でもあるなら、賭けたかった。こうしてシュゼットに会えた。俺は、賭けに勝った。だから、それはやる価値があった挑戦だということになる」
「……クロードはなんだか、変わったね。昔はただ可愛いだけだったのに」
年下の可愛い笑顔の天使は、今では芸術的な彫像のような鍛え抜かれた身体を持つ勇者なのだ。
時の流れは、残酷……いいえ。お互いにただ、育って世の中を知ったとも言えるけど。
「シュゼットは昔も可愛かったけど、今は綺麗になって色気が出たね。あの頃の俺が可愛いと思って居るなら、それはそうした方がシュゼットに好かれると思って居ただけだよ」
「……どういうこと?」
好かれると思ってそうしていた……? 演技だったということ?
「そういうこと。あの頃の俺はシュゼットの期待通りに動いていたし、君を喜ばせたかった。シュゼットのことが好きだったからだ。今だって、それは変わらない」
「ふふ。そうね。私はクロードが、お気に入りだったもの……どこに行くにも連れて行ったから、お父様とお母様にも止めるように言われていたわ」
それはお気に入りのぬいぐるみを、手放せないのと同じ感覚だった。
可愛いという表現が似合わない素敵な男性になってしまったクロードを横目で見て、私は今はもうそれは出来ないと思った。
ただお気に入りだからって、自分の言うことを聞かせたいだなんて思えない。
「今もそうしてくれて良いよ。俺はシュゼットと居られれば嬉しいし」
まるで思考を読んだかのようにクロードは言ったので、私はそれを無視して窓の外を見た。
「……ここよ。クロード。私が住んで居る集合住宅。たぶん、狭くて驚くと思うわ」
馬車が停まって、私たちは外に出た。
ほぼ揺れることのない、飛空挺での快適な空の旅だった……とは言えるけど、やはり、地に足がついた場所で眠れるのは嬉しい。
私が住む場所は一階に十ほど部屋のある集合住宅で、私は三階の角部屋。ローレンス侯爵の口利きもあるし、女性一人暮らしだからという配慮もあった。
暗い階段を上がるとふきっさらしの長い廊下を抜けて、奥の部屋まで歩く。鍵を開けて部屋に入れば、私が出て行った時からこもっていた空気がそこにはあった。
ここが、私が稼いだお金で借りたお城。
狭い部屋の中には、大きなベッドと小さな机と椅子があって、玄関前には浴室とお手洗い。
ただ、それだけの簡素な部屋。
けれど、私にとっては『自分の家と言える唯一の場所』だった。
「……どうぞ。先に言っておくけど、ほんっとうに、狭くて汚いからね」
私は警告のつもりで言ったんだけど、クロードはにやっと笑った。
「すごく気持ち悪いこと言うけど、狭い部屋にシュゼットのと二人なのは、俺は嬉しいね」
「……クロード。あの……」
「俺だって、予告はしたよ」
なんとも言えぬ表情で私は背の高い彼の顔を見上げたけれど、確信犯のクロードは余裕ある仕草で軽く肩を竦めた。