美沙希(みさき)の周りの空気はいつも澄んでいる。
…が、その空気によって見えないはずのヒト同士の壁が際立って見える。
周りの人たちは、そんな壁も目に入れず、コソコソと美沙希を遠ざけるように話をしている。
何故こんなことになったのか、美沙希も知りたいぐらいだった。
でも、そんなこと言えるわけがない。
だから、ボーッと外の世界を学校という檻の中から眺めて、気を紛らわしている。
出来る事がそれしかないから。
なんとなくこうなったきっかけはわかる。きっと1年前のことだろう。
美沙希はその頃、いわゆる『2軍』というこの世の中で1番腐っているといっても過言ではない位置に立っていた。
いつも、教室の端でイラストを描いてそれをSNSでこっそりと投稿しているような『2軍』。
友達は数少なく、本音で話せる人などほぼいないような『2軍』。
そんな『2軍』の特徴といえば…で出てくる言葉達で表せれるような『2軍』だった。
そんな美沙希の立ち位置が変わったのは2/14。カップルが確実に1組でも結成される日だった。
「ねぇ、美沙希。ちょっと来てくんない?」
勝手に『ツゴウの良い2軍』だと勘違いしている1軍の1人が美沙希のクラスまでわざわざ来て、放課後、学校の近くの河原に呼び出された。
美沙希はただ不思議に思い、レザー調のスクールバッグを背負い、河原まで言った。そこにはもう、あの子と同じ『2軍』の取り巻き達がいた。
その子は取り巻き達を置いて、美沙希を視界に入れるとスクールバッグを投げ捨てて、美沙希の方へズカズカと歩いて来る。
「ねぇ、なんで好きな人を奪ったの?
好きな人の気持ちを奪った気持ちはどう?嬉しい?」
河原で言われた低くて、悪へ向けるような言葉に圧倒され、一瞬視界が歪んだ。
『一体、なんのこと?私、何かした?』
その16文字の言葉が空中に浮かんだ。
クラっと立つのも疲れるのも感じたぐらいだ。
そんな中でも構わず、その子は涙ぐみながら、立っているのも辛そうに美沙希の襟元を掴む。
「こっちは何年もかけて、ずっと想ってきたというのに…」
美沙希の制服のリボンが段々と色が濃くなっていく。
それでも、まだ美沙希は何故この状況に至っているのかがわからない。
『どういうこと?』
確かに美沙希は最近、両想いの恋人が出来た。
だけど、貴女の好きな人ではないことを知っていた。
まず貴女は中学3年生からの恋人がもういるはずでは?
不思議で堪らなかった。
その子と同じ中学校だったから、知っているけれど、彼氏いるアピールしていたあの行動を「ただの勘違いだ」って言うんだったら意味がわからない。
それに貴女の恋人に対して、この1年、ずっと気を使ってきた。
少しでも決して好意を持たれないように。
根本的に、まずその相手の事があまり好きではない。
めちゃくちゃ自慢してくるらしいし、女子の顔に点数を付けてくるとも聞く。
『あまり好きではない』と言っても正直なところ、相手とは喋ったこともないし、存在すらも幻かもしれない、それぐらい関係性だった。
「…もういい!次、何かしたら許さないから」
彼女は河原に投げ捨てていたバッグを手に持ち、取り巻き達を連れて帰っていった。
取り巻き達はずっと美沙希に向けて残酷なものを見るかのように、でも少し申し訳なさを感じるような視線を向けている。
一体どういうことなのか…
美沙希はそこで呆然としていた。
人の気配など一切感じない河原で、
「私が何したっていうの…?」
美沙希は頭を抱えてふらつきながらもその場を離れていった。
次の日には美沙希は空気になっていた。
『ツゴウのいい』空気に。
空気というより誰にも話しかけられない歪な人間、いや怪物と表した方がいいだろうか。
よくわかってもいないのに、この様。
嫉妬と憎しみだけでこんなことになるなんて神様は不公平過ぎる、そう感じた。

こんな世界…大嫌いだ。

「…ねぇ、美沙希ちゃん」
世界に憎しみを抱いた美沙希を後ろから誰かが呼んだ。
後ろを振り向くとクラスのお姫様がいた。
櫻井(さくらい)さん、どうしました?」
佳奈子(かなこ)でいいよ」
櫻井さんにっこりとローズピンクに頬を染めて微笑む。
「じゃあ、佳奈子さん」
櫻井…ううん、佳奈子さんは笑顔を満開に咲かせた。
「私ね、美沙希さんと話してみたかったんだよね」
「そう、なんですか。どうして?」
美沙希は信じることが出来なかった。
1軍である佳奈子さんが2軍、そしてよりによって1軍に嫌われている美沙希と話してみたかった、そんな事、冗談にしか思えない。
まず、去年の事を知っているはずなのに美沙希に話しかけてくる時点で変に思える。
一体、何を企んでいるのだろうか…
「美沙希ちゃんってイラストいつも描いてるでしょ?私、SNSで偶然見ちゃったんだけど、その絵柄がすっごく好きでさ」
佳奈子さんは瞳に憧れをひと匙入れてクラスに響くような声で言った。
その声に反応して、クラスの人達が美沙希を視界に入れた途端、コソコソと言葉が聞こえてきた。
「美沙希って、イラスト描くの好きなんだ。そんなに暇なんだね」
「え、1人なのかな?」
「かわいそぉ。でも、みさきちゃんは1人が好きだもんっ!しょうがないかぁ」
辛辣で悪気のない棘が美沙希の耳に刺さる。
耳がドロっとした赤いモノに染まるような感触がした。
クラスの見世物になるなんて…最悪すぎる。
どうして、こんなに辛い経験をしないといけないのだろうか。
美沙希は真っ黒な世界に閉じ込められた気がした。
「かなこー!移動するよー!」
その言葉で現実世界に戻された。
廊下から佳奈子さんを呼ぶ、高くて可愛らしい声が聞こえる。
確か、佳奈子さんの仲の良い子だった気がする。
「はーい!それじゃあね」
佳奈子さんは手を優雅に振り、廊下へリズミカルに出ていく。
なんとなくだが、あの言葉に悪気がないように思えた。
…あ、そっか。次、移動教室か。
スケジュールが全て脳内から削除されていた。
美沙希は教科書、ノートそして筆箱を持って美術室へ向かう。
「佳奈子はあんたを哀れんでるだけだから」
風が通るようにさらっと聞こえた。
美沙希はその方向に振り向く。
その方向には佳奈子さんの取り巻きの子がいた。
なんだか、一周回って美沙希は呆れてしまった。
3分ぐらいしか喋っていないし、佳奈子さんは仲の良い子の方を優先した。
それなのに、その言われ様って…美沙希の事を取り巻きの子達はどのように思っているのだろうか。
きっと、あの子達は対等に思ってくれている訳がない。
佳奈子さんが居れば、それで良い。
自分の事さえ見ていてくれたら、それで良い。
そう思う程度の人達なのだ、と美沙希は脳内の日記に書き留めた。

学校という名の束縛される時間が全て終わった。
美沙希は放心状態で教室の真ん中で突っ立っていた。
今日は何かがおかしい。
佳奈子さんには何故か話しかけられ、その時間になると、10人ぐらいの女子からの視線を感じる。そして、幾度なく
『仲良しゴッコ、楽しそうだね』
『勘違いにも程があるよ』
『次は…わかってるよね?』
そんな威圧的で脅迫されているような言葉を受けた。
まず、美沙希は話しかけられ、一言二言話しただけだ。
たったそれだけで、言われたと思うと、どうしようもなく可哀想な依存気質な人達なんだと憐んでしまう。
そんなうんざりする美沙希の手には憎しみと嫉妬が込められた言葉が並べられた手紙が握りしめられている。
『放課後、学校近くの河原に来い』
その言葉は1年前と同じだった。
今までは強がっていたけれど、この時には恐怖を客観的に感じてしまった。
手元を見るといつの間にか震えている。
それでも、そんな恐怖には負けず、約束の河原へ着いた。
河原は血溜まりのようで、ゾクっと背筋が震えた。
でも、そんな余裕はなかった。
そこには1年前のあの子と同じクラスの佳奈子さんの取り巻き達がいたからだ。
「ねぇ…なんで、貴女はいつも私の佳奈子を奪うの?」
はぁ?奪ってなんかない。まず、遠ざけている。
勘違いには程がある。
「去年だってそう。ずっと一緒にいても佳奈子はあんたの方を見てた。
ずっとずっとそうだった。どうして、あんたなんかを選ぶの?
どうして…どうして!」
…なるほど、佳奈子さんと仲良くなって欲しくないんだ。
思っていたよりも依存度が高かった。
彼女は美沙希の方に向かってズカズカと歩いていく。
確か、1年前もそうだった。
1年前は襟元を掴まれた。
美沙希は後ろへ1歩退がる。
「あんたなんかいらない…消えたらいいのに」
その言葉でハッとした。
目の前には泣きじゃくっている幼い少女のような同級生。
そして、美沙希の頬の真横には白くて小さい手があった。
『やばい』
美沙希は目を瞑り、覚悟を決める。
『…』
数秒経っても、まだ頬に痛みが走らない。
おかしい。
目をそっと開け、横を見ると佳奈子さんが彼女の手を止めていた。
「かな、こ?」
「ねぇ、何やってんの!」
佳奈子さんは最大の声量で怒鳴った。
彼女はビクッと震え、顔を青白く染める。
「そ、それは…」
「私の友達に手を上げた希空(きそら)はもう友達じゃない」
彼女、秋山希空(あきやまきそら)は呆然とする。
「え…今なんて言った?ねぇ、嘘だよね?
あいつの方を取るの?私達親友でしょ?」
「うん、そうだったね。親友…だったね」
希空さんはガクッと膝を突き、地面に手を付いた。
「ねぇ、なんでいつも美沙希を見てるの…?ねぇ、どうして…」
地面にポタポタと闇を抱えた雫を垂らしている。
「うわあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛…」
希空さんは泣き叫んだ。
美沙希はそれを憐れみながらずっと眺めていた。
友情はあっさりと切れるモノなんだ、
嫉妬と憎しみはそれほど恐ろしいものなんだ、
と改めて実感した。

「美沙希ちゃんっ!今日一緒に図書館にいかない?趣味のインスピレーションを沸かす為に行きたくてさ」
「だから…いかないって言ってるでしょ⁉︎」
最近、何故かずーっと佳奈子さんに絡まれる。
正直言って、鬱陶しい。
あの日の出来事によって解放されたからなのだろうか…
そういえば、希空さんはあの日から不登校になったらしい。
先生、両親共に事情は知ってるらしいが、美沙希達には何も聞かない。
きっと、被害者はどっちなのか知ってるからだろう。
それに、あの子は今狂ってる。
あんな事をするなんて、人というより『怪物』と捉えた方がいいだろう。
今もずーっと、
『かなこかなこかなこかなこかなこかなこかなこかなこかなこかなこかなこ』
って唱えてるそうだし…
正直に言って、話しかける行動をとるより、精神科に連れて行った方が良い。
そう考えると、希空さんも可哀想に思ってしまう。
「じゃあさ、河原にいかない…?」
…あ、忘れてた。遊びにさそわれてたんだった。
佳奈子さんはスカートの裾を握りしめ、目を涙ぐんでいた。
「…わかりました。しょうがないですね」
話を半分で聞いていたから申し訳ないと思った末、哀愁にも思ったから結局行くことを決めた。

放課後、河原に行くと佳奈子さんは川の目の前で大の字に寝転んでいた。
「あ!美沙希ちゃん!」
どうやら、美沙希を発見したようだ。
佳奈子さんは起き上がると、タタっと美沙希の方へ走る。
「良かったぁ!ちゃんと来てくれたっ」
可愛いらしい笑顔で目をクシャっとさせた。
「美沙希ちゃん、こっち来て!」
佳奈子さんは元の位置へ戻り、また大の字に視線を宙へ向けて寝転んだ。
「…まずさ、ごめんね。希空があんな事して。あれ、多分、佳奈子のせいなんだ」
佳奈子さんの言い分は、思っていたよりも黒かった。
希空さんは、高2の頃あの性格だから、いじめられ、ずっと教室の端にいた。
中3から付き合っていた彼氏にはすでに浮気されていて、破局していたという。
『どうして、私だけこんな惨めな世界を生きないといけないの…?』
ずっと、その言葉と共に生きていたそうだ。
そんな中、一筋の光が差した。それが、
「ねぇ、秋山さん。私と友達にならない?」
-佳奈子さんだった。いつも笑顔で話しかけてくれて、話した話題を笑って返してくれた。このたわいない時間が大好きだった。
この時間を過ごしていくと共に段々、この関係が親友へと変化していった。
だけど、そこから2人に穴が空いていった。
ー美沙希の存在だ。
もちろん、2人はずっと一緒に過ごしていた。
だけど、佳奈子さんは美沙希のことを視界に入れる事が増えていった。
「多分、こんな感じかな。私の思想も入ってるけど」
不思議と美沙希は納得した。
『それは確かに希空さんは依存するな』と。
希空さんが中3の頃の元カレにもそのように依存してたから。
元カレに優しくされたが為に依存し、授業中でも休み時間でもずっと元カレの事を想っていた。
「でもね、美沙希さんにしてたあれは全く知らなかったんだ。
きっと、私が知らないところで消そうとしてたんだと思う…」
美沙希はその言葉を聞いた瞬間、放心してしまった。
美沙希を陥れようとしていたから。
…何故か涙が出てきた。
そんなに辛かったのかな、苦しかったのかな?
自分で自分自身に自問する。
確かに辛かった。自殺を試みるぐらい…
でも、そんな弱い心に負けたくなかった。
だから、何があっても生きる事を決意した。
それでも、やっぱり負けていた部分はあったんだ。
そう思うと、みるみる目から大粒の涙が出てしまう。
「美沙希ちゃん…ごめんね」
そう言い放った佳奈子さんは美沙希をハグした。
今まで希空さんがした行いを佳奈子さん自身が償うかのように…
数十分後
美沙希はやっと心の内が整理出来た。
もう、自分への『いじめ』は終わったんだと…
そう思うと、また泣きそうになった。
「あのね、美沙希ちゃん…今言うことじゃないと思うんだけど…」
佳奈子さんも目を赤くして美沙希に喋りかけた。
佳奈子さんは決意したように言う。
「私と友達にならない?」
美沙希はその瞬間笑ってしまった。
このタイミングで言うことなのか?って思ったから。
「っえ⁉︎何かおかしかった?」
美沙希は顔を横に振る。
私の答えはもちろん、決まっていた。
「全然!うん、いいよ。友達になろう」
美沙希は1年ぶりに満開の笑顔を魅せて笑った。
『明日を生きる為に今日も強く生きる』
美沙希はそう決めた。